
将来僧になって結婚してほしい
毎晩寝具で遊戯するだけ
ピザ屋の彼女になってみたい
そしてらベンジー あたしをグレッチで殴って
――椎名林檎『丸の内サディスティック』
畢竟私は意味の奴隷である。
畢竟という言葉を平気で使うからそうなんだ、と女子中学生向け雑誌の編集長に云われたことがあった。
そして私は価値の奴隷である。
畢竟、私は自意識の、私奴婢である。
先週水曜はabout tessを観に歌舞伎町へ。
ギター×2、ベース×2、ドラム×2の編成で、音だけが鳴る。
ミニマルに、フィジカルに、ハードコアに、フラジャイルに。
その日はギター×2、ベース×2、ドラム×3、となっていて、音圧で失禁しそうになる。
失禁しそうになること、以外を求めて、ライブを観ない。
ディストーションが内臓に後遺症を遺しそうで、うっとりとして、立ったまま少し眠った。
日曜は渋谷でAizu Thunders with The Bellbottom Gangstars。
会津のギターには、きっとこの先もドメスティックなフィルタがかかるのだろうが、ロックスターであることへの、まったく同義で職業的かつ遊び人であることへのアリバイが、煌いていることだけはわかる。
今日話題になっていた死刑判決について少し。
罰には、罪の重さに見合う罰を与えるという応報の側面と、類似した罪の再発を抑止する目的の側面があり、両者の折衷である法とは、本来的に不確実で、不純で、ヴァーチャルである。
ヴァーチャルによって裁き裁かれ、生死を握られているのが我々だ。
(坂のある非風景『ヴァーチャル効果』にTB。M氏が同じ意見だと云っているわけではありません)
再発抑止の目的で死刑に処することこそヴァーチャルのリアルさである。
では、応報で死刑に処すことで罪が贖われるかといえば、決してそうはならない。
殺した罪を贖うには、生き返らせなければならない。
それは無論、犯人の妄言にあった「復活の儀式」によって成されるものではない。
死刑であろうと無期刑であろうと、罰によって罪は、贖いようがないのだ。
贖いようがないから死刑に処すのは間違っている、と云っているのではない。
法がなくても罪はある、と云いたいのだ。
罪を裏付けるのは、憎しみで充分だと私は思う。
よって遺された夫が犯人を憎み、その死を望み続けている以上、犯人は死ななければならない。
その方法が死刑である必要もない。
犯人に更正の可能性があるかどうか、悔い改めているかどうかを考えることにも何ら意味はない。
人は法ではなく人に殺されるべきであり、人が人を殺さずに済むためは、罰ではなく、形而上学的な変化が必要だ。
その変化の鍵を握っているのは、分子生物学や量子力学かもしれないし、芸術かもしれない。
わからないから、私はいつも憂鬱だ。
椎名林檎の凄さは、ヴァーチャルのリアルさを唄うことでヴァーチャルに還元している残酷さだと、素面でふと思った。
Aqui esta:
アスルサングリエント
Me llamo:
慈姑(クワイ)
A mi mismo:
この夜、凶なきか。
日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。
深更に魘さるるか。
あやふきことあるか。
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