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4月23日

 日々更新を旗印に掲げ、丸一年ぐらい経てば何かが見えてくる気がした。
 毎日更新して喜ばれるサイトというのは、何といってもニュースサイトであろう。つねにオタク界の最新情報を得たい人にはうってつけである。というか、ニュースサイトは新聞のように毎日更新しなくてはニュースサイトと呼べないと思う。
 毎日更新されると逆に心配になるのが、漫画・イラストサイトである。というのは、永田もその心理は分かるのだが、ウェブで無料公開する作業を延々とやっていくのは、見返りがなければなかなか辛いものであろう。意固地になったようにして更新を続けているサイトを見るとなんだか気の毒になるし、そういうサイトに限って、優れた作品はない。
 永田のサイトはこれらには当てはまらず、ただの日記サイトである。ネット上での交流がないので、特定の誰かに向けたネタを発信しているというわけではない。ただ当サイトを好んでくれる人が喜ぶかもしれないことを書き連ねている。
 これからどのような方針をとればいいのか。永田の考える面白さは、世間の常識からはけっこう外れている気がする。何年も経つ間に、修正不可能なところまで趣味が変容し、もはや戻ることは不可能ではないだろうか。いくら「中学生に見せる」といっても、その中学生だって脳内でこしらえた特殊な中学生になってしまうだろう。
 今後目指したいのは、やむを得ないことだが、あまり更新をしなくてもたまに見てもらえるようなサイトである。そういうサイトは、何よりもネタが面白くなくてはならん。何度も見たくなるようなサイトでなくてはならん。
 理想は高く持っているが、技術が追いつかないのは何とも遺憾だ。などと言っている間にも萌え業界は日進月歩の勢いで進んでいる。基本の技術を身につけ、かつ流行に乗っていかなければ難しい。
 今までは、画面を開いて急にアニメ絵が表示されるようなサイト構成には敢えてしなかったのだが、そこのところも抜本的に考え直してみてもいいだろう。やはり萌えキャラがお出迎えしてくれるようなサイトはいいものだ。まずはどんなキャラに萌えられるかを検討吟味してみたい永田である。


4月21日

 永田は例によって「弟切草 蘇生編」をプレーし続けているが、ヒロインの奈美に特に萌えているということはない。いかにもオヤジが作ったという感じのキャラである。そもそも元が古いゲームであるから現代の萌え感覚からは大きくずれているのはやむを得ない。
 「弟切草」は小説風のゲームであるが、あくまでもゲームとして面白いものだ。もっというとこれはギャグノベルゲームといってもいいほどである。選択肢そのものがネタになっていたりする。選択肢を選んで楽しむというより、選択肢によって展開が変わるのを楽しむという感じである。だからいくらプレーしても小説書きが上達するとはいえない。永田は、数え切れないほど読んでいる『吾輩は猫である』の文体にこの日記が影響されていると勝手に思っている。
 ともかく書いてみないことには始まらない。永田は既知の通りラノベを読まないので、パロディネタにするための作品を知らないのが難点だ。
 オリジナルの、ラノベというよりは大衆文学っぽいものを書いて、他者から批評を受けたのは昨年夏のことである。当然というか、手厳しい感想を寄せられたものである。これを糧として、どんどん書き続けられれば良かったのだが、急に漫画・イラストの方に興味が移ったのでこの計画もオジャンとなった。
 永田の興味が今後どのように変わってゆくかは、誰にも分かるまい。また夏が近くなったら字を書き始めるのかもしれない。本日はあまり調子が良くないのでここらへんでやめるが、萌えられる美少女を創り出したいという気持ちは変わらない。反応が薄くとも、あきらめずに書き続けるしかない。茨の道に足を踏み入れてしまったような永田である。


4月20日

 引き続き、かわいい子を書くための方法について模索してみたい。
 これは正確かどうか分からないが、男は小学校高学年ぐらいから異性に興味を持ち始めるのが大体普通である。その興味は、異性の身体はどうなってるのだろう、という単純なことから始まる。そして異性との交流があり、年齢を重ねると、異性への興味がだんだん変貌していくように思える。ハダカを見たいという気持ちが歪められ、脚を見たいとか、二の腕を見たいとか、うなじを見たいとか、そんな欲望に姿を変える。
 ……しかしこれは全ての人に当てはまることとは言えないかもしれない。永田は先ごろから申す通り、フェチズムを持っている。このフェチズムは、性欲が行き場をなかなか見出せず、脳の中で堂々巡りを続けた結果生じたものと考える。また、二次元キャラのエロスを多く見てきたためでもある。二次元エロはまさにフェチの温床である。女の子にいくらでも好きな格好をさせることができるからである。
 さて、話が脱線してしまったが、そんなわけで「かわいい子」の定義は全くできないという方がまだしも正確かもしれない。フェチズムも含めて、各人がそれぞれの好みを持っている。
 ただ、小説、ノベルとなると、文字で描写はするけれども、イメージするのは読者である。描写は説明とは全然違うものだ。永田がノベルで「彼女はツインテールを結っていて……」などという文言を見るとげんなりしてしまうのは、ツインテールというオタク用語をそのまま使って、萌えさせようという意図が見え見えだからである。それならば、せいぜい「おさげ」とかの言葉を使い、読者に結果としてツインテールをイメージさせるように書けばいいのである。
 萌えオタクの永田はなぜライトノベルをほとんど読まないのか? これはライトノベルに対して偏見を持っているためだろう。その偏見の中身までいちいち記述すると、ますます痛いことになりそうなので差し控えるが、要するに娯楽を目的とした小説に価値を見出せないからである。ミステリがその代表だ。何冊か読むには読んだが、読後に何も残らなかった。
 永田は萌えを求めて活字を読むのではない。何よりもまず先に文学としての面白さがあって、そこにかわいい女の子がちょっとでも登場すれば万事オッケーというわけである。若手作家で、オタク界に理解を示す人は何人か思い浮かぶ。しかし露骨にミステリ要素が入ってくると敬遠してしまう。
 文学体験の原点は、「なるほど、これが人間というものか」と気づかされることではないだろうか。本をたくさん渉猟していると、「これこそが人間だ」「こんなの嘘っぱちだ」などと感想が分かれるものである。古い名作文学においては、残念ながら女の子が主役となることははなはだ少ない。永田が今まで「これこそが女の子だ」と思わされた作品は、吉本ばななの「TUGUMI」であった。
 小説は数あれど、いつまでも心に残る名作というのは本当に少ないものだと痛感する。永田は、そういう名作を目指してSSなどをせっせと書いたわけだが、読んでくれた人の心の片隅に何か引っかかりを残すことができたら、それだけで大成功といえるだろう。


4月19日

 永田は昨日、一昨日と頻りに中学生、中学生という字を用いているが、これはストーリーを中学生に分かる程度に単純化せねばならんとか、そういう簡単な問題でないことは明らかである。
 ところで、ライトノベルには挿絵がついているのが普通であり、しかもヒロインの萌えイラストがついているのが普通であるが、活字部分がしっかりできていれば、イラスト無しでも充分萌えられるものであろう。永田がハルヒだメグだと騒いでいるのは、活字部分をほとんど読まずに、ただイラストで黒ハイソがどうとか騒いでいるのである。
 永田が昔から絵を練習してきたのは、かわいい子を描きたいと思ってきたためである。しかし単にかわいい子といっても、定義しようとするとかなり困難である。永田自身にとって完璧にかわいい子なのか。それとも、自分で創り出したキャラクターならばどんな子でも最高にかわいいと思えるのだろうか。あるいは、ネットの向こうにいる大勢の人々にとってかわいいと思える子なのか……。
 SSを書くのは、十中八九、他人の作った萌えキャラを利用して自分自身が萌え楽しみたいと思って書くのである。しかし、今までの経過を見ると、自分では萌えていても、他人にとってはイマイチというパターンが多いようだ。自分が萌えるのは簡単だ。なぜなら自分の好みは自分が一番よく知っているからである。自分の好みと、大勢の他人の好みとが合致する作者は天才である。永田はそうではないので、大勢の他人の好みを推し量り、どうかこうか書いているわけだ。
 今日言いたいことは、かわいい子を(文章で)書くにはどうしたらいいか? という単純な疑問である。ここで言うのは、みんなの好みに合致するかわいい子のことである。かつ、自分の好みにも適合するかわいい子である。しかしそんな子はいない可能性が大である。よって、とりあえず自分の好みのことは忘れよう。みんなが好きになってくれるキャラクターであればいいのだ。
 しかし……「みんな」とは誰か? 永田がイメージするのは、永田のウェブサイトを訪れてくれるようなオタクの方々である。彼らの趣味には相当な偏りがあると思料される(他人のことは言えないが……)。つまるところ、永田と同じような興味を持つ方々ではないだろうか。だとすると、「みんな」の趣味に合わせることは、永田の趣味に合わせるということだ。
 話が振り出しに戻ってしまった。永田は自分が何をやりたいのか、あくまで理詰めで考えないと気が済まないので、なかなか先へ進めない。永田は女の子が好きである。活字だけでも萌えることは充分可能だ。他人は永田の文で萌えることができるか。
 ありがちなのは、「登場人物はみんな作者の分身」という考え方だ。作者の性格の一部を誇張したり、敷衍したりしてキャラクターを創る。しかし、だからといって、自分自身をただ見つめるだけではダメだ。他人に多く接触し、他人の中に自分の姿を見ることが必要である。残念ながらこんな当たり前のことも学生時代には知る余裕がなかった。
 外見だけの萌えキャラならばいくらでもいる。内面を描くには、文章によるほかない。そもそも「かわいい子」の定義すら危ういのだから、先行きは不透明だが、かわいい子を文章で表現していければいいと思っている。


4月18日

 昨日は、また絵を描きたいようなことを書いてしまったので、ぜひ描かねばならんとも思ったのだが、土曜に絵を描く習慣がしばらくなかったので結局実現できなかったのは誠に残念である。
 ところで、久々にブックオフへ行ってきた。本日の目玉は岩波文庫の『死せる魂』全3冊である。この作品については既に筑摩書房の「ゴーゴリ集」で第一部を読んでおり、また第二部も岩波文庫(カバーなし)で読んでいたのだが、ここに至って岩波文庫で揃えることになり、さっそく読み進めた。やはり面白い。ゴーゴリの作品は某新訳文庫でも出ており、間抜けな感じに訳されているようだが、やはりそんなのよりも古い訳の方がいいと思ってしまう。
 旧約聖書の『創世記』『出エジプト記』『ヨブ記』もあったので買った。聖書はすでに口語訳を持っているが、注釈は当然ながらついていないので、注釈つきでちゃんと読めればいいと思っている。できれば『黙示録』も注釈つきで読みたいのだが、岩波文庫では出ていない……。
 それからタカハシマコの「乙女ケーキ」である。状態が良い本なのに105円とは何とも可哀相な気がした。
 上記に掲げた作品たちを見渡すと、共通しているのは、中学生ぐらいの頭脳でも充分楽しめるということだ。昨日言ったように、漫画にあっては中学生に分かる程度で充分だということが言える。
 漫画界においては、少年誌、少女誌、青年誌、成年誌などの区別がある。しかし、男が少女誌を読むことも普通に可能であるし、性について多少知っている子供ならば成年誌を読んで理解することもできるだろう。中身的には難しくはないのだ。
 というわけで、今後は漫画でもイラストでも、中学生をターゲットにして描くことを考えてゆきたい。まあ、一応萌え絵を描きたいので、萌え絵の趣味がある中学生という意味である。中学生といえば、性欲が急激に盛んになってくる時期である。よって、チラリズムなどでも充分興奮できるといえよう。漫画のストーリーも、変にナンセンス要素を入れると中学生にはウケないものだ。アニメ「ギャラクシーエンジェル」も、初期はナンセンス要素が強かったが、後にはドタバタコメディのようになって一般ウケしやすくなったようである。永田にとっては残念だったのだが、地上波で流すとなると広くウケることを考えねばなるまい。
 そういえばブックオフで「ギャラクシーエンジェル」の第1期のDVDを見かけたのだが、アニメDVDとしては異例の安さ(500円)であったことに一抹の寂しさを感じる永田である。


4月17日

 前回は制服などのユニフォームへのフェティシズムについて書いた。
 永田は、何ぞと言うと紺ハイソ黒ハイソと、二次元キャラにばかり言及するように見えるが、決して現実の女にも冷淡なわけではない。ただ、銭をかけないで紺ハイソやツインテールなどと触れ合おうとするのは、この年齢になると土台無理な話である。
 そこで、仕方なく二次元キャラを利用するようになる。二次元キャラの何が一番いいかというと、自分でも創造できることである。永田は遺憾ながら絵心を持って生まれてきたとはいえないが、地道に練習して、女の子の絵を一応描くことができる。ただ最近の「チサト日和 その15」を描いていて思ったのは、どうも自分の絵に自分で萌えるのに限界が来たのでは、ということであった。
 自分で描いた絵に萌えることができるのはなぜか。この理由は、自分が萌えられるような絵を練習したためである。つまり循環論法と同じことだ。ニワトリとタマゴである。心の中に「萌えのイデア」があり、対象として萌え絵があるのだが……どちらが先に生まれてきたかは神に聞いてみるしかあるまい。
 このことを踏まえると、自分で描いた絵に萌えられるのはほとんど必然のように思われるが……永田の変化は何故であろう。原因は永田の心の中にしかあるまいと思う。二通りの考え方ができる。萌える心を失ったためか、それとも、萌える心は変わらないまま、萌え絵を生産する能力を失ったためか。
 こないだ、週刊文春で江川達也の記事を読んだ。彼は本宮ひろ志のアシスタントをしたそうだ。そこで教わったのは、漫画に理屈は必要なく、中学生に分かる程度で充分だ、ということだったそうだ。
 まさに萌え絵界においても、このことは言えるのではないか。永田が大卒の頭を使って考えても、良い絵は生まれて来ない。むしろ、「中学生に見せるのだ」と考えて描けば、おのずとどんな絵を描けばいいかが見えてくるのではないか。永田は理屈っぽいので、どうしても理詰めで萌え絵を創ろうと考えてきたのだが、それではいずれ破綻してしまう。
 今でも、萌える心は失っていないと思う。現に針美谷エリたんには萌えることができる。深く考えず、欲望のおもむくままに描くことができれば、再びこのサイトを賑わすこともできるであろう。


4月14日

 永田は学生の制服を愛する者であるが、この時期になると、周囲において新高校生のみならず、新社会人を目にすることも多い。
 新社会人の女性は、むろん真新しいスーツに身を包んでいることが多い。そういう姿を目の当たりにすると、一種の興奮を覚えるものである。
 永田は自問する。お前は女子高生の制服のみを愛する者ではなかったのか? かつて、年増の女については一顧だにしなかったのでは?
 だが、正直な気持ちを言うと、真新しいスーツ姿も決して悪くはないと思うのである。これは別にスーツに黒ハイソをはいていなくてはならんという問題ではない。まあ、ナマ脚はないにしても、膚色のパンティ・ストッキングをはいていてもそれはそれでいいものである。
 要するに、真新しいスーツの発するにおいが好きなのだろうと永田は気づく。あるいは、買ったばかりの革靴の光沢が好きなのだろうと気づく。永田がフォーマル・ウェアを愛する背景にはそんな心理がある。繊維のにおいあってこその新制服だと思う。また、永田は靴屋のにおいも好きである。
 ここからは変態性欲の話となってしまうが、ハイヒールなど、女性の靴に異常に執着する者がいる。こういう者は一種のにおいフェチといえよう。確かに、ピカピカに磨かれたハイヒールは、ただの運動靴やロー・ファーなどよりもずっと良いものに見える。しかしにおいフェチたちは何よりも足のにおい、正確に言うと足の汗のにおい(吉草酸など)と革のにおいが混じったにおいが好きなのだろうと思う。永田にもその心理は分からなくもない。
 おっと、これだけで永田を靴フェチだと決め付けてしまうのはまだ早い。永田はツインテールや紺ハイソなどのフェチであり、断じて靴フェチであったり、ましてや靴のにおいをこっそり嗅いで楽しむ変態ではないと思う。そんな危険を冒す度胸もない。
 というわけで、先般永田は「脚フェチではない」と言ったが、「靴フェチではない」とは必ずしも言い切れないのである。人体そのものよりも、人体に付着する衣料に執着する。おそらくスク水を愛する心理もこのへんに逢着するのであろう。さらに言うと、少年野球の真っ白なユニフォームだっていいものだ。これからは自分のことを「ユニフォームフェチ」と呼んでもらいたい永田である。


4月13日

 本日はうれしいお知らせがあります!
 映像散歩の「早春の南房総」の中のペンギンが歩くシーンのBGMが何という曲なのかが判明しました。読者からのコメントによるものです。
 まずはこの場を借りてお礼申し上げます。

 さて、これだけでは何のことなのか分からないという方が多数でしょうから、説明しますと、私のサイトには「映像散歩ファンページ」というコンテンツがあり、そこではNHK総合深夜などに流されている穴埋め番組群「映像散歩」のBGMを主に取り扱っています。
 私はかつてこの番組群にハマり、ファンページまで立ち上げるに至ったのでした。映像散歩に使われている曲は実にバラエティに富んでおり、NHKの底力を見せつけた感があります。それで、この映像散歩の中に「早春の南房総」と題された30分の番組があり、その中にとてもかわいらしい曲を見つけ、すっかりハマってしまいました。この曲とともに流れる映像は、動物園のキングペンギンの行進です。こちらもとてもかわいいものです。
 それでは、曲名を公表致しますが、それは「サンサーラ・ナーガ2」というゲームの中の曲「はらたま」で、アレンジヴァージョンのCDに収録されているとのことです。ちなみにこのゲームのプレイ動画が「ニコニコ動画」に上がっており、そこでオリジナルヴァージョンの曲を聴くことができ、歓喜に震えました。
 作曲者は川井憲次氏とのことです。この方は堀江由衣の伝説的な名曲「my best friend」などの作曲を手がけていらっしゃり、業績は図り知れないものがあります。
 「サンサーラ・ナーガ2」のサントラアルバムは廃盤らしく、とても高値で取引されており、誠に遺憾です。今から中古屋でスーファミのソフトを探した方が早いかもしれません。
 というわけで、近日中に映像散歩ファンページの方も更新しておこうと思います。ありがとうございました。


4月12日

 『悪霊』を読み返した。読書はいいものである。しかし最近購求した長嶋有の「ジャージの二人」とかにはあまり手が伸びない。「僕僕先生」というのもある。「○○先生」という小説はわりと多いかもしれない。
 突然だが、永田はまた小説というかSSというか、そういうものを書いてみたい衝動にかられている。ぜひここは面白いSSを書いて読者の楽しみに供することにしたい。しかし何をテーマに書くか、また、どう書くかが問題である。永田は元来アニメを見たいのであるが、事情があってほとんど見ることができない。いちいち録画などするのも面倒である。
 書店でラノベコーナーはよく見るが、買うことはほとんどない。「エア彼氏」も完全に放置している。「メグとセロン」も一行も読んでいないのである。メグが最萌えキャラであるということで、永田の好みもおおよそ分かると思う。とりあえず黒ハイソをはいていれば誰でもいいのか、と言われそうだが、誠にもってその通りである。それほど永田は黒ハイソ乃至は紺ハイソのフェチである。
 以前はツインテールに関する長々とした小説のようなものを書いて掲載していた。今となっては過去の遺物である。黒ハイソについても既に書いているから、もう永田が書くべきテーマはどこにもないような気がする。
 小説家は「書かずにはいられない」人々であるという。たとえ禁止されても何しても、職を失おうと、書かずにはいられない人々である。反面、永田はどうだろう。何か、どうしてもやらずにいられないことがあるだろうか。まあ、漫画については、続けているので勝手にやめるのは失礼だということで、どうにかこうにかやめないでいる。小説・SSについてはどうかというと、本当に書きたいと思う瞬間がいつか訪れるのを期待して過ごしている。黒ハイソ萌えというのもその一つである。しつこいようだが、ハルヒについても、黒ハイソがなければ全く関心が起きなかったのである。
 掲示板を見ると、さまざまなフェチ要素を持った人々が書き込みをしている。永田だけが黒ハイソに萌えているというわけではない。自分の経験を自分独自のものだと思い込んでしまう人間は、おそらく小説家にはなれないだろう。逆に、自分の経験や感情から発展させて、人類共通の(オーバーな言い方だが)経験や感情を探り出せる人が優れた作家なのであろう。
 そこで、今日は紺ハイソ・黒ハイソフェチな感情の根源を探る旅に出ようと思う。とりあえず黒ハイソに的を絞って話すことにする。黒といえば、礼服の色である。黒ネクタイは葬式のためである。黒ハイソもまた、喪に服するための衣服かというと、そんなことはない。では何のためか。一種のファッションに過ぎないのか。どうもそのような気もする。所詮は脚を包む布に過ぎないのだが、なぜこんなにも萌えの感情を引き起こすのだろう。
 ここでは、永田が脚フェチであると仮定してみる。永田は脚フェチであろうか。どうしても脚フェチの人向けの商品というと、肌色のパンティ・ストッキング、あるいは生脚で、フトモモとふくらはぎを大胆に見せるグラビア雑誌を想起する。しかし永田は残念ながら、成人女性の脚には今ひとつ萌えないというか、興奮しないのである。
 ご承知とは思うが、女性の脚は年齢とともに形を変えていく。すなわち、少女のころは何の凹凸もない、少年と大して変わらない骨ばった脚をしている。中学になると少しは男との違いが生まれてくる。高校生の脚は、大人の脚への過渡期といえる。非常に危うくて、一歩間違うと醜ささえ漂ってしまいそうな微妙な脚である。それから大学ぐらいになると大分完成された脚となる。すなわち、ふくらはぎが張りを持った曲線になり、足首はキュッと締まるようになる。これが大人の脚というものだ。
 永田は過渡期の脚を愛する者である。自分で絵を描くにしても、「やさしい人物画」に載っているようなオトナの脚を描こうとはしない。むしろ、少女の写真集などを参考にして、なるべく少女らしい脚を描くようにしている(どうせ少女しか描かないのだから当然といえるが)。そんなわけで永田は女子高生キャラクターの脚を愛している。
 紺ハイソはそんな脚に彩りを添えるものである。どう彩りを添えるかというと、言うまでもないことだが、脚を細く見せ、微妙な曲線を周囲から浮き立たせるものだ。
 というわけで、永田は脚フェチ雑誌には全く見向きもしない。大人の脚には興味がない。このことは意外に思われるかもしれないが事実である。全然意外でないという声も聞こえてきそうだが、ともかく事実である。
 さて、黒ハイソの将来を占いながら、本日の日記を締めくくろうと思う。黒ハイソは都会において現在どれほど人気なのか、永田はよく知らない。都会に全然行っていないからである。まあ、上品さという点ではむしろ紺ハイソの方が人気かもしれない。今後、あの忌まわしいルーズ・ソックスというものが流行らないように祈っているが、おそらくもう流行らないのではないかと思う。しかし時代は移ろうものであるから、別のソックス(白ハイソや白三つ折など)が流行る可能性はある。永田は黒ハイソ界に何の貢献もできる者ではないが、こうしてネットの隅で黒ハイソを讃える文を書いて、同趣味のファンに供するものとしたい。


4月9日

 カオスを超えて週末が近づく……
 というわけで、週の終わりに近づくとネタがなくなることは既に述べた。まあ、「こち亀」の巻頭文にしても、毎回毎回面白いことが書いてあるわけでなく、たまにはネタがなくてただ文字を羅列して終わっていることもある。
 ジャンプなどの週刊雑誌作家は、毎号毎号巻末にコメントを載せなくてはならなくて大変だなと思う。ギリギリのスケジュールで描いているのに、どうでもいい質問で時間を潰させられるのは気の毒である。
 それに較べると永田はお気楽なものである。オンラインでも人との交流がないし、○○バトンとかいうものにも関わったことがないので、誰にも何にも聞かれることがない。ただ自分の思うことを書き連ねるのみである。
 ところで、そろそろ何か面白いノベル、あるいは萌えるノベルを書きたいなぁという気持ちが胚胎している。永田は半端者なので、基本的にいつも中途半端なノベルを書いてしまう。すなわち、文学を意識している反面、萌えを意識しているとか、そんなふうにどっちつかずの文となってしまう。恥も外聞も捨てて、「ドクロちゃん」のような文を書ければいいなあと思うこともある。
 永田は「るっきーとの日々」という小文を載せている。これはまあ、わりと気に入っている部類に入る。あるいは、紺ハイソフェティシズムを余すところなく表現した「涼宮ハルヒの殷賑」も好きだ。
 しかし過去の作品はスッパリ忘れ、新しい作品に目を向けていくべきである。永田の手許には、定期購読している「文學界」がある。これを参考にしつつ、身の回りのことでいいから丁寧に書いてみたいものである。とはいってもその方が、空想世界を描くより難しいかもしれないが……。
 永田がサイト閲覧者に何を求められているのか、ご意見を賜りたいところである。


4月8日

 長考。
 永田は以前、ストーリーを考える作業を「将棋を指すようなもの」と表現したことがあった。まあ、この日記も一種のフィクションみたようなもので、話の展開をそれこそ将棋を指すように探りながら書いている。
 本日はパソコンの前に向かい、10分以上の長考をして、なおも何も書くことが思いつかなかった。こういうことは特段珍しいことでもない。だから、ただ「長考。」だけでその日の日記を終えたとしても、一つの活動はしたことになる。ただ結果が目に見えないのが残念である。
 しかしだんだん書いているうちに書くことがふくらんでくることも多い。自動車で、ロー・ギアで発進する際にはエンジンの高回転を必要とするが、いったんスピードに乗ると少ない回転数で走れることと一般であろう。
 ロー・ギアだの何だのと言っているが、永田はオートマチック・トランスミッション車を利用している。AT車だ。よってギアもへったくれもなく、ただブオンブオン噴かすだけである。
 強引に日記の話にこじつけると、いつもいつもロー・ギアで精一杯書いていても、疲れてくるし、読む方も疲れると思う。少ない労力で書くためには、毎日の話を少しずつ関連づけて、時には前の日記を引用しながら書くのがラクである(読む方は面倒だが……)。
 もっと労力が少ないのは、毎週のアニメの話をするとか、週刊漫画の話をするとかであろう。ただこの場合、特に感想がない場合に困ったことになる。永田は毎日の日記のヴォリュームをある程度保っていきたいので、ただ単に「萌えた」「作画がダメ」とか言っているようでは困る。
 永田は受験小論文を楽しく書いていた。正答を要求される諸問題とは違い、テーマに沿っていれば何を書いても自由だからだ。永田は当時練習していた小論文を読み返すことはあまりしたくない。「痛い」と思われるからである。しかしこれも永田の歴史の一部である。
 そろそろまた新しいアニメのSSとかを書いてみたい気がするが、アニメは全然見ていない。ここはひとつ『悪霊』を最後まで読み通し、然る後にまたロシアかぶれな戯言でも書いてみようかと思っている。


4月7日

 さて、今日は永田が如何にして萌えオタクとなったかを説明する日である。時間もないのでさっそく始めよう。
 出立は「コロコロ」「ボンボン」であった。それから「少年ジャンプ」「ヤングジャンプ」へと続く。ここまでが高校時代である。一見するとまともそうだが、「ふたり暮らし」を楽しみに読んでいるあたり、オタクの萌芽が出ていた。
 普通の男なら、群集の中に美女を見つけると「おっ」と思ってそちらに注意を向けるものである。永田の場合、あまり群集が好きではなかったが、漫画を読んでいると当然美女が(時には大勢)出てくる。そちらに注意が向くのは致し方ない。それでも、現実の少女を好きになる延長みたいなものだと思っていた。
 どうやら違う、と思ったのは赤松健の漫画を見た頃であろうか。コンビニで「マガスペ」を見て、連載されていた某漫画に衝撃を受け、作者に応援メールまで出してしまった(返事ももらった)。
 永田は学生の間、家にブロード・バンド環境を取り入れることは結局なかった。これはネット中毒となり廃人となるのを恐れたためであった。しかしその代わり、大学の共用コンピュータを使って萌え絵収集に励んだ。現在では家にブロード・バンド環境があるものの、そんなに時間をかけて萌え絵収集をしているわけではない。ちなみに永田は過去から今に至るまで「定点観測」系のサイトを利用することはほとんどない。

 さて、萌えオタクとしての歴史をこんな短い文にまとめるわけには到底ゆかないのだが、萌え絵鑑賞という行為が永田の学生生活にあまりにも深く食い込んでおり、結局萌え生活を説明するには全生活を説明せねばならんことに気づいた。それは今はやりたくない。
 永田は一般論と称して自分の話をするのが得意だから、ここでもやってみよう。どうしても萌えオタクは、現実女性との接点が少ないものである。それは、萌えキャラにのめり込むことが現実からの遊離を意味するからである。永田は広大なエロゲー業界の今をほとんど知らないが、「妹にスク水着せたら脱がさない」とかのキー・ワードは聞いたことがある。スク水は今では空想上のものになりつつある。白スクとなればなおさらだ。まあ、色はこの際いいが……。
 しかし、現実現実と言って、萌え世界との差異を説いても、そもそも現実とは何か、という問題を考える必要がある。そこでは、スク水も、メイドも、ツインテールも、一応存在しているけれど、非オタクにとっては何の感銘も受けないものだ。してみると、本当に対決すべきなのは現実世界というよりも、非オタクの人々である。
 非オタクの特徴は、同じ価値観を仲間と共有しようとすることだ、と思っている。すなわち、羊のように群れる。一方で、萌えオタクだとしても、友人がいて、群れることも可能である。だが萌えオタクの本質は、自分の好みを見つけたら、それにとことんのめり込み、結果として他人の手が届かない深いところまで潜り込んでしまうことではないかと思っている。萌えオタクは、人生のどこかの分岐点でオタクとなることを選び、そしてオタクを生きる。人間の手足にひそむ毛細血管のように、とことん細く深いところまで萌えの道を進む。もはや引き返すことはできぬ。やがて、現実とは何かをすっかり見失い、馴染みだった友達も、単なるデジャ・ヴュと区別がつかなくなる。後悔する頃にはすでに遅いのだ。
 だが永田は萌えオタクについてあまりに悲観論を持っているようである。明るく楽しく暮らして、ついでに彼女もいる萌えオタクも中には存在するであろう。永田はそういう人々が破談になればいいとは思わないが、男がオタクで女がオタクでないとなると、いろいろ難関が待ち受けている気がする。永田のように競スクを愛する者ならば……。「彼女にスク水着せたら脱がさない」とかいうことになり、破局は時間の問題となる。
 永田は、「エロ漫画を読んでいる時点ですでにオタク」という先般の言葉をかみしめるのだった。


4月6日

 昨日は、熱くなって書いたためか、論点がどんどんずれていってしまい誠に遺憾な内容であった。そこで、きちんと話を戻し、「萌え絵がずらりと並ぶ漫画・ラノベコーナーについて少女はどう思っているか」について考えてみる。
 萌え漫画のカバーに描かれるのは、ほとんどが小学〜高校ぐらいの年代の少女である。成年女性は萌え漫画にはふさわしくなく、むしろババコン(?)とかの趣味の人が喜ぶだけであろう。
 ここで、比較のため、萌え漫画の対極にあるといえるボーイズ・ラヴ漫画について、永田の抱く感想を記してみよう。今までの記事を見ていただけば分かる通り、永田はボーイズ・ラヴ漫画に全く関心を示してこなかった。男同士の恋愛など、気持ち悪いと思うのが普通であろう。こういう漫画の表紙には、仲良く抱き合う美少年同士が描かれていることが多い。それを見て、男である永田は嫌悪感をもよおす。なぜ腐女子たちは、トランスセクシャルな話に満足できず、ホモセクシャルに走るのだろうか。
 これも以前「性の商品化ゼミ」で誰かが述べたことであるが、美少年同士といっても、「攻め」「受け」の役割分担がある。「受け」も男であるが、女の役割を務める。尻穴や、あるいはヤオイ・ホールといったものを攻め立てられて悶絶する。男女の性交と大して変わらない。
 さっき言ったように永田はボーイズ・ラヴに関心がないけれども、無理に関心を示してみると、意外と面白いことが分かってくる。ボーイズ・ラヴに登場する少年たちは、ほとんど少女に近いような美しさを持っている。それこそ、イチモツを引き抜いてしまったら男か女か分からないであろう。だとすると、レズビアンの関係と大して違わないのではないか。腐女子(いちいち「腐り女子」と打って「り」を削除するのが面倒だが……)は、実はレズビアンの素養を持っているのでは? と、大胆な珍説が生まれてきそうだ。
 また本筋から外れてしまって申し訳ない。少女が萌え絵を見てどう思うのか、そんなことはどんなに推測してみても推測の域を出ないし、好きな少女もいれば嫌いな少女もいるだろう、とかいうことしか言えない。ただ、萌えオタクの永田でさえ、「これはちょっと……」と思わせられるぐらい、萌えキャラは書店に飽和している。二次元少女たちが、我も我もと男(と少女)たちにアピールしている。こんな日本に誰がした、と嘆いても始まらない。萌え漫画は萌えキャラが売りだし、ラノベも萌えキャラの表紙で買わせようという魂胆が見え見えである。
 結局、非オタクの人々は漫画・アニメにあまりお金をかけてくれないから、オタクの人々に的を絞り、ウケの良さそうな美少女キャラを配置して金を取ろうということなのだろう。永田自身は、萌え漫画によって育ったのではなく(そんな年代でもない)、ただ「コロコロ」「ボンボン」の少年漫画に出てくるちょっとかわいい少女キャラを目ざとく見つけて、萌える心をひそかに抱いて育ってきた。ここまでくると、無論オタクには違いないが、何か「業」のようなものを感ずる。オタク遺伝子というか、何というか……。
 冒頭に掲げたテーマについては難しいので話すのをやめる。代わりに、男がどのようにして萌えオタクになっていくのかを、永田を例にとって明日話してみることにしよう。


4月5日

 日記を中断してしまったが、都会に行って泊まってきたわけでもなく、ボンヤリと『悪霊』を読んでいる。
 書店の漫画コーナーに行くと、少年・青年問わず、女の子の萌え顔がどアップになっている表紙の漫画が多く見られるようになった。こういう光景を見るとなんだかうんざりさせられる。萌え絵は無論好きだけれど、あまりにも工夫がなさすぎる気がする。
 さて、漫画や小説を買うためによく書店に行く少女は、こういう状況をどう思っているか? というのが今回の話題である。どこかのサイトでも、萌え絵やエロ絵を見た少女が不快な思いをするのではないか、という記事を読んだことがある。確かにそうかもしれない。まあ、兄弟の隠しているエロ本を見つけた少女は、汚らわしいとか思うこともあるだろう(現代はそれほどでないかもしれないが)。エロ本のエログラビアは、性の商品化をしている。かつて「性の商品化ゼミ」というゼミナールを受講した永田にとっては看過できないものである。ちなみにそのゼミナールでは、女子学生も真面目になってエロ漫画やグラビア雑誌を研究していた。
 ツンデレという観点からいうと、「べ、別にこんな本のことなんて、何とも思ってないんだから……」と言いつつも、エロ本に興味津々であったり、むしろ興奮してしまったりする少女がいてもおかしくない。そこらへんは、現実と二次元を混同するなと言われそうだが、エロ本を見て汚らわしいと思うのは前時代的な発想なのは確かだろう。少女たちも「ピチレモン」や……あと思いつかないが他のいろいろな雑誌で性情報を仕入れているはずだ。
 今日のメインテーマに戻ると、萌え絵に関しては、好き派、嫌い派、無関心派がいる。みんながこのどれかに当てはまるのは当たり前である。嫌い派をさらに分けていくと、巨大な瞳の萌え絵そのものが嫌悪感をもよおすとか、あるいは女の子キャラに萌える男そのものがキモイと思うとか、いろいろあろう。好き派もけっこういるはずで、pixivでストレートな萌え絵を公開している女性などはその部類に入るであろう。版権キャラでいうと、やはり初音ミクは強い。永田としても、ツインテール、ネクタイといった萌え要素を見過ごせない。
 永田は今日のようなテーマで記事を書こうとしても、取材などはしない怠け者である。同じ人間として、少女の気持ちを推し量ってみるだけである。それでも、何もしないよりはましかもしれない。萌え絵とエログラビアは全く別物であり、エログラビアに興奮するのは男ならまず当然だろう。萌え絵に萌えたり興奮したりするのはまた違う次元の問題だ(二次元だけに)。やはり幼い頃から漫画・アニメに接してきた者なら、萌え絵も抵抗なく受け入れられる気がする。それは男女を問わない。ただ、エロだけでなく、萌え絵についても、少女がそれを見て「女を馬鹿にしている」と思うこともあるはずだ。
 絵描きの端くれとして言わせてもらうと、萌え絵師で、萌え絵が嫌いだが仕方なく描いているという人は(アマチュアでは)まずいないだろう。やはり自分の絵が好きで、それを他人に見てもらうのが好きということだ。しかし所詮はオタク活動であり、これを嫌悪する少女もいておかしくない。先ほど「女を馬鹿にしている」と書いたが、要するに性が商品化されている。普通のエログラビアだけならばまだ健全さもあろうが、萌えの世界となると非常に混沌としており、定義すら難しい。ただ言えるのは、女というもの、女に付随するあらゆるものが、萌えの世界では対象とされている。もっと言うと、女をあらゆる面から搾取している。このように感じる女性は、萌えを厳しく批判するはずである。
 ただ、有難いことに、萌え漫画、エロ漫画においては、現実のいかなる少女も傷つくことがない。所詮は紙とペンの創作物である。絵の上手い先生方が、紙とペンだけでかわいい女の子を創造し、ファンは創造主を崇拝する。理想的な関係がそこにある。非オタクの人々を閉め出してしまうのはやむを得ない。
 例によってまとまりがないが、強引にまとめると、萌えの世界は「何でもあり」で、およそ女について考えうるあらゆるエロ要素、フェチ要素、変態要素が含まれている。この世界に没頭できる人間は限られているが、没頭できたらとても心地よいものだ。
 しかし……。萌えの世界と現実世界は両極端にあり、萌えの世界に近づくほど現実世界から遊離してしまうのは如何ともしがたい。このことについては日を改めて話すことにする。


4月2日

 永田はしばらくぶりに都会へ出て本を買い漁ろうかという気持ちが胚胎している。その一方で、通販でも充分ではないか、高い交通費をかけてまで行く必要があるのか? という気もする。
 文庫や新書はともかく、漫画同人誌はやはり店頭で選んで買うのがベストである。最近は、この作品の二次創作を読みたい、というのが特にないのだが……。永田はツインテールが好きなので、「ストッチーズ」のルッキーニ少尉に萌える同人誌なら欲しい。
 同人誌のいいところは、自分の制作意欲を高めてくれることである。ちょっとヘタな同人を見たなら、己はもっと上手く描いてみせる、と奮起できるだろう。上手な同人を見た場合も、上には上がいるのだ、ということを知り、少しでも上に近づきたいという気になれるだろう。
 かく申す永田は、同人誌を3〜40冊持っている。何度も読み返すことはほとんどない。即売会に出られたらいいのになあ、と嘆息する。即売会会場では、中身を確認して買えるのが良い。書店や通販ではそうもゆかない。
 即売会に出続けることは、定期的に他人から刺激を受け続け、漫画制作を続けられるという点で非常に大事である。逆に言うと、ウェッブ公開のみとしてしまうのは、制作の最前線から後退してしまうことになる。
 永田は「アンニョン!」や、kashmir先生の作品に刺激を受けた。しかしその刺激も長くは続かないのだ。刺激を持続させるためには、毎日書店に通って漫画を買い漁る必要はない。ただちょっと即売会に行って、ゆっくりピコ手の本を見て廻ればいいのだ。そこにはナマの制作意欲が充満していることだろう。しかし永田は行くことができない……
 作品への反応が薄いと、どうしても意欲が鈍り、デジタルでラクに描こうとかの気持ちが胚胎する。永田がかつてアナログで「フックオフ」を描いていたのは、デジタル機材がなかったためであるけれども、もしあったとしても、温かみを感じさせる手描きを選んだに相違ない。
 名作小説を読んでも、そこから文章を書きたいと思うことができないのが今の永田である。やはり同人を買い漁るしかないのか……と思っている。


4月1日

 いつのまにか「弟切草 蘇生編」がピンクしおりになっていた。ここからが面白い……はずだ。
 さて新年度の抱負ということになるが、別に4月だからといって何か宣言しなくてはならんことはない。4月馬鹿のネタも全く思いつかないのが遺憾である。
 休日を大事にする永田は、今年の5月、そして9月に5連休があるのを心待ちにしている。連休はいいものだが、上手に使おうとするとつい無理をして疲れてしまったりする。かといってゴロゴロしてばかりでは遺憾である……
 他にすることもないし、ここはひとつ「連休論」を提唱してみようか。連休とは何か。連休と時間。連休の耐えられない軽さ。死に至る連休。
 人によっては、土・日に丸々休めることがうれしく、連休だといって喜ぶこともある。一方、しっかり休みを取れる職場ならば、土・日の休みは当たり前で、全然連休と呼べないであろう。ここでは仮の定義として3連休以上のものを連休と呼ぶこととしよう。
 3連休の過ごし方は、永田の場合は次のようなものである。
 1日目……グダグダ過ごす。
 2日目……そろそろ何かやらねばならんと思い、買い物に行ったり『猫』を読んだりする。
 3日目……読み終わる見込みがないのに長編小説に手を出し、就寝時間ギリギリまで粘るが、結局読み切れない。
 こんな感じである。続いて4連休の場合は……
 1日目……グダグダ過ごす。
 2日目……今日で休みも半分終わるなぁと思いつつ、ファミコンなどをやってダラダラ過ごす。
 3日目……いよいよ休みも本番だ! と思いつつ、押入れの整理をしながら漫画を読む。漫画のネームに手をつける。
 4日目……非常に残念な気持ちで休みの終焉を迎える。漫画のネームはちっとも完成しない。就寝時間ギリギリまで本を読む。
 こんな感じである。続いて5連休となると……
 1日目……グダグダ(ry
 2日目……まだまだ休みはある! と思ってファミコンなど(ry
 3日目……連休の中日(なかび)である。さあ頑張るぞ! と気合を入れる。スーファミを物置から取り出す。
 4日目……大して面白くないマリオカートで遊ぶ。さらに、一発でクリアしてやる! と調子に乗って風来のシレンを始める。
 5日目……何もできない連休だったことを激しく後悔しつつゲームをやって終了。

 まあ、実際いつもこうなるとは限らない。読書をして充実した時間を過ごすことも可能なはずだ。しかし永田は元来ゲーム好きというか、中毒である。アル中が少しの酒で酔っぱらうように、少しゲームをやればすぐ脳内麻薬物質のとりこである。やはり小学校時代の「ファミコン禁止令」が尾を引いているのだろうか……。


3月31日

 今日は平成21年3月期の決算日である。この一年でいくら貯蓄ができたか計算し、来年度へ向けて抱負を語るべき時である。
 いや、こんな話をしても気が滅入るだけであるのでやめに致す。よって今日は、本棚をぐるりと見渡し、次にどの本を読もうかと考えてみる。
 先日から『悪霊』を読み返しているが、そんなに速く読めるものでもなく、まだ上巻の第2部第2章まで進んだところである。永田はこの作品を初めて読んだ時、スタヴローギンって結局何者だ? と思ったものである。どこが「悪魔的超人」だ?
 この作品には、雑誌掲載を断られた「スタヴローギンの告白」という章がある。ドストエフスキーはこれをきっかけに作品の方向を大幅転換したようだ。『悪霊』は、この「スタヴローギンの告白」も読まなければ本当に理解はできないと思う。まあ、読んだからどこまで理解できるのかという問題はあるが……。
 しかしスタヴローギンは恐ろしい男である。まさに悪霊に憑かれた豚そのものと言えないだろうか(変なたとえだが、これは作品を貫くテーマである)。
 さて、例によってこれから読みたい本を挙げてみよう。「さあ読むぞ」と意気込んでも結局読まないことがほとんどなのだが、それは仕方ない。ともかく列挙することに致そう。
 「海の仙人」絲山秋子
 「ラス・マンチャス通信」平山瑞穂
 「決壊」平野啓一郎
 「トリストラム・シャンディ」スターン
 ……あまり多くないようである。他にも未読の本はあるのだが、読む気がしない……。
 再読も大事だ。「万延元年のフットボール」などはぜひ再読したいと思っている。漱石の「坑夫」もいい。「ユリシーズ」はとりあえず先送りしておこう。それならば「オデュッセイア」を読んだ方がずっと良いだろう。
 漫画のリストラクションはけっこう進んでいる。リストを作るとか、面倒なことはしたくないが、好きな漫画はつねに目の届くところに置いておきたいと思っている。


3月30日

 永田は珍しく上機嫌で帰宅したのであった。この気分が日記にも反映するだろうか?
 昨日は、ドラクエ4、『悪霊』、相撲というキー・ワードを出した。このうち昨日語らなかったのは相撲であるが、相撲について語ると、プロ野球を語る時のように、ひいきの力士にスポットを当てて話すことになるのが普通だろう。
 相撲は国技であり、上位力士の四股名は大抵の人が知っていると思われる。だから、よくサークルなどの自己紹介冊子を作る場合に、アンケート項目に「好きな力士」を入れる場合がみられる。永田はこの質問をネタ質問だと学生のころから思っていた。「好きなプロ野球選手」ならば全然ネタと思わないのだが、なぜ力士だけが?
 そこに相撲の特殊性がある。大食いと昼寝とけいこによって、肉体を肥らせ強くする。そうしてできた力士は、相撲をとることは上手いけれど、その他の日常動作においては緩慢に、むしろ不自由になる。彼らは、相撲道のためにその身を捧げた、偉大な人々と言えないだろうか。
 しかしいわゆる「お相撲さん」は、どこかこっけいな印象を与えるものである。フンドシ一丁で、大銀杏を結い、男同士でぶつかり合う。国技といえども、相撲を真面目になって応援し、相撲界の発展を本気で願う人々はあまりいないのではないか。むしろ、山本山とかの巨体力士を見て、笑いを禁じえないのではないか。
 というわけで、永田自身も決して相撲の真面目なファンとはいえない。休日にはよく相撲を見るけれども、なんとなく見ているだけで、面白いと思うことは少ない。面白いと思うにしても、取り組みそのものが面白いというよりは、力士の容姿を見て「面白がる」方が多い。結局、ネタにして笑っているのと一般である。
 どこか滑稽な「お相撲さん」たちを今後も応援していきたい永田であるが、相撲をネタにして笑える仲間を大事にしていきたいと思っている。


3月29日

 継続して日記を書いて、大体10ヶ月目になる。おおよそ赤ん坊ならば受精卵から出生までに要する期間である。最初は右も左も分からずやみくもに書いていた日記も、少しずつ成長し、一人前になってきている……かもしれない。
 今日の行動はというと、プレションのドラクエ4を進めたことと、『悪霊』を読み返したこと、そして相撲を見たことである。以前ならば、これだけ材料が揃っていれば日記を何日分も書けると思ったものだが、如何せん、一つのキー・ワードに対して同じようなことしか書けないので、例えばドラクエ4にしてみても、ルーシア萌えとか、そんな感想しか浮かんでこないのが残念である。
 以前ならば、一つのキー・ワードを思い浮かべると、頭の中で反響し、多くのことが思い浮かんでくる経験をしたものである。頭が冴えていたということだろうか。今は大分鈍ってしまった。
 日記は続けているけれども、決して書くのが上手になったという感じはしていない。ただ、必ずしも本心を書けばいいというものではないということは分かってきた。文を書くと決めた時点で、書きたいこと、書くべきこと、書いてはいけないこと、書きたくないことの区別が生まれる。永田の場合、本心を出すのがもともと得意ではないが、似たような内容の日記を何日分も読んでもらって、本心をなんとなく察してもらうしかないと思っている。
 というわけで、本日の行動について何か書く段になるが、ドストエフスキーの作品の中で最後に買ったのが『悪霊』である。それまでは「氏の作品の中で一番難解らしい」という理由で、遠ざかっていたのだ。確かに難解というか、何回か読んでも意味がよく分からない部分も多い。それでも、ピョートル、スタヴローギンという人物は恐ろしく引き込まれるような魅力を持っている。
 と、このような文を書いてみても、どこか他人事みたいな感じがする。これでも、ドストエフスキーについてあまりうるさく書き立てると、妙に衒うような感じになったり、「本当に理解しているのか」とツッコミを入れられるのを心配しているのだ。そういうことになるよりは、みんなが知っているドラクエ4とか相撲とかの話をする方がいいだろう。
 まあ、ファミコン版のドラクエ4は容量制限のためシナリオが不完全であり、プレションになって完全なものになったと言われている。プレション版をやっていると、セリフに漢字が使われているためもあり、ストーリーがより面白く頭に入ってくる気がする。シナリオ自体も大幅に加筆されている。人間を憎むデスピサロが、進化の秘法を使って狂気の怪物になる展開は鬼気迫るものがある。
 狂気というと、大抵の人はいい顔をしないと思うが、実際自分が狂気にならずとも、狂気がどんなものかを知っておくことは、人間を深く理解するためにぜひ必要なのではないかと最近思っている。例えば『ドン・キホーテ』の狂気などが挙げられるが……詳しい話は他日にゆずる。


3月28日

 漫画のぶった切りについて。
 これは、精神の安寧を得るための手法であり、カネの節約のための手法でもある。
 永田は「こち亀」を117巻まで所有している。ほとんど惰性で買い続けたのであったが、ここまできて心に変化が起こり、「もう買うまい」と思ったのである。
 永田にとって、「こち亀」は既に終わった漫画だ。全70巻といっても差し支えはない。その後に余分なオマケがついているだけである。このように、連載の続いている漫画を自分で「ぶった切る」ことによって、支出を抑えることができ、未練を断ち切ることもできる。
 他の例を挙げると、「それでも町は廻っている」があるが、5巻まで買ってつまらなかったので、5巻だけは売却することに致す。すなわち、永田にとって「それ町」は全4巻ということになる。完結したのでもう買うことはない。
 「まじかるストロベリィ」は面白いのか面白くないのかよく分からない部分があるが、最新8巻は買う気がしなくて買っていない。永田にとってこの作品は全7巻完結ということになる。
 他にも、「みなみけ」とか、新しい巻を売却してぶった切りを行い、完結させてしまった。自分の心次第で作品を終わらせることができるのは、どこか愉快である。
 まあ、本音を言うと、少しでも萌え要素がある漫画ならば買い続けたいのだが、場所や金の制約があってそうもゆかぬ。買いたいけれども買えないというのは心が不健康な状態である。ぶった切りをすれば心が健康になる。金も場所も要らない。むしろ節約になる。
 なんだか消極的な物言いになってしまったが、これは永田が、人気漫画の大事な要素である「続きが気になる」という点に反発しているためである。むろん小説でも、続きが全く気にならないようではダメなはずだが、漫画やラノベの場合はとにかく先へ先へと読者を引っ張り、いたずらに金を使わせている感じがすることがある。それに反発する形でぶった切りという一つの抗議をしようというのが、今日の日記の核心である。面白いオチをつけることができなくて残念だが、「あずまんが大王」のように人気があるのに潔く終わらせるという例を今後も見ていきたい永田である。


3月27日

 永田は日記のネタをたいてい休日に仕入れるが、当然ながらそのネタは使えばなくなっていく。今日は金曜なので、本当にネタの残りカスしか残っていないことに読者はお気づきであろう。脳内を検索しても、面白い文は出てきそうにない。
 そもそも、なぜ毎日日記を書いているのか。他にやることがないとか、いろいろな理由があろう。読むべき本はある程度所有しているけれど、学生時代のように熱中することもない。人生観に影響するような深い感動を与える本にこれから出会うことは難しいだろう。
 何度も言っているのでうんざりされるかもしれないが、永田は読書をして小説家になりたいと思ったのではない。面白い漫画を描けるようになりたかったのだ。手塚治虫はもちろん多くの小説に学んだのだろうと思う。ただ、小説だけ読んでもダメなことははっきりしており、むしろ小説など読まなくても映画を浴びるほど観ることの方が大事だといえよう。永田は(アニメ以外の)映画を、「人物の見分けをするのが厄介だ」という理由でほとんど観ない。まあ、何度も観れば人物の顔などは記憶できるはずだが、そこまでの名作に出会ったことがない。
 アニメはいいものだが、基本的には子供向けである。萌えキャラがいて、理由は不明だがとにかく戦っているとか、そんなのが最近の流行のようである。
 毎日書く日記の話題に戻ると、そもそもウェブ日記は、仮にも日記とつくのだから、毎日書くべきものと思う。そうでなければ週記とか月記とかと呼ぶべきだ。呼び名はともかく、継続して書いていれば、いつかは(一昨日言ったように)一万時間を突破し、日記のプロと呼ばれるようになるかもしれない。まあ、そこまで続けられるかどうかは未定だが、野球の素振りのごとく、続けることに意味があると思う。
 ただ、妄想を垂れ流す日記では進歩発展は望めないのは確かだ。たわいないおしゃべりなら誰でも努力なしにできる。世間には毎日のようにショート・ショート小説を公開するツワモノもいるようだが、そこまでいかなくても、ちょうど素振りによってバッティングの型を作るように、何か枷をはめるような感じで文章を練って書いていけば、いつかはモノになるかもと思っている。いつになるかは分からないが……。


3月26日

 プレション版「弟切草」も、そんなにつまらなくないことが分かってきた。選択肢の文は確かに投げやりだけれど、ストーリーそのものはオリジナルと同じである。突然子供の人形がアップになって崩れていく動画は怖いのでやめてほしいのだが……。
 ところで永田は本棚や押入れの整理を少しずつやっている。要らない漫画本をあぶり出して売りに行くのが目的だ。昔だったら、ちょっとでも萌えなカットがあると即保存としたものだが、今ではストーリーの面白さやギャグの面白さがなければ古本屋直行である。
 ただ、やぶうち優先生の漫画はこれまでほとんど欠かさず買い、しかも一度も売ったことがない(ああ、そういえば愛蔵版「水色時代」だけは1、2巻だけ買って売ったようだが……)。先生の初期の漫画は大して面白くない。しかし絵柄の魅力が大きい。絵柄は今でも魅力的だが、永田が一番好きなのは「新・水色時代」の絵である。
 小説・新書においてもリストラクションの手は容赦なく伸びる。もちろん、学生時代に買った思い出深い本は決して売らないが、新書でどうでもいい本はけっこうある。そういうものは紙が焼けないうちに早々と売った方がよかろう。
 最近は漫画を論じることができるほど深い読み込みをしていないのが残念である。それは結局ストーリーより萌えを重視しているためだ。「デイドリームネイション」1巻においても、少女が急にツインテールにするシーンに何よりも萌えた。ツインテールの深遠な魅力は、紺ハイソと同様、とてもここに書き尽くすことができないものである。
 今こそ新しい「ツインテール教入門」を、という気がしないでもない。永田はこの作品を一度ここにも掲載し、その後全て書き直して原稿用紙100枚程度の中篇に仕上げた。こんな長いウェブ小説は、二次創作でもない限りそうそう読んでもらえるものではない。おひまな方はウェブ・アーカイヴでもあさって探してご覧になるとよい。気が向いたら新たに掲載することもあるだろう。


3月25日

 何事においても、一人前になるためには最低1万時間それに取り組む必要がある、と言われている。今日は永田がどれだけ半端者であるかをここに検証してみよう。
 まずは受験勉強である。一日8時間か、甘く見て10時間だとすると1000日の取り組みが必要だ。まあ、時には12時間やった日もあるので、おおむね達成できたと言うべきであろう。
 次に漫画だ。アナログで描いていたころの平均作業ペースを、おおむねページあたり5時間と見積もると、これまで描いたアナログ原稿枚数は「チサト日和」で133枚、「フックオフ」で91枚、合計224枚である。これに所要時間を掛けると、1100時間ちょっとということになる。まあ、過去にしていた絵の練習とか、CGによる作業時間も含めるとこの倍か3倍ぐらいだが、1万時間には全然足りない。
 見過ごしてはならないのはテレビゲームである。年季が入っているので、1万時間はクリアーしているというべきだ。しかし永田は特にゲームのプロとか、一人前とかいうふうには思っていないし、その実力もない。「くるみミラクル」や「弟切草」といったヌルいゲームに多くの時間を割いている。
 あとは小説か。こちらは受験期によく書いた小論文を含めても、1000時間程度ではないかと思われる。
 というわけで、永田が今後何かで1万時間を達成するためには、仕事をしながら一日3時間取り組んでも最低10年近くかかるということである。休みなしに、酒も飲まずにやらねばならない。はっきり言って絶望的だ。
 この日記は、特に日記のマスターになりたくて書いているわけではない。せいぜい一日1時間を費消するから、1万時間など夢のような話だ。とりあえず一年間続けばそれでいいと考えている。後のことはそれから考える。
 遺憾ながら、永田が一応プロと言えそうなのは、萌え絵の収集・鑑賞ぐらいであろう。毎日コツコツとやっているから1万時間はもう達成しているかもしれない。萌え道については「書庫」にある「師匠と僕」という雑文に書いてあるので、参照されたい永田である。


3月24日

 永田はレトロなものを愛する者である。だから、10年、20年という歳月は何でもない。タイムリーな情報に疎い代わりに、古いものをいつまでもつっつき回している。その趣味も、深く突っ込んで、他人に講釈を垂れられるほどになっていれば立派だが、何に関しても中途半端なのでそれもできない。
 高校時代に熱中したのはファミコン・スーファミである。これも、ソフトをたくさん買えたわけでもなく、知っている数は限られる。友達の家で遊ばせてもらったゲームをいつまでも懐かしがり、バーチャルコンソールでプレーしてみるとそのつまらなさにがっかり、ということはよくある。
 部屋の中を見回し、一番古いものは何か、と考えると、80年代のCDであったり、ファミコンであったり、「ドラえもん」の単行本であったりする。また、古本屋で買った岩波文庫(茶色いパラフィン紙つき)の『未成年』がある。これだけ見ると雑多である。
 書庫が欲しい、と思うことはある。今のままでは、快適な生活のため、室内に置く本棚の数は限られ、そこに入れる本の数も当然限られる。だから「S席」などといって大事に奉る本がある反面、仕方なしに押入れの奥に放り込む本もある。
 暇があれば、持っている本の数をいちいち数えるのも楽しかろう。蔵書リストを作ってみるのもいいものだ。永田の所有する漫画本は、増えたり減ったりを繰り返している。大体300冊強といったところだ。文庫や新書、専門書は基本的に買ったら売らないので、増える一方である。現在で450冊ぐらいか。
 この話に愉快なオチをつけるとしたらどうなるか。永田が今まで一番長く遊んだRPGはFF5だと思われる。だからFF5の小ネタについては自信があったのだが……もうこのゲームからかなり遠ざかっているので、その小ネタも忘れてしまった。ラムウの「およ? イフリート」というセリフを後生大事に覚えていても別に良いことはない。

 ちょっと関係ない話に移るが、都会に住んで良い点はというと、同人誌専門店に足を運びやすいことが挙げられる。同人誌を品定めして買って読むことにより、良い刺激を受けることができる。すなわち、一つの作品にファン(信者)が大勢いることを知ることができる。また、素人といえどもプロと見まがうような美麗な絵を描くこともあり、自分も頑張ろうという気にさせられる。
 しかし現実は、田舎にいて都会にはめったに行けない。よって、たまに同人誌を買いに行ってモチベーションを得ても、すぐそれは胡散霧消してしまうのである。ただ同人誌の通販は、表紙だけ良くて中が落書きという可能性もあり、なかなか踏み出せない永田である。


3月23日

 さてと、今日も今日とてこうしてパソコンに向かってキーを叩いているわけだが……萌え絵を描ける状態にない永田にとって、萌えのファンを喜ばせられる活動というと、萌え文を書く以外にないだろう。
 萌え文とは何であろうか。不遜ながら、名作文学の中に萌えを見出すことがある。それは結局キャラ萌えである。あえて名前は挙げないけれども、ラノベ以外の小説には挿絵がめったにないから、登場する女性キャラクターを好きなように空想でき、萌えられるというわけである。
 自分の作品で例示すると、永田は「ストッチーズ」のSSを二本掲載している。そこでは、既存のキャラクターが、永田の言葉でしゃべっている。永田は自分で考えたセリフを女の子がしゃべってくれることに満足する。
 あるいは「涼宮ハルヒの鬱」も二本ある。永田はハルヒに対して決して冷淡ではない。それは大部分、彼女の黒ハイソのためであるが……それはともかく、こちらでも、ハルヒが永田の考えたセリフをしゃべることに満足する。
 何だ、結局自己満足ではないか、と言われそうだが、まさにその通りである。まあ、永田の絵でも気に入ってくれる人はいるわけだし、文章においても物好きな人はいるかもしれない。しかし、しょせんは版権モノであるから、声優を含むキャラ設定が大事だ。オタク度が高くなってくると、声優の声に萌えるようになり、声優本人に萌えるようになる。ここにおいて、声優とキャラクターとがシームレスにつながり、ついにはキャラクターが声優そのものに見えるようになる。キャラクターを見て即座に○○たん(声優の名)萌え〜、と言うようになる。
 こう考えてみたが、これはダメな例である。知り合いの人の言葉で、「エロ漫画を読んでいる時点ですでにオタク」というのがあったのだが、「文章に萌えている時点でオタク」といえないだろうか。それは脳内で、萌えボイスを出す声優の声を自然に再生しているためである。
 というわけで、話が回りくどくなってしまったが、この日記を読んでいる人の中にダメな人がいるかもしれない。そういう人は普段からラノベを読んだりして萌え文を楽しんでいるから、わざわざ永田が余計なことをする必要はない。また、ダメでない人は、わざわざ萌え文の世界に足を突っ込む必要はない。むしろ、突っ込んではいけないのだ。


3月22日

 『百年の孤独』を読み終えた。
 次は『ユリシーズ』に取り組むことにしたが、眠気がもよおしているのでまた今度にする。
 どういうわけか今さらプレションの「弟切草 蘇生編」をやっている。欠点はあるが、音楽はオリジナルに忠実で良い。怖さの点ではスーファミ版の方がずっと怖い。
 永田のバイオリズムは一定しており、読書活動がひと段落したら次は文章を書く作業に入るのでは、と思う。ただ何を書くかが問題である。アニメ等の二次創作にしても、万人向けのものにしても、そもそもサイトで一方的に発信するものにどれだけ読者がつくのかという問題がある。まあ、そうはいっても投稿サイトに出すのはいろいろ面倒だったりするので、ただサイトに掲載するだけの方がずっとラクなのは確かだ。
 どんなテーマで書くのか。永田の読書は、本当に本が好きな人の読書といえるのかどうか疑問である。というのは、世間での評価が固まった名作に手を伸ばすことがほとんどだからである。例外として、本当に好きな作家の場合には全作品読破を目指しているが。
 そういう読書の仕方では、「読書から創作へ」の流れを作り出すことは恐らく難しい。いくら名作を読んでいても、どうせ散漫な読書であり、テーマ性も何もないのである。感動はそれなりに得られるが、関連性に乏しい。だから、オリジナルな作品を書こうとすると、身の回りのしょうもないことばかり書くことになってしまう。(しょうもないことを立派に読ませる力も今の永田にはない)
 永田は読書の方針を変えようとは思わない。やはり、読みたいものを読みたいときに読むのが趣味として正しい。作家が仕事のために読む読書とは根本的に違うと考えた方がいい。
 練習として何かまとまった文を書いてみるのは悪いことではない。だが、「ストッチーズ」のことはおおかた忘れてしまった。「どらトラ?」(覚え違い)はどうでもいい。今さら「ハルヒ」というのも……。しかし書庫に載せている文章はそれなりに真剣に書いたものなので、できれば一度参照していただきたい永田である。


3月21日

 永田はガライの墓を難なく攻略した。
 本日の読書は、倉橋由美子の『聖少女』と、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』である。倉橋氏については、今月の「文學界」で特集が組まれていたので、とりあえず書店で目に付いた本を買ったものである。まさに早熟の天才という感じだ。
 永田は『百年の孤独』を図書館で借りて一度読んだことがある。その時は、「登場人物の名前がかぶりすぎて意味不明」という結論を下しただけであった。今回読み始めると、(ちょうど「怒りの葡萄」を読んだ直後であるためか)聖書に載っているような話や神話の影響を感じ、面白く読み進められそうである。なるほど、確かにこの作品なら20世紀の小説ベストに選ばれても不思議はなかろう。20世紀の意味不明な名作としては『ユリシーズ』が挙げられるが、こちらも文庫版を揃えて読み直してみようと思う。
 あと読みたいのは角川文庫版のカフカ『城』である。訳者は誰か知らないが、前田敬作訳との違いが見つかれば楽しめるかもしれない。池内訳についてはノーコメントとする。
 ところで永田はここのところ毎年3月に、T・マンの『魔の山』を読み返すのが通例となっていた。しかし今年は無理に読む必要はなかろうと思う。何度も読み返すぐらいだから、永田の好きな小説ベスト10に入っているのは当然である。
 小説を評価するにあたり、かつて漫画をたくさん評価していたことが思い起こされる。主観的な良さと客観的な良さとがある。前者は「どうしても好きなので外せない」作品であり、後者は「みんなが評価する名作」ということである。永田がベスト10を決める場合、後者の作品が多く入ってくることは確かである。それは読み手として誇りに思っても良いことである。前者の作品がいくつか入るだろうか……と思うと、埴谷雄高の『死霊』が該当しそうである。時間がないのでどうしても名作から手をつけざるを得ないのはやむを得ない。
 先日、とあるラノベを買った。隠すこともないので打ち明けると、中村九郎の「曲矢さんのエア彼氏」という本である。実は永田は九郎スレを定期観測しているマニアであるが、氏の作品はちゃんと読み通せたことがない。「曲矢」についても、冒頭から非常に遺憾な文言が並んでおり、読み通す自信はない。狂気の扉が、音をたてて開いてゆく……


3月20日

 永田は「デイドリームネイション」の2巻を買うことができて歓喜している。
 永田は漫研漫画というものを描いたことがなく、また漫画を描くサークルに参加したこともないのだが、漫研漫画を描くのは楽しいだろうなと思う。なぜ楽しいかというと、漫画を描けない、ただ読むだけの人々に対し、自分の体験を(説教混じりで)語ることができるからであろう。漫画を描けるという特権を享受しているわけである。
 これとは少々違って、日記風漫画というものもある。これがウケるためには、作者が自分の日常を面白く戯画化しなくてはならん。つまり自分を一段落とすことになる。これを普通にできる人は、楽しい人だと思ってもらえるだろう。同人作家の資質として重要なものといえる。むろんウェブ日記を書く際も全く同じである。
 永田も、漫研漫画は描くことができるだろうと思う。そういう漫画を描くのは、失われし青春時代を後から記憶をたどりながら勝手に装飾できる点で、楽しい。勉強を頑張りつつ漫画も頑張るという、完璧超人のような人間も描写可能である。カワイイ女の子に漫画を描かせることも可能で、現実にはなかなかないことを疑似体験させられる。漫画の中にさらに漫画を登場させるメタ・フィクション的な手法もありうる。
 あまり深い意味はないが、永田は「漫画を描ける人」「描けない人」が世の中にいるのではなく、むしろ「漫画を描きたい人」「描きたくない人」がいるのではないかと思う。描きたくない人は、ただ読むだけか、あるいは全く読まないであろう。そして、漫画を描きたい人は、描くこともあり、描かないこともある。これは別に永田が現在漫画を描いていないことの言い訳にするつもりはないが、能力の問題というよりは意欲の問題ではないかと思っている。
 永田が先日喋々した、新しい漫画のアイデアも、冷静に考えれば面白くないものである。ただ、そこを敢えて描こうとするのが、漫画好きの「業」というべきものか。日記風漫画を除けば、漫画には作者の日常はほとんど関係ないはずだが、どうしても無関係ではいられないのだろう。永田の平坦な日常からは突飛なアイデアがなかなか出てこない。フランツ・カフカ的な迷宮的世界を描いてウケることも漫画では難しい。ここはひとつ「デイドリームネイション」を何度も読み返し、kashmir先生の娯楽世界を学ぶことに致そう。


3月19日

 まだ「アマガミ」を買っていない。ゲーム内容を勝手に妄想するといういつもの永田の癖も出てこないようなので、本日は「アマガミ」の話題は致さないことにする。
 最近酒を断っていたので、少量の酒でもコロッと眠ってしまうのが残念である。だが、起きていても読書以外大したことはできそうもないので、まあ下手の考え休むに似たりというやつである。妄想する時間を少なくし、休養に充てるのがよいだろう。
 酒をあまり飲みたくない時は、まあ飲まないのが一番いいのだが、日本酒を燗で少しずつ飲むようにすれば、胃の負担もおそらく少なく、また、さわやかな酔いを得ることができるだろう。焼酎は少々刺激が強いようだ。
 永田は大抵の酒なら飲める。ジン・ウォッカは大して好きでなく、ジュースで割れば飲める。ウイスキーについても大分うるさくなってきた。ロックのグラスを傾けることはしないが、ソーダ割りか水割りで、スコッチもバーボンも好きである。むろん、手ごろな値段のものに限られるが、「ジョニ黒」はかなり飲みやすかった。「ワイルドターキー8年物」もいい。「リザーヴ」はちょっと甘すぎた。「山崎」はまだ飲んだことがない。
 カクテルも好きだが、惜しいことに自宅でカクテルを作れる材料が揃っていることはまずない。そこまでするならバーに行った方が早い。ビールとトマトジュースを混ぜる「レッド・アイ」は大して美味いとも思えない。某大臣がガブ飲みしたというジン・トニックは一応好きだが、むろん安いジンでは不味い。
 永田は酒に関しては「美味いものを少し飲む」というパターンが定着している。オッサン的な発想といえよう。
 そういえば焼酎の話をしていなかったが、「富乃宝山」ぐらいの適度にプレミアがついた焼酎が好きである。これ以上高いものを買っても大半が小売店の儲けとなってしまい、面白くない。他に手ごろで美味しい焼酎は……今はちょっと思いつかない。さっきも言ったように永田は少し酒を断っていたので、酒の美味さを忘れている。
 カロリー・オフは大事である。当分の間はビールは避けて、糖質ゼロの「スタイル・フリー」を飲むことにしている永田である。


3月18日

 まだ「アマガミ」を買うかどうか決めていない。どっちでもいいが……。
 ギャルゲーは正式名を恋愛シミュレーションといい、男のプレイヤーが恋愛を疑似体験するものだ。わざわざこんな当たり前のことを言うのは、吾人は本当に昨今のギャルゲーで恋愛を疑似体験しているのか? と疑問がわいたからである。
 プレイヤーができることは非常に限られており、行く場所を選ぶとか、会話テーマを選ぶとか、選択肢を選ぶとか、その程度であろう。かといって、あまり現実に近づけたギャルゲーにしても、無駄に煩雑なゲームになってしまうだろう。現実と同じスピードでゲーム内の時間が過ぎ、現実と同じように毎日無数の選択肢が待ち受けている。ここまでくると当然うんざりだ。
 そこで、現実を単純化してシミュレーションゲームができる。「キミキス」でいえば、お目当ての女の子が出現する場所へ足しげく通い、気に入る話題を持ち出して好感度を上げていく。やるべきことは少ない。得られる結果も、女の子の美麗なCGが出て終わり、というのがせいぜいである。
 ところが、いわゆる萌え系の絵が生まれたこと、萌えボイスを出せる声優が登場したことで、状況は一変した。恋愛ゲームでなく萌えゲームになってしまった。女の子に「○○たん萌え〜」と言ってみたり、声優にたんを付けてみたり、わけがわからない。こうして、オタクにとっては誠に心地よい、都合のいいゲームが生まれたのだった……
 ついでだから「アマガミ」の今後の展開について予想してみようか。アニメになったり漫画になったりということはあるのか。漫画はあると思うがアニメは難しいのではと思う。まあ、何でこれが、と思われるような作品がアニメになったりするので、「アマガミ」も可能性はあるだろう。
 なんだか当たり前のことしか言えなくて残念である。ゲームもいいものだが、やはり紙に刷られた漫画の方が、萌えアイテムとしては重要だと思っている。kashmir先生は漫画のペン入れをアナログでしているのか、それともデジタルか? と推測してみる永田である。


3月17日

 昨日はファミコンをやってなんだか疲れてしまった。久々に熱心にゲームをやったためであろうか。それともチラツキの多い画面を見続けたためであろうか。とにかく疲れたので今日はドラクエ1は休みに致そう。
 しかしプレションの「弟切草 蘇生編」もなんだかムカつく点がある。選択肢の文章が全く面白くない。スーファミ版との差は一目瞭然である。あと奈美の視点から見るザッピング機能も、「街」のシステムを単に流用しただけと思われ、中身的には大したものではない。
 いつもの永田なら、レトロゲーの話題なのだから熱く語れるのかもしれないが、ドラクエ1で疲れたのでそうもいかない。ここはひとつ、最新の話題に目を向けてみようか。すなわち明後日に発売されるPS2の「アマガミ」のことである。
 通販の予約をいずれやろうやろうと思っているうちに発売日が近づいてしまった。まあ、買うか買わないかまだ決めていないというのが本当のところだ。なぜ気にしていたかというと「キミキス」がまあまあ良い出来だったからである。しかしギャルゲーをやり込みした経験はほとんどない。どんなに萌えな絵柄のゲームであっても、ゲーム自体が面倒なせいでやりたくないというパターンはよくあるものだ。
 永田がギャルゲーにハマっても、日記に「○○たん萌え〜」などと書かないことは、なじみの読者ならお分かりであろう。ウェブ日記に思いを吐き出すという行為はなかなかできないものだ。毎日書いていくためには、真情を吐露するという方式では絶対に続けていけない。やはりどこか日和見的な態度で世相を見るとか、あるいは自分自身を客観的に見て批評を加えるとか、そんなやり方がいいようだ。永田は『吾輩は猫である』の大ファンであるが、それは漱石が猫の目を借りて自分や周囲の人々を戯画化しているのが面白いからである。いずれそのような面白い日記文を書ければいいと思うが……先は長い。
「アマガミ」の絵は、「キミキス」と雰囲気は違うが、少しだけの差である。公式サイトでじっと見つめてくるヒロイン(詞)のことはあまり好きになれなかった。ゲームは高い買い物なので、よく検討吟味のうえで購求するものとしたい。


3月16日

 「怒りの葡萄」を読了したり、ドラクエについては妥協してプレション版のドラクエ4をやり、また同じプレション版の「街」を少しやっていた。「街」はゲームとしては斬新だったがストーリーはそれほど面白くないものがある。
 しかし結局、ファミコンも押入れから出して、ドラクエ1をやることにした。中々面白い。
 それと、さすがに「弟切草」のスーファミ版も飽きてきたので、以前売り払ってしまったプレション版の「弟切草 蘇生編」を再び中古で買ってきて遊ぶことにした。こちらは変なオヤジギャグや時代錯誤なセリフ回しで不評だったと思われるので、なんでまた買ってしまったのかと不思議に思うが、まあ安かったので良しとしよう。余計なムービーはスタートボタンで飛ばせるのがいい。
 永田は最近(6、7巻)の「ハトよめ」を面白いと思うが、古いのも読んでみようと思って全巻を押入れから引っ張り出した。しかしはっきり言って面白くなかった。今後はギャグセンスも磨かれていっそう面白くなる予感はするので期待したい。
 さてこれだけでは事実を列挙しただけなのであまり面白くないと思われるかもしれない。例によって駄弁を振るおうかとも思うが、漫画「それでも町は廻っている」の5巻がなんとも残念な出来だったので、今後読み続けるかどうか迷っているところだ。萌え系の絵柄とは少々違い、かつメイド服というので萌えていたが、最近はメイド服があまり出ない。探偵趣味を続けていくのだろうか。そっちには全く興味がないのだが……。
 探偵といえば、「メグとセロン4」は殺人事件がどうとかいう探偵モノっぽい話のようだ。例によって買ったけれども本文は読んでいない。帯で「ハラハラドタバタ」とか書かれていると読む気をなくしてしまう。ハラという字を見るとすぐハラスメントを思い浮かべる永田であった。


3月13日

 永田はやっぱりファミコンのドラクエ2もやりたい。ファミコンネタになるとつい調子にのってギャグも飛ばしてしまう。
 ドラクエ2で楽しいプレーの妨げとなっているのは、ロンダルキア以降の敵の強力さである。突如画面がオレンジに染まるザラキ、メガンテといった即死呪文である。
 低レベル、タイムアタックといったやり込みをする人々もいる。そういう人々の心理はあまりよく分からないが、やはりリビドーがドラクエに固着しているということか。何でもかんでもリビドーの固着で説明できそうだ。また、自己実現という意味合いもあるだろう。レトロゲーへの愛着もあるだろう。
 リビドーとは何か、を説明すると泥沼にはまりそうなので、ここではリビドーを永田の感じるままに使わせてもらうが、要するに永田などの場合、レトロゲーに対して心のエネルギーがまっすぐに向かっている。妨げる何物もない。
 思えば、リビドーの流れを妨げられることの方がずっと多い。仕事においても然り。読書においても然り。読書は楽しいものではあるけれど、読み始めてから巡航速度に入るまでに多少の苦痛を伴うものだ。
 レトロゲーでは、まず電子サウンドに心を癒される。ゲームを始める。16色で描かれた鮮やかなキャラクターたち。5人並ぶと点滅する。
 美少女漫画、エロ漫画にまだ縁のない小学生にとっては、ゲーム攻略本に描かれたイラストを見て萌えたりすることがあり、それが萌えの原体験であることもある。オタク遺伝子を持っている者は必ずそこでハマってしまう。なんとも罪作りなものだ。
 永田には当てはまらないが、そうした原体験をいまだに引きずり、ドラクエのエロ同人(僧侶とか賢者とか)にハマっている者もいるのだろう。攻略本に載っている1点や2点の公式イラストから妄想をふくらませるオタクには感嘆させられる。かく申す永田も、僧侶の絵は何度も練習したものだ。もちろん顔はオリジナルをあまり真似ず、自分でこれはカワイイと思える絵柄にしていた。しかし誰にも見せることはなかった。当時はまだ「オタクと思われるのが嫌」という発想はなかったが、なんとなく察知していたのだろう。絵の女の子に愛情を寄せるまではいかなかった。
 ドラクエ3や4は既に電池切れでセーヴデータが消えているだろうと思うと、一抹の寂しさを感じる永田である。


3月12日

 「弟切草」の選択肢は1234個になった。前回報告した時より1つしか増えていない。1292個への道は遠い。
 永田は最近、ファミコンのドラクエ1をやりたくて仕方がない。しかしできないのは、
 ・ファミコンを押入れの奥から出すのが面倒くさい
 ・いちいち復活の呪文を書き留めるのが面倒くさい
 ・会心の一撃がミスる
 というのが主な理由だ。他にも、ファミコンはわずかな衝撃でフリーズしてしまうとかの欠点がある。Wiiのバーチャルコンソールで遊べればこれらの点はあっさり解消するわけである。(会心の一撃は関係ない)
 まあ、できないものを云々しても仕方がない。ここはひとつ永田の得意な妄想力を使って脳内プレーしてみることにするか?
 ドラクエ1の勇者は、勇者ロトの子孫だという。永田は先日『ドン・キホーテ』を一部読み返したのだが、かつての騎士道物語に登場する遍歴の騎士というものが、この勇者の原型であろう。この勇者は風車ほどもある巨人を真っ二つにするほどの武勇を誇る。そして、心に想い姫を持っている。勇者は恋をしているというのが普通だからだ。
 恋の話になったので他のドラクエシリーズについても考えてみるが、ドラクエ2は王子二人に王女一人である。彼らの中には恋に類するエピソードはない。3においても然り。4では、男勇者の場合のみ幼なじみのシンシアとのロマンスがある。5は結婚。
 当たり前といえば当たり前だが、男は恋をしていると、その力で普段出せぬようなパワーを出せたりするものだ。逆に言うと、恋をしていなければそういったことは難しい。
 余計なことだが、永田はささだあすか氏の漫画「恋について語ってみようか」などにハマった記憶がある。氏の作品はタイトルにあまりセンスが感じられないのが特徴である。氏は今どこでどうしているのだろうか……。


3月11日

 永田は以前あれほど熱中していたpixivでの活動をしていない。トップページの新着イラストのサムネイルは見ても、特にクリックしてみることもない。
 興味の波、バイオリズムといったものがあるのかもしれない。昨年8月ごろは小説書きに忙しかった。小説によって自己実現したいと考えていたからである。そして急にスイッチが切り替わって漫画になった。漫画によって自己実現したいと考えていたのだろう。
 永田の日記が「〜〜をしていない」で始まることが多いのは、いつも何かしなくてはならないと考えているためか。なんだか強迫的なもののようにも思える。子供がよく持つような全能感をいまだに引きずっているのか? 
 まあ、漫画も文章も絵も、と何でもやるようになったら、逆にちょっと危ないかなという気がする。そこまでくると病的に思えるし、それに身体も続かないだろう。興味がうまく交代してくれるから、無理なく活動ができるというものだ。
 バイオリズムはあるけれども、ここ一年間永田が毎日やったことといえば、Wiiのバーチャルコンソールで遊ぶことと、ネットで萌え絵を採集することであった。これを鑑みると、永田が飽きずに継続できる仕事は萌え絵の採集しかないということになりそうだが……そんなことでは世間で通らない。「萌え絵畑でつかまえて」とかいって、次々とNot Foundになっていこうとする萌え絵をつかまえて、パソコンに保存する……そんな仕事を夢見ている。まあ、これは冗談だ。
 自分を殺して世間に合わせるか、世間を無視して自分の道を行くか。すでに多くの先人が考えてきた問題である。少なくとも永田はイラストの道で食っていける見込みはない。かといって文章の世界に没頭してもカネにならない。まあ、たまに文を書いても、SSとか、あるいは「ツインテール教入門」みたいなやっぱりオタクな文になってしまうだろう。オタク世界にリビドーが固着しているといえないだろうか。いつも漫画アニメのことばかり考えているわけではないけれど、結局はその周辺を行ったり来たりしている。
 永田は自分の心の動きにかなり注意を払うから、ごく普通の人にもあるバイオリズムみたようなものを、こうやって重く考えているのかもしれない。漫画家・アニメーターだって絵を描きたくない時はやはりあるはずだ。永田のように本当に自分の心から出てくるものしか扱わない者は、心が自由である。自由であるから不安も起こる。不安とは対象を持たない、漠然としたものだ。「己の前に道はない、己の後ろに道はできる」という言葉を言った人も、やはりこんな漠然たる不安を持っていたのだろうか。


3月10日

 そういえば今日は「メグとセロン4」の公式的な発売日である。田舎なのでまだ入荷していないかもしれず、また帰りに寄るのが面倒ということもあってまだ書店には行っていない。
 先日「ストッチーズ」ノベル2巻が発売されているのを見たが、熱が冷めたというか、そもそも最初から熱はなかったみたいで、どうでもよくて結局買わずじまいである。ノベルにはパンツだのスク水だのの描写はほぼ皆無であろう。先日、永田は「ストッチーズ」について2本のSSを掲載したが、これはルッキーニ萌えが引き起こしたことである。他のキャラは大体どうでもよかった。
 ところで、永田は「メグとセロン」のメグに非常に萌えているのだが、このことから永田の性向を知ることができよう。とはいっても、肝心?のノベル部分は読んでいないので、ただ絵的に萌えているということだ。その絵というのは、口絵部分の紺ハイソ制服であったり、あるいはオリジナルなデザインのジャージだったりする。
 最近は真面目ぶって名作小説を読んでいるので、萌えうんぬんの世界からは少々外れていた。永田は実際どんな人間なのだろうか? 萌えの世界を主とするのか、それとも深遠な読書界に身をうずめるべきなのか。少々考えが両極端に偏っている気がする。
 永田は『ライ麦畑でつかまえて』を再読した。学生時代につけた紙カバーがよれよれになっており、もう5、6回は読んだと思われる。永田はこの作品に萌えがどうこうという観点を持ち出すことはとてもできない(妹キャラは出てくるけれど)。ただただホールデンに共感させられるのみである。
 あまり名前を出したくはないが、佐藤友哉という作家はサリンジャーなどに心酔していて、かつオタクの世界にも通じていて、恐らくは『ライ麦』のフィービー(妹)にも萌えているのだと思う。佐藤氏の「フリッカー式」の文庫を以前買って読んだが、オタクネタがあってサリンジャーのオマージュもあるという感じだった。しかし突き刺しジャックがどうこうというくだりには全然興味を持てず、この作品自体も評価していない。
 何を言いたいかというと、名作文学と萌えとは切り離すべきだということだ。まあ、永田の心は振り子のように揺れているので、名作を忘れて再び萌えの方に没頭することもあろう。しかし両者は截然と区別されるべきものである。名作文学を読むと心が高尚な気分になることがあるが、その気分は大事にしたい。再び萌えとナンセンスの世界に没入できるのはいつになるだろうか?


3月9日

 というわけで、本日は平日だが工夫をして本を少し読むことにする。
 前回書いたように、永田は読む本を選ぶのに脈絡のない選び方をする者だ。これはあながち永田に限ったことではないかもしれないが、多読する知り合いが身近にいないのでちょっと分からない。いわゆるブッキッシュな人々の仲間に永田は入れない。彼らは多読・濫読・精読を全てこなす人々だと思っている。しかも、お話が大好きときている。永田はお話が好きなのだろうか。答えを無理にひねり出せばイエスとなるのだろう。まあ、ブッキッシュな人々は、子供がお話を喜ぶような喜び方をしておらず、もっと冷静に分析的にオタク的に本を読んでいるものと思われるから、永田も案外そのお仲間なのかもしれない。
 賢い読書の仕方について、新書が何冊も出ている。永田はそういう本は、効率良く、とどのつまり速読するために書かれたものだと思うので、いちいち書店で見ても中をチェックすることがない。永田も速読術の本は一冊持っており、目の速い動きを訓練してみたこともあるが、結局「これは違う」と思ってやめてしまった。速読できない人間が、単に速読できる人間をうらやんでいるだけなのかもしれない。時間は何にも増して大切にしたい永田である。しかし効率優先のあまり、名作文学と実用書をごちゃまぜにして読むようなやり方はしたくない。
 何を言いたいのかよく分からなくなってきたが、要するに、「時間の守銭奴」たる永田であっても、毎日毎日ヒマだったらあまり本を読まなくなるだろうと思う。それほど永田はブッキッシュではなく、漫画を読んだりゲームをしたりして過ごす怠け者になるだろう。やはり、適度に自由時間があり、それをやりくりしてなるべく多くの読書経験を積んでいければ、現実的にベストな解決といえよう。まあ、漫画家とかは自由時間もへったくれもなく、好きな漫画をいつまでも?描いていられるので、大変だが幸せだともいえる。永田はあくまでも読書をただの趣味としているので、趣味は趣味らしくして、日常生活を侵さないように致したい。


3月7日

 本は10冊同時に読め、とかいう話を前も持ち出した気がするが、長編小説を読む場合は一冊に集中して読み切った方が結果的に実のある読書になるのではないだろうか。
 休日になると、時間を有効に使いたくて、なるべく量をこなしたいと考えがちだ。しかしそこはぐっと我慢して、内容の濃い読書をするよう心がけたい。
 これは面白い、名作だ、と思える古典作品は多くあるが、何度も繰り返して読む作品はとても少ない。ドストエフスキーやカフカ、漱石が中心だ。(以前は自分だけの蔵書リストを作り、読んだ回数まで記録していたものだが、面倒になってやめてしまった)
 せっかく読書の方のスイッチが入っているところであるから、未読の名作とともに、ぜひ繰り返して味わいたい作品も取り上げておきたい。最近は「悼む人」を少しずつ読んで、それに関連する記事を書いていたから、引き続いて読書日記みたようなものを書いていけばネタ切れにならなくて済むだろう。
 永田は、昨日取り上げた作品群にはまだ手をつけていない。これを読むぞ、と昨日心に決めていた本に手が伸びないのは、単なる天邪鬼か。結局、本棚を見渡して取り上げた本はスタインベックの『怒りの葡萄』であった。上巻第七章まで読んだが、名作っぽい予感はしている。あとは並行して別の本を読むかどうか考えたい。休日に目一杯読書をするよりも、平日にも少しずつ時間を見つけて読んでいく工夫をしたいものである。


3月6日

 「悼む人」を読了した。
 一言でいうと「微妙」であった。主人公のことも永田の記憶に長く残ることはあるまい。残念である。
 小説が面白くない場合、小説が悪いのか、あるいは自分が悪いのか、という問題が出てくる。読書家を以って自ら任じてきた永田は、自分が悪いと思ったことはあまりない。やはり小説がダメなのだと思ってしまう。なぜダメなのか考えてみよう。
 「悼む人」の主人公は、全国各地を巡って死者を悼む男である。彼が自分の「悼み」についてあまり語らず、行者か巡礼のような人だとしたら、共感まではできなくても、どこか畏れの気持ちを抱くことができよう。しかし彼はけっこう饒舌で、死者を悼む時のルールについてまで細々と人に説明している。
 もしこの作品の主人公が、アリョーシャやムイシュキン公爵だったらどうか、と思わずにいられない。やはり「悼む人」の主人公のような人間は、もう少し謎めいた存在であってほしいと思った。本作品は(直木賞受賞ということも当然考慮に入れて)第一に分かりやすさに主眼を置いているようだ。週刊誌記者、末期がん患者、DV被害者を分け隔てなくリアルに描いているのは好感が持てたが、それだけならただの説明文になってしまう。言葉が達者なのはいいが、あまり説明を過剰にするのも良し悪しだといえる。
 残念ながら、永田はこの作品には満足できなかった。フックオフに売られてゆくこの本の行く末はどうでもいいが、両手を広げてから胸の前で重ねる主人公の独特のポーズだけはしばらく覚えていようと思う。

 さて、まだまだ余力があるので、次の本に取り掛かることに致そう。実は漫画に熱中していた間にも本は少しずつ買っていて「積ん読」になっているのだ。「悪童日記」「存在の耐えられない軽さ」「エデンの東」等々、全部外国文学ではあるが、名作が揃っている。片っ端から読んでいちいち感想を書くことはしないと思うが、おそらく読んで後悔する作品たちではないであろう。というわけでまた一歩現代日本文学から足を遠ざける永田であった。


3月5日

 もう少し読み進めた。
 やはり書きたいことがない。第七章までを読み終えて、この作品の方向性が少し見えてきたようである。しかし大感動の結末はちょっと期待できないような気がしてきた。永田はよほど気に入った本でないと繰り返し読むことがないが、この本も一度読んでそれで終わりのような気がする……
 まあ、こうして夜に起きて、毎日少しずつでも活字を読めたのは良い傾向である。これをきっかけにして今後も少しずつ未読の小説に手を伸ばしてはどうだろうか。ただ、古典的な名作は少々退屈な面もあるから、読んでいて眠くなって寝てしまうことが考えられる。かといって、アグレッシヴでエキサイティングな現代小説ばかり読みたいというわけでもなく……。
 そういえば、永田はライトノベルがどうこうといって騒いでいた時期があった。永田はライトノベルが書けたらいいなと思う反面、決して進んで他人のノベルを読もうとはしない半端者である。「メグとセロン」だけはイラスト目当てに買い続けるだろうが、中身を読んでもすぐ放り出すと思われる。とかくに日本の小説界は難しい。
 永田は一応漫画を描けるから、漫画をそのまま活字に起こしたようなライトノベルはわざわざ書けなくてもいいや、と今は思っている。先般は漫画を描けなかったので、その代理としてやむを得ずノベルにしてみた。少年少女にウケるのは実際難しく、またそんな技量もないので、今までは自分の書きたいように、自分が楽しめるように文章を書いてきた。これが結果としてどこに分類されるかは分からないが、そんなのはどうでもいいことだ。繰り返すが、今は漫画を描けるはずであるので、文章を書けなくても別段困らない。しばらくは、先日から続けている漫画の構想制作を続けることに致そう。


3月4日

 また少し読み進めた。
 あまり書きたいことがなく、読んで何か考えさせられたということも今のところない。たまにその気になって、ベストセラーの本を買ってしまうとそういう残念なことになるのかもしれない。
 考えてみれば、読んで残念な気持ちになった小説は今まであまりなかった。というのは、文庫本になって何十年も経つような名作ばかりを選んできたからだろう。やはり年月を経てきた作品というものは強いものだ。この「悼む人」も、文庫にはなるだろうが、十年後にはすっかり忘れ去られている作品かもしれない……
 J・L・ボルヘスの短編に「バベルの図書館」というのがある。これ自体はごく短いのだが、いろいろとイメージをふくらませてくれる短編で、これにインスパイアされた小説も出ている。この図書館にはありとあらゆる本が揃っているそうだ。だとすると、文庫落ちすらしていないような、ほとんど誰にも読まれずに終わった本も収録されていることだろう。永田もまた、「悼む人」を読み、両手を太極拳のように動かしながら(ゲーム「センチメンタルグラフィティ」のオープニングムービーを想起していただきたい)、こうした「死んだ本」を悼む仕草をやってみたら面白かろうと思う。
 ただ、死んだ人やそれにまつわることどもは永田の心を多少動かすが、駄作というべき本たちにそういう気持を抱けるかというと、答えはノーである。駄作はとことん駄作であって、誰にも悼まれない。永田もまた、そのような文章を量産してきたのだが、当然活字にすらならず、データのまま消えていくものばかりだろう。同人作者にとっては、文章や漫画で、形のある本を作ることがとても重要だ。これは金ばかりの問題ではなく、やる気の問題である。まあ、もし気が向いたなら、近所の印刷所へでも行って交渉してみることに致そう。


3月3日

 「悼む人」を少しだけ読み進めた。
 眠る直前まで本を読んでいたら、おかしな夢を見てしまうのはよくあることだ。文章を読むよりは、むしろ書いていたり、あるいは漫画のネームをやっていたりするといっそうヘンな夢になってしまう。
 それにしても「悼む人」はなんだか訳の分からない話だ。幸い、他の人が書いた感想文などを読んだことがないので結末は全く知らない。そこで例の妄想力によって結末を今から想像してみようと思うが……。昨日、この「悼む人」はアリョーシャを連想させると書いたが、むしろムイシュキン公爵ではないかとも思われてくる。両者がなんとなく重なり合っている。
 まだうまく感想が出てこず、読み終えたとしてもちゃんと感想を書けるか分からないが、今のところ言えるのは、この「悼む人」を主軸として、そこに何人かの人間が関わり、何かしらの影響を受けていくのだろうということだ。とは言っても、まだ第三章を終わったところで、主要人物の自己紹介が終わっただけという感じである。
 自己紹介といえば……この作品が純文学と違う印象を与えるのは、やはりこの自己紹介があるためであろう。まず最初に「こういう人間です」という説明をし、そこから与える印象(ややステレオタイプだ)を裏付けるように描写が進む。そこらへんを純文学と比較して、物足りなさを感じてしまった。
 考えてみれば、芥川賞受賞作は何篇か読んだが、直木賞作品は全くと言っていいほど読んだことがなかったのである(重松清の「ビタミンF」は途中でやめてしまった)。永田は直木賞作品に何も期待してこなかったのだが、今回たまたま「悼む人」との出会いがあり、高い金を出して本を購求したのであるから、せめて一度だけでも読破しようと思っている。映画化などのメディアミックスの材料にはなりそうだが(「悼み」のポーズとか)、思わず手を拍つような名作という予感はない。まあ、後は黙って読んでみることに致そう。


3月2日

 まだ読書の方のスイッチが入ったかどうか分からないが、せっかく買った「悼む人」を一度は読んでみようとしている。
 天童氏の作風はドストエフスキー的だという評を読んだことがある。永田はむろんそういう作品なら読んでみたいと思う。しかし何をもってドストエフスキー的と言っているのかはこれから分かってくるだろう。主人公?の「悼む人」はアリョーシャをすぐ連想させる。
 永田は人の生き死にを題材として面白がらせる推理小説を好んでいない。現代で言うならミステリを好んでいない。それは食わず嫌いの面もあるだろう。出版社としてはとにかく本を売りたいから、ミステリ部門に力を入れるのは当然だ。そういう戦略に乗せられまいという気持ちもある。人の生き死にを題材とすれば読者はとにかくついてくるだろう、という安易な考えが透けて見える。
 いや、しかしこれは永田が勝手に考えているだけで、実際のミステリ界がどうなっているのかはよく分からない。大勢の手練作家でにぎわっているジャンルであるから、その中で特にすぐれたものだけでも選んで読めば、何か得るものがあるかもしれない。ただその選定は困難を極める。「このミステリがすごい」とかいうのは当てにならないから、自分で見出さなくてはならない。膨大な時間を要する。
 海外の文学には基本的に日本のように「純文学」「大衆文学」「ライトノベル」といった違いはないと聞いている。まあ、単なる娯楽小説も多いと思うが、古典的な名作においては純文学と大衆文学が同じ作品に同居している。楽しませつつ、深遠なテーマを語っているという感じか。日本でそういう作品を探すのはなかなか難しい。
 永田は学生時代、半ば無理やりに古典文学を頭に詰め込んだ。決してお話が純粋に好きとか、そういうのではなかったのである。お話が死ぬほど好きで、自分でもすぐれたお話を書ける作家を、心底うらやましいと思うものである。


3月1日

 先日、NHKのニュースで、最近の文庫本は活字が大きくなり、ほとんど単行本の活字と同じくらいの大きさになっていると聞いた。なるほど確かにそうかもしれない。ページあたりの行数が少なくなり(15〜16行ぐらいか)、その分字を大きくしている。
 永田が文庫本に親しんでいた頃は、小さい活字が当たり前であった。すなわちページあたり18〜19行である。このぐらいになると、ちょっと老眼が入ると読みづらいであろう。永田はむろんまだ老眼ではなく、老眼がどのような状態かよく分からないが、遠くも近くも見えなくなるととても不便そうだ……
 ところで永田は今日、久々に活字に親しんだのであった。といっても漱石の『こゝろ』を読んだだけである。読書のスピードなどは自慢しても仕方ないものだが、一日で二百六十ページあまりを読み終えられたのは、まだ活字力が衰えていないということか。前回の日記で小説うんぬんと言っているが、これは永田が再び読書の世界に戻る予兆かもしれない。本当にささいなきっかけでスイッチが切り替わるものだと、自分でも不思議である。まあ、古い名作小説を全部読み返すには時間が足りなそうなので、せめて「決壊」と「悼む人」だけでも読んでみたいものだと思っている。
 小説から受ける印象は、読む時の年齢や気分によって変わってくる。ただ『こゝろ』にあっては、いつも読むときは一日で一気に読んでしまうので、何となく分かった、という感じであり、深く理解できたかどうかは分からない。永田は漱石といえば『猫』か『明暗』だと思っているが、『こゝろ』も好きである。解説を読むと、若い「私」が遺書を読んだ後どうしたか分からないなど、構成の欠陥を指摘することもできるようだ。もともと「先生の遺書」という題で出される予定だったものが、途中で構成を変更するという事情もあったようだ。
 まだ読んでいない名作を探すときりがないが、昔ほど小説にのめり込むことはできないかもしれない。現在のようにはっきりしない状態になる前に『失われた時を求めて』を読んでおいてよかったと思う永田である。


2月27日

 いよいよ休日にさしかかったので、空想をして作品に取りかかることに致したい。
 ただ、飽きっぽい永田のことなので、「これは面白い!」と構想段階で思っていた話が、後からつまらなく見えてくることはしょっちゅうである。こればかりはどうしようもないので、思いついたものをさっさと形にすればいいのだ。
 ここ最近は面白い日記を書くことができず残念だが、それは永田が行動をしないためであろう。その分、妄想力でカバーしようとしているが……永田は自分のストーリーテリングの力を過信しているのかもしれない。過去にたくさんの名作小説を読んだとはいえ、ここ半年は全くといっていいほど新しい小説に手をつけていない。こんなことではいけない、と思うが、どうせ趣味でやっているのだから、やりたいことだけやって楽しめばいいのかもと思う。
 どうせ趣味だから……というのは単なる逃げ口上で、自信のなさを隠す言葉にすぎない。もっと自信を持って作品に取り組みたいものだ。しかし「控え目」を旨としている永田は、何かにつけて責任をとらされるのが嫌なので、強く自分の作品をプッシュすることができない。
 再び小説の読み書きに戻ることはあるのだろうか。今の時点ではそんなことはあまり想像できない。当サイトは一応、漫画も文章もサポートしているつもりだが、一人の人間が同時に違うことをやるのは無理だ。新しい漫画が頓挫でもすることになったら……いや、そんなことを考えてはいけない。毎日「弟切草」をプレーするのはストーリー力に何の貢献もしていないようだが、少しはあると信じて、今日も1234番目の選択肢を探すことにしよう。


2月26日

 永田はツインテールの後頭部の分け目が大好きなのはもちろんだが、既に高校のころからその兆しがあった。もっとも、漫画・アニメに出てくるようないかにもなツインテールを結っている女子生徒は身近にはいなかったが、おさげ髪にしている者はいた。座席の関係でその女子の真後ろに座ったこともあった。そこで、授業を受けつつ、玄妙不可思議なこの分け目に見入ったのであった。
 なぜ分け目がこれほど良いのか、少々文献を読んだぐらいでは分からない。分け目が好きというよりも、毛の生え際が好きだとしたら? 永田は高校時代はむしろポニーテール狂であったが、何よりも良いのは白いうなじであり、うなじと髪の境界部分であったのは間違いない。
 まあ、全ての男が髪の生え際を好きというわけではないはずだ。しかし永田がこれほどまでに惹きつけられるのには何かワケがあるはずだ。そのことを議論したいと思ったが……今日は時間がない。よって、先日買った「それでも町は廻っている」2巻の話をしようか。これは普通の萌え漫画とは違う。しかし何を楽しむべき漫画かというと、やはり天然ボケの少女に萌えて楽しむべき漫画だ。永田の印象では、この作品は「1巻が一番面白い」というパターンのような気もする。どうも2巻においては天然ボケが作為的すぎるような気がした。わざと作った天然ボケほどお寒いものはない。うまく作者のボケツッコミに乗れれば楽しめそうだ。とりあえず1冊ずつじわりじわりと買って、この作品がどのような過程をたどるかを見て楽しもうと思う。


2月25日

 そういえば、永田はブルマー狂ともいえる日々を送っていたことがある。これはもちろん、高校時代にそういうものを間近に見る恩恵にあずかったためでもあるが、実際のところは大学に入ってからオタク活動の一環として(?)好きになったのである。具体的には小野敏洋氏の「太陽の少女インカちゃん」という漫画があった。この漫画に評価点9点をつけてしまったこともある。
 ブルマーは永田の出身校において現在は廃止され、短パンになった。これ以上露出が減ることはないような気もするが分からない。他の高校ではハーフ・パンツにしているところもあるからだ。いずれにせよ、共学の伝統校に行くとこんないいことがあるよ、という好例である。旧態依然とした常識がまかり通り、女の子らの恥ずかしい気持ちにも拘らずブルマーをはかせていたのだ。
 ブルマーのどこが良いのか。やはり体操着とのコラボではなかろうか。白い体操着の裾を長めに引っ張り、ブルマーを半分以上覆い隠す。それでもなおブルマーが存在を誇示している。そんな状態がベストであろう。したがって体操着をブルマーの中に入れてしまうのはクリープを入れないコーヒーのようなものである。(謎)
 某パンツじゃないアニメは、ブルマーにしても良いところをあえて旧型スク水にしたところが評価できよう。いや、しかし永田にしてもブルマーとスク水のどちらが良いかを決めるのは難しい。永田はむろんどちらも紺色が好きだが、赤いブルマー、白いスク水という異種もある。赤ブルマーは今でもバレーボールなどの部活で使われるかと思われる。白スクは……授業で使うことはないだろう。そういえば白スクを全く描いたことがない永田だが、人が描いたのを見るのはいいものの、自分で描きたいかというとさっぱりである。競スクにおいても然りである。生理出血を目立たなくしてくれる紺色のブルマー、スク水を今後も応援していくことにしよう。


2月24日

 永田は完全にイラストの方を放置している。やはり取り立てて描きたい既存キャラがおらず、またテキトウなオリジナルキャラにも嫌気がさしてきたのか?
 永田の趣味を細かく解剖してみよう。永田は競泳タイプのスクール水着を着た少女をたまに描いてきた。スカートのあるいわゆる旧スクはどうも描く気になれない。では、泳ぎの得意な女の子が好きかというと、特にそうでもない。というか、泳いでいる絵を描くのはなかなか面倒そうだ。それならば水に濡らさないままでテキトウにポーズをとっている図を描いた方がいい。そのような意図で永田は競泳スク水を描いているのだ。ちなみに一番の萌えポイントは、パイピングと呼ばれる肩ひもである。
 フロイトの『精神分析入門』にはフェティシズムについて書かれた章があるが、そこに「水着の肩ひも」が書かれていないのはもちろんである。女性の脚とか、靴とか、おさげ髪とか、そんなものだ。永田はなぜこの肩ひもが好きなのかよく分からない。一つ言えるのは、適度に日焼けした肌とのコントラストが良いということであるが、別に日焼けしていなくてもいい。だとすると、ぴったり身体にフィットしてなめらかなカーヴを描いているのがいいということか。
 ちょっと水着の話で思い出したが、永田は子供のころ、新聞記事で「モノキニ」という水着の写真を見た。これはモノラルビキニの略らしい。詳しくは検索してもらいたいが、要するに「半ビキニ」とでも言うべきもので、片側はセパレートだが片側はワンピースになっているという妙ちきりんな代物であった。この水着も、胸から腰にかけて美しいカーヴを描いている。永田はこの新聞記事を保存しておいたのであった。
 さて、本題に戻るが、競泳スク水のイラストをそんなに何種類も思いつかないのが永田の弱みである。永田は自分だけの同人誌を作ったことがなく、また、フェチを売り物にして同人誌に参加したこともないのだが、案外そういうことをしている人は、狭いながらも「競スク界」の事情を知っていて、こういう絵を描けばよく売れる、というのを知っているのかもしれない。そういう人がpixivなどでも活躍できるのではないか。
 一番いいのは、スク水好きな大衆と自分との好みがマッチしていることである。こうなれば無敵といってもよいが、そんな天才はなかなかいないだろうな、と思う。
 Gペンでカリカリ描いていたアナログの頃にはもう戻れない。しかし本当にそうだろうか? パスツールで苦もなくペン入れするのでなく、アナログでペン入れした絵の方が良い絵になるのか。よく分からない。永田の苦悩は続く……。


2月22日

 今日は「猫の日」らしいが、そんなことには関係なく妄想をしている。
「ポールの大冒険」では、ようやく裏面の1−3を突破することができた。次の難関は3−4のイカボスである。まあ、3−1から一度も死なずにくれば三方向長距離射撃ができるので、そこで一気に撃破したい。
「ポールの大冒険」は、十代の若者にはあんまりウケないかもしれない。やはりファミコンに子供の頃親しんで、体験が刷り込まれているような者にはウケるであろう。
 新しい漫画の初回は6ページほどになりそうである。実は「チサト日和」も、(自分の生産能力に鑑みて)当初は毎回6ページと決めていた。偶然の符合だろうか? 漫画の理論からすると、8ページの整数倍とするのが一般的のようだ。しかし「デイドリームネイション」は1話のページ数が6ページ、あるいは4ページのことが多い。まあ永田の漫画制作手法はかなりいい加減なので、逆にどんなページ数でもそれなりにまとめることができるかもしれない。
 kashmir先生の作品のファンページを作るのも時間の問題かもしれない。しかし永田は今まで、単行本として売られている作品の部分しか読んだことがない。タイトルすら知らない作品(同人とか)も多いかもしれない。しかしそこまで追っかけをすることはできないので、当面は市販されている単行本で満足することに致そう。
 ところで、永田は「ネーミングのセンスがない」ことで有名かもしれない。自分の漫画のタイトル、あるいはpixivのイラストのタイトルなど、どうもパッとしないものが多い。新作にあたっては、ストレートで分かりやすく親しみやすいタイトルづけに注意を払いたいものである。


2月21日

 今日は特に作業ができなかったが、妄想することだけはできる。しかし、先般漫画を完成させるのに全精力をつぎ込んだので、その反動もあって制作一般に興味が持てないのが現状である。
 とりあえず、新しい漫画を作りたいという方向性は良い。そこにおいて、女の子ばかりでなく、男をどのように登場させるかが問題である。まあ、絵をどう描くかは大した問題ではなかろう。
 永田は「フックオフ」では男女のペアを出したわけである。初音ミク漫画でもペアになっている。一対一で男女を登場させるのはさほど難しくはない。
 問題は、基本的に女の子ばかり出る中に、ぽつんと男を一人二人出す場合である。おそらくそういう場合、永田の女の子に対する態度というものが投影されるはずである。まあ、気楽に楽しむべきギャグ(?)漫画に、私小説的なものを持ち込むのは間違っている。
 一応、kashmir先生の漫画(「デイドリームネイション」「○本の住人」あたり)を参考とすることができよう。かわいい女の子が大勢出る中で、アクセントとして男が出てくる。時にはエッチな妄想をして女の子に殴られる場面もある。その程度の活躍しかできないとしたら残念だが、やはり女の子メインの漫画であるから仕方ないか。
 というわけで、一旦男はないものとして考え、女の子メインの話にしていきたい。永田が好きになれそうな女の子を主人公に据えるべきである。


2月20日

 永田は確定申告の書類を作った。株式の譲渡で当然ながら損失が出ているので、それを繰り越すためである。
 繰り越しは良い制度だと思うが、損失を取り返せる見通しは全く立っていない……。

 さて、また休日に入る。この二日間でしっかり構想を練り、あわよくば作品に着手したいものだ。身辺の出来事を面白くつづり(もちろん登場するのは女の子を多くする)、なごみ系漫画を目指したいなと思うが、思っているだけで無理かもしれない。
 永田の漫画は「チサト日和」その9とその10の境で大きく変化したように思う。そのころは大体平成14年にあたる。ちょうど映像散歩に関心を持ち始め、またアニメ「ギャラクシーエンジェル」のDVDを買ったりした頃ではないだろうか。永田の脳の中で、映像散歩の癒し効果と、ギャラクシーエンジェルのナンセンスギャグがおかしな具合にミックスされたようだ。つまり永田が目指すようになったのは、癒しナンセンスギャグという、なんとも意味不明なものかもしれない。
 まあ、本気でそう思っているわけではなく、ただ時間つぶしに言ってみたまでである。永田は心のときめきを感じるような新たな少女キャラを描きたい。逆に言えば、そのようなキャラさえできれば、ストーリーはどうとでもなると思う。本当はpixivでもバリバリとイラストを描いて被お気に入りを増やそうと計画していたのだが、漫画作りのためしばらくお休みとなりそうだ。今後は漫画によって評価を求めることにしてもよかろうと思う。


2月19日

 「弟切草」の選択肢は1232個、プレー回数は182回になった。「ポールの大冒険」の裏面は難しくて進んでいない。
 永田は新しいオタクネタ漫画の構想を全然考えつかないので、ここでダラダラと妄想を垂れ流すことにする。
 ここはとある田舎。全国チェーンのDVD・CDレンタルショップ「TATSUYA」がある。同じ店舗の中に書店もある。
 レンタルDVDコーナーの一角。そこは新作アニメのコーナーである。他のコーナーとは明らかに異質で、オタクのみが好みそうな絵柄のパッケージが並んでいる。
 そこにしゃがんで、DVDを吟味している若い男が一人。むさ苦しい感じの男だ。時々ニヤッと笑うのは、動画共有サイトでのネタを思い出しているのか。
 そこへ、もう一人の男が来る。歳は同じくらいだ。色白でやせている。お目当てのアニメコーナーに先客が陣取っているのを見て、チッ、と小さく舌打ちをする。
 やがて、しゃがんでいた男が気配を感じて振り返る。おや、見覚えのある顔だ。相手もすぐに気づく。二人は高校時代の同級生であった。
 なつかしさと、気恥ずかしさがあった。二人とも、高校時代にはアニメや漫画の話をろくにしたことがない。それぞれ、微妙に違う経路をたどったが、共にアニメオタクになった。
 他の客たちがいるのにも構わず、二人は元気な声でしゃべり始めた。しゃべりながら少しずつ移動していき、声優のCDが売っているコーナーに着いた。
「この○○って声優、知ってる?」
「ああ」
「いいよな」
「ああ」
 そして二人は、ともにこの田舎町に住んで、ぼちぼち働きながら暮らしていることを話し合う。色白の男が携帯電話の番号を教えようとしたが、むさ苦しい方の男は、携帯は持ってない、と言う。
 二人は、「TATSUYA」から歩いて行ける距離にあるカラオケボックスへ行く。歌うのはむろんアニメソングである。男たちが、女性声優の歌を平気で歌っている。酒もたのんで、気分はすっかり高揚していた。
 しかし何事にも終わりはある。カラオケをひととおり歌った二人は、ボックスを出て、互いに違う方向へ帰宅する。その後、連絡を取り合うことはない……

 ……だが、永田は何のためにこんな話を考えついたのか忘れてしまった。山もオチも何もない。それに何より、女の子の出演する気配が全くないではないか。突然美少女が登場して、男二人がそれを取り合うというのはあまりにもつまらない。
 上に掲げた話を、腐女子二人に置き換えてみるとどうなるか。だが……永田は腐女子を描きたくはない。「腐女子」という言葉も辞書登録していない(だからいちいち「腐り女子」と打っている)。
 これをきっかけに小説を書いてみようとか、そのような考えは今のところない。ただ永田は、「高校の時なんとなく交流していた友達同士が、オタクとなって再会する」というシチュエーションにほんの少し興味を持っているだけである。
 これはともかくとして、永田は女の子しか登場しない漫画には限界を感じ始めている。(ただのネタキャラだとしても)やはり男も出さねばならないかな、と思う。まあ……なるようになるだろう。


2月18日

 昨日はギャグ、小ネタの話をしたが、永田が提唱(?)した「覚え違い」コーナーというものがこのサイトにかつてあった。
 「覚え違い」の歴史は……確か最初に正式に出したのは「こげドンボ」だったと思う。ご承知のように、「こげドンボ」というのは覚え間違いであり、正しくは「コゲどんぼ」である。
 自分で言うのもなんだが、「覚え違い」はうまくやるととても面白い。今でもちょっと考えればひねり出すことができるであろう。残念ながら他の覚え違いの例をすぐに思い出せないのだが、要するに短い言葉にさまざまな含みを持たせるギャグである。「こげドンボ」に関しては、「なんだか意味不明なペンネームだし、どっちが平仮名でどっちが片仮名かよく覚えていないが、恐らくこうだろう」と考える過程を暗に示している。
 ふむ、自分で自分のネタを説明するのは何だか照れくさいものだ。ネット上にはアーカイヴというものがあり、古いウェブサイトを勝手に保存してくれているので、それを開けば別の覚え違いが出てくるかもしれない。さっそく検索してみよう……
 あんまり面白いものはなかった。「アーケード(+任意のワード)ふぶき」とか。あと「まんがタイム(+任意のヘンなワード)」とか。後者については、我が「フックオフ」第11笑において、「まんがタイムナンセンス」なる雑誌を勝手に提唱しているので念のため申し添える。
 「鋼鉄天使くるみ零式〜明るく楽しい編集部〜」に至っては何が何だか分からない。
 要は、「そりゃ○○だろ!」とツッコミを入れたくなるのが、楽しい覚え違いである。最近考えた覚え違いは「ひだりスケッチ」がちょっと秀逸かと思うが、あまり自信のない永田である。


2月17日

 永田は最近あまりここでギャグを言わないようである。熱心にネタギャグを考えていた頃の日記は残っておらず、仮に残っていたとしても見直す気にはなれない。
 芸人のようにギャグを考えるというよりは、小ネタを収集していたのだ。ファミコンやスーファミを熱心にやり込んだので、どんな隅っこからでも小ネタを引っ張り出すことができた。そうして自己顕示していた。
 今、小ネタを収集しない最大の理由は、商業作品を誰かと共に楽しむということがないからである。漫画やゲームを回し読みとかすることがない。また、熱をあげている漫画やゲームがないことももちろんである。
 自分のこころを見つめ直すと、永田は小ネタでみんなで楽しもうという段階を終えてしまったようだ。それでも、人を楽しませたいという気持ちはあるから、絵を描いたり漫画を描いたりする。しかしよく言っているように、他人よりもまず自分を楽しませたいという動機が先に立っている。それだけ永田は、普通のもので満足できなくなってきている。
 また古い活字の世界に戻ればいいかもしれないが、それではあまり進歩発展がないだろう。「カラ兄弟」を50回は読み返したというヴィトゲンシュタインは、そこから何を得たのだろうか。名作文学を読んで自己満足する時代は終わった。かといって大衆文学に走るのもプライドが許さない。永田は先日買った「悼む人」に全く手をつけていない。
 芸術は模倣から始まるというし、名作とされる漫画も、必ず先人の作品に影響を受けているはずである。小ネタを密かに混ぜている場合も多いだろう。永田もまた、「影響されたい、圧倒されたい」と思いつつ今日もkashmir先生の作品を読み返すのである。


2月16日

 何事にも飽きっぽい永田は、pixivでの活動が開店休業状態である。まあ、手軽に読めるショート漫画が今後できたなら、pixivに一気に掲載することも考えられる。
 しかし……ここで、掲載をためらってしまうということは、自分の漫画が多くの人の目に触れるのが怖いということだろうか。少なくとも、「チサト日和」をサイトに掲載していて、その存在を知っている人が全国にどれだけいるかというと、ほとんどものの数にも入らないのではないか。その状態に安住していると、邪念が生じる。面白くても面白くなくても、自分が楽しければそれでいいや、という邪念である。
 このような念は、いったんpixivに作品を投稿して、評価を受けることによって、完全に否定されるかもしれない。あるいは、大した閲覧を得ることができず、元のまんまかもしれない。
 どちらにしても、pixivが漫画を見てもらう場として適しているかどうかを考えなくてはならない。それ以前に、イラストを見てもらう場として適しているかどうか。今までの経験からいうと、pixivに投稿したイラストで、よっぽどヘンなものでなければ、数十回の閲覧を得ることができるだろう。そのうち、評価(たいていは10点)をつけてくれる人が一人、二人ぐらい。永田のヘタレっぷりは、詳しくはpixivを訪れて確認していただきたいが、このような評価を受けていること自体、永田のイラストが拙いものであることを明らかに示している。自分でも拙いと思っており、それを再確認できているだけだ。
 一方、漫画においては、もう少し自分ではマシなものだと思うことが多い。それを投稿して、他のイラスト群と同じような評価しか得られなかったら、無論がっかりである。永田の漫画の特質からいって、そうなる可能性が高い。ただ自信を喪失するためだけに漫画を人目にさらすのだとしたら、残念なことだ。それならばやめた方がいい。
 pixivでの評価は、閲覧数、評価数、評価点、それとブックマーク数、コメントからなっている。一応永田の絵でもブックマークをつけられることはある。そのことは嬉しく思うが、明らかにヘタな絵だと思っている時は、重荷になることもある。pixivのご利用は計画的にやることに致したい永田である。


2月15日

 永田は「それでも町は廻っている」の1巻を買った。これまで、幾度となく書店で表紙を見てきたが、萌え度としては問題がないものの、特に良いイメージを抱くことがなく、読みたいとは思わなかった。
 ちょっとカバー絵に萌えたからといって、いつも買っていると、金がいくらあっても足りない。そこでああだこうだと理屈をつけ、その本を買わない決断を下すのが普通だ。永田はこの作品に対して悪いイメージは持っていなかった。カバー絵はかわいいけれども、決して近頃流行りの萌え絵ではなかったからである。ただ、メイド喫茶が舞台であるという話だが、本当にメイド喫茶がメインの舞台であるのか、また、話が進むにつれて方向性が全く変わってしまうのではないか、という二つの疑問が生じた。
 一つ目の疑問については、1巻までは大丈夫のようだ。メイド喫茶、メイド服が毎回ちゃんと出てくる。すると二番目の疑問が生じる。漫画の展開は、読者の要望によってガラリと変わることがよくある。読者(雑誌の)が1巻の展開を受け入れ、続きも同じようなものを望んだとしたら、同じようにメイド趣味、探偵趣味、天然ボケといった要素が出てくることだろう。しかし永田の想像力では、この作品が同じような内容で5巻も6巻も続いているのかどうかちょっと怪しい。面倒なもので、たとえ1巻が気に入ったとしても、その後で好みでない展開になってしまったら、買ったことを後悔するに違いない。
 こう考えると、そもそも現代の連載漫画は、どこまで面白いのか、どこまでつまらなくても許されるのか、が問題になってくる。この問いはとても難しいものだ。もちろん、掲載雑誌によって全く違ってくる。永田は的確に続きを予想し、買うか買わざるかをはっきりしなくてはいけない。この漫画が載っている雑誌については、永田は個人的には良いイメージがなく、普通の少年誌に飽きた読者が一風変わった作品を求めて読むものだと思っている(まあ、これに該当する雑誌は現代にはたくさんありそうだが)。
 予想としては、下町を舞台にしているということで、「こち亀」のように人情話を交ぜながらドタバタギャグをやっていくのかなと思われる。殺伐とした現代において、下町人情話はウケるのかなとも思う。
 ここまで考えて、ようやく、2巻も買ってみようか、という気になった。


2月14日

 漫画の構想を練る過程をここに書いても、あまり面白いことにはならないのでやめよう。だが、そもそも永田がまた漫画を描き続けていこうと考える根拠は何なのか。
 根拠など何もない。描きたいから描くのである。
 と、このように言い切ることができればいいのだが……。昔は実際その通りであった。昔は同人誌という形で発表させてもらえたので、自分の漫画が紙に刷られるということが非常にうれしく、また自分の漫画に少々の自信もあったので、発表できる喜びを感じていた。
 今はネットオンリーである。ネットで無料で配信していることを言い訳にし、粗製濫造をしようという気は毛頭ない。漫画が依然として下手だなあと感じる方がいても、「それが実力です」としか言いようがない。いつも全力を尽くしているつもりである。
 自信はあまりないが、とにかく自分の力でオリジナルな漫画を作る力がまだ残っているということには感謝したい。漫画、あるいはイラストをやめたら、本当の能無しになってしまう。
 閲覧者との交流ができないのは、まあ仕方ないとあきらめるしかないだろう。永田も、お客から1円ももらっていないからこそ、自分の思うままに自由に漫画を描けているのであって、仮に(自分だけで)本を売るようなことになったら、萎縮して無理にエログロナンセンスを追求してしまうかもしれない。当面はお金のからまない自由な関係を築くことに致そう。

 このような御託を並べてしまったが、永田が好む漫画は「ハトよめ」などの(ナンセンス)ギャグや、kashmir先生のオタクネタ漫画である。「ひだまりスケッチ」も全巻買っているが、こちらはただ絵が好きなだけで話はつまらないと思っている。
 永田は一応自分の絵に満足していて、女の子の顔などは今ではサラサラとテキトウに描いているのだが、もっと心を込めて可愛く描くべきかも、とも思っている。絵柄が固定してしまって工夫のしようがないのが現状だ。しかし無理に改造して失敗したら恐らく目も当てられないことになるので、当面は今のままの顔を描き、ポーズ・デッサンに工夫をこらすことに致そう。


2月13日

 充電のためヴァカンスに出かけるというのもなかなか難しい。活字を読んで漫画のヒントを得ることもまずできないだろう。しかし漫画からしかインスピレーションを得られないのではただの縮小再生産になってしまう……。当サイト閲覧者の好みがいまひとつ分からない永田である。


2月12日

 ログを流さないよう手短に。永田は「その15」を完成させたばかりだが、そろそろ次の作品へ向けて構想を練り始めてもいいころである。そのヒントはkashmir先生の作品の中に隠されている。ナンセンスに傾倒せず、定番ネタでもいいから楽しく笑える作品を目指したいものである。


2月11日

 チサト日和 その15が完成しました!

 内容についてはお読みいただければ分かると思うので、説明はしません。できれば「その13」「その14」を先に読んでいただけると嬉しいです。それ以前の話にも目を通していただければ、これ以上の喜びはありません。


2月10日

 まだ新年に入ってから一ヶ月ちょっとしか経っていないのに、このトップページが早くも多量の文字で埋め尽くされている。その大半は、どうでもいいようなつまらんことどもである。毎日更新を旗印に掲げてから9ヶ月ほどが経った。今後も出来る限り続けていくことに致したい。
 永田は間もなく漫画を完成させる運びになっているが、その後はどうしていけばいいだろう。以前このページでアンケートをとった際には、一枚もののイラストに特に期待する声はなく、やはり漫画を描いて欲しいという意見であった。
 イラストももちろん良いものである。永田は美少女のイラストを描いて掲載する時、わりと自信を持っている。反面、漫画については、「面白いと思ってもらえるだろうか?」と不安の方が大きい。今までの経過を見ると、イラストへの反応は薄い。漫画を描くと拍手を押してくれる人もいる。
 今さら言っても始まらないが、当サイトはあまりユーザーフレンドリーな印象を与えていないのかもしれない。一応、トップページの上の方に、各コンテンツへのリンクを分かりやすく表示しているつもりだが、日記文は相も変わらず常体で、堅苦しいことを書いている。
 拍手数が表示される某ブログを見て、何十拍手、とか表示されている日記は、どこかスキがある。ツッコむスキがあるということである。永田はインターネットに十年以上も接しているのに、ネットを介した知己を作ることもない。それが習慣となっているから、今後も急激にネット友人が増えるということはないだろう。
 さて、明日の公開に向けて、右脳を総動員して取り組むことにする。アナログで描いていた頃に感じた、仕上がった作品を読み返す快感を、今度も味わうことができるか?


2月9日

 昨日はふとしたことからショタがどうこうという話になってしまったが、女の子っぽいショタキャラについて考えても、「変な気持ちになる」だけで、純粋に萌えるということはないようである。ショタに萌えてしまったらかなり重症ではなかろうか。
 ここでは受け手が男性の場合に限って言っている。腐女子の心理についてはまるで分からないし、分かろうとする気もないので以下略とする。
 変な出だしになってしまったが、こんなことよりも話題にすべきなのはWiiWareで配信されている「珍道中! ポールの大冒険」というゲームである。レトロゲームを模した作りのアクションゲームで、レトロゲームのネタを知っていればいるほど笑える内容になっている。ゲーム中に音声でツッコミが入るというのはけっこう斬新ではないだろうか。個人的にイチオシのネタは、「キャラが5匹以上並ぶと点滅する」と、1億点のリンゴである。集めたネタの個数は83個になったが、これもヒマがあれば100個全てを集めてみたいものだ。
 休むことなく「チサト日和 その15」の完成にこぎつけたかったが、今日は作業ができそうにない。夜は明ける前が最も暗いという……。


2月8日

 今日もよくやったと思う。Photoshopのアクションをもっと使いこなせばもっと作業が速くなるであろう。
 永田は漫画の背景をいつも最後に描くことにしている。これはあながち珍しいことではないだろう。遠近法も、キャラに合わせて背景を描くべきであり、逆では駄目だ。漫画で大事なのは何といってもキャラクターなのだから。
 一気呵成に描いたので、ふと立ち止まって原稿を左右反転させてデッサンの狂いをチェックするとかはしていない。少々怪しいデッサンの部分もあるが、無理に反転させなくても、そのままの状態でまともに見られればそれでいいのである。
 予定に掲げた、今月11日の終わりまでに完成という見通しは達成できると思う。そのためには酒を呑んでボンヤリしている時間などはない。プレミアム焼酎「富乃宝山」もしばらくはお預けということになるだろう。
 少女たちしか出てこない漫画には、当然ながら酒が出てくることはまずない。永田はいたいけな少女がお屠蘇とかを呑んでほろ酔いになっている様子を想像すると萌えである。しかし商業雑誌でそういうことをすることは現在はまずありえないだろう。
 「こち亀」も、どんどん駄目になっていっているようだが、やはり世の中の警察官に対する厳しい目があり、変な顔をしてウケを狙うとか、婦警にいじめられて快感を覚えるとか、そんなどうしようもない展開しかできないのではないか。漫画が衰退していくとしたら、それは読者の罪であり、社会の罪であるといえないだろうか。
 こんな時代にあって、萌え4コマは(一部の者に)人気である。最低限の法律を守り、あとはダラダラウダウダして暮らす少女たちが漫画キャラクター界を背負っているとしたら遺憾なことだ。そういえば漫画調査サークルでは漫画キャラクターランキングというものを以前やったのだが、もし永田がそれを提出するとしたらけっこう痛いものになりそうだ。それ以前に、男キャラクターランキングは全く作れないであろう。最近は鏡音レンがすっかりショタいじりの対象になっているようだが、そういう楽しみ方が本来の男キャラの楽しみ方ではあるまい。とはいっても、ブリジットの例もあるし、「実は生えてる」が女キャラの新たな萌えポイントとなる日が来るかもしれない。


2月7日

 今日は久々に書店に行ったが何も買わないのであった。
 その代わり、歩いていてネタを一つ思いついた。早く形にできるといいのだが……。
 歩いて運動もしたし、制作にも充分取り組むことができたし、これといって非の打ち所のない日である。永田は、以前にも言ったが「時間の守銭奴」のような者なので、とにかく自由な時間が欲しいわけである。時間があってこそ、考えごともできるし、制作もできる。まあ、自分の時間を大切にするあまり、失ったものも当然あるはずだ。しかしそんな死んだ子の年を数えるようなことはやめにしたい。即売会には出られないけれど、一応同人作家の片棒を担いでいるつもりである。永田が美少女に萌える心も尽きることはないだろう。ただ、萌える少女のタイプはかなり変遷しているようだ。当初(中学ごろ)はポニーテールとか、快活とかを好んでいたように思うが、今はツインテールだったり、キョドっていたり、ミステリアスだったりする子が好きである。まあ、秘密の全くない開けっぴろげな女の子は非常につまらないということはお分かりであろう。あとkashmir先生のおかげでメガネっ子もそれなりにいいと思えてきた。むろん、昨今流行のやたら横長なフレームのメガネはノー・ウェルカムである。
 「チサト日和 その15」は今月11日の終わりまでに完成させることを予定している。そうしたら、これまで描いた一枚イラストのキャラとかをテキトウに使い、別の漫画を描いてみたい。某読子というキャラクターは本が非常に好きなようだが、これを漫画に置き換えたらどうなるか。名前についてはここでは触れないが、そもそも漫画好きな少女は萌えであるかどうか。このことについては「フックオフ」で少し考察した気もするが……とりあえず、ページをめくる際に指にツバをつける少女は萌えかもしれないと思っている永田である。


2月6日

 永田は今が一番欲求不満が高まっている時である。というのは、「チサト日和 その15」のペン入れ作業とそれに続く単純作業の山が待っており、それをこなさないことには当然ながら作品は完成しない。ちょうど、引越しの支度をしている時に漫画コレクションを読み返すことになるのと同じように、永田もまた本筋から外れた作業をやりたくて仕方ない。
 要するに、まだ見ぬ新たな作品を構想することである。永田はpixivに連続して絵を投稿していたが、ここのところは休んでいる。永田はイラスト描きとしては底辺に属する者である。ここを一気に飛び出すのは所詮無理な話だ。地道な仲間作りの活動が求められるが、永田は他人の絵をブックマークすることがほとんどない。いつものクセで、ローカルに保存しないと安心できない。しかし保存してしまって後から見返すと、誰の絵だか全く分からなくなる。こんなことではいけないのだが……。
 永田が最近やりたくて仕方ないのは、ファミコン版のドラクエ1と2である。ファミコンを押入れから出すのは面倒だし、復活の呪文を書き留めるのも面倒なのでいまだ実現していない。さっさとバーチャルコンソールで配信してほしいのだが……。
 このような宙ぶらりんな状況を、永田はアナログで漫画を描いていたころに何度も経験した。ここまでくると画力うんぬんよりも、精神力がモノをいう気がする。自分自身を客観的に見て、ペース配分、時間配分をしっかりしないと思うように作品は完成しない。
 まあ、そうはいっても、永田が作品として完結させたものは一作しかないし、「チサト日和」も非常に進行が遅い。あとのショート漫画はオマケみたいなものだ。でも、初音ミクとかをテーマにしたショートものを連作したらそれはそれで面白いものになるかもしれない。永田は初音ミクが出てくる漫画をそうポンポン考え出すことはできない。世の中のミク同人(エロ除く)をやっている人たちはすごいなと思う。ちょっと古いが「任意たん」にしてみても、残念ながらうならされるような面白いストーリーの同人は見たことがないけれども、何千人という人が構想を練るわけだから、中には面白い話もあって当然だろう。永田もむろん、一旦描くと決めたら一発必中を狙うが、結局自分だけがウケて終わってしまうことが多いのは誠に遺憾である。感想などもほとんどもらえないわけだが、いいものを描けば必ず反応があるはず、と信じて頑張ることにしよう。


2月5日

 やはり平日にコツコツと作業を進めるのは難しいようだ。休日に一気にやってしまうとそれはそれで負担が大きいのだが、身体(目や腕)を酷使するわけだから、疲労を感じると同時になぜか充実感も感じてしまうという錯覚が生じる。「心地良い疲れ」というものか。永田は仕事において心地良い疲れを感じることはほとんどない。
 さて、ネタがないからといって、自分の漫画のネタの前ばらしをして自己満足にひたるのは避けたい。実は先日言ったような、「チサト日和」でもなく「フックオフ」でもないような漫画(オタクネタ満載)の構想は全然出来ていないのである。
 kashmir先生の漫画に限ったことではないが、女の子満載な漫画においてはセクハラ要素が出てくるのが普通である。つまり、乳の大きい子をネタにするとか、尻の大きい子をネタにするとかである。フトモモやふくらはぎは少々フェチに偏るので難しい。セクハラを現実にやってしまうとマズいことになるのは当然だ。だから漫画の中で充足したい。といっても、男が女にセクハラをする漫画は面白いだろうか? それならばエロ漫画の方がマシだ。
 よって、先生の漫画にもよくあるように、女の子が女の子にセクハラするというのが、萌えでもあるし、また願望充足にもなっている。これはつきつめると百合関係にもなってしまうが、それはそれで構わない。
 女の子ばかりたくさん出るオタク漫画があるが、そういう漫画ではしばしばセクハラシーンがある。これはやはり、そういうものが読者にウケるからやっているのだろう。男ならば、少女のパンツを見たり、透けたブラを見たりしたいものである。
 このような漫画を空想してみるが、永田が自分で作るとなると、例のごとくおかしな要素が入り込むのは明白だ。特にオチの意味不明さには自信がある(?)。ただ、もう少し女の子を表情豊かに描けないかなと思うことはよくある。最近、3Dソフトで作った少女の萌え(?)画像がよく出回っているが、あれは表情がほとんどないだけに少しも萌えでない。やはり恥ずかしがったりはにかんだりする少女が萌えであって、そのためにはセクハラが必要という、逆の理論になってしまうそうだが……。
 永田のセクハラに関するセンスは古いかもしれない。最近は「ゲノム」も買っていないが、これを機会に読んでみてセクハラセンスを学ぶべきかもしれない。


2月4日

 永田は気まぐれなので、サイト閲覧者が求めている情報をいつまでも供給していくのは難しい。永田のサイトで一番求められているものは何であろうか。「映像散歩」で検索すると、依然として高い位置に「映像散歩ファンページ」が表示されるようだ。これまで熱意を持って調べ上げた情報を提供するのは気分のいいものだが、現在進行形で映像散歩を楽しんでいるかというと答えはノーである。東京にいた頃には、日本各地の風景を楽しむことができず、仕方ないのでビデオを見て満足していた。現在は田舎にいてそのような風景をわりと楽しみやすい状態なので、映像散歩を見返して有難がったりすることはない。
 「くるみミラクル」で検索するとトップに「くるみミラクルファンページ」が表示されることが多い。こちらも膨大な時間をかけて調べ上げた情報を載せているので、マニアの方は楽しめるであろう。pixivにおいてはくるみのイラストはたった一件しかないようであるが、このレトロなゲームの情報を求めている方は依然いるようである。
 永田は懐古趣味を標榜するけれども、まだそれほど歳をとっていないので、年季の入った懐古趣味というわけでもないようだ。やはり新しいものも求めているのである。ただ、美少女の出る萌え漫画においては、定番のエピソード(まあ、スク水に関係するものでは、家から水着を着ていって下着を忘れて行くとか)を好んでいる。そのくせ、自分の描く漫画ではなるべく定番を排して、どこかヘンなオチをつけたいと考えている。
 懐古趣味というよりは、ニッチ(すき間)を狙っているのだ。メジャーなもの(少年ジャンプのパロディなど)で勝負するには、体力が続かないし、気力も続かない。そこで細々とマイナーなものを愛し、読者にもそれを求めている。たとえ着眼点がちょっとおかしなものでも、深みがあれば、一部のオタクはついてくるであろう。永田は漫画「ハトのおよめさん」にそのような精神を感じている。
 永田は日経新聞を購読している。毎週日曜に、「エコノ探偵団」というコーナーがあり、二人の探偵が交代で登場して世の中の秘密を暴く内容になっている。探偵の一人は女で、深津明日香という。このキャラクター(イラストつき)に萌えるファンページがないものかと探してみているが、今のところはないようだ……


2月3日

 結局、ネット接続の不調は、昨日夜の回線切断事故のせいだと判明した。今日の昼前までには仮復旧したようで、こうして日記を再び掲載できるようになった。
 昨夜と今朝は、ネット接続できなくて残念な思いを味わったが、自宅でネットをたった一回線に頼っていることの危険も同時に知ったのであった。まあ、日経先物とかをやっていたら、売買ができなくてかなりピンチであったが、最近株には全く手を触れていない永田には無縁のことであった。永田はSANNETに全幅の信頼を置いているので、他のプロバイダを探すとかいうこともないだろう。今回の復旧も、光ケーブル切断から半日あまりで復旧したのはわりと早い方なのではないか。
 というわけで今日も、インターネット接続ができなかった頃を回顧してみるのだが、とりあえず大学に入るまではネットは封印しておいた方がいい気がする。オタクでなければ、ネットサーフィンに膨大な時間を費やすこともないだろうが、やはり自宅でブロードバンド接続できる現在は勉学に差し障りがあるように思う。昨日言ったように永田は受験生時代に「エヴァ」を知ったのであったが、当時ネットを知っていたら、ひたむきな永田はそっちにのめり込んで、最終回がどうたらこうたら、と議論をしていたことだろう。そう考えると、つくづくネットがなくて良かったなあと思う。
 今年は永田がSANNETで当サイトを始めてから10年目の節目になる。開設から数年で100万ヒットを叩き出すサイトもあるが、10年間というのはカウント数に関係なくまた違った重みがあるように思う。ぜひ開設記念日を迎えたあかつきには盛大に祝うことにしたい。


2月2日

 インターネット接続の調子が悪いようで、この日記も今日じゅうに掲載できるかどうか分からない。いつもネット接続できるのが当たり前なのに、こうして珍しく接続できなくなると妙に不安になるものだ。やはりネット依存なのかもしれない。
 というわけで、今日はインターネット接続ができなかった高校生以前のことでも振り返ってみようか。永田は小学6年生あたりで中古のワープロを買ってもらった。SANYO製で、画面(8インチくらい)と本体が一体化しているものである。その画面に向かって熱心にショボい小説を打ち込んだり、あるいは日記のようなものを書いたりしたものである。当時はカナ入力をしていた。
 インターネットがないと、情報は雑誌やテレビで仕入れることになる。ちょうどアニメ「エヴァ」が流行りだしていた頃であったが、まだアニメ専門誌の存在をよく知らず、ただビデオレンタル屋に行って借りて見るだけであった。ネットを通じた知己も当然ながらいなかったので、アニメに関する情報を田舎では誰とも共有することはなかった。そのような時期を経験したためか、大学に入って同じ趣味の友人を得ると、真っ先にアニメや漫画(の美少女)について布教みたいなことを始めた。「性の商品化に関するゼミ」に参加したこともあった。永田はいわゆる「大学デビュー」を、数年前までは予想もしなかった形で(要するにオタクとして)行うことになった。
 この文を書きながらもインターネット接続を何度も試しているが、リモートコンピュータが時間内に応答しないというメッセージが出ている。永田は制作活動もあるので、このへんで一旦接続をやめ、しばらく時間を置いてから再度トライすることにする。


2月1日

 永田は制作をした。イラストからは遠ざかっている。サイトの漫画ページのカットがいい加減古いので新しく描き直したいとも思うのだが、漫画の中の絵と比べると、こういうカットを描くのはなぜか緊張する。上手に描かないと読者を引きつけられない、と思ってしまうのだろうか(そんなに変わらないと思うが……)。いっそのこと、漫画の中の絵をそのまま引用した方がいいのかもしれない。
 制作直後に日記を書くと、内容が制作のことに偏ってしまい、変な思い込みや覚え違いなどがそのまま文に反映されそうで心配である。永田は本日はよく働いた。今日ぐらいは日記のネタ出しに苦しむことがないようにしたいのだが……。しかし、漫画はまだまだ完成していないので、それまでの間はグダグダ日記を書くことになるだろう。「弟切草」の選択肢は1229個になった。マリオ2は三十数回目の挑戦をしている(ちなみに、いつもはルイージなのだが今回は珍しくマリオでプレイ)。あとロードランナーも気晴らしにやっている。
 永田はkashmir氏の「デイドリームネイション」を読み返したのだが、氏に対する評価がどんどん上がっていくのを感じる。かわいい絵柄に、オタクネタが豊富で、どこか退廃的だ。まさに永田の求めるもの全てを提供してくれているといえないだろうか。笑いのネタとしてはSaxyun氏の漫画も良いのだが、総合的に見てkashmir氏の方がずっと好感が持てる。これからは先生と呼ぶことに致そう。
 永田もむろん、オタクネタを漫画にたくさん放り込める実力はあると思っているが、ただ思っているだけでは駄目だ。「チサト日和」でも「フックオフ」でもない、新たな漫画を構築し、そこで勝負していければいいと思っている。しかしある時期以降のオタク知識を永田はほとんど持っておらず、むしろ(ありがちだが)ファミコンやスーファミのネタが得意である。またドラえもんやこち亀のネタも一応得意だ。流行は移ろいやすいものだから、レトロなものを有難がっていつまでもそれにしがみついていても、先は見えている。やはり最新のアニメも見て、ネタを仕入れなくてはなるまい。永田は「かんなぎ」アニメを全話録画したが、全然見ていない。某騒動のために白けてしまったのかもしれない。今後は深夜枠で永田の住む地方でも放映されるアニメをまめにチェックして、流行に乗り遅れないようにしたい。


1月31日

 永田はどうにかこうにか「チサト日和」その15を進めることができている。
 アナログでやっていた頃は、まずプロットを書き、ネーム第一稿を描き、少し寝かせ、ネーム第二稿を描き……というふうにネームに異常に時間を使っていた。しかし現在そのようなことをやるといつまで経っても終わらないので、コミックスタジオ上で一気にやってしまう。すなわち、真っ白なカンバスに、セリフ等のネームを最初に配置し、コマのワクを確定させる。それからネームレイヤーにサラサラとラフ絵を描く。そしてラスターペンレイヤー上で一気呵成にペン入れするのである。こうすると、適度に緊張感が保てるのがいい。結局ネームの見直しはほとんどしないことになるが、見直せば見直すほど訳の分からない怪しいモノになりそうな気がするので、見直しはやらない。改善すべき点が見つかれば次の話に取り入れていけばいい。
 今回、制作にあたって過去の「チサト日和」の一部を読み返したが、絵をじっくり見るととても残念な気持ちになった。しかしわざわざ描き直しをするぐらいなら新たなエピソードを描きたいというのが本音だ。アイデアのストックは二つぐらいはある。アイデアが一時なくなっても、手を動かせば自然とネームが生まれ、短い漫画ならば難なく描けるような気がしている。
 さて、そうやって描いた漫画を他の場所(お絵描きSNS)に投稿するかというと、今のところそれは考えていない。やはり永田としては、多少不便はあるけれども、当サイトを訪れていただきたいのである。永田の理想のウェブサイトにはまだまだ遠い当サイトであるが、とにかく全力を尽くした作品を載せていくことで、訪問者の期待に応えていきたい。


1月30日

 永田は今夜NHKで放映されるT−スクェアの30周年記念ライヴを楽しみにしている。総勢15名のメンバーが登場するとのことで、どんな曲が演奏されるのか気になる。まあ、脱退したかつてのメンバーが作った名曲を入れてくるように思われる。といっても、名曲を量産したのは安藤氏だけであって、あとは和泉宏隆氏や本田雅人氏が有力である。前者ならば「宝島」か。永田としてはライヴで「PIER7」が聴けたら最高なのだが……。後者ならば、「LITTLE LEAGUE STAR」で決定のはずである。
 こうやって曲目を挙げてみても、ファンでない人にはチンプンカンプンだろう。普通の人はT−スクェアといえば「TRUTH」を知っているぐらいだと思われるが、ニュースや天気予報でBGMとしてT−スクェアの曲を知らずに聴いている人はかなりいると思われる。永田は平成5年だかにBSで放送されたライヴ番組(60分間)を大事に保存して聴いているが、今度のライヴは1時間以上あってヴォリュームに富んでいる。ぜひ永田の好きな曲を流してもらうことに致したい。

 ところで、週末ということでいよいよ漫画に取りかかることができそうである。永田のPCは、ちょっとマウスが利かなくなるとか少々のトラブルはあるけれども、きわめて健康な状態を保っている。そういえば先日ウイルスバスター2009を入れたのだが、これを入れた後、インターネットブラウザが立ち上がるまでちょっと時間がかかるという症状が出ている。電源を入れてしばらく経っていれば問題なく使えるようだ。まさかウイルスが侵入しているわけでもあるまいが……やっぱりしばらくは2008のままにしておけばよかったと思う永田である。


1月29日

 「弟切草」の選択肢が少し増え、1228個になった。しかしコンプリートと言われている1292個にはまだまだ遠い。これ以上増やすには、不思議のペンション級の隠し要素が必要なのではないだろうか……。
 そういえば、「かまいたちの夜」の隠しメッセージには、「弟切草」の中に「チュンソフトのソフトは面白い」というメッセージが仕込まれているとあった。ということは、やはりタテ読みが必要なのだろうか。しかし全ての画面に目をこらしてタテ読みするのは面倒すぎる……。
 以前も言ったが、世の中には「トルネコの大冒険」を三千回以上プレーし続けるサイトもあり、一度好みにハマるとそれこそサルのようにプレーすることになってしまう。永田はあまりゲームに割ける時間がないが、スーパーマリオ、スーパーマリオ2、それに弟切草は毎日ちょっとずつプレーしている。携帯ゲーム機としては、初代ゲームボーイとDSLiteを持っているが、やはり小さな画面は好きでなく、ほとんど放置している。

 ところで、「チサト日和」その14は、フルデジタル制作を始めてすぐの作品なのだが、今見直すとちょっと絵が荒すぎるような気がする。しかし、その後イラストを描くことによってペン・タブレットにはけっこう慣れたので、こないだのおまけ漫画もわりとまともな絵に近づいているような気がする。あと問題は背景か。こないだ買った「パース塾」全3冊を読み込み、まともな背景を少しは入れたいものだ。
 毎回、モチベーションを高め、制作の山を一歩一歩登っていくのは大変だが、「今回頑張ればあとはスムーズに進むはず」を旗印にして、後々に予定している話の構想が腐らないようにすべきである。永田は身近に起こった出来事を漫画に放り込むことはほとんどないが、やはりその時その時感じている問題意識を作品に少しずつ入れていけば、永田の古びた感性であっても、幾分新鮮さを作品に与えることができると思っている。


1月28日

 永田は温めすぎて腐ってしまった構想を捨て、新たに取り組もうと思っている。こういう場合、いまいましいネーム用紙をビリビリ引き裂いて、背水の陣で取り組む必要もあるが、今まで紙に描いてきた全てのネーム・下書き・ペン入れを一つも捨ててこなかった永田なので、今度も一度描いたものは捨てないことで勘弁してもらいたい。
 これだけでは何のことか分かりかねる。永田はふとした思い付きで「チサト日和」のおまけ漫画を描いたが、やはり本編もきちんと進めなくてはならない。そのためには「その14」から続くとなっている「その15」をきちんと描き終えなくては先に進めない。
 今までの経験からいうと、少々ムチャに思える話でも、本気で三日間考えればほぼ間違いなく話の道筋ができるのである。むろん、読者が楽しむというよりは作者が楽しむ方向になってしまうのだが、両方の楽しみがうまく合致すれば良いものになるだろう。というわけでしばらくは「その15」を創ることに全力を尽くしたい。
 元来、「チサト日和」は永田にとって大のお気に入りだったはずである。暗い話もあり、明るい話もあって、紆余曲折があった。今ではキャラクターに少しは愛着もわいてきて、大分自由に動かせるようになった。初めて描いてからそろそろ十年目を迎えるわけであるが、ペースは遅くとも、投げ出さずに続けてこれたことは評価できる。フルデジタルの作業に切り替えたことで面倒さがぐっと減ったのは良いことだ。今後も、他の短い漫画をはさみつつ、「チサト日和」だけは続けていきたい。


1月27日

 永田は天童荒太の『悼む人』を買ってきたが、全然手をつけていない。読まない本を買ってくるのはいい加減やめにしたいのだが……。
 「積ん読」の最長記録はどの本だろうか。一年、二年ぐらいではまだまだ甘ちゃんだろう。哲学の本は、かつて読みたいという意欲が強かったので、いろいろ買ったのだが、ほとんど手をつけていない。『純粋理性批判』や『存在と時間』は、分からなくても一度は目を通したいものだ。
 聖書を買ったのは今から5年近く前だ。しかし旧約の途中まで読んで放り出している(新約は繰り返し読んだ)。聖書は言うまでもなく素晴らしい書物である。前にも言ったかもしれないが、黙示録は特に永田のお気に入りである。謎めいた「獣の数字」についてはご存知の方も多いだろう。「謎とき『罪と罰』」という本には、ラスコーリニコフの名前のイニシャルが666に相当するとか書いてあった。詳しくはこの本を参照していただきたいが、謎ときシリーズ(罪と罰、白痴、カラマーゾフの兄弟)の中では一番まともなことが書いてある本だったと記憶している。(他の二つは、まあトンデモ本に近いかもしれない)
 本をたくさん読んだのは、そもそも漫画作りが上手くなりたいと思ったからである。しかし実際は映画を多く見たりする方が漫画作りに役立つようだ。禅の公案を好むようになってから、永田の漫画はヘンな方向に向かっている。今回の「チサト日和」おまけ漫画についても同様である。まあ、描いている当人は楽しんでいるのだから、良しとしてもらわなくてはならない。しかしもう少し読者にすり寄る努力は必要である。
 永田は米作家J・D・サリンジャーの大ファンであった。この作家の作品も、後期に向かうにつれて難解・晦渋になっていく。さすがに「シーモア序章」や「1924年ハプワース16日」とかはほとんど理解不能であった。しかし「ライ麦」「ナイン・ストーリーズ」といった芸術作品はいつまでも心に残るものである。現代において、サリンジャーファンを公言し、そのパロディ等をする作家がみられるが、永田は特に彼らの追っかけをするつもりはない。いい加減現代作家にも目を向けていかねばと思うのだが、永田の読んだ名作は永田の東京での生活の思い出と直結しているので、なかなか抜け出せないところがある。ノスタルジーとはちょっと違うが、書物を友として過ごさねばならなかったところに、永田の苦悩があった。今後、本をどれだけ読むのか、または全く読まないのか。どちらにしても、カフカ『城』のような名作にはファンページを作って親しみたいと思っている。


1月26日

チサト日和その15 おまけP3

1月25日

チサト日和その15 おまけP2

1月24日

チサト日和その15 おまけP1

1月23日

 永田はやっぱり紺ハイソをメインに据えた絵を描くのは意外と難しいと感じた。もっと幅を広げ、制服の女子高生を描くことにした方が良いだろう。制服の資料集みたいなものは一応持っている。
 紺ハイソの魅力は先日述べたとおりだが、ただ紺ハイソをはいた脚だけを描いてみてもほとんど萌えを誘わないのは言うまでもない。やはり女子高生の生活感が必要だ。学校で授業を受けている時、登下校している時、電車に乗っている時、帰宅して制服を脱がないままベッドにごろんと横になっている時など、さまざまな場面で紺ハイソが活きてくる。
 こう考えると、セリフを基本的に使わない一枚イラストは不利だなあと感じる。むしろ今までやってきたように漫画にした方が永田にとってやりやすいのではないか。永田が崇拝する絵師は紺ハイソイラストをあまり描いてくれないので、自分で描くしかないと思っていた。しかし漫画は何と言ってもネーム、セリフがあるので、極端な話、靴下を描かなくても、セリフに書いてそれと分からせることも可能なのだ。
 よく、漫画を描く人は「一枚イラストが描ける人がうらやましい」と言い、イラストを描く人は「漫画が描ける人がうらやましい」と言う。永田はどちらかというと前者に属する者であろう。お絵描きSNSで人の絵を見ても、絵の中にちゃんとストーリーがあって感心させられることが多い。反面永田は……。
 そこでまたkashmir氏の漫画に戻ってくるわけだが、ギャグ顔やくずし顔を永田は苦手としている。そのことが画面の単調さを生んでいる。能面のようだとまでは言わないが、どこかのっぺりした画面である。漫画はページをペラペラめくることを最大の楽しみとしていると言ってもいいだろう。つまり、読者を欲求不満にして、どんどん先へと誘導するのが冴えたやり方である。永田は女の子を漫画の中で描く時、つねに全力投球しているつもりだが、全力の方向を間違えてはいないか。肩の力を抜いて、絵の力は抜かないで(ここが難しい)、やっていくのがいいだろう。


1月22日

 永田はふと、漫画を読む者としての発言を近頃ほとんどしていないことに気づいた。タカハシマコ氏の「ニコ」1、2巻はカバーに乱れ咲くツインテール少女たちを見て、買わずにいられなかったのだが、ガッカリするのが怖くて中身をちゃんと読んでいない。
 一方、kashmir氏の「デイドリームネイション」という漫画の存在を初めて知った。カバー絵はそれほど萌えでないのだが、作者買いということで購入した。文化系の部活ものの話は好きである。むろん何でもいいというわけではない。永田は「菫画報」を別格のものと捉えている。ここまでくると神格化しているようにも思える。そういえば小原氏の「パノラマデリュージョン」と「デイドリームネイション」はなんとなく似ている。
 むろん、大事なのはこのような名作を糧にして、自分で作品を作っていくことだ。実際、「菫画報」を読んでインスピレーションを感じ、作品を作ったわけである。今度は「デイドリームネイション」を読み、自分でもこういうものが描けないだろうかと思った。冷静になって見ると視野の狭い話だが、オタクにとってはウケがいい話だろう。
 ボケとツッコミの呼吸は大事である。永田は「本を買うならフックオフ」においては少しはそのことを実現できたかなと思う。だが、漫画を描く側ならまだしも、読む側となると、様々な価値観があることもあり、見識の狭い永田には力不足であった。
 漫研漫画とか、文芸部漫画とかは、作者の自己満足に陥る危険もある。永田が今までそういう漫画を描くのを避けてきた理由は何であったか。実は漫研小説のようなものは一時期載せていたこともある。それはどうでもいいが、漫研漫画を本当は描きたくてたまらないのではないだろうか。kashmir氏の漫画にはボケとツッコミがあり、オタクネタがあり、美少女がある。現在の永田にとっては「菫画報」以上に有難い漫画といえないだろうか。氏の漫画をとことん読み込み、あとは自分の足りないセンスをどうにかして、永田も読者も楽しめる漫画作りを目指していきたい。


1月21日

 角川文庫の『罪と罰』(米川訳)が再版されている。永田はすでに江川訳(岩波文庫)と工藤訳(新潮文庫)を手に入れて読んだので、今さら買って読む必要を感じない。ちなみに米川訳の『白痴』も持っているが、これは氏がドストエフスキーを最初に翻訳したもののようで、粗が多いというか、ちょっと読むのに苦慮した記憶がある。
 永田は『罪と罰』を、ドストエフスキーの作品の中でベストに挙げるつもりはない。ただ、戦慄させられるのは、スヴィドリガイロフが見た少女の夢のシーンである。少女が娼婦のような顔をしているというのは恐ろしいことだ。まあ、エロ漫画誌を見ればそんなのはぞろぞろ出てくるのかもしれないが……。
 ドストエフスキーの作品の中で萌えなキャラは案外多くいるのではないか。まあ、萌えオタクでしかもドストエフスキーを全作読破したという者はあまりいないと思うが、やはり人気一位といえば『罪と罰』のソーニャであろうか。優しさと凛々しさを併せ持つ少女である。他の作品にもむろん少女は出てくる。ロリコン趣味といえそうな男性キャラも出てくる。しかしドストエフスキーの少女キャラを本気になって論じていたらドツボにはまりそうなのでやめることにする。
 最近は光文社文庫によって再び話題になったドストエフスキーである。とにかく読みやすい、との評判だ。しかし、他の訳で、ちょっと読みにくいのを我慢して読破した者に言わせると、読みやすいドストエフスキーなんてあるのか? と疑ってしまう。かく申す永田は、光文社文庫『カラマーゾフの兄弟』の5巻だけを買って、亀山氏のちょっと怪しげな解説を読んだだけである。そういえば氏は今は『悪霊』を訳している最中だという噂があるが、本当だろうか……。
 永田はドストエフスキー研究を本気になってする気もなく、また小説を書く気もない半端者である。こうしている間にも、紺ハイソをモティーフにしたイラストをどうしようかと右脳で考えている。そういえば、「脳の右側で描け!」という訳本が出されており、また、ポーズデッサンをさせてくれるブログの存在を最近知った。そこで見られるデッサン人形は筋肉構造がよく分かる本格的なもので、練習には最適だと思われる。とにかく言語脳を停止させて絵画脳のみを働かせることによって腕が上がるとのことらしい。永田も怪しげなことばかり考える言語脳にはしばらく眠ってもらいたいぐらいだ。しかし、永田が描きたいのはかわいい女の子のかわいいポーズであるから、ブログのポーズを即役立てることはできないのであった……。


1月20日

 紺ハイソの画像(実写)を提供するブログや掲示板はあるが、紺ハイソについて熱心に論じている記事は特に見たことがない。あえて言うならば永田が以前書いて「書庫」に保管している「巨人・大鵬・紺ハイソ」という文がそれに該当する。また、SSの「涼宮ハルヒの殷賑」においてもハイソックスを賛美している。
 「巨人〜」は、今読み返してみると、特に痛々しいというわけでもないが、なんというか、余裕がない。当時は紺ハイソに対する思いがあまりに熱烈だったため、こんな文になったのだろう。小説仕立てにするならもっとちゃんと舞台設定などを考えるべきだった。
 今は小説は書けないので、逆に純粋な論文調のものとして紺ハイソ記事を書くことはできないか。しかし原稿用紙何ページも使って書くほどのものでもないようだ。紺ハイソはふくらはぎを細く美しく見せる。また、肌を白く引き立てる。これ以上のことは特に言うことはない。あとは黙ってイラストでも描いて、そのことを証明すればいいのだ。
 言うに言われぬ魅力というものは、ツインテールにおいても同じだろう。魅力を正確に言い表すのは難しい。後頭部の分け目の美しさをうまく表現できる言葉があるだろうか?
 先日はツインテール、ブルマー、スク水といった永田の大好物を描いたわけだが、次は紺ハイソということになるだろう。紺ハイソフェチなイラストは、数多の萌えイラストの中では少数派だ。だから、自分が紺ハイソフェチイラストの世界を開拓してやる、という意気込みでやらなければ駄目だろう。だが絵心のない永田のことであるから、既存のイラスト群を見てヒントを掴まなくてはならない。
 作業は全てデジタルに移行したが、ふくらはぎの美しい曲線をフリーハンド(補正つき)で描くか、それともパスを使ってラクに描くかは人によって判断が分かれるところだ。まあ、パスを使うとしても基準点を何点かとってやらないと、ふくらはぎの玄妙不可思議な丸みを出すことは難しい。それよりは、昔Gペンでやっていたように、ペンタブのペンを迷いなく滑らせて一気に曲線を引いた方が、良いものになるような気もする。デジタル作画については今後なお多くの情報を得て、最適な道を見つけたい。


1月19日

 たまにはファンでないと分からないコアな話をしてみてもいいだろう。
 永田は久々に「くるみミラクル」をプレーした。今回はいべんと23「ゾンビな嫌がらせ」と、いべんと18「渋いギャングの悩み」をやってみた。「ゾンビな嫌がらせ」は、コーラル主導で展開するのと、ナギサ・アヤメ主導で展開するのと二通りある。今回使用したセーブデータでは、ちょうどどちらの展開も起こりうる状態になっていたので、あえてナギサのルートを選んでみた。ここではアヤメが謎のアイテム「ゾンビの笛」を吹くが、その音が何ともマヌケで楽しい。するとゾンビがどこからか現れて、リゾートマンション建造計画をパーにしてしまう。
 「渋いギャングの悩み」は、ご存知の通りのギャグイベントであるが、けっこう細かい分岐があって楽しい。ナンブとの戦闘になったり、レシピとの戦闘(?)になったりする。レシピの持ってきた明細書をシュポポで燃やしてしまうところでは爆笑してしまった。
 それと、残り0日で発生するいべんと39「最後の海上バトル」も先日やった。これはカルマンドの必殺技プラネット・ウェイヴをカベカベで防御すればスムーズにクリアできるが、カベカベを持っていなくても、ステラが助けに来てくれるので勝つことは可能である。
 と、このように久々にくるみミラクルをプレーした感慨を記述してみたが、これだけでは感動も何も伝わらないことははっきりしている。やはり自前のイラストとかを添付しないと分かってもらえないだろう。しかし本日は時間もないし、サラサラと数十分で絵を描くことには慣れていないため以下略とする。
 そういえばくるみミラクルファンページもしばらく更新していない。ページトップのイラストも3年前に描いたものだ。しかしこれはこれで下手だけれども愛着があるのでしばらく残すことにしよう。pixivで「くるみミラクル」でタグ検索すると、現在のところ一件だけ引っかかる。そこには意外と勇ましげなくるみの姿が描かれているので、興味のある方は検索してみるといいだろう。
 マイナーな美少女キャラも、検索すればたいてい見つかるのがpixivの面白いところである。おそらく「デュープリズム」のミントとかもいるだろう。「聖剣3」のリースは言うまでもないだろう。しかし永田が過去にこのページのイラスト日記で描いていたゲームキャラたちは下手すぎてもはやpixivにも投稿できず、お見せできないのであった……。


1月18日

絵日記その20

 季節はずれの(ry


1月17日

絵日記その19

 季節はずれのブルマー


1月16日

 なぜ毎日日記を書けるかというと、なにがしかの問題意識をつねに持っているからであろう。自分に充足していては何も書きたいことは生まれてくるまい。まあ、永田の問題意識はゲームとかお絵描き近辺のことに限られているのだが。
 やっぱり、「あと30分で何か書かないとならん」と制限を決めるとスイスイ書けるようである。本日中に完成させなくては、という緊張があるから、力を発揮できる。読者の方も締切というものがいかに大事かということはすでにご理解のことと思う。
 それにしても、以前は小説、SSを書いていたこともあって、日記を書くにしても、わりと文の組み立てにこだわりを持ったりしていた。結果として一時間ぐらいは日記を書くのに費やしていたと思う。しかし最近は15分ぐらいでサラッと書けてしまうようだ。この方が自然体で良いのかもしれない。
 とはいえ、書くことがない日というものは存在する。そこで今日は例によって過去の自分日記の中からネタを探し出して書いてみよう。永田は「きんぎょ警報」と一言だけポツリと書いた日記を発見した。細かい説明は必要あるまい。どこかでギャグとして使えればいいと思って書き留めたが、結局今になっても使えないままである。せいぜい漫画の中で小ネタとして使えるぐらいか。
 他には、「くたばれPTA」という言葉も見つけた。これは筒井康隆の作品集の名である。「くたばれPTA」という言葉には元ネタがあったはずで、「くたばれDNA」だったかどうだかちょっと忘れたが、検索してみてもよく分からないのは残念である。
 あと、アナログで漫画を描いていたころの制作メモが残っていたりする。何日の何時にどんな作業をしたかが書いてあり、当時のライブ感(?)が分かってちょっと面白い。現在は絵を描く際にいちいちメモを残さないのだが、どうせPSDファイルは絵が完成したら二度と開かないのだし、もう少し作業経過が分かるようにメモを残してみてもいいかなと思っている。ただ、素人のやるいわゆるCG講座みたいなものはなんだか痛いのでやらないであろう。


1月15日

 レーザーディスク・プレーヤーの生産が終了するというニュースを見て、一つの時代が終わったなぁと感じる永田である。
 永田は学生時代に、貯金をはたいてプレーヤーを買った。パイオニアのCLD−R7Gという中堅モデルで、価格は7〜8万したと思われる。用途はむろんアニメであった。といっても、新しいアニメのLDを買い続ける財力は到底なかったので、本当に気に入ったアニメのLDを中古屋で探して買うのが普通であった。かつてのアニメ趣味については、痛い話でもあり、また記憶があやふやになってきているので、詳細は控える。LDソフトはほとんど、タダ同然の値でハードオフに売ってしまった。
 プレーヤーはいまだに家にある。LDを見ないので、むしろ高級なCDプレーヤーとして使えそうだが、直径30センチもあるディスクを載せるトレイを開閉するのは厄介なので、最近はコンセントすらつないでいない。放っておくうちに機能が駄目になってしまうのでは、という不安もあるが、どうしようもない。永田にとっては、数百冊の文庫本とともに、学生時代を象徴する一つのアイテムである。
 これを買った当時、映像メディアとしてはLDと、普及したてのDVDとがあった。永田はDVDには高圧縮によるブロックノイズが多くて見るに堪えないという当時の風説を信じ込み、非圧縮メディアであるLDを選択したのだった。垂直解像度は約430本で、S−VHSの約400本を上回る、とか、もっともらしく述べ立てていたものだ。元来、アニメの画質にそんなにこだわる必要はなかったのだが……。
 LDには欠点も指摘されていた。CDやDVDはポリ・カーボネートで信号面を覆っているが、LDではその代わりにアクリル樹脂を使っており、このアクリルが少しずつ水分を通すので、20年も経てば信号面がサビて読み取れなくなるらしい。しかし永田は、どうせ20年先のことなんて分からないから、とLDを選択した。
 学生時代にはたくさんのビデオテープにアニメを録り貯めたものである。今ではそれらをキャプチャしてデータとして残してあるが、見直すことはほとんどない。見直す必要もなかろうと思う。アニメをデジタル記録することが手軽にできる現代にあって、永田はそのアニメを見る意欲を喪っている。ますます現代の流行から遠ざかっている永田だが、温故知新ともいうし、15年ほど前に保存した「魔法陣グルグル」でも見直して、鋭気を養おうかと思っている。


1月14日

 別に巡音ルカは全く悪くない。ただ、永田に見え透いた下心があったため、結果として自滅することになってしまった。
 これだけでは何を言っているかさっぱりだが、要するに、ほんの小さなきっかけで、永田はちょっとした恐怖症みたいなものになったようである。CGイラストは難しい、手間がかかる……などと、マイナス面ばかりが思い起こされる。せっかく先日まで楽しくお絵描きをやっていたのに。
 まあ、数日経って週末になれば、また普通に絵が描けるようになると思う。どうせ、再び活字の海に飛び込む気はないのだし、趣味といえば絵かゲームぐらいのものである。頭を無にして単純に楽しめるのはゲームしかない。お絵描きは頭や神経を使い、疲労を生むけれど、それに見合った達成感が得られる。趣味なのだからただ苦痛なだけではつまらない。
 順調に絵を描いていたのに、余計なことをして台無しにしてしまう。『吾輩は猫である』にも、人間の定義とは不要なものを捏造して苦しんでいるだけの存在だとか、そんなことを書いてあった。永田は巡音ルカを描くべきではなかった。少女以外のものを描くという、慣れないことはするものではない。やるなら少し腰を据えて、時間をかけてやるべきだった。
 というわけで、今後は例によって少女のことで頭を一杯にして、しかる後に一気呵成に描いてみたいものだ。だが、既存キャラで描いてみたいと思う者がいないのは残念である。アニメ「かんなぎ」は録画だけして(VHSテープに)、一切見ていない。つぐみというキャラはエロい二次創作をたくさん作られているようだが、全く興味がない。ただ単にこちらでも放映されているから録画しているだけのことだ。
 そういえば、pixivに参加してからちょうど一月が経ったようである。毎日サイトをチェックしているうちに色気、欲気も出てくるのはやむを得ない。しかし当面は自分の好きなものだけを描いていくことに致そう。


1月13日

 一昨日の日記に、自分でゲームを作れたらなぁ、ということを書いた。実はゲームを作ってみたことがある。といっても空想の中だ。永田は昔、パソコンに自分だけの日記をつけていて、その中の一つのコーナーとしてゲーム製作者としての自分を表現したのである。
 ちなみに、永田の担当は原画であった。ゲンガーとして、他の担当者(シナリオ、作曲、CG、プログラム、プロデュース)との間ですったもんだを起こしながら、どうにか完成まで仕上げるというストーリーだ。
 しかし今振り返るとこんな妄想はあまりにもつまらない。永田は学生生活においてせっかく仲間と触れ合うことができたのに、その機会を充分に活かすことなく去ってしまった。まあ、周囲を見回すと、一人でしか行動できない人は他にもいたので、その点は幾分安心できたのではあったが。
 永田とて、仲間と楽しく過ごした経験は過去にある。しかしどういうわけか、彼らとのつながりは現在において全く断ち切られている。自分がそんなに悪いとも思わない。また、今さら連絡を取り合うことは難しい。こんな時にしみじみとした思いを詩歌に託して詠うことができたらいいのだが、そんな文才もない。ダラダラ語りしかすることがない。
 頭の中には、いつ使うとも分からない小ネタを少しだけ貯め込んでいる。永田はセコいので、ネタがあるうちはまだ自分は大丈夫だと思っている。何が大丈夫かよく分からないが、とにかく大丈夫だと思っている。ネタに寄りかかって生きている。しかし、「チサト日和」がなかなか進まないことは、ネタを温めすぎてだんだん腐ってきていることに起因している。自分では面白い面白いと思っていたアイデアが、形にしないでいるうちにだんだん腐り、元の形をなさなくなってしまった。永田はキリストのように腐ったものを蘇生することができない。一度捨てて、新たに作り直すしかない。プロの作家が普通にやっている、古いネタを捨ててどんどん新しいものを投入するということを、永田も見習うべきである。


1月12日

 永田は書店で見て「制服概論」(文春文庫)という本を衝動買いしたのだが、けっこう痛い内容のようなので買ったことを後悔している。これなら自分で制服論を書いた方が楽しいのでは? と考えてしまう。
 といっても、制服をどう論じたらいいか。あくまでも永田の考えとしては、制服はとても良いものである。しかしそれは女子中・高生と結びついているからこそ良いのだということは言うまでもない。小学生の制服も一部あるが、別段萌えはしない。大学生以上の者がセーラー服などを着ているのも、もちろんノー・ウェルカムである。
 休みなのに永田のペンタブのペンは動かないのだが、これはもしかすると巡音ルカという慣れないキャラを描き、今後も描こうかどうしようか迷っているためではないだろうか。永田は一枚もののイラストを必ず一日で(つまり数時間で)仕上げるようにしており、日をまたぐことは決してない。本来ならば、二日三日かけて我が身を三省しながら描いた方が、完成度が上がるはずであるが、なにぶんせっかちなので、思いついたポーズは即作品としたいのだ。下手の考え休むに似たりという言葉もある。
 まあ、巡音ルカはだいぶんお年を召しているようなので、描く永田の心に負荷が強くかかったのかもしれない。やはり今後は本来好きな女子中・高生ぐらいの年齢のイラストを描くことに致そう。底辺絵師のままでいるのは残念だが、自分の絵を客観的に見て適宜修正し、本当に完成度の高い状態に持っていけたなら、その時が永田の底辺脱出の時となるであろう。


1月11日

 某所で、スーファミ版「弟切草」の選択肢の数は1292個あるらしいということを読んだ。現在、永田は1222個まで収集したのだが、あと70個もどうやって見つければいいのかと困惑している。
 しかし、どの選択肢を選べばどういう展開になるのかをいちいち調べてチャートを作るのは、面倒くさいし、ゲームの面白さを損なう恐れがある。まあ、「弟切草」の面白さを損なったとしても、他に「くるみミラクル」もあるから……と考えてしまうが、どうせならゲームは楽しくプレーできる方がいい。今後も行き当たりばったりのプレーをすることに致そう。
 それにしても、永田は最近、手に入れたゲームを途中で放り出すことが多い。PS2のドラクエ5とか、428とかである。まあ、「キミキス」のようにコンプリートガイドまで買ってコンプリートしようとしたゲームもある。今度の「アマガミ」もよほどのことがなければ買う予定である。
 永田が今一番ゲームに期待しているのは、Wiiのバーチャルコンソールでもっとファミコンの名作が配信されることである。しかしドラクエシリーズなどは永遠に出さないような気がする。ちなみに今日、久々にWiiをネットにつなぎ、「ロードランナー」があることを確認したのでダウンロードした。どうせなら「チャンピオンシップ」も一緒に出してほしかった。Wiiリモコンにつなげる連射コントローラーも出ているのでいずれ買って、「スターソルジャー」「ツインビー」あたりをプレーしてみたいものだ。
 と、こういうレトロゲームの話になると急に勢い立ってしまう。永田はファミコンに夢中だった幸せな過去を思い起こすのだが、それはあれだけ異常に夢中になれたモノが今はもうないからである。お絵描きの趣味があるが、絵心と呼べるものはほとんどない。他には気まぐれに小説を書いたりもするが、雑誌「文學界」を定期購読し始めてから、すぐ小説に飽きてお絵描きに移ってしまった。
 そういえば、将来プログラミングを覚えてテレビゲームを作ってみたい、と子供のころずっと思っていた。今ではゲーム作り支援ソフトがあるから、プログラミングは別にできなくてもいい。その代わり、音楽とか絵とかを作る必要が出てきて、やっぱり障壁が高いと感じてしまう。まあ、そのゲームも、ドラクエ「のような」ゲームであり、オリジナリティはほとんどない。今さらながらサウンドノベルが作れたらいいなぁと思ってしまうが、一人で作るのは相当無理がある。永田にはチームワークで何かをやっていけるという自信がまるでない。しばらくは一人で絵や文をせっせと作ることに致そう。


1月10日

 永田はお絵描きSNSを利用しているが、その利用にあたっては、自身の活動に悪影響を及ぼすことがなければいいが……と思っている。
 以前も言ったが、プロ、セミプロと同じ土俵に上がっているわけである。この土俵の下に金は埋まっていないが、ランカー、高評価を目指して日々ペンタブのペンを走らせる人々がいる。あるいはGペンを原稿紙の上で滑らせる人がいる。
 高評価を目指すとしても、それはしょせんSNS内の評価にすぎないということは知っておくべきだ。時流に乗った絵を描くと読者のウケがいいし、また、デフォルメ絵、ネタ絵、和み系の絵がウケることもよくある。
 結局、以前も言ったように、エンタメ精神を持っているかどうかが鍵となる。永田は当初、スク水や紺ハイソのフェチイラストを中心にするつもりだったが、もっと読者にウケたいと思って強引に方針転換をすることも考えられる。そこには恐らく高い壁が待っているだろう。技術的な壁であり、絵描き精神的な壁である。まあ、永田がエンタメ精神を持っていないからといって、何でもそのせいにして責任逃れをしてしまうのは良くない。いまいちウケが良くない絵について、どうして駄目なのか、よく考えてみるべきだ。
 当初に書いたような悪影響は、きっと、ウケを狙おうとして描き始めた瞬間に出てくると思われる。永田は既存キャラに萌える心をほとんど喪っている。そこへもってきて、話題のキャラ、人気のキャラを描いてウケを取ろうとするのは間違ってはいないか。まあ、ウケを取るといっても、閲覧数がちょっとでも伸びれば喜ぶわけだし、変に高評価を求めていないのはまだ毒されていない証拠である。飽きっぽい永田のことだから、どうなるかは分からない。絵を描くこと自体も、ここ数ヶ月夢中になっているだけで、先は見えない。
 と、以上のようなことを考えながら昨日の巡音ルカを描いたわけである。既存キャラを描こうとしてもあまり似ることがなく、永田流のヘボい絵になってしまうわけだが、根本的に大事なのは自分が楽しんで描くことである。人に見せて高評価を得ようとすると、そこで初めて精神的な問題が現れる。これは漫画においても全く同じことだ。漫画や絵の中にあるストーリーは、分かりやすく面白いものでなくてはならず、また、ちゃんと意味のあるものでなくてはならない。漫画チックな絵であるから、漫画チックなストーリーが必要だ。一つの面白いストーリーの流れがあり、その中の一瞬をうまく切り出すことができれば、自分にも他人にも満足のいく絵となるであろう。


1月9日

絵日記その18

 ミクとのコンビにしようと思ったが諸々の事情で一人になりました。


1月8日

 永田はあまりにも書くことがない時、昔書いたメモ書きを読み返してネタにしようとするのだが、大して目新しいことを言っているわけでなく(当然だが)、数年前と同じようなことしか今も考えていないのがなんだか情けないような気もする。
 永田の活動は、お絵描きSNSに登録したことによって少し変わった。まあ、ひとつのSNSだけで萌え・オタク業界全てを判断してはいけないが、やはりそこには栄枯盛衰があり、盛者必衰の理を表しているようだ。熱狂的に愛されたものほど、飽きられるとひどいことになる。
 それでも、自分の絵を見てもらえる機会がぐんと増えるのはいいことだ。せめて投稿した当初だけでも、自分の絵を客観的に見られるようになり、次はどこを直せばいいかが分かるであろう。永田はネット上で二言三言交わすだけで切磋琢磨できるとはあまり思ってはいない。やはり、当分は自分の絵を客観的に見るための手段としてSNSを利用するのがいいだろう。
 流行りのキャラがいれば、描いてみたいと思うのは当然だ。しかし、東方のことをよく知らないのに東方キャラを描いてウケようとか、そういうのはあまり好きではない。かといって、オリジナルのキャラ(てきとう)で、スク水とかの属性をつけてみても、よほど上手くないと閲覧は伸びていかないようだ。
 日記を書いて、後で読み返すのは、過去の自分との対話である。イラストにおいてもまたそうではないだろうか。案外、イラストの細かい部分の作業までよく覚えているものである。アナログで描いた絵よりも、デジタルで描いた絵の方が、パソコンソフトのどんな機能を使ったかがよく分かるようだ。永田は完璧なアニメ塗りを目指しているわけでもなく、なんだか微妙なエロゲ塗り(?)みたいな塗りを目指しているが、やはりそのためには勉強も必要だ。とにかく制作意欲を継続させることが、永田の必要にして最も重大な課題である。


1月7日

 巡音ルカというキャラの存在を知ったのはいいが、特に絵を描いてみたいということもなく一日を過ごしてしまったのは残念である。
 もし好きな声優が出演するのだとしたら、製品も買うし(作曲できないが)、絵も描くことだろう。そろそろそんな製品が出てもいいような気もするのだが、やはりボーカロイド向けの声をした声優を起用しようとしているのかもしれない。永田はヤマハには長年世話になったが、声優の萌えボイスがないことには出資する気になれない。
 今日は病的に面白いことがなかったので、病的に「弟切草」の話をしよう。プレー回数は161回になった。行き当たりばったりでプレーしていて、計画性は全くない。選択肢は1222個になったが、まだピンクシナリオの最終盤付近での分岐をつかみきれていないようなので、これで終わったという気はしない。
 それにしても、今さらながら非常によくできたゲームだと思う。どの選択肢を選んでもそれなりにきれいにシナリオがつながっているし、少々矛盾があったとしても、それはそれで楽しめるというのが大きい。この点では永田が病的にプレーした「くるみミラクル」と共通点があるといえよう。
 また、「弟切草」の音楽もいい。冒頭で弟切草の伝説を話すくだりの音楽が特に絶妙であり、手を止めて聴き入ってしまう。このゲームが歴史の中に埋もれてしまわずにバーチャルコンソールで復活したのは誠にもって意義があると思う。
 最初の巡音ルカの話に戻るが、永田は当然のごとくこのキャラをpixivのトップページで知ったのであった。pixivはSNSの一種だけれど、日記機能がついていないのは幸いというべきか。もしついていたら、永田のごとく絵についてダラダラ語り、読者が離れてしまう危険があろう。やはり上手な絵師はごちゃごちゃ自分の絵について語らず、ただ絵によってのみ語ってほしいと思っている永田である。


1月6日

絵日記その17

 永田は絵の中に日記文を入れるのをやっぱりやめた。


1月5日

 ラグランTシャツのイラストです。カーソルを乗せると別の色に変わります。お好きな方をどうぞ。

絵日記その16

1月4日

 昨年後半に描いてここに載せたイラストも、そもそもは自己満足のために描いたものである。
 小説の世界では、「優れた書き手は優れた読み手」だと言われている。この文を逆から読むと、「優れた読み手でなければ優れた書き手ではない」となる。
 永田はイラストを見るにあたって、優れた読み手だといえるか。いや、決してそうではない。永田はさまざまな場所で萌え・エロイラストを採集する。しかし一度チラッと見て「これは萌えだ」と思って保存しておくが、その後見返すことはあまりない。量的に多すぎて時間がないというのも一つの理由だが、永田は萌え絵をただ一瞥し、保存し、それで満足してしまう。どこがどう萌えなのかと研究することがない。これでは優れた読み手も何もないではないか。
 萌え絵の世界は一見「何でもあり」のようにも見えるが、実は法則があるのではないか。永田は美術を全然学んでおらず、人真似をしながら描いてきただけだ。一応、漫画やイラストの教本は読んだけれど、基礎力はあまりないと思われる。やはり裸婦デッサンをしたことがないからだろうか……と思ったりする。
 ギャルゲー、エロゲーは絵のプロが作った作品である。しかし、情報雑誌を見てみても、その全ての絵に萌えを感じるわけではない。それは、男にとって女のどこに魅力を感じるかが人によって千差万別であることと同じだろう。まあ、萌え絵において重要なのはとりあえずキャラの顔であり、瞳である。そして胸や尻や二の腕や太股と続く。髪形も重要だ。
 永田は、自分の描いたイラストを良い絵だと思うことが多い。永田と同様の好みを持つ人が見てくれたら、まあまあ良い絵だと思ってくれるだろう。しかし人によって好みは大分違う。そこで武器となるのがデッサン力、構成力といったもので、これらは美術学校で身につけられるものだ。ここに素人とプロとの差がある。毎日毎日絵ばかり描いているプロは当然上手である。「萌え」でなくても、上手いと感じさせる。
 永田の場合、根本的に順序が逆なのだ。少年ジャンプに載った美少女イラストコーナーを手がかりに、そして遊人の絵を手がかりにして自分なりにかわいい女の子を描きたいと思って練習した。顔の練習、身体の練習、いろいろあった。しかし美術向きの脳を持っている人と比べるとやはり違うと感じる。永田は小学・中学の絵の授業を全く楽しいと思わなかった。とにかく美少女の絵から出発して、あわよくば人体、背景画といったものへと技術を広げていければと思った。
 今さら美術学校へ入れるわけではないし、そこでどのような順序で絵を学ぶのかもよく知らない。ただ、萌え絵というものが美術界のほんの隅っこに位置するものだということは確かだろう。もちろん、かわいくディフォルメする技術は素晴らしいものだが、美術の本流とは決して言えない。pixivでランキングに入っている人気イラストを見るとそう思う。萌えな女の子をちょっと描けるだけでイラストレーターを名乗るのはおこがましいと思う。
 さて、今年の姿勢は、無理をせず描きたいものを好きなように描くことを目指したい。永田の絵に強い集客力が無いことはもう分かったので、ごく一部の人で永田の絵を気に入ってくれる人のために描きたいと思う。一人きりでウェブサイトの運営をしていると、どうしても「のれんに腕押し」の状態に陥り、自問自答ばかりをすることになってしまいがちだが、そのようにして健康を害することがあってはならない。達磨大師は面壁九年といって、九年間壁に向かって坐禅を続けたそうだが、永田にそんなことはできない。壁(PCモニター)の向こうの人々へと目を向けてゆきたい。


1月3日

 前にも言ったが、漫画というものは締切がないとなかなか完成させられない。今の永田は「チサト日和」その15の構想を練っているところだが、「ここでこういう背景が必要(なので面倒)」とか、「ここは私服なので(ファッションセンスのない)永田も頭をひねってかわいい服を考えなければ」とか考えることがある。要するに、大変だ、面倒だ、という気持ちがすぐに頭をもたげてくるのだ。
 こういう考えになったのは、デジタル制作になったこととあまり無縁ではないと思う。しかし根本には、体力の問題とか、モチベーションの問題とかがあるだろう。
 そこで今日は、永田が夢中で漫画を描いていたころのことを精細に思い出し、心理を分析してみようと思う。永田は「チサト日和」を1999年5月から某同人誌に載せてもらった。そのころの永田は文芸サークルに所属し、自分の意見を他人に広めることに熱中していた。要するに意見広告ならぬ意見小説みたいなものを書いて、サークル仲間に見せていた。その一方で、中学から続けている美少女キャラ描きの練習も続けていた。そして、その機が熟したと考え、人に見せるための漫画を始めることにしたのである。
 さて、その「チサト日和」は、わりと単純な動機から始めたものである。「個人サークル」という同人用語を永田は好んでいた。それを高校において登場させ、生徒たちがみんな一人で部活みたいなことをするようになれば面白いかな、と思った。要するにこれは、すぐに群れて騒ごうとする高校生や若者らに対して多少腹を立てており、そんな風潮が少しでもなくなればいい、と思って描いたのだ。「チサト日和」に登場する女生徒たちはそれぞれ一人きりのサークルをやったり、あるいはサークルをやりたくないといって一人で反発している。誰も彼も一人きりである。永田はそんな者たちを描くことに楽しみを見出した。
 しかし、「その8」に到達したあたりから、オタクネタを散りばめることに違和感を感じだした。そのあたりから辛気臭い内容の作品になってゆく。オチも「ギャラクシーエンジェル」第1期のような、ナンセンスというか投げっぱなしというか、そんなオチを採用するようになった。エンターテイメントの枠から外れていったのである。制作ペースも極端に落ちた。
 当時の制作状況について述べよう。永田は毎日毎日漫画を描いていたのではなく、同人誌の締切に向けてスケジュールを決め、半月なら半月でまとまった期間を設けた。制作は主に深夜である。眠いのを我慢して描くのもまた楽しかった。Gペンを使ってアナログで描くのが何ともいえず楽しかった。
 1話が完成したら、しばらく休みをとる。気力を集中させていたので疲れも生じたからである。しかししばらくすると、「また描きたい」という気持ちになってくるのは不思議なものだった。
 発表スケジュールを見てみると、「チサト日和」を熱心に続けて描いていたのはほんの1年ぐらいだったようだ。そこで次は、もう少し熱心に描いていた「本を買うならフックオフ」について述べよう。これは2000年〜2003年にかけて描いたものだ。やはり深夜を使い、「映像散歩」のビデオをかけながら描いたものだ。こちらは同人誌の締切が年に5回あり、そのうち4回に掲載する目標を定めていた。「落とす」ことはほとんどなかったようだ。この作品は「チサト日和」ほど辛気臭くないはずだ。作者自身が漫画マニアであり、その知識を生かして同人誌読者のオタクたちと共感を持てればいいなと思っていた。その時々のアニメのネタで笑わせたこともあったと思う。
 「フックオフ」はしかし、結局内輪ウケの域をあまり出ない作品である(読者がどう見るかは分からないが……)。思えば、内輪ウケを目指して描く漫画ほど楽しいものはない。特定のネタを知っているマニアに向けて描くということだ。ネタは当然オタクだから腐るほど持っている。あとは自分が面白いと思うネタを使って萌えキャラでも出せばそこそこ読んでもらえるだろう。
 ちょっと一般同人漫画、あるいはpixivのことに話を移すと、既存作品のイラストやパロディ漫画の方が、オリジナルものよりも人気が高い。今さら言うまでもないことだ。それは、アニメや漫画を好きだという気持ち、あるいはアニメや漫画のキャラでエロいことを想像したいという気持ちを共有できるからだ。他にも、スク水とかツインテールとか、属性に萌える場合も同じであろう。
 以上をまとめると、内輪ネタのものは内輪にウケて面白いし、パロディ作品はファンにウケて面白い。描く者も読む者も楽しめる。
 再び描き手の話に戻ると、永田は「フックオフ」を、読者にウケたいと思って描いた。だからこそ続けられたのだと思う。一方の「チサト日和」は、自分さえ楽しめればいいという考えに陥っている。
 しかしもう「フックオフ」の続きは描けないだろう。そもそも普段ほとんど漫画を読まないからだ。また、田舎で悶々と考えたことを作品に反映してもつまらないだろう。やはり漫画オタクたちの流行の最先端を追うようなものでないといけない。
 そこで結局は、趣味を同じくする友人、知人がいないという残念な現状に逆戻りしてしまうわけだが……。
 こうして漫画が描けないといって悩むのは、11月以来一枚もののイラストに傾倒しているからかもしれない。萌えイラストも良し悪しである。頭の切り替えが必要だ。そういえば「ストッチーズ」は、女の子をかわいく描くことを何よりも大事にしていると聞いた。永田も、ただ少女たちを漫然と出すのでなく、如何にかわいく描けるか、を重点目標としていくべきである。そうすれば、脇役の者らにも好感を持ってもらえるに違いない。


1月2日

 お正月気分もそう長く続くものではない。再び、一銭にもならない活動へ逆戻りである。
 永田の今年の目標をあえて立てるならば、本気で打ち込める「何か」を見つける、ということだ。昨年9月までは普通に文章の読み書きをしていた。下手の横好きである。そしてその後は、さらに下手の横好きといえる漫画・イラストに取り組んだ。
 永田はこれらの活動内容を身近な他人に対してほとんど秘密にしているので、アドバイスをもらうことができない。まあ、萌え絵の師匠とかがそこらへんにいるわけでもないが、やはり普通は文章なら文章、絵なら絵に精通している知人にアドバイスをもらい、「お前はこの道を目指しても駄目だ」とはっきり言ってもらえるなら、その道をあきらめ、ベストな道を進むこともできるだろう。
 しかし、永いこと一人でやってきたので、自分の作品に対して盲目的な愛を持ってしまい、客観的な見方が全くできなくなっている可能性もある。こうなると厄介だ。築き上げた価値観を崩されるのが怖くて他人に近寄れないという弊害もあるだろう。
 とまあ、このように一人で考えながら活動をしてきた。禁欲的にも見えるけれど、酒を呑んで寝てしまうこともある怠け者である。しかし残念なことに、酒を呑んでもそんなに豹変することはない。早い話が、気分を高揚させる手段を持っていないのが今の永田である。やはり他人とのコミュニケーションにおいて初めて、刺激を受けたり興奮したりできるのではないだろうか。
 というわけで、永田はコミュニケーションの可能性を探るため、先日からpixivに参加している。現在、9つの絵を掲載してもらっている。おひまな方は検索して拙作をご覧になっていただきたい。


1月1日

 あけましておめでとうございます。
 今年も、よろしくお願いします。


12月31日

 今年も終わりである。特別良い年でも悪い年でもなかったような気がする。去年の今ごろは大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」を読んでいたはずだが、今年は全くもって文学に縁がなくなった。しかし永田の心は猫の目のように間断なく変化するから、来年の今ごろは何をしているのか、全く予想がつかない。
 漫画や絵を提供して、そんなに憎からず思ってくれる人がいるのは確かだ。しかし当サイトはまだまだ飛躍できる可能性があると思っている。しかしネットを介して人とコミュニケーションする機会がますます減っているのが問題だ。ROM専というやつである。だが、こればかりは十年前からずっと抱えている課題で、いまだ解決がついていない。
 新聞社でさえ、休刊日を設けているのだから、永田も本日は活動を休んで大掃除でもやり、ついでに来年のことを思い描いてみたい。どんな年になるのか、といった抽象的なことはどうでもいい。何を創れるか、が大事だ。一人の人間として他人に対峙できず、ただ漫画や絵や文といった形でしか向かえないのは残念だが、仕方ないさと諦めてもらうしかない。良いこともあれば悪いこともある。毎日更新という目標は当面続けていくつもりだが、それがもし止まった時は、永田の新たな転機となることだろう。


12月30日

2008年ヒット商品番付
番付
西
アンニョン!
横綱
少女マテリアル
ハトのおよめさん
大関
みつどもえ
YOUR DOG
張出大関
おひとり様物語
メグとセロン
関脇
ひろなex.
サナギさん
小結
428
百合星人ナオコサン
前頭
ライフル少女

 終わりに「ン」がつく作品が異常に多いようだ。


12月29日

 今年の活動はほぼ終了した。あとは番付の発表を残すぐらいである。それとて、大したものではない。年末年始の休みがあるが、そこではカラーイラスト制作をちょっと休み、漫画作りに精を出したいと考えている。本来ならば年賀イラストを出したいが、牛のモティフの少女に永田はあまり萌えることができない……。
 世間はコミケシーズンであってどうたらこうたら、ということは既に書いたことがあるのでもうやめよう。結局はコミケに行ける人々をうらやましがって終わるだけだ。しかし、ネットでの面識だけでいきなり即売会において対話したりなどできる人を、永田はちょっと奇異の目で見てしまう。仮に相手のファンである場合、その思いは表明した方がスッキリするかもしれないが、表明することがマイナスの結果を生むこともある。その点では恋心の表明に似た点があると言えよう。
 即売会に出られる人は、東京近辺に住んでいたり、ホテル住まいをしたりして高い投資をしているのだ。だから田舎者はせめてオタクショップに行って、少々高くても我慢して同人誌を買うことになるわけだが……そのオタクショップにすらめったに行くことはできない。しかしもし田舎のオタクショップに通っていたら知人にバレる危険があるという諸刃の剣である。田舎は狭いものだ。
 明日は三日目だ。永田は法規制だけはやめてもらいたいと、遠くから祈っている。


12月28日

絵日記その15

12月27日

絵日記その14

12月26日

 永田はドリフターズの特番を見て、笑いを追求するための並々ならぬ苦労を感じるのだった。
 それはそうと、いよいよ年末年始休暇が間近に迫っている。特に出かける用事もないので、制作をしたいところだが、一枚の年賀イラストに時間をかけるよりは、漫画を何ページか進めたい。こないだ「パース塾」の本三冊を買ったので、それを読みつつ適度に背景を入れていきたい。しかしIllustratorのペンツールよりもPhotoshopのペンツールの方が使いやすいのは気のせいだろうか……。
 どうでもいいが、「みつどもえ」6巻の104卵性「ガールズスプリンクラー」というサブタイトルは、やはり関谷氏の「ガールズシャワー」をもじったものなのだろうか……。
 それよりも番付を作らなくてはならない。別に誰かと張り合うためのものではないので、思い通りに作って良いのだが、原案を見てみると案の定ショボいものであった。あまり萌えオタクっぽい番付に見えないのは、永田がナンセンスギャグを好んでいるためか。もし都会にいてオタクショップによく通っていたなら、全然違ったランキングになっていただろう。あとメジャーなアニメも放送されていないのが難点だ。
 「ストッチーズ」や「どらトラ?」(覚え違い)の本編は一秒も見ていない。別に見なくても、多くの二次創作イラストを見ればそれで充分なのかなとも思う。永田はアニメ「とある〜禁書目録」の主人公の萌えキャラがけっこう好きであるが、このアニメも例によって一秒も見ていない。しかしもし有料配信されたとしても見ないだろうなと思う。
 萌えイラストを見たり、たまに萌えキャラ雑誌を買ったりしてとりあえず満足している。永田にとっては原作のストーリーなどは割とどうでもよく、ただキャラに萌えられればいいのだ。まことに結構な脳味噌をしている。あとはテレビの前に何十分と拘束されるのを嫌っている。漱石の作品のどこかに書かれていたが、永田は「時間の守銭奴」と言うべき者である。空いた時間、ヒマな時間を何よりも求め、制作をしたり遊んだりしようとする。大学で研究をしていた時もそんな感じだった。今やステータスや高収入とは無縁の永田であるが、今後も空き時間を大事にしてゆきたい所存である。


12月25日

 いつも回顧的な永田の日記であるが、年末にあたって今年一年の活動を振り返ることは認めてもらえるだろう。
 5月末から日記を継続的につけている。内容はあまり明るくなく、内省的だ。漫画・アニメを見ることなく、小説を読むこととSSを書くことに没頭していた。とにかく何でもいいから毎日更新すれば自然とお客が増えると思っていた。しかしその目論見はほとんど成功していない。しかし何だかよく分からないやる気が永田を支えている。おかげさまで今年は4万ヒットを迎えることができた。1万ヒットを得るためには二年以上かかるというのが現段階の試算である。
 当サイトがいつ誕生したのはいつか。SANNETに移転して始めたのは確か平成11年5月3日だったと思う。今から9年半前だ。しかしその前段のサイトは大学のサーバーに置いてあった。当時はいちいち作ったファイルをFDなどに保存しておかなかったので、正確にいつサイトを始めたのか分からないのは残念だ。
 記録によると、一枚もののイラストをよく載せていたのは平成17年秋〜冬であった。今年に入り、9月から今までたまにイラストを掲載している。古い絵を見ると、やはり彩色が変だなと思う。その他、拙い点は多い。今年に入ってから特別上達したというわけでもないが、教本やデッサン人形を見たりして、どうにか見られる絵になるよう心がけている。
 萌え漫画はたまに買っている。萌えを取ったらただの抜け殻になりそうな漫画が多い。それでも萌えを追求する永田にしてみれば、買うしか選択肢はないのだ。
 来るべき平成21年にあっては、ひとつ思い切って活動の幅を広げてみたいと思っている。まだその詳細をお教えすることはできないが、ひょっとするとうまくいって、制作がさらに進むかもしれない。とにかく、複数の女の子を一つの画面に描くことを目標としたい。


12月24日

 12月になると新聞に「今年のヒット商品番付」が出る。そこで、永田にとっての今年のヒット商品は何であったかを考えてみようと思う。
 今年書いたウェブ日記をたどってみると、5月末から日記を始め、少し中断があったものの、現在まで毎日何かしらの更新を続けている。このことは特に自慢でもないが、日記を続けられる健康に感謝しているところである。
 さて、9月12日ごろに大きな変化があった。それまで小説を読んだり書いたりすることに没頭していたが、漫画「アンニョン!」を読んだことをきっかけに漫画・イラストに興味がガラリと変わったのである。それ以来、小説は一作も読んでいない。そのころ一年の定期購読を始めた「文學界」も、まあいつでも読めると思って完全に放置している。永田は多くの人が薦める名作小説をある程度読んできており、あと増やすとしたら現代小説しかないと思われる。しかしこれといってお気に入りの作家はいない。
 9月以降、画像編集ソフト等を駆使して、漫画・イラストを制作してきた。永田としては、別に小説が書けなくても、己のエネルギーを傾注するに値する活動が見つかればそれでいいのだ。小説についても諦めたわけではないし、その必要もなかろう。
 というわけで、表を組んでランキング形式にすればいいのだが、今日はまだ整理ができていないので概要だけを述べよう。「アンニョン!」は横綱だ。しかし特に大ヒット漫画だという話は聞かないし、単に永田が有難がっているだけかもしれない。
 そして今さらながら「ハトよめ」が大関に入る。無軌道なナンセンスギャグがよく続いているなあと感心する。
 そして、挿絵だけしか見ていない「メグとセロン」が関脇だ。とにかく挿絵だ。しかしもしメグが黒ハイソをはいていなかったら幕下以下だったであろう。
 おっと、同列に入れていいのかどうか分からないが関谷あさみ氏の「YOUR DOG」を忘れていた。エロスだけで上位に入れるというのはちょっと違う気がするので、まあ張出大関ぐらいが妥当かと思う。
 去年のアニメは「電脳コイル」に夢中だったが、今年は夢中になるものがゼロである。「かんなぎ」を見ることができ、毎回ビデオに録っているが、2、3話までしか見ていない。永田は戸松氏の声が好きだったはずだが、今ではさっぱりである。
 表紙だけで言うと「ライフル少女」が一位だ。中身の絵は少々残念であった……。
 これらのラインナップを見ると、永田が偏ったものしか楽しめないことがはっきりしてくる。その傾向は自身の作品にも表れ、すなわち偏った趣味のイラスト・漫画となって結実する。まあ、複数人のイラストを普通に描けるようになれば、対比の概念が分かって、まともな感性に戻れるかもしれない。


12月23日

 散歩をしたが、これといったアイデアは出なかった。しかし今後の方針の見極めがついたので、忘れないうちにここに公言しておこう。
 要するに、二人、または三人ぐらいの女の子が登場するイラストを描いてみようということである。まあ、いまだ一人だけのイラストを「卒業」できるだけの技量はないわけだが、描けないわけではないし、ちょっと遠近法を学べば複数人物の配置も自在にできる……と思う。
 一人だけのイラストは、(永田の場合)あまりストーリーを持ち得ない。やはり二人以上の者を描けば、たとえ偶然にでもストーリーができて、よりいっそう楽しいイラストになるのではないかと思ったのだ。
 エッチシーン(永田が言うのだからもちろんレズシーンのことだが)を描くつもりはないが、女の子二人が抱き合っているとかハグしているとかのシーンは萌えである。レズ疑惑のある声優を勝手に萌え化しても面白かろう。(むろん、声優本人の名誉のために名前は明らかにしない)
 複数人物イラストの延長上には漫画がある。永田は「チサト日和」等において、ほとんど二人だけの対話シーンを続ける形をとってきた。しかしそれではいささか単調すぎる。三人寄ればかしましい、という言葉もあるし、もっと多くの女の子を集めて饒舌にしゃべらせたら楽しいであろう。
 カラー彩色が面倒になったら、モノクロで漫画に仕上げることもできる。パソコンならば自由自在だ。IT技術の発展に深く感謝している永田である。


12月22日

 永田はクリスマスのための絵を公表したのだが、実は3年前のクリスマスに描いた絵を手直ししたものである(察しのついた方はかなりのマニアである)。というか、顔以外は新しく下書きからやり直したものだ。当時の絵を見ると、色がおかしく、つけペンで引いた主線もなんだか乱雑であった。今回はIllustratorを使って主線を作成した。均一なベジェ曲線を使えるのだが、これは好き嫌いが分かれるかもしれない。彩色はむろん全く新規に行った。
 あまり道具に振り回されるのは良くない。主線作成にはPainterを使っている人も多いと聞くが、永田はまだ試したことがない。あれもこれもと買って試していては、金がいくらあっても足りない。しかし3DソフトのPoserとかいうソフトは、名前からしていろいろな立体のポーズをいじくり回せそうな感じなので、良いグラボを積んだマシンに買い替えできれば導入を検討したいところだ。(値段は知らないが高いかもしれない……)
 巷では、イラストを公開しつつ、CG講座と称して(詐称して?)自分がCGを描く手順を誇らしげに公開しているサイトがある。永田のヘタレな腕では、公開しても何の役にも立たないと思われるし、何よりもスクリーン・ショットを何十枚も作るのが面倒そうなのであまりやりたくない。永田は、お客が何を求めているのか、ウェブ拍手の反応などから少しずつ探ってきたが、萌えっぽいイラストにも、「くるみミラクルファンページ」にも、「映像散歩ファンページ」にも一定の反応はある。もちろん、同一のお客に全ての反応を求めることは不可能だから、うまく住み分けてもらえるようにしなくてはならない。
 まあ、永田の絵を喜んでくれる人がいるとしたら、その制作過程にも興味を持ってもらえるだろうということは確かである。
 明日は飛び石の休日だ。サンタネタはもう終わったが、何か新しいアイデアを形にできるだろうか……。


12月21日

絵日記その13

12月20日

絵日記その12

12月19日

 永田は、裸婦デッサンこそ全ての絵画の基本である、とどこかで読んだ。そこで今日は、裸婦デッサンをしたという仮定のもとに書いたフィクション文でお茶を濁すことにする。要するに、6年前の古い雑記を掘り起こして掲載するものである。面白いかどうかは保証できない。

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 「裸婦デッサン」というものがある。美術系の大学や専門学校では日常的に行われている。他にも、人数はいつも限られているが、一般人のためのデッサン会もよく催されている。永田は学生時代、短い間だが漫画描きサークルに入っていた。そこでの先輩が、後学のために裸婦デッサン会に連れていってくれた。結局それ一度きりの体験であった。
 デッサンには当然スケッチブックが必要だが、ふだん漫画を描くのには使わないし、高校の美術の時間に使ったクロッキー・ブックは実家に置いてきた。そのため、都心にある大きな画材屋まで買いに行った。ついでに濃い鉛筆や、調子に乗って練りケシゴムなども買い込んだ。
 これで準備はできたわけだが、永田の心配は、裸婦を見て勃起し、デッサンそっちのけになってしまわないかということであった。もっとも、他人の描いた裸婦デッサンをホームページ上で見ると、膝を抱えるなどしていて、セックスアピールは全くないポーズをとっているようだ。また、モデルもそれほどプロポーションが良くないように見えた。だが、女の裸体を長時間眺めることはこれまでなかったため、見ているうちに興奮が湧き起こってくる恐れは充分ある。

 翌朝、胃の頭線に乗ってデッサン会会場へ向かった。入り口で先輩に会い、参加証を二人分出してもらった。
 会場は、某区民会館三階の一室である。中心には裸婦のためのステージがあり、それを正面に見て扇形にパイプ椅子が並ぶ。既に絵描きたちが何人か来て座っている。若い者はほとんど見当たらない。モデルはまだ来ていない。永田は先輩と並んで座った。それから、さらにどやどやと参加者が押し寄せてきた。間もなくパイプ椅子は全て埋まってしまった。
 先輩は薄汚れたスケッチブックを取り出した。既に何枚か描いてあるようで、永田はそっと覗いたが、どこかの窓から見た景色、果物などの静物、そして石膏像のデッサンが見えた。ただ、あまり上手くない。永田は自分の真っ白なスケッチブックを出した。そして、間もなくモデルが座るであろうステージを見やりつつ、気取って鉛筆を前方に突き出して片眼をつぶってみた。

 永田はふと、右前方にいる中年男性の方を見た。歳は五十過ぎぐらいか、ラフな感じの明るい色の服装をしている。今日は休日なので、普段は勤め人かもしれない。足元には古ぼけた皮袋が置いてあり、鉛筆、練りケシゴム等の画材を入れているようだ。永田はシワと染みのやや出てきた男性の手を見やった。これまで、漫画家、絵描きの手というのは特に見たことがない。長年創作に打ち込んでいる者の手はどういうものか。職人ならば大きなタコができていたりするが、絵筆はそんなに力を入れて握らない。むしろ、素早い運動を続けているので、身体の他の部分よりずっと若いままに組織が保たれるのだろうか。
 ぼうっと考えていると、部屋にモデルが入ってきた。白いガウンを羽織っていて、ふくらはぎが見え隠れする。歳は若く見積もっても三十歳ぐらいか。背丈は中ぐらい。ステージに座ってさっそくガウンを脱ぐと、いくぶん垂れてはいるが張りの残った乳房があった。身体の他の部分も、年齢相応のものであった。アンダーヘアは上品に剃ってある。もっとも、それが見えたのは一瞬だけで、モデルはさっそく体育座りのような格好になって股間を隠してしまった。
 彼女がガウンを着て入ってくるのを、永田はごく自然に受け止めた。下手に隠すより、初めから全裸で入ってくるのもアリかもしれないと思ったが、さすがに控え室から廊下を通ってここまで来るのは無理があろう。もう一つのやり方としては、ごく普通の私服で入ってきて、ステージ上もしくはその脇で脱ぐ手もある。ステージは丸い板で、床よりほんの少し高くなっている。クッションを置いた上に薄いブルーのシーツが敷いてある。背後の方にはもう少し高くクッションを積んでシーツをかけ、ステージっぽく見えるようにしてある。
 ステージの上で一枚ずつ脱いでいくのは、さすがに下品である。だが脇で脱いでもらうのは可能であろう。永田はこの裸体にエログラビア誌を見る場合のような性欲をほとんど感じなかったが、脱衣シーンを想像すると、セクスが頭をもたげてきた。……やはり脱衣はデッサンモデルには相応しくない。モデルは会場ではしじゅう裸か、せいぜいガウン姿でいてもらわなくてはならない。それが相手を性欲の対象ではなくデッサンのお手本として見るための絶対条件だ。
 主宰者の男性が出てきてちょっと挨拶をすると、学校で鳴るような開始のチャイムが鳴り、デッサン会が始まった。永田の左隣にいる先輩はおもむろにスケッチブックを開き、頭部の卵型の輪郭線から始めた。永田は他の者のスケッチもそっと後ろから覗いたが、皆、顔から描き始めているようである。永田も安心して頭部の緯線、経線を入れていった。

 開始から三十分経った。永田は人体デッサンについてはものの本を読んで少しは知っていた。人体は頭部、胸部、胴部、腕、脚に分けられ、おおよその形は決まっている。あとはモデルをよく見つつ、全体を整えていく。身体の枠組みができたら、今度は細かいパーツを同じように、大まかな形をとりつつ描き込んでゆく。こうして、いつも漫画で描くような人体絵が一応できた。
 だが、影がない。今のままだと色を塗らないアニメ原画と同じである。影をつけなければ、と気づいたが、彼はふだん漫画であまり裸体を描くことはなく、したがって陰影をつける機会もほとんどなかった。三十分で影なしの「原画」ができたものの、ここからの道のりが大変である。規定の二時間かからずに終わったらさっさと出てしまおうか、という最初からの目論見は完全に外れてしまった。
 ふと周囲を見回す。永田のように原画を先に完成させた者はおらず、陰影をつけながら頭、胸、胴と進めている。輪郭線こそ永田絵のようにかっちりとしていないが、陰影のついているものは急激にリアルさを増す。中にはほとんど輪郭線なしで陰影だけで女体を紙面上に再現しつつある者もいた。他ならぬ先ほどの中年男性もそうであった。
 今度は先輩のカンバスを見た。彼は永田よりも二年先輩だけあって、ちゃんと陰影をつけたデッサンの心得があり、いちおう全身が大まかにできている。ただ、腕や脚や手先の関節の曲がり方がやや不自然に見えた。モデルに完全に依拠せずに、関節はかくあるべしという観念で描いているのかもしれない。陰影は、まあ、どうにかそれらしいものがついていた。
 永田はその視線を覚られないように自分のカンヴァスに戻った。そして眼はひたすら裸婦とカンヴァスを往復させ、残り時間を陰影づけに費やした。……

 途中、モデルの休憩に七、八分ほど費やしたが、正味二時間のデッサン会は終了した。モデルはにこりともせずに、また白いガウンを羽織り、こちらに向かって軽くお辞儀をした。永田は周囲の拍手につづいて拍手した。彼女はそのまま立ち去った。永田はその後ろ姿のふくらはぎを見ながら、この女は帰宅してから何をするだろう、参加者の中で格好いいルックスの者を思い出し、火照った身体を慰めることになるのか、もし醜男ばかりで残念だった日にはどうするのだろうか、とつまらぬことを考えていた。
 席を立とうとして、ふと足元に4Bの鉛筆が転がってきた。中年男性のものだった。永田はそれを拾ってやった。
 「ありがとうございます」
 男性のざらっとした手が軽く触れた。

 永田と先輩は会場を後にした。先輩はいろいろと感想を述べていたが、永田にはどうでもよい話題ばかりだった。こいつは、ちゃんと専門学校で基本からやり直さないと、到底ものにならないだろう。永田の絵もまた決して上手ではなかったのだが、特に誰かに見せ、しかも批評をしてもらおうとは思わなかった。こうして、彼にとって初めてのデッサン会が残したものは、下手なスケッチ、無表情の裸婦、そして中年男性のしわのある手の感触のみであった。

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12月18日

 少し前と比べると、永田の百合萌えもおさまってきたようである。いや、百合は無論萌えなのだが、あまりそれに固執しなくなったということだ。森永みるく氏の「GIRL FRIENDS」の2巻も一度目を通しただけで放置している。なんだか嘘くさい世界である。
 百合うんぬんは置いておいて、漫画等において女の子二人組が登場する場合、どのように登場するか考えてみる。まあ、これは男の場合にも同じく言えることだが、似たもの同士の女の子を出しても、なかなか面白い話にならない。やはり隅から隅まで正反対で、でも根本では似通っているというような、言い表しにくいがそんな関係がよく使われると思う。女の子二人組の物語というととりあえず「ふたりはプリキュア」を想起するのであるが、永田も当時はこの番組の百合成分(と、オープニングに登場する怒涛の紺ハイソ集団)に萌えていたものだ。
 ちょっと話が飛ぶが、この百合萌えを突き詰めた先には「レズ声優」妄想があるのではないか。声優の容姿にはあまりこだわらず、ただその萌えボイスだけを取り出して、二人、あるいは三人以上がレズ関係にあると妄想するのである。萌えボイスは限りなく妄想をかき立てるものである。レズ声優を描いたショート・ストーリーを読んだだけで勃起する人もいるだろう。なぜレズ声優がそれだけ興奮をそそるのかは分からない。永田にとっては、なぜツインテールが萌えなのかと考えるくらい難しい問題である。
 ふむ、いつにも増して訳の分からない文になってしまった。今までの経験からすると、文をすらすら書けない場合、どこかに「抑圧」がある。もしくは、本心が表に出ずに隠れている。永田は百合・レズに関して特に抑圧はなく、素直に萌えていると思っているが、本当にそうだろうか。永田は声優の百合関係を本当は歓迎していないのではないか? 本当に好きな声優がそんな関係を持っているとしたら(まあ、万に一つもありえないが)、ひどく残念に思うだろう。
 漫画を描く者ならば、誰しも自分の作品がアニメになった時のことを空想するだろう。その時のキャスティングもすでに決まっている場合も多いだろう。何せ趣味で漫画を描くぐらいだから、空想・妄想力はそれなりのものがあるはずだ。漫画作者にとり、声優は神様とも言うべき存在だ。むろん原画マンも神だが、声優も同じくらい神だ。日々声優をほめたたえなくてはならない。自分が本当に好きな声優のことは言わず、人知れず祈りを捧げるべきだ。
 なんだか、ますます変な方向に話が進んでいる。強引にまとめると、声優で百合妄想をするのは個人の勝手だが、発言するのはほどほどにした方がいいということだ。そして、妄想もほどほどにした方がいい。永田のような者はそんなことをしている時間はない。勤務をし、残りの時間を制作に当てることが、夢に近づけるただ一つの道である。


12月17日

 「弟切草」の選択肢は1220個になった。永田はまだまだやめない。
 実は先日買った「428」が全然進んでいない。物語は少女(?)の誘拐という緊迫した出だしなのだが、話にうまく入り込むことができない。やはり「街」と比較してしまう。「街」のようなお笑い・お遊び要素が早いうちから出てこないのは残念である。
 テレビゲームが全くできなくなったわけではないが、せいぜい「マリオ2」か「弟切草」「かまいたちの夜」ぐらいしかやることがない。そういえば「くるみミラクル」もしばらくやっていない。悪口リストが完成してやることがなくなったのか。
 誰かの説によると、レトロゲームが面白いのは、子供の頃の幸せな思い出と結びついているかららしい。なるほど確かにそうかもしれない。以前どこかに書いた気もするが、「奇跡の年代」といって、精神的にも肉体的にもきわめて健康な時期というものが人間には存在する。それは大抵かなり若い頃であり、永田の場合は中学時代がそれに当てはまる。(「奇跡の年代」でネット検索してもそれらしい記事が出てこないので、この言葉は永田の覚え違いかもしれない……)
 とにかく、そのような中学時代にマリオ2に熱中し、また、それからすぐに「弟切草」「かまいたちの夜」にも熱中したから、これらのゲームは忘れ得ないものとなっているのだ。今では昔とは少し違ったスタンスでこれらのゲームを眺めることができる。例えば、マリオ2ではトラップ(敵や穴)の配置の仕方が絶妙で感心したり、サウンドノベルではかつて理解できなかった言葉を理解できたりする。このように末永く遊べるゲームは真の名作と言えよう。
 永田は家で作業をする時に、古いゲームのサントラや古いフュージョンをよく聴く。これもまた昔の追体験である。そういえば「カシオペア」も活動休止してしまった。永田の普段の行動は、過ぎ去った昔を偲ぶ心から成り立っている。街中で紺ハイソックスの女子高生を見るたびに思うのは、自分の高校時代に紺ハイソが流行っていたらなあ、ということである。


12月16日

 例えばスクール水着(新型か旧型かよく分からないが要するに股布のあるやつ)の上にセーラー服を着ているというシチュエーションがある。こういうのを見ると、「萌え絵ってのは理屈じゃないんだな」と思う。スク水セーラーというやつで、こういう服装をしてプール掃除などをしているイラストは萌えである。しかし理屈に凝り固まった頭からは出てこない発想だ。
 まあ、フェチ衣装の種類は限られているから、順列組み合わせの考えを用いれば、スク水セーラーも出てきて当然である。しかし実際に初めて絵にした人は、なかなか勇気を要したのではないかと思う。フェチも度を超すと変態となり、さらに度を超すと……まあグロとかになるのだろう。
 今日なども、スクール水着姿で読書をしている少女のイラストを見つけたのだが、冷静に考えるとおかしな光景だ。それでも萌えを感じる。萌えとは玄妙不可思議なものである。永田はかつて禅の公案集をむさぼるように読んだものだが、そこに表現されている一見ナンセンスなオチは、理性のタガを外してくれるようなある意味爽快なものであった。永田は萌え絵においても同じようなものを期待しているのか。ここまでくると気狂いと紙一重のような気もするが……。
 これは単に永田が禅の公案のファンなので、非常に強引に萌え絵を禅の公案にくっつけて考えているだけで、本来全く別物であることは言うまでもない。しかし、実在の人間が三次元で、それを写実的に写した絵画を二次元とすると、萌え絵はもう少し下の次元のような気がする。それは、萌え絵に表現されているものは半ば写実であり、半ば記号だからである。女の子の裸体イラストを考えると、胸があり、ふとももがあり、ふくらはぎがあり、それらは大抵美しく記号化されている。ぶっちゃけて言うと、男が悦ぶような仕方で描かれているということだ。
 萌え絵のファンは、また、カカシのように突っ立っている女の子を好まない。それは女の子らしくなく、むしろ死体のポーズだからである。要するに、丸くて柔らかいのが女の子だ。そうした要素を永田は自分の絵の中であまり意識してこなかった(ただし永田は紺ハイソフェチなので、ふくらはぎだけは特にこだわって描いているつもりだ)。今後はもっともっと意識していきたい。逆に言えば、ややこしいポーズのネタがなくても女の子を表現することは充分可能なのだ。商品として売られている萌え絵をじっくり観察するべきだ。二の腕やふとももや尻やふくらはぎが丸っこく描かれてない絵はないだろう。丸っこくツヤツヤしていなくてはいけない。
 話は変わるが、永田は高校時代に女子の体操着がブルマーだったという貴重な経験をした。その時に嫌というほど女子の肉体構造を観察したつもりだったが……詳しい話は別の機会にゆずる。


12月15日

 「お絵描き娘」というジャンルのイラスト群があるそうだ。まあ、永田はそもそも「お絵描き」の仕方(水彩、油彩、コピック等々)をろくに知らず、ただ人真似でCGを描いてきただけだ。
 「お絵描き娘」のイラストは実に多様である。実物のカンバスに絵の具をまき散らしているのもあれば、もっと幻想的に、バーチャルな空間に電子的に描いているのもある。
 なぜ「お絵描き娘」のイラストが人気を集めているのか。結局、絵師が絵を描く自分を少女になぞらえているのか。必ずしもそればかりではないけれど、あながち的外れでもないだろう。絵を描くにあたり、悩みや苦しみ、疲労はつきものである。そういうものに耐えつつ、体内から湧き起こる制作意欲に衝き動かされて懸命に描いている姿を想像するととても萌えな感じである。
 他の例では、読書好きな絵師が、読書している少女を描いて萌えるのと同じような感覚だと思われる。
 いずれにしても、永田は(アナログな)お絵描きの実態をほとんど知らないので、そうしたイラストを描くのは難しい。大変だ、面倒だ、とばかり言っていてはいけないのだが、やはり自分の趣味の範囲で楽しく描くためには、無理をせず自分の絵の引き出しからネタを引っ張り出すしかない。紺ハイソやスク水を登場させるにあたり、どんなシチュエーションであるかを妄想し、背景を少しずつでも加えていけば、よりよいイラストとなるだろう。
 ところで昨日、アイデアの出し方が分かったようなことを書いているが、あれは失敗のような気がしてきた。やはり「逆算」は漫画だけの手法である。やはり、注目すべきキャラクターの、ここ一番というシーンを描くべきだ。
 オタク論、物語論の本は多数出ているけれど、萌え絵の描き方の本当のマニュアルみたいなものはまだ出ていないのではないだろうか。もしそうだとしたら、それは永田が作り出さねばならない。萌え絵が何よりも好きで、でも絵心がなくほんの小手先のテクニックしかないような人間が、良い萌え絵を量産できる方法だ。そのための一つの道すじは、良質な萌え絵をたくさん見ることだ。そう信じて、永田は今日も萌え絵をあさるのである。


12月14日

 「続きが気になる」と読者に思わせるのが、漫画において大事であることは言うまでもない。
 一方、一枚もののイラストはどうだろう。イラストの肝は何だろうかと考えると、よく分からない。
 プロ・セミプロのイラストを見ると、何かのストーリーが感じられることが多い。それはおそらく背景の大道具や小道具があるおかげだろう。永田のように着衣だけでフェチ心を表現しようとする者は、どこか物足りないイラストしか描けない。
 永田の持っている教本にはそこまで深く突っ込んだものはないようである。とりあえず人体の描き方を学び、あとは好きにしてくれ、という感じだ。これ以上を学ぶにはやはり専門学校にでも行くしかないのだろうか……。
 さて、イラストにストーリーがあるとすれば、続きが気になる、と読者に思わせることがやはり必要なのだろう。ちょうどアニメーションのひとこまを切り取ったような、動きのあるイラストが好ましい。人間の目はおそらく、無意識的に、描かれた人間の「その後」を見ていると思われる。
 このことをヒントにすれば、イラストのアイデアがどんどん出てくるような気がしないでもない。漫画のストーリーと同じく、「逆算」の発想である。まあ、ギャルゲー等に出るイベントCGは、ここ一番の見せ場を描いているわけだから、この逆算うんぬんという話は通用しないかもしれない。
 しかし今日はもう時間がないしすぐにネタも出ないので、絵はとりやめにする。ひたすら萌えなシチュエーションを考え、そこから少し巻き戻したシーンを想像すると、うまくいくような気がする。


12月13日

 永田はやぶうち先生の「初恋指南」を買ったことは言うまでもない。先生が二児の母となったことについては、当然ながら特に感慨を抱くものではない。
 それと、「百合星人ナオコサン」の2巻を買った。幼女期の終わりは何を意味するのだろうか……?
 さて、「冬コミ合わせ」で何かを作るという話だが、せいぜい今年買ったもののランキングをつけるぐらいしかできないことに気づいた。しかし、今年は感動すべきものに出会う機会がとても少なかった。一応、週末に本屋に行く時には萌え関連のグッズをくまなくチェックしているが、なかなか購入に結びつかない。まあ、他人の作ったものよりも自分の作ったものを喜んでいるのだとしたら、良い傾向かもしれない。だが漫画・イラストをそう頻繁に制作できるものでもない。
 金銭的に購入が難しいけれども、できれば欲しいというものをリスト・アップしてみようか。まずは新しいペン・タブレットである。Intuos3のA5サイズがいい。価格は約3万だ。店頭で描き心地をチェックしてみるとけっこうツルツルしている。フェルトペンとかいうのも試してみたい。
 あとはComicStudioEXを使えたらいいなと思う。何だかよく分からないが3Dレンダリングという機能があり、またデッサン人形をグルグル動かしたりできるそうである。カカクコムで調べたらこれも約3万だった。
 あと、プログラムをサクサク動かすためには最新のPCが欠かせない。これはショップブランドで10万も出せば立派なのが買えるだろう。永田が現在のPC(XP)を買ったのは4年半前である。OSも改良を重ねてどんどん新製品が出るので、それに合わせてPC、ソフトを買い換えていかねばならないのは誠に遺憾である。Vistaのaeroとかいう機能は案外使いにくいと人から聞いた。
 というわけで、他にはさしあたって欲しいものもない。「アンニョン!」の2巻は来春出るようだが、コミックハイを立ち読みしても載っていないところを見るともう終わったのだろうか……。制作意欲をかき立てられる作品に出会いたいものである。
 まあ、普通の人は、身近にすぐれた絵師などがいて、その人にライバル意識を燃やしたりしながら精進していくのだろう。しかし萌え絵の道にはこれといったルールがない。美大を出ているから萌え絵でも何でも描けるというわけでもなかろう。永田はむろん、自分の絵を憎からず思っているが、その絵を使って勝負に打って出たことは……あるだろうか? 一応、「フックオフ」を某同人誌に載せてもらったりしたが、反響はほとんどなかった。しかし、ある方がその同人誌のアンケート用紙に「フックオフ」を好きであることを書いてくれたのは、今でも大事な思い出である。
 よく人気サイトではウェブ拍手のお返事コーナーというのがある。永田は、自分の書く記事が他人に「近寄りづらい」と感じさせているのを一応知っているつもりだが、あまりふざけたこともできないのは残念だ。もう少し親しみやすいサイト構成、フェチに偏らない素直な萌えイラストを上程できたなら、再び拍手で賑わうことにもなるであろう。


12月12日

絵日記その11

12月11日

 「自殺ルーラ」というやり込み用語を先般初めて知り、衝撃を受けた永田である。
 さて、永田が絵日記をこれまで10枚描いた意図はというと、絵だけではなかなか読者の鑑賞に堪えないと思ったので、文面にも注意を向かわせることによって、全体で一個の作品として面白さを提供できるのではと思ったのであった。
 これはやむを得ないことだった。永田は絵のみで読者の気を引くことにほとんど絶望していた。それは、一般的にウケる絵と、永田の好むような絵との間に乖離があったからでもある。一般ウケしている絵を真似すれば、その絵を憎からず思ってくれる人もいるだろうが、そこに永田の感性というおかしな検閲が入るため、紺ハイソを病的に強調したりする絵になってしまうのだ。
 永田はパンチラ・ブラチラ等の絵をほとんど描かない。それは少年漫画の精神を一応引き継いでいるからだ。パンツ、ブラ、あるいはその中身を見せてしまうのはもはや少年漫画とはいえまい。それならば成年コミックでやればいいのだ。
 永田は当サイトの閲覧者として特に女性を想定してはいない。つまり、女性の目をはばかってエロイラストを描かないのではない、ということだ。単に永田にとって、パンチラ、ブラチラはさして興奮の素にならないのだ。永田にとっては、ツインテールや紺ハイソ、あるいはスク水さえあれば興奮するのだ。これはいささか病的な兆候であるが、事実だから仕方がない。
 11枚目以降の絵日記はむろん続けていく予定である。ただ、長く続けるとなると、キャラクターのパターンも大体固定されてしまう。またポーズも工夫しなくてはならない。あるサイトでは「看板娘」といって、オリジナルの美少女キャラを文字通り看板娘としていろいろなイラストに描いている例がみられる。「カルタン」みたいなものか。それもまた面白かろう。しかし「映像散歩たん」に萌えるのは難しい……。
 自分の同人誌を作ったことのない永田だが、ここはひとつ「冬コミ合わせ」のつもりでひとつ作品を描いてみるべきかもしれない。「チサト日和」の続きであっても構わない。流行を追うのもいいだろう。気軽に読んで楽しめるコンテンツが求められている。


12月10日

 永田はサイトのわりと大規模な改装を行った。だが、なにぶん急ごしらえなので、コンテンツの充実までにはもう少し時間がかかるだろう。
 かつては「くるみミラクル」を病的にプレイしていたが、今は「弟切草」だ。だから弟切草のやり込み・攻略ページみたいなものも作れたらいいなと思っている。まあ、普段そんなに目を血走らせてプレイしているわけではなく、ただ寝る前に30分ぐらいちょこっとプレイするぐらいである。選択肢は1219個だ。これ以上増やすのは容易ではない気がする。
 人から「美少女とファミコンのことしか頭にない」と評されたこともあった。誠にもってその通りだ。美少女とはほとんど二次元のことだが、三次元の制服少女も無論好きである。しかしそう簡単に接近できないことは言うまでもない。当面は他人や自分の描いた二次元キャラに萌えるだけで満足することに致そう。
 そういえば、ハマりそうと思って定価近くで購入した「どきどきポヤッチオ」を永田は完全に放置している。永田は寝る前にゲームをプレイすることが多いので、片手で操作できる方が良い。その点、ポヤッチオは両手の動作を必要とするのだ。だから気軽にプレイするのが難しい。
 今日はこのぐらいにして、サイトの体裁をもう少しきちんとすることに知恵を絞ることにしよう。


12月9日

 先日は、多くの絵師のサイトを回って参考にするようなことを言っていたが、時間がなくてあまり回れていないのは残念である。
 ただ、当サイトはちょっと欲張りすぎかなという気もする。特にトップページにおいてあれもこれもと詰め込むと、「一体何をやりたいのか?」と読者に思わせるかもしれない。トップページを無心になってよく見て、一見さんがどういう印象を持つかを考えた方がいいであろう。「ファンページ」と称してだらだらと相互に関係のないページを紹介するのは明らかにおかしい。
 永田は当サイトで自分のイラスト・漫画を多く掲載したいと思っているが、そんなに自分の作品に自信がないのが残念である。しかしこれ以外にメイン・コンテンツはありえないのだから、自分の作品をもっとアピールできる体制をとるとともに、よくリサーチして、読者に好まれるページ作りを目指す必要がある。某サイトを真似て、「弟切草」のプレイ日記を毎日毎日つけるとか……。
 「漫画・イラスト」「小説」「ゲーム」「フュージョン」というふうに、分かりやすくコンテンツを分けるのがいい。映像散歩のファンページはごくまれに参考にしてくれる方もいるようなので、更新はしないけれども残しておきたい。
 思えば、初期の当サイトは、自分の趣味をありのままに出していた。そこにはオタク趣味に理解を示すことによって他人の共感を得ようという痛い心があったのだが、現在、趣味を共にする他人は側にいない。また、映像散歩やくるみミラクルのように、普通の人があまり注目しないものに注目しているのを喜んでいたりした。こういう精神をニッチ(すき間)精神と呼ぶのかどうか知らないが、現在の当サイトがニッチサイトに近いことは間違いない。
 絵はいつでも描けるわけではないが、趣味に関するちょっとした文章なら大抵書けるだろう。そうして書いたものを分類・集積していけば見ごたえのあるものができるかもしれない。今後も当サイトの行方にご注目いただきたい。


12月8日

 たまひよ2008年名前ランキングが発表されたので、さっそくにわか名前評論家になってみる永田である。(女児のみ)
 9位が「七海(ななみ)」と「心優(みゆ)」。前者は岩泉舞氏の単行本「七つの海」を思い出させる良い名前だ。後者は……なぜ心を「み」と読ませるのかさっぱり分からない。流行りというやつだろうか。
 8位が「さくら」。もちろんアクセントは「さ」につく。この名前には変に当て字をつけない方がいいだろう。まあ、「桜」としても可愛らしい。カードキャプ(ry
 7位が「美羽(みう)」。近年人気が出ている名前だ。白鵬の愛児の名前はいつでも言えるようにしておかねばならない。
 6位が「結菜(ゆいな)」。個人的には菜っ葉の菜の字を名前に使うのはあまり好きではない。あと紐緒(ry
 5位が「結愛(ゆあ)」。当て字っぽい。小手川(ry
 4位が「凛(りん)」。ドクター(ry。遠坂(ry。間違ってさんずいを書かないように注意だ。
 3位が「陽菜(ひな)」。鳥はヒナからいつか成鳥になるものなので、いつまでも「ヒナ」なのはちょっと残念だ。
 2位が「結衣(ゆい)」。わりと普通の名前に見える。なぜこれだけ人気が高いのかはちょっと分からない。ちなみに「ゆかり」は100位以内に入っていなかった。
 そして1位が「葵(あおい)」。読みもシンプルで、非の打ち所のない名前だ。篤姫の宮崎あおいは関係ない気もするが……。とにかく時代を超えて愛される名前である。
 このように見てみると、「七海」「さくら」「美羽」「凛」「葵」が永田の認めた名前である。
 あと100位までの中で良いものを拾ってみると……特に永田のツボを突いた目新しい名前はないようだ。ちゃんと数えたわけではないが、「ゆ」という読みが入っている名前がかなり多い。「優」という字が散見されるのは、優しさを意識したものか。ギャルゲー・エロゲー名前も無いことはないが、永田は全てのゲームを把握しているわけではないので、詳しく論じるのはやめにする。まあ、大抵の名前はゲームで既に使われているはずだ。
 永田が漫画で使えそうな名前が見つからなかったのは残念である。とりあえず「心」を「み」と読ませるのは、やめることに致したい。


12月7日

 ページのトップ部分がコンパクトになるように工夫してみた。イメージマップとかを使えばもっとコンパクトになりそうだが……。
 永田は日頃、絵師のサイトを回ることがあまり多くない。多くのサイトが個性的なデザインをしていて、頭の切り替えが必要だったり、回るのに時間がかかったりするからである。しかし見やすいサイト、ユーザーフレンドリーなサイトというものはあるはずだから、研究の意味でも多くのサイトを見ていきたいものである。
 さて、今日も絵は休みである。永田は無理せずあせらずという姿勢で取り組んでいるが、とりあえず何でもいいから毎日の更新は続けたいと思っている。サイト名を「ねこのニクキュウ。」から「ねこ娘のニクキュウ。」に変えたのは昨年2月頃であったか。現在はアニメ「鬼太郎」(5期)を観ることもなく、ねこ娘に特に萌えているというわけでもないのだが、ほぼ完全に人間と同化しているねこ娘に肉球があったら、と考えるのは面白いので、このサイト名を続けることにする。
 「ストッチーズ」アニメのDVDはレンタル屋に入っていないので見ることができない。全てのアニメDVDがレンタル屋に入るというわけではないのは、やはり田舎だからであろうか。図書館のように入荷をリクエストできるわけでもない。
 まあ、都会に住んで普通にアニメを見れる人々も、家賃等の高い金を払った代償として見ることができるわけだ。永田が見られないのは仕方ないと諦めなくてはならない。
 「428」と「弟切草」と「マリオ2」を例によって順々にプレーしている。「弟切草」は選択肢が1219個になった。マリオ2で一番難しいステージは実は7−4ではなく4−4かもしれない。あと5−4も難しい。あとはC−4だが……C−3のバグで詰まってしまうこともあってあまり行けないのが残念だ。
 「428」は一日だけのストーリーなのだろうか。「街」のように5日間なのか。隠しシナリオは当然あるとして、クリアー後のプレゼント等はあるのか。早いところ確かめたいのだが、なかなか忙しくてこのゲームばかりに構っていられない現状だ。まあ、当分は掲示板の情報をシャットアウトして少しずつ地味にプレーしてみたい。


12月6日

 永田は「428」をちょこっとプレーした。
 今日は制作をすることもなく、呑気に暮らしている。「428」についてきた特典DVD(裏にはアニメ調のイラストが印刷されている)も特に見る気がしない。
 発売直後のゲームをやっているわけで、一応時流に乗っているはずなのだが、かつてのサウンドノベル「街」をプレーして感じた新しさはそこにはなかった。あれから10年経った。渋谷にはしばらく行っていないが、どう変わったのだろうか。
 永田はうたた寝をして夢を見た。そこで永田は、「ポーズカタログ」を全ページスキャンし、イラストの下絵として使おうと企んでいた。しかしよく考えるとこれほど大変な作業もない。まあ、拡大縮小はソフト上で自在にできるので、一旦スキャンしてしまえば好きなように使えるが……。ここまで横着はしたくないと思う永田であった。
 女の子のポーズを考えつくのは、大変な時もあり、スラスラできる時もある。それが普通なのかも、という気もする。ただ永田の場合、立体感や遠近法といった要素でなく、まず「萌えかどうか」の基準でポーズを考えつくので、結果としてペラペラした絵になることが多い。まあ、フェチ心を素直にさらけ出すことが大事だ、とどこかのイラストレーターが言っていたので、永田もセーラー服、ブルマー、紺ハイソやその近傍の萌え衣服のことで頭を一杯にして、しかる後に一気呵成に描き進めたいものである。


12月5日

 今日は予約していた「428」が届くと思っていたが明日になるようなので、話すことがない永田である。
 PIXIVというイラスト交流サイトがあり、一応注目していたもののユーザー登録はしていなかった。今般サイトを見てみると、新規登録は「招待のみ」となっていた。絵師の知り合いがいない永田にはなすすべもなかった。
 まあ、PIXIVは(よく知らないが)東方とかのマニアが大勢いて面白くない、という意見も聞いたことがある。永田は東方という言葉を未だきちんと把握できていない。
 それはそうと、素人絵師とプロ・セミプロ絵師がPIXIVで同じ土俵に上がるのはやはり相当無理があると思う。結局零細サイトの管理人には、流行のネタで笑わせるぐらいのことしかできないのか。いや、やってみると案外萌え絵ファンたちの度量は広いのかもしれないが……。
 何にせよ、当分PIXIVには参加できないのだから、このことはスッパリ忘れて自分の絵日記に取り組むことにするのが良い。そんなに悪いことばかりでもなかろう。しかし永田も、今までのように思いつくキャラをテキトウに順繰りで描いているのではいつか行き詰まってしまう。ここは漫画キャラ作りのテキストを読んで、単に髪形や服装だけでなく、内面に至るまで個性的なキャラクターを製造してゆかなければなるまい。


12月4日

 永田はここ数日、下手な絵でも毎日続けていればどうにか描けるものだな、と思った。
 しかし今日は絵日記は休みにし、日記のみとする。ネットで検索すると、スーファミ版の「弟切草」には金のしおりは存在しないという話がある。しかし選択肢の数は決まっているはずだから、どこかで打ち止めになるはずだ。現在、永田は1218個で止まっているが、もしかするとここが上限かもしれない。ネットに情報があまり上がっていないのは、それだけやり込みする人が少ないということか。
 それはそうと、DSの「クロノ・トリガー」について店頭で見ると、追加ダンジョンがあるそうだ。しかし特に心を動かされはしなかった。なぜだろう。情報を知らず、発売日に買ってプレーするというタイミングを逃したので、どうでもよくなったのかもしれない。あるいは、オリジナルの「クロノ・トリガー」を興奮してプレーしていた頃のことを懐かしく思う気持ちが、リメイクによって打ち砕かれるのを怖れているのかもしれない。当時のゲームはまだドット絵の時代であり、小さなドット絵とセリフでキャラの感情表現を行っていた。それが最先端技術でムービー等が入って違う演出のものになってしまったとしたら残念なことだ。
 思い出の中に残しておきたいゲームは数多い。わざわざ今から再プレーしたいとは思わないが、素晴らしいゲームミュージックとともに記憶の奥底に眠らせておきたい。
 期待のゲームといえば「アマガミ」か。永田は高山氏の絵を真似て描いたことが一度もない。この他にも、この絵は真似できないな、とか、真似するのが畏れ多い、とか思う絵はある。実は「ストライクウィッチーズ」の絵もその部類に入るので、ツインテールの萌えキャラといえども、ルッキーニを描く気になれない永田である。


12月3日

絵日記その10

12月2日

絵日記その9

12月1日

絵日記その8

11月30日

絵日記その7

11月29日

絵日記その6

11月28日

 応援メッセージをありがたく頂戴した。
 ところで、キャラメイキングの練習のためにも、自分で創ったキャラクターに名前や性格、「何に対して怒りを感じるか」などを付与してあげた方が良いかもしれない。永田は今までの絵日記では、これといって深い考えもなく絵を描いている。まあ、しょせんはディスプレイ上のキャラクターだから、という考え方もあるが、いやしくも一人の人間を創造しようというのだから、よく考えて、キャラ設定を作り上げることが、今後のイラスト・ノベル作業に役立つと思われる。
 世間では「ハリウッドのシナリオ術」とかいう本が人気だと聞く。また、「ライトノベル創作教室」とかいう本も出ているようである。永田は今は文よりも絵を描きたいけれど、よく漫画ではネーム7割・絵3割と言われるように、文字部分が重要なのは言うまでもない。すなわち、説明文とかキャラクターのセリフとかである。そういう部分で「引き込まれる」キャラクターを作ることが必要だ。
 純文学においては、キャラクターは作者自身であったり作者のよく知っている人だったりする。だが、今まで繰り返し言っているように、漫画はエンターテイメントであり、純文学とは異なるものだ。だからキャラ造形においても多くの人にウケるキャラ・メイキングが必要である。
 現在のところ、永田が漫画を描ける見通しは未定であるが、休みの日に絵日記を描くことならできるだろう。基本的に永田は、一度描き出したキャラクターには全て愛着を感じている。永田の乏しい経験を活かして、キャラクターに命を与えることができたら幸いである。
 ちなみに、「ハリウッドのシナリオ術」に載っているのは、百項目にも及ぶキャラ設定の項目らしい。それだけ一人のキャラに入れ込んで、かつ面白みのあるキャラを作るのは容易ではなかろう。当然ながら、女キャラだけでなく男キャラも出てくる。まあ、既存の漫画等の二次創作をやるならまだ楽ちんなのだが……。
 まあ、そうは言っても、永田はギャルゲーのように複数の異なった少女キャラを考え出すのは比較的容易だと思っているから、あとはやる気と根気次第である。スク水を着ているけれども実は運動全般が苦手だとか、ギャップ萌えのキャラを作り出せたら幸いである。


11月27日

 近藤名奈の歌の中に、「ゆうべ見た夢の話を聞かせてあげようか?」というフレーズがあるのだが、こんなことを言われて不快に思わない人はあまりいないだろう。他人の頭の中で起こった(たいてい)支離滅裂なストーリーを聞かされても面白いわけがない。まあ、中には夢がちゃんとしたストーリーを成していて、そのことを永田に話してくれる人もいる。
 このフレーズが出てくる歌は、近藤名奈の歌の中でも一番の駄作だと思っている。それはやはり4枚目のアルバムになって、自分で作詞と作曲を手がけるようになったためだと思う。やはり田辺智沙先生の詞と曲あっての近藤名奈だと思っている。
 さて、なぜこんな前フリで始めたかというと、永田の夢になんと最近二次元キャラが登場するようになったのである。永田は大学の頃から美少女アニメにハマっていたけれど、夢の中にそれらが出てくることは全くなかった。そのことを残念に思わないこともなかった。
 夢というものについてはフロイトの『夢判断』を読んで少し知っているぐらいだ。ただ、この本が出た頃は当然ながらアニメーション、萌え絵というものはなかったから、夢にもしそういうものが出てきた時にどういう診断を下すべきかは書かれていない。
 夢判断といえば、突起物がペニスを表すとか、そんな感じのものだ。女性が出てきたら、やっぱりその女性に対する欲望を意味しているのだろうか? 萌えキャラが出てきたら、そのキャラに対する潜在的な欲望があるということか。
 実は永田もそのへんの趣味を決めかねているのだ。こないだ「コミックRIN」を買ったと言ったが、そこにはつるぺた少女たちのパラダイスがある。しかしそんなにつるぺたに興奮するかというとちょっと微妙である。まあ、永田の描く絵においては、オッパイはどちらかというと小さめである。しかし巨乳が嫌いというわけでもないし、ただ単に胸による自己主張(?)を嫌がっているだけかもしれない。やはり世の中には巨乳を無条件に愛する人もいるはずで、でも永田の絵にあまりそういうことを期待されても困るというか、とりあえず標準的な体型をしていて、名前と顔がかわいいキャラを提供できればいいと思っている。
 夢の中の二次元キャラが誰の絵だったか、そこらへんはぼんやりとして覚えていない。ただミスJBSコンテストの絵や遊人の絵でないことは確かだ。
 もし今後も夢に美少女キャラが出てくることになったら、永田も美少女夢判断の第一人者になれるかもしれない。


11月26日

 日馬富士(はるまふじ)がらみで何か(文章で)話のネタはないかと考えた。関取が大関昇進を決めるにあたって改名する例を、永田はあまり記憶していない。永田にとって相撲が楽しかった時代は千代の富士がいた時代である。
 それはそうと、絵日記の形式に一応慣れてしまったためか、再び文だけを書くとなるとなんだか緊張してしまうものである。絵はデータ量にして数十〜数百キロバイトあるが、それだけのデータを文だけで書くのはかなり大変だ。(もちろん書くつもりはないが)
 また休日になったら余力が出て、絵日記を作れるかもしれない。その時に備えてキャラクターのポーズを考えておくことは大切だ。キャラクター自体は……まあ、思いつきのテキトウなキャラをどんどん描くよりは、ある程度気に入ったキャラを何度も描く方が上達するのかもしれない。
 永田は行きつけの書店三軒で、いずれもポーズカタログや背景カタログ、そして漫画の教本といった品物がけっこう揃っているのを見かける。それを見て、もし二十年前にそういう本が充実していたら……と思わざるを得ない。まあ、当時はそういう本の売り場に全然気を留めなかっただけで、元々あったのかもしれない。永田は大学に入ってから初めてデッサンをまじめに考えるようになった。それまでは「こち亀」を参照したりして人体の描き方を学んだ。しかし今から当時の漫画原稿を振り返るとかなりヤバいデッサンなのは言うまでもない。このへんは永田の黒歴史に入るので、この場で語るのは避けよう。もっと漫画が上手くなったら、仲の良い友人とそのことを語り合う日も来るかもしれない。
 ちなみに文房具店でつけペンやスクリーン・トーンを知ったのはわりと早く、小学校のころであった。しかし今の永田はどちらも使うことがなく、一昔前のタブレットとPCで描いている。つけペンは好きだが、スクリーン・トーンには全く未練がない。
 そうそう、日馬富士(はるまふじ)がらみで、漫画家の改名について論じようかと思ったのだが、山止たつひこ→秋本治ぐらいしか思いつくものがなくて残念な永田である。


11月25日

絵日記その5

11月24日

絵日記その4

11月23日

絵日記その3

11月22日

絵日記その2

11月21日

絵日記その1

11月20日

 永田は珍しく多額の買い物をしてきた。
 そこで、ためになりそうだと思ったのが、グラフィック社の「女の子の一日キャラポーズ」という本だ。ポーズ云々よりも、そもそも永田は女の子の日常をよく知らない。まあ、想像して楽しめるならそれでもいいのだが、リアルさを少し混ぜるだけでかなりリアルな女の子キャラができると思われる。まあ、年齢が「少女」というにはやや高いのが残念であるが、うまくこの本を活用できればと思う。
 それから、誠文堂新光社の「グラビアアイドルの萌えポーズ集」だ。こないだから言っていた本である。こちらも、下着姿を含んでいるので、モデルの年齢は高めであり残念だ。永田のダメな脳をうまく使い、この本から萌えキャラをひねり出せれば幸いである。
 いずれにしても、日頃若い女の生活を見ることがほぼ無いのだから、こうして本を見て想像して補わないことには、何も描けるわけがない。今後も良さそうな資料本は積極的に買うことに致したい。
 それから、関谷氏の漫画を楽しみに「コミックRIN」を買った。読み切りなのか続き物なのかよく分からない。フェチ要素は黒ハイソ以外に特にないし、別にフェチ漫画というわけでもなかった。快感を拒む姿もいいが、もっとアッケラカンとした、恥じらいの薄い少女も見てみたい永田である。


11月19日

 昨日に引き続き、机周辺を整理してみることにした。別のところにあった教本を近いところに持ってきた。
 教本には絵を描く者へのアドバイスが載っていた。毎日描くことが大事だ。毎日描くことで絵が上手くなり、アイデアも出てくる。
 その一方で、どうしても描けない時はしばらく絵から離れて気分転換を図るべしとも書いてある。
 というわけで、永田は気分転換を図ることにしたい。特別何かをするというのでもないが、運動をするとか、マリオ2をプレーするとか、そんなところだろう。これだけ手を尽くしても描けないのだから、どこかに問題があると言わざるを得ない。
 短い漫画のストーリーも温めているが、オチをとりあえずつけたことに満足し、先へ進めない。頭蓋の中で起こっていることを、きちんと外に出してやらなければならないのに……。
 それはそうと、「アマガミ」の公式サイトを見たが、「詞」を「つかさ」と読むことにはどうにもこうにも納得できない永田であった。


11月18日

 永田は今日も夏タイヤで軽快に走行するはずだったのだが、みぞれ雪が降ってきてヒヤヒヤさせられたのは残念であった。
 おととい、昨日と、どうすれば絵を描けるかについて考えた。自分なりにとことんまで考え尽くしたと思っており、不安な要素は払拭されたと思っている。
 ただ、いざ漫画描きソフトに向かうと、さまざまな思いが去来し、うまく描くことができない。どのキャラを描けばいいのか。描きたいと強く思えるキャラが現在いるのか?
 まあ、既存のキャラで好きなのがいなければ、オリジナルを描けばいい。テキトウに描くといかにもテキトウな絵柄しかできないので、教本を見ながらイメージをふくらませることにしたい。机周辺の整理が必要だ。永田が現在向かっている机の目の前には、マール社の「やさしい人物画」、ポーズカタログ、背景カタログがある。あとグラフィック社の「スーパーマンガデッサン」もあるが、これは役に立つかどうかいまいち微妙である。ともかく、他にも教本は何冊か持っているから、それらを机の前に集結させることに致したい。
 あとやっぱりおととい言った「人気モデルによる萌えポーズ集」もあってもいいかもしれない。永田はたまにはメイドを描きたいなと思った。メイドは、鳴子先生の「少女マテリアル」にも出てくるが、実はツインテール等よりもショートカットが一番似合うのでは、と思う。シャーリーよりも髪が短い方がいい。
 それと、今さらながら「キミキス」のスタッフが作る「アマガミ」とかいうゲームにちょっと期待している永田である。


11月17日

 いろいろな絵師のサイトを見ると、その絵師の少女キャラクターに対する姿勢が自然と表れていることが分かる。
 快活そうな笑顔を多く描く絵師は、そういう快活さが好きなのであろう。一方で、キャラをいじめたり犯したりといったイラストを載せたり、同人誌に描くことを公言しているサイトもある。
 永田としては、少女をいじめるイラスト・漫画を遺憾に思う。そういうものを好んで描く絵師は、性格がゆがんでいたり、あるいは世間の需要に応じて仕方なく描いているのかもしれない。陵辱モノには根強い人気があるし、絵師も好きで描いているのかもしれない。
 また、血液とか、グロテスクな描写が好きなサイトもある。永田はそういうサイトをほとんど見ない。
 永田は、「少女キャラはこうあるべき」という明確なヴィジョンを持っていない。日頃画像を収集し、「これは保存する価値がある」「これはない」というように分別している。まずイラストがあって、それが萌えであるかないか、いちいち判断するわけだ。こういう態度をとっていると、どうしても萌えに対して受け身になってしまう。
 まあ、だからといって、自分の作品に「ひたすら萌えを追求してます」と付け加えるのもなんだか痛々しい。自分にとって最高の萌えを追求すればするほど、他人の好みから離れていくのではないか。
 「美人投票」の原理というものがある。これは金融用語で、詳しくはウィキペディアあたりを見ていただきたいが、要するに、世慣れた絵師は「平均的に」萌えだと思われるような絵を描く傾向にあるのではないかということだ。例を挙げると、例えばツインテールの少女を描くとして、髪の毛の一本一本に病的に執着して描くとしたら、一部のツインテールマニアは喜ぶだろう。だが、一般ウケはしない。アンバランスな絵だからである。それよりも、ツインテールはツインテールとしてほどほどに描き、服装やポーズにもこだわった方が、より喜ばれる絵になるのではないか。
 ハイソックスやニーソックスについても同じだろう。ソックスを描きたいので仕方なく全身を描いている、という態度は好ましくない。やはり頭から足先までくまなく神経を使って描きたいものだ。
 というわけで、昨日の「模倣」に引き続き、永田のとるべき態度がはっきりしてきた。イラストは他人が見ることを前提としているから、「平均」をイメージして描けばいいということだ。あんまりフェチに固執してはいけない。いってみれば、見る人に対して奉仕の気持ちが必要だ。奉仕するのは何もメイドだけではないのだ。


11月16日

 永田は散歩をしたが、特に何も思いつかなかった。
 書店に「人気モデルによる萌えポーズ集」とかいう写真集が置いてあった。本当に人気モデルなのかはともかくとして、メイド服などを着たモデルがいくつかのポーズをとっていた。
 「萌えポーズ」という言葉の意味は何か。一枚もののイラストを要素に分解すると、キャラの髪形や服装、表情、そしてポーズがある。いわゆる萌え絵が生まれてからまだ何十年も経っていないはずで、したがって萌えポーズというものも歴史は浅いのではないだろうか。
 萌えポーズは、要するに、現在までに流行している萌えイラストに描かれているポーズのうち、比較的多く描かれているポーズを選んだものだ。例えば手でピースサインを作って額に当てるとか、腰骨を横に突き出して立つとか、リンゴをかじるとか、そんな感じだろう。これらのポーズがどうして生まれたのかは知るよしもないが、先人たちが描いたたくさんのイラストを参考にした後人たちが「これは萌えだ」と考えて、真似したものであろう。美術の理論によって説明するのは難しいのではないかと思う。まあ、美大とかに行っている人なら、そんなの全然難しくないと言うかもしれないが。
 永田は人体デッサン用のフィギュア(女体)を一体持っている。2000円ほどのショボいものだ。これをくねくね動かしながら、萌えなポーズを考えたこともあったけれど、実はそんなことをして萌えポーズがひねり出せるものではないとしたらどうか。結局、上に書いたように、既存のイラストをたくさん見て、その中で「これは萌えだ」と思ったポーズを真似するのが最短コースなのでは?
 あるヌードポーズ写真集には、「モデルの姿は一つだけれど、それを写し取った絵は無数に存在する」みたいなことが書いてあった。これはあくまでもリアルな人体デッサンに適用されるものだが、いわゆる萌えポーズは決して非現実的なポーズではなく、人間がとることのできるポーズである。ただ写真などで見るとどうしても「痛い」とか思ってしまうのだが……。
 要するに、萌えポーズの原型はすでにあるが、それを描こうとするにあたって、「真似はいけない」と躊躇する必要はなく(それこそトレースでもするのなら話は別だが)、「これもデッサンの一つの形にすぎない」と考えてもいいのではないか。さまざまな芸術は模倣から始まると言われているし、萌えイラストにおいても然りではないだろうか。
 と、ここまで考えたところで時間になってしまったが、散歩に数時間を費やしただけの収穫を得ることはできたと、一人満足している永田である。


11月15日

 永田はかつて、宗教関係の本をむさぼるように読んだことがある。それは、有名な宗教について基礎知識を得ておきたかったのと、単純に宗教について学ぶのが面白かったからである。なぜ、何千万、何億という人々が、同じ宗教を信じることができるのか。理由はそれぞれの教義の中にある。
 いわゆる新興宗教にハマるのとは話が違う。三大宗教といえば仏教、キリスト教、イスラーム教だ。永田の家は浄土真宗であり、先祖の月命日に居合わせると、「仏説阿弥陀経」を聞くことになる。何十回も聞いたし、訳書も持っているので、少なくとも阿弥陀経についてはおおむね理解している。
 永田にとっての宗教ブームは二度あった。一つは学生時代で、主に禅宗を学びたかったのだ。ただ、坐禅を組んで悟りを開くとかではなく、単に禅問答が面白く、ナンセンスな言葉遊びを知って漫画のネタにしたかったからである。詳しくは「倶胝竪指」「隻手音声」「趙州無」「無門関」などでググっていただけると分かるだろう。本来なら禅のファンページでも作るところだが、永田の場合禅宗を色モノとして見てしまっている所があり、少々後ろめたい感じがする。それに、賛同してくれる人もほとんどいないだろうと思う。
 もう一つ目の宗教ブームは社会人になってからである。今度はもっと幅広く宗教を勉強し、大学院の講座でも取れたらいいなと思った。ここは単純に知識欲の問題だ。しかし、かつて永田が理系の研究をしていた時のように、自分自身で研究して新たな論文の課題を見つけ出すことは難しいように思える。永田は昔からよく、大人になったら研究者になりそうだと言われて育ち、自分でもその気になっていたのだが、本当の自己を活かせる道はそこにはないような気もしている。
 永田は「新約聖書」を何度か読んだ。「ヨハネの黙示録」にはこの世の終わり、一大スペクタクルが描かれており、いつ読んでも興奮する。また、「666」という謎を秘めた数字でも有名である。これは獣の数字で、読み解くには知恵が必要だ、とだけ書かれている。
 聖書には「死海文書」という写本がある。永田はこの言葉を当然のごとくアニメで知ったのだが、その某アニメは宗教をちょっとかじった者が見ると、こりゃひどいと思われる代物である。とにかくその「死海文書」は、これまでの新約聖書とは違った内容らしいのだが、残念ながら勉強不足でここには紹介できない。
 今の永田は再び宗教への興味を失いかけている。庶民としては、もし宝籤でも当たったら再び大学に入り直して……とか思ってしまう。漱石は『行人』の中で、「死ぬか、気が狂うか、宗教に入るか」という人間の三大末路を挙げている。一時期、永田もそこまで追い込まれたこともあったのだが、幸いにして平穏に暮らしている。いずれにしても、周囲の人には宗教といってもなかなか理解してもらえないので、ネットを通じて知己を求めるしかないのかなと思うのであった。


11月14日

 しかし、女子高生について冷静に考えるのは難しい。紺ハイソに萌え、ということしか今は言えない。紺ハイソのルーツについて、気が向いたら調べてみるかもしれない。

 さて、永田がわりと楽しみにしているのはアニメ「かんなぎ」である。田舎でも深夜放送をやってくれるおかげで、こうして見られるというものだ。今のところ2話、3話を録画した。一度ずつ視聴した。特に続きが気になる内容ではないのだが、メイド喫茶の話があるらしいのでそれまでは見続けたい。

 実際、永田がこのごろ気にかけているのは、いつどんなタイミングで株をナンピン買いするかということだ。安く仕入れて高く売るためである。金を殖やせるならそれに越したことはない。しかし本当は、こんなことをせず、アニメや漫画の世界にどっぷり浸かりたいと思っているのだ。アニメを熱心に見つつ、萌えキャラのイラストを描いていた頃もあった。まあ、そういうイラストを当サイトのお客が喜んでくれるとは限らないが、分かりやすさの点で言うと、文より漫画、漫画よりイラストである。分かりやすく楽しめるコンテンツを提供できる方がいいに決まっている。キャラ萌えの気持ちは非常に大切だが、締切や、他人に認めてもらいたいという気持ちなど、外部的な事情が許せば、永田ももっと制作をできるはずだと思っている。
 漫画描きの友人が全くいないわけでもないので、今度会ったら絵描きの心理みたいなものを聞いてみるつもりである。


11月13日

 女子高生……なんと甘美な響きであろうか。
 ここでナボコフの『ロリータ』の例を持ち出すのは少々場違いだ。あちらは12歳だかの少女を賛美する内容である。
 ドストエフスキーの『悪霊』で、スタヴローギンの告白という章があるが、そこでは13歳だかの少女を手篭めにしたらしい描写がある。
 何を言いたいかというと、女子高生ほどの年代になると、欲望の対象として見ることが昔はさほど特異ではなかったということだ。実際、日本でも16歳から婚姻が認められている。手を出すことは不可能ではないが実際なかなか出せない微妙な年代といえる。
 しかし永田はそんなことには関係なく、ただツインテールだ、紺ハイソだ、スク水だといって萌えている。まことに結構な脳味噌をしているというか、結局女子高生の上辺だけしか見ていないのかもしれない。そこで今日は女子高生の内面に迫ってみよう。(脳内で)
 女子高生は大学受験や就職を控え、かつ一度しかない青春を謳歌しようとして、さまざまなジレンマに陥っていると考えられる。性についても、自身の高まる性欲を制御できなかったり、周囲から入る情報に流されたりし、大切なものを簡単に失うこともあるだろう。不安定な気分に陥り、精神・神経症状を発症し始めるのもこの年代である。
 なんだか萌えの話題からずれてきたようだが、確かに悩み苦しむ女子高生というのはあまり萌えでない。ギャルゲー分類で言うと「元気系」が萌えである。
 おっと、その気はなかったのに、ギャルゲー基準で考えてしまった。なるべく現実を見て考えようとしたのだが、もはや女子高生はほとんど空想の中にしかないので、仕方ないのかもしれない。とにかく元気で明るい子がいい。ツンデレは非現実的だし、ネクラな少女は黒魔法を使ったりしそうなのでお断りだ。
 女子の部活とか、女子校とか、女だけの世界ではいろいろ信じがたいこともまかり通っているらしい。何度も言うが、永田の言う女子高生は、空想の産物だ。かつて永田が中学生だった頃は、当然ながら手の届かない存在だった。高校生になると、やはり遠巻きに見る存在だった。大学以降は言うまでもない。宇宙船に例えると、たった三年間だけ女子高生の周囲を回る軌道に乗ったが、その後は軌道を離れ、永久に遠ざかり続けている。再び接近できる可能性はゼロに等しい。
 それでも、考える余地はある。次回は女子高生をさらに記号化して考えてみたい。


11月12日

 永田は萌えパワーをたくわえるために、今日も自分の萌えについて書こうとしている。しかしそのパワーが一瞬にして飛散霧消してしまっては無意味なので、永続的に萌えパワーを貯める方向で参りたい。
 要するに、今の永田は制作活動がなかなか進まないので、「これこそは自分が信じている不変の萌え要素だ」というものが見つかれば、それに従って生きることによって、自然とタブレット・ペンが進むのではないかと思っている。
 女子高生は言うまでもなく萌えであるので、ここはちょっと趣向を変えて女子中学生について考えてみたい。ご存知の通り、田舎の中学では通学服は指定ジャージである。永田が通っていた頃は、男が青一色、女が赤一色という何の工夫もないジャージが平気で採用されていた。現在ではちょっと緑っぽい青色のジャージに統一されている。なぜジャージなのか、制服ではいけないのか。制服も一応あるが、儀式の時だけに着る者がほとんどだ。だから中学校を舞台に描くとしたら、「一人だけ反抗して毎日制服で登校する少女」とかを描けば萌えな感じである。
 制服はむろんセーラー服なりブレザーがあるが、中学生はまだ小学生の延長のようなところがあり、いきなりフォーマルな服を着ても、うまく着こなせていない部分がある。まあ、そういう不慣れな部分が萌えという意見もありそうだが、永田としてはパスしたい。女子中学生の紺ハイソというのも、まだ脚の形が成熟していないのでそんなにエロくない。
 さて、他には……例によってシチュエーション萌えの話になるか。ライトノベルは読まないので、中学生位の年齢の少女の萌えシーンをあまり見ることがない。まあ、それはそうと、永田自身の経験から言うと、ネクラとか、読書中毒とか、腐女子とかをあまり間近に見たことはない。女子中学生の印象は「快活」の一言だ。はかない恋をするのも特徴である。
 どこかに書いた気もするが、この時期の子供は精神的に不安定になりやすい。その一方で、「奇跡の年代」とでも言ったか、身体も心も共にとても健康な状態を維持できるのもこの年代ではなかろうか。少なくとも永田はそうであった。まあ、ろくに勉強しなくても成績は良かったので、悩みがなかったことは大きかった。……だが自分の話をしてもつまらない。とにかく、心に一点の曇りもなく、勉強にスポーツに恋愛にとまっすぐに打ち込めるのが中学生というものだと思っている。(今書いてみて、なんか胡散臭い教師みたいな物言いになってしまったと反省している)
 まあ、どうせ女子中学生はほとんど空想の中にしかいないのだから、細かい事はどうでもいい。ここでいよいよ女子中学生の「性」について触れなくてはならないが……危ない話になりそうなのでここは回避する。エロ漫画を読んで満足するしかなかろう。
 永田の萌えを喚起するという点では、今日の日記は失敗だった。次回は高校生の話題に致したい。


11月11日

 永田は昨日、スク水に関する記事を書いたことをきっかけに、今一番描きたいものがスクール水着ではないかということに思い至った。今までは日記を書くことが制作意欲と関わりがあるとは思わなかったのだが、積極的に萌えに関する日記を書くことで、制作につなげていければいいと思う。
 「萌え名前」について。永田は女の子の名前をつける(フィクションだが)に当たっては、当然ながら、自分にとって萌えである名前をつけるようにしている。しかし、「こういう名前が萌えだ」と公言するのはなんだか恥ずかしい感じがする。
 一般的に、「言うのが恥ずかしい」と感じられる事柄は、その人の根本的な趣味とか人格に関係しているように思われる。それに加え、「萌え名前」というのは、一種の「伝家の宝刀」である。「こういう名前をかわいい少女キャラにつけてみたい」と何年も温めるのが普通(?)である。だから、永田にとっての萌え名前リストをずらずらと挙げるようなことは決してやりたくない。
 まあ、例えば「チサト」という名前があるが、平仮名にしたり、漢字にしたりとバリエーションがある。どういう漢字を使うかもこだわりのポイントである。しかしこれについても詳細は秘密としたい。
 歯切れの悪い内容の日記となってしまったが、親戚や知り合いの人に娘が生まれると、どんな名をつけるのかと気にしてしまう。変な当て字は論外として、永田にとってフツーな名前、萌えな名前、予期しない素晴らしい名前というものがある。しかし、ギャルゲーにならふさわしい名前でも、現実につけられると何だかくすぐったいものも多い。逆に、現実に好ましい名前でもギャルゲーで見ると地味すぎて嫌な感じのものもある。
 dqname.jpというサイトには、笑いを通り越して腹立たしく感じられる名前が羅列されている。親戚の者がそんな名を娘につけないよう祈るばかりである。


11月10日

 寒くなってきたので女子高生らが紺ハイソではなく黒ストッキングをはいてくるようになり、ちょっと不機嫌な永田である。
 まあ、それはいい。漫画の中の世界ならば、年中夏にしておくこともできるし、紺ハイソやスクール水着を自在に着せることもできる。つべこべ言わずにさっさと描け、と読者はお考えであろう。
 そういえば、永田は紺ハイソについて色々なところで腐るほど書いてきたけれど、スクール水着とのなれそめ(?)についてはあまり書いてこなかった。むろん、小中学校時代の水泳授業の記憶は全然残っていない。少なくとも指定水着はなかった。
 結局、スクール水着への欲望は、「作られた」ものである。スクール水着がなぜあのような形をしているのか、プリンセスラインは何のためか、なぜ穴がついているのかは、多くのサイトで説明されているからここでは触れまい。
 スクール水着はそれほどエロいものでなく、萌えるものでもない。一体どこがいいのか。永田は以前、心交社という出版社から出ている少女写真集を古本屋で買った。これは小学〜中学の少女たちの抱き合わせ(性的な意味でなく)写真集である。ぶっちゃけて言うとロリコン向けの写真集であるが、永田は「イラストの資料になるかも」と思って買ったのだった。
 ここには、白い肩ひものついた、いわゆる競泳型のスクール水着を着た少女が出てくる。少女の膚は日に焼け、トーストのような褐色をしている。
 これだ! と永田は思った。褐色の膚に、白いひものコントラストである。褐色膚に白く残った日焼け跡というのは言うまでもなく萌えるしエロいものだが、白い肩ひももまた、そういう感情を惹起するようである。不思議なものだ。
 というわけで、永田はいわゆる旧型や新型のスクール水着でなく、競泳用スク水を愛しているのである。掲示板でスク水イラストを見つけても、新・旧スク水だと興味は半減する。たとえ肉体が豊満だったり貧相だったりと特徴があったとしても、永田が真っ先に目をやるのは白いひもなのであった。


11月9日

 永田は当サイトにおいて、一見真剣に物事を論じているように見えるけれど、どこか他人事のような印象を与えそうだと思っている。それは「僕」や「私」でなく「永田」という名称を使っていることからも明らかだ。
 本心を偽っているつもりはないが、ただ言いたくないことを言わないだけである。本当のことを言うと人を傷つける、と誰かが言っていたが、それに近いものがあるかもしれない。それに加え、本当のことを言うのは恥ずかしいというのもある。結局、当たり障りのないことを書いてお茶を濁している。
 一種の演出と考えてもらってもいい。永田は当サイトのメイン・コンテンツを漫画や創作文だと考えているから、この欄に毎日書いている日記はただのオマケのようなものだ。オマケが本編よりも目立つのは好ましくない。しかし、オマケだからといって手を抜くのもしゃくである。まあ、明らかに手抜きのような支離滅裂な日記も多いけれども、毎日毎日、出たとこ勝負で書いている。
 演出の話に戻ると、作品を見てもらうのが何より嬉しいのだから、その手助けとなる日記にする必要がある。まあ、だからといって日記で過去の作品について毎回言及されるのもうっとうしいだろう。永田は素人だから、自分の人間性を隠しながら日記を書くことは不可能だ。人間性が直接、間接ににじみ出ているものと考えている。一番いいのは、作品を見てくれるよう誘導する日記なのだが、ちょっとそれも簡単ではない。
 ここに至って、そんなに作品に自信を持っているのか、あるいは、読んでもらえさえすれば後はどうでもいいのか、という問いが生じる。前者については、自分で好きなように作った作品なのだから、自信というか、愛着はある。後者については……できれば感想をいただきたいと思っているが、客観的に考えると、否定的な感想もけっこう寄せられるような気がしている。そういうものをしっかり受け止めて、より良い作品を作る糧としていけるか……?
 しかしそもそも感想はもらえない。オマケとして書いている日記も、書き方によっては、感想を誘引することができはしないか。漫画に対する想いや、日頃感じること、考えたことを率直に出していけばいいのでは? もちろん時間はかかるし、簡単なことではないけれど、人気サイトと言われるサイトはそういうのが多いような気がしている。時にはふざけたり馬鹿をやったりして、笑いを誘うこともある。
 というわけで、現在の永田が何に心を支配されているのかを言うと、まずは「弟切草」の金のしおりを早く出したいという気持ちが数十パーセント。女子高生(イラスト、現実ともに)の紺ハイソに萌える気持ちが数十パーセント。明日の日記に何を書こうかという気持ちが数十パーセント。関谷あさみ氏の新作を待ちわびる気持ちが数パーセント。新作漫画のネームに手をつけたい気持ちが数パーセント。合わせて大体百パーセントといったところか。おっと、株の値上がりを待つ気持ちも忘れてはならない。
 ある文章入門書の冒頭に、「あなたは嘘つきである」と書いてあった。考えを文章にしようと思ったその時点から、情報の取捨選択が始まる。すなわち本音と嘘が入り混じることになる。
 永田は日記に嘘を書いているつもりはあまりない。ただ「本音でも嘘でもどちらでもないこと」、換言すれば「どうでもいいこと」を書いているだけだ。それでも、本音を書いて誰かを傷つけるよりは、幾分ましだと思っている。毒舌を気取った日記などはどうでもよく、本音を真摯に綴った日記が、最も強い破壊力を持つことを忘れてはならない。


11月8日

 どんなものでも、楽しむ努力をすることが必要である。
 しかし、努力してまで楽しむ必要があるのか? また、努力せずに楽しめるモノがあるのか?
 永田の場合、努力せずに楽しめたのは、子供の頃から読んでいた「こち亀」とか、星新一の作品とかである。要するに子供や中高生向けの娯楽である。
 こういうものを創る人々は、娯楽の粋を知っている。さまざまなメディアから学んで娯楽を研究している。学んだものを自分なりに噛み砕いて、子供でも分かるような作品に仕立てる。その苦労は並大抵ではない。
 一方、読み手としては、こういうものを読んで素直に楽しんでいられるうちが一番幸福である。いつまでもそうしていられればいいのだが、人は大人になるものだし、なかなか飽き足らなくなることもある。そうなったら、もう少し大人向けの作品を読むか、あるいはすっぱり卒業して仕事の世界に夢中になるか、どちらかであろう。
 永田は昔から、大人になっても漫画を読むのをやめるとか、仕事人間になるとかいうことはありえないだろうと思っていた。実際その通りになった。永田は嫌々ながら仕事をしている。しかし仕事をするから金がもらえて、こうしてネットもできるというわけだ。
 ここに至って、素直にものを楽しめないという状況になった。しかし「ハトよめ」などのナンセンスギャグ漫画は楽しむことができる。そこで永田が思うのは、漫画や大衆小説におけるストーリー展開、論理展開といったものに永田は満足できず、論理が破綻したナンセンスばかりを読みたがるのではないかということだ。これは困った症状だ。
 だが、幸いにも打開策がたった一つだけあり、それは自分で漫画等を作ることである。こうすれば全く自分の好み通りの作品ができるはずで、絵柄とかキャラ造形とかよりも、とにかくストーリー展開をオリジナルなものにできる可能性がある。だからこそ永田は自分の漫画を好んで読み返すのである。
 こないだまでは、調子がいいぞ、と思ってどんどん漫画を描いていたが、行き詰まりを感じるのは、やはり独自な論理展開を築き上げるのはそう簡単ではないということか。もっと素直になって、娯楽の原則に忠実になればスラスラ描けるのではないだろうか。
 永田にとって、もはや娯楽は、ナンセンスギャグの作品と、自分の作品しかないのかもしれない。ここは背水の陣を敷き、本気になって漫画制作に取り組むべきではないだろうか。


11月7日

 永田は学生時代から興味の変化が激しかった。といっても、漫画とか、文章とかの周辺を行ったり来たりしているだけである。現在の自分はどこの位置にいるのだろうか、と思うと、インプットもアウトプットもあまりできない、中途半端な位置だ。ただ手を拱いて飯を食っているだけの状態といってもいい。
 永田が絵などを鑑賞する態度に問題があるのかもしれない。アニメにしてもそうだが、最初から最後まできちんと見て感想を考えるということがほとんどない。ちょっと見て、「ああ、これはこういうタイプの話か」と決め付けてしまい、深く突っ込んで見ようとしない。イラストの鑑賞においても、萌えミシュランとかの広く浅くチェックするニュースサイトは使わず、特定の趣味のイラストを扱った掲示板を見るだけである。これでは目新しいイラストに感動する機会はほとんどないだろう。まあ、さすがに紺ハイソフェチなイラストの掲示板はまだ見たことがないが……。
 感動することが少ないと、理屈っぽくなる。永田は小説をいろいろ読んだけれども、本気で感動できた本はやはり少ない。よく、漫画を描く者はいろいろなメディアから学ばねばならないといわれるが、小説を漫画に応用するのは案外難しいのではないか。特に純文学においては難しい。
 ここのところ、暇を持て余して退屈な時間というものをあまり経験していない。大抵そうなりそうな時には、Wiiのマリオ2で遊ぶか、ネット巡回をするか、「ハトよめ」を読んだりし、そうでないとゴロゴロしている。以前は「映画に学ばなくてはダメだ!」と思って数本のDVDを借りて見たりもしたが、古い洋画ばかりであり、ほとんど感動できなかった。
 かつて小説について言ったかもしれないが、永田は新しいものへの関心に欠けている。永田が読む小説の作者はほとんど既に死んでいる。同世代の人々が創り出すものに関心がない。それでも、自分の作品は同世代の人に見てもらいたいと思っている。まことに結構な脳味噌をしているというか、これでは一人カラオケ状態だ。漱石が『猫』の中で予言した、誰もが自分の個性を主張し合い、互いに衝突し合う時代が近づいているのかもしれない。
 ともかく、今はアウトプットをあまりできない時期に来てしまったと諦めて、「積ん読」になっている雑誌「文學界」にでも手を伸ばそうかと考えている永田である。


11月6日

 相場の展開が目まぐるしくて息つく暇もない永田である。
 さて、昨日は女子高生と株と萌えについて考えたが、ちょうどギャルゲーのように、いろいろなタイプの女の子が株式投資をやっている様子を想像してみるとちょっと面白い。
 まずはドジっ子である。これはもう、株がちょっと上がると焦ってJC(ジャンピングキャッチ)しそうなタイプだ。あと損切りが遅れてズルズル損をしそうである。
 委員長タイプの女の子は、電力・ガスといったディフェンシヴ株に堅実に投資し、配当を狙うだろう。ただキャピタルゲインはあまり期待できない。
 ちっちゃな子は、いずれ成長したいという夢を持っているから、新興国で稼いで発展しそうな成長株を狙うだろう。しかし一つの銘柄に熱中するあまり周りが見えなくなることがある。
 ツンデレっ子は……よく分からない。上がり下がりの激しい株に投資して往復ビンタを食らうか。仮にもうけても、「べ、別にあんたのために買ってあげたんじゃないんだからね」と訳の分からないことを言う。
 スポーツ少女なら、今話題?のSPEEDO社の「レーザー・レーサー」を扱っている会社(名前を忘れた)の株を買うかもしれない。
 読書好き少女なら幻冬舎とかの出版株か。もうけが出たとしても人に言わず、一人でニヤニヤしていそうだ。

 しかしこんな妄想は、ちょっと株をかじっていれば大抵できるもので、有難くも何ともない。株投資する少女たちを漫画に描くことは、やめることに致そう。
 株の話題を出しても株価が上がるわけではないので、今後はやめることにする。しかし永田はイラストはもとより日記の話題にも事欠くようになってきた。以前とは生活がガラッと変わり、活字の本を読まなくなった。かといって漫画を読んで研究しているわけでもない。
 少しは発展性のある話題にしようか。永田はアニメ「かんなぎ」2話を見た。結局このアニメで一番萌えなシーンは、フトモモではなく、オープニングでナギがアイシャドー(?)をつけられているシーンだと悟った永田である。あと「ガンスリンガー・ガール」の10巻の表紙画像を見てちょっと欲しくなった永田である。


11月5日

 女子高生と株というのは、あまり相容れないもののようである。しかしそれは、普通の家庭では余裕資金として例えば百万円を子供に預ける余裕がないからである。もしゆとりがあるなら、経済の勉強のため、百万円を貸し与え、自由に投資してもうけなさい、と言ってあげるべきかもしれない。
 まあ、こんなことを言っているが、結局永田は全て「萌え」の見地から考えている。女子高生が株をやるのは萌えだといえないだろうか。……自分で言っていてちょっと自信がなくなってきた。
 クラブ活動としてやるのはどうだろう。実際、大学ではそういうことをするサークルがあるそうだ。高校生(むろん女子のみ)たちが集まって、あの銘柄はどうだ、この銘柄はどうだ、と選定する。トヨタやキヤノンといった主力株や、ニューディール、イチヤといったボロ株まで銘柄は幅広い。イチヤの2円買い行列に朝から並ぶのもまた楽しからずやである。
 しかしこのストーリーを実現するには、ヒヨッコ投資家の永田には荷が重過ぎるようだ。まあ、必ずしも破産を経験する必要はないが、ナンピン地獄や、空売りして踏み上げを食らったりなど、相場での失敗は数多い。そのような失敗、危機を織り交ぜつつ、読んでいて面白いストーリーにするには何が必要だろう。
 ドジっ子という萌えジャンルがあるが、これは投資家にはむろんふさわしくない。ドジを踏んで金を失う、あるいは災い転じて福となして偶然に富を築く、どちらも話としては面白くないのでパスとする。
 だとすると、やっぱりよく勉強して石橋を叩くように投資をする少女がいいのか。これも少々つまらない。ある種の果敢さは必要だろう。漫画の主人公として、冷静さと熱さを併せ持つ者が望ましい。
 おや、こういうテーマで漫画を描くとは思っていなかったが、こう考えてみて(自己満足だが)ちょっと描いてみる価値があるかもと思えてきた。株式投資をする一番の萌えキャラは……と妄想するだけで、退屈な時間をしばらくつぶせそうである。
 「ここはドテン売りよ!」 ← 萌え?なセリフの例。


11月4日

 永田は市況を目を皿のようにして観察している。
 市況というのは要するに株式市場である。サブプライム・ローン問題に端を発した金融危機が、実体経済に悪影響を及ぼし始めている。円は一時1ドル90円まで買われた。それから円高は一服し、再び日本株を買おうという投資家の後押しをしているようだ。公的年金の買いが入ったという観測も今日はあったらしい。
 と、もったいらしく書いてみたが、大して問題を理解しているわけではない。永田にとって大事なのは、塩漬けにしている株式をどうするかということだ。先日、日経平均がバブル後最安値をさらに割り込んだのであるが、そろそろ底を打ったと言えるような気がしている。だからここでひとつナンピン買いをし、購入単価を下げてみてはどうかと思ったのである。ナンピンは、絶対してはダメだ、と主張する指南書もあるが、現実を見て一番損失を取り戻せる方法はというとナンピンしかないのだ。ただ、無限ナンピン地獄と言われるように、ナンピンのしすぎはリスク増加を招く。やはり余裕資金の範囲でやるに越したことはない。
 ここでまた自分の作品の話になってしまうが、女子高生が小遣い銭の範囲で株を買うストーリーを考えて掲載したことがあった。しかし、しょせん高校生であり、使える金は極めて少ない。だから決定的な面白さを打ち出すことができず、途中でやめてしまった。こればかりは改稿して掲載しようという気にもならない。
 以前、週刊誌で、オバマ氏が新大統領になったら日経平均がすごい値になるという記事を読んだ。本当かどうかはむろん分からない。しかし投資家としては期待せずにはいられない。開票結果を楽しみに待つことにしよう。


11月3日

 今日は散歩をしてものを考えようとしたが、大した考えは浮かばなかった。
 昨日の話で、やっぱり即売会に出ることは大事だなと思った。本が売れない悔しさを経験したことがない。経験すれば、なぜ売れないのかをよく考え、改善に努めるようになるだろう。ウェブで一方的に発表しているのは、一人カラオケと同じだ。上達は見込めない。
 と、当たり前のことを書いてみたが、諸々の事情があって、何でも思い通りにいくわけではない。一応今日は気分転換をした上で手を動かしてみたが、身体の奥にストレッチパワーのようなものがまだ溜まっていない。よって、フェチ心を全開にしたイラストをまだ描けないようである。
 イラストにおけるキャラクターを、本当の人間の似姿として捉えるか、あるいは単なる記号として捉えるかは、意見の分かれるところだろう。絵師で、深くキャラクターに感情移入している人は、描いている最中に本物の人間を描くのと似た感情を覚えると思う。一方、永田はとりあえず手を動かし、キャラの原則から外れないように描くことだけを心がけている。このへんが熱意あふれる作家と異なるところだ。
 まあ、そうやって描いた顔でも、かわいいと思えることはあるのだ。例えば先日描いた初音ミク漫画などである。ツインテールであることも大きいが、顔のパーツはわりかし整っていると思われる。これは単に技術の問題というか、アナログで描いていた時のようにきっちり下絵を描き、そこから1ミリもずれないようにペン入れしていた頃とは少しやり方が違っている。要するに、デッサンのことをあまり気にせず、好きなように描いているのが奏功しているのかもしれない。
 こないだから一枚もののイラストを載せているので、つい調子に乗っているが、永田は本来、漫画を描きたいのだということを忘れてはならない。しかし、きれいなカラーイラストでページを賑わせたいという気持ちもあるのだ。かつてアニメを熱心に見ていた頃のように、このキャラが好きで仕方ない、というキャラが出てくれば、当サイトのトップを飾ることになるだろう。
 そういえば、「かんなぎ」のアニメはわが家でも見られそうだということが判明した。とりあえずは戸松氏がどんな歌を歌っているか、気になるところである。


11月2日

 最近いろんな所で「かんなぎ」のイラストを見かける。永田も真似して描いてみたいと思ったが、惜しいことに資料がない。原作コミックスは1〜2巻を持っていたがろくに読まないうちに売ってしまった。まだ「かんなぎ」フォルダも作っていないのだが、早々に作らなくては……。
 永田はTSUTAYAの会員カードを更新してきた。ついでに1点だけソフトを借りることもできたのだが、これといって良いものが見つからなかったので借りなかった。店員は妙な顔をしていた。
 永田はぼんやり過ごしている。漫画の教本を持っているけれども全然読み返さない。1年間サボっていた分だけデッサン力などは落ちているはずだが、そのことを実感していない。危機感が足りない、というのだろうか。素人なのだから、下手の横好きでやっているだけであって、多くの見返りを求めることはできない。
 もし即売会に出れば、もっと違った目線を持てるようになるかもしれない。即売会は戦場である。厳しい目を持つオタク読者が、永田のブースを訪れ、チラと同人誌の表紙を見る。――とりあえず既存の萌え絵から大きく外れてはいない絵を描いているようだが……少々違和感がある。塗りはいかにもフォトショ的な塗りだ。なんか立体というよりはペラペラした絵だ。これでは人気サークルには太刀打ちできないな。まあ、中身を見てみようか。フム、漫画がある。コマのワクがくっきりしているから、デジタルで描いたものだろう。コマの割り方がちょっとマジメすぎるというか、工夫が少ないというか……。絵柄はそう変なものでもない。構図のバリエーションに乏しい。お話は一風変わっていて、まあウケ狙いなのだろうが、一般的な漫画に比べるとストーリーの起伏は乏しい。――
 ちょっと話が変わるが、永田は先日吉本ばななの『キッチン』を読んだ。これを読んで思ったのは、話の出来がどうこうというよりも、「こんな小説を真面目に書かなきゃならないなんて大変だな」という憐憫の気持ちであった。
 何を言いたいかというと、永田の漫画にしても、読む人に対し、「痛い」とか「いたたまれない」という気持ちを起こすのではないかということだ。むろん、吉本氏の小説と永田の漫画は比較できないけれど、どちらも辛気くささ、もどかしさを感じさせる点では一致していないだろうか。
 まあ、これは作者の永田だから言えることかもしれない。永田は自分の漫画が好きである。しかしそれは主観的に見た場合である。もし仮に他人がこれを描いたのだとしたら、「こんなものを本気で描いているんだとしたら、頭は大丈夫か?」と思うかもしれない。まあ、作者は自分の本心を投入しているとかではなく、ただ思いつくままに描いたものもあるから、上記のような心配をされても「余計なお世話だ」で終わるだろう。
 例のごとく、何を言いたいのか分からなくなってきた。永田が知りたいのは自分の力だ。それを知るためには他者と関わらねばならないが、現在はそのような環境にない。たまたまネットというものがあり、たまたま毎日何かを更新しようという目標を立てているから、漫画も発表できているわけだ。もしパソコン・ネットがなかったら、今の永田はどうしているか、想像もつかない。だが、恐らく今よりも多く外出し、人と関わっているのは間違いないだろう。
 最初に戻るが、永田は「かんなぎ」という作品をろくに把握していない。主人公のファッションも「なんか描くのが面倒そう」ぐらいにしか思っていない。まあ、平凡な人間のもとに神様が突然やってくるというのは、ありふれた話だ。これに傾注するよりも、オリジナルな作品を作っていきたいと思っている。


11月1日

 今日はイラストを描けなかったが、イラストに対する自らの姿勢を見出すことはできた。
 手元にあった、萌え雑誌のスクラップをめくってみたが、そこには自らの存在を読者に強くアピールしようとする少女(性的な意味も含めて)が描かれていた。むろん、その裏には、自らの存在を読者に広く認めてほしい絵師の姿がある。
 永田も、女の子がこちらを向いて笑っている姿を描くことがある。しかし顔が小さい(カンバスに比して)とか、表情が豊かでないとかで、アピール度がうすいことがよくある。
 これは技術の問題か、それとも精神の問題かということがある。おそらくは両方の問題なのだろう。技術の問題は当面仕方ないとして諦めるしかないが、精神は改善の余地がある。
 永田が「女の子を描きたい」と思う時は、たいていフェチ心が働いている。それゆえ、フェチ対象(ハイソックス等)を描くだけでほとんど満足してしまう。正直な話、女の子の表情はオマケ程度のものだ。
 永田は職業絵師ではない。だから、読者に訴えかけて、「同人誌を買ってくれ、画集を買ってくれ」と働きかけることはしなくていい。ただフェチ心を満足させられればいいのである。
 ウェイトレスやメイド、あるいはハロウィンでもいいが、そういう定番イラストを好んでいないのはなぜか。それは単に実力不足のせいである。そして実力不足をよく知っているゆえに、無茶や冒険をしようとしない。しかし「テーマイラスト」とか称して雑誌等で求められるのは、実はそういう定番イラストだ。萌え雑誌でテーマイラスト特集として複数の絵師が描くようなことがあっても、一種の不文律みたいなものがあり、萌えの原則からほとんど外れないイラストばかりが集まる。
 結局は、読者が求めるものを確実に出していけるのがプロだということだ。永田は日頃から萌えイラストを収集しているのに、あまりそういうことを考えてこなかった。永田の集めるイラストはプロのものもアマのものもあるが、やはり集めるだけでなく定期的に見直して、勉強していかねばならない。

 それはそうと、「ハトよめ」7巻を読んだ。まだ本気で面白いと思えるギャグ漫画があるのはいいことである。


10月31日

 乙ひより氏の「クローバー」という単行本を買った。氏のウェブサイトに載っているイラストを見ると、ひょっとして萌え系かもと思ったが、本を買ってみるとそれほどでもなかった。
 百合姫掲載作品であり、女の子同士のめくるめく世界が繰り広げられているらしいと聞いていた。しかしこれといってプッシュしたい要素は見られなかった。もし内容をチェックできたなら、新品で買うことはなかっただろう。
 これだけで話を終えてしまってはつまらないのだが、永田が百合漫画作家として認めているのは森永みるく氏である。しかし氏の絵はあまりにも昔から変化がないので、流行りの絵からはちょっとずれているようだ。永田も年月を重ねて好みが変容してきているから、氏の絵にはちょっと萌えられない現状である。
 というわけで、百合漫画作家としてはこれといって思いつく人がいない。まあ、絵が好みで、かつ百合ストーリーも好みである作家はなかなか見つからないだろう。百合姫を購読しているわけでもない。それだったら百合的な作品を自分で描いた方が早い。
 声優レズ・百合描写を好む人気漫画家もいる。永田もそれには賛成で、かわいい声の女の子同士がイチャイチャしているのはとても萌えな光景だ。声優は萌えと夢を与える素晴らしい職業だと改めて思うのであった。


10月30日

 永田はかつてツインテール狂として日々を送っていた。しかし今は紺ハイソ、黒ハイソに夢中な日々である。この田舎でも日常的にハイソを見られるのは、良い時代になったものだなと思う。
 ニーソックスにはほとんど萌えを感じない。なぜかと言われるとちょっと困る。不思議なものだ。「絶対領域」が確かにあるが、それはフトモモのごく一部である。それに、仮に黒ニーソだとしても、皮膚を白く引き立たせる効果があまりないように思われるのだ。
 また、アニメ等に出るようなニーソはかなり非現実的である。フトモモの真ん中まであるようなニーソには、超ミニスカートを組み合わせることになるが、そんな短いものを履いた痴女はちょっといないだろう。
 非現実的なものに萌えるのは難しい。永田はアニメキャラのフィギュアにも全然萌えを感じない。やはり現実のツインテールや紺ハイソがあって、その延長としてイラストがあると考えるべきだろう。まあ、萌え業界の流行は猫の目のように間断なく変化するが、現実の流行(しかも永田が好むような流行)はなかなか変わらない。
 やはり都会にいてオタクショップに頻繁に出入りするのでもないと、萌えの流行を追うのは難しいようだ。
 永田は先日、突然一枚もののイラストを続けて載せたが、特に意図があったわけではなく、ただ描きたいと思うものを描いただけだ。(本当は漫画にしたかったが……)
 イラストや漫画に対し、ウェブ拍手をいただくこともある。拍手の「お礼絵」を新たに描けば、押してくれた人を喜ばすこともできるかもしれない。ただ、今はあまり「お礼絵」にこだわるつもりはなく、良いと思った絵は全ての人に公開していきたい。


10月29日

 永田は今日、カラーイラストを描きたいと思っていたが、なかなかタブレットペンが進まなかった。それにネタもなかった。
 既存のアニメ・漫画キャラを描くことはあまりなくなった。これは結局、そのキャラを本物に忠実に描くことのみに心がとらわれ、結果として味も素っ気もないまずいイラストができると思うからである。
 オリジナルのキャラ(まあ、たいていその場限りの思いつきだが)ならば、好きなように描けて良い。女の子に関する永田のフェチポイントは意外と多くあるようである。とはいっても、キャラの肝である「瞳」については、「吊り目」と「非吊り目」の区別ぐらいしか今のところつけにくいのが遺憾である。あとは、もみあげが長いとか、脚の肉がむっちりしているとか、フェチポイントはある。
 エロ漫画は裸体が多く出てくるので、女の子の魅力的な表現を学ぶにはうってつけだ。しかし永田は今まであまり積極的にエロ漫画を買わなかった。ようやくここに来て、関谷あさみ氏が描く雑誌を追いかけようかなと思っているぐらいである。関谷氏の絵は、とりあえず顔がかわいく、また目新しい構図もしばしば見られるようである。女性であるのに、男の興奮のために全てを捧げる関谷氏を永田は尊敬するものである。
 他には……名を挙げるのが残念だが、遊人の漫画を昔よく見た。イラストの練習においても、氏の絵は大いに役に立った。女の子の手や足のパーツの細かい部分(関節とか肉の盛り上がりとか)の描写の勉強になる。
 などと言っているが、永田の絵はむろん発展途上である。先日の紺ハイソイラストは、久々にいいものを描けたなと思っているのだが、見る人が見たらヘタクソと片付けられそうな気もする。かといって、いきなりイラストSNSに参戦するのも(自信を喪失しないかと)心配だ。
 ネット引きこもりと言われようとも、もう少し自分だけで技術を磨きたいと思うのであった。


10月28日

 大学の学園祭では、漫画サークルが似顔絵描きの催しをすることがある。別に学園祭である必然性はないが、要するに人が大勢集まり、似顔絵を描かせてやろうという暇な人もいるということで、学園祭が利用されるわけだ。
 やはり漫画のプロとなると、上手な絵を速く描くことが要求される。似顔絵屋は相手のいる商売である。さっさと、かつ上手に描かないと怒らせてしまう。絵の上達にはうってつけのイベントといえよう。

 秋は学園祭のシーズンである。どうでもいい話だが、永田ははるか昔に「学園祭即席カップル」という言葉をどこかで聞き、なるほどとうなずいたものだ。学園祭においては、皆、気持ちが自然と浮き立つものである。おそらくフェロモンの量も増し、また性欲も増すのだろう。異性とくっつきたいという気持ちが起こって当然である。
 こういうカップルは、学園祭の最中だけ燃えるような恋をするが、その後は別れてしまうことが多いらしい。永田はそんなカップルたちを皮肉る気持ちを持っており、文芸サークル在籍中にそういう者らを扱った小説を書こうとした経過がある。しかし結局は書かずに終わってしまった。
 社会人になると、学園祭のように気持ちの浮き立つイベントはなかなかない。高校生なら冗談で済むことが、大人の場合は犯罪になることもある。まあ、大人には酒があるが、上手に飲まないと大きな失敗をすることになるだろう。
 おっと、そういえば大人にも大事なイベントがあった。勘の良い方はすでにお分かりだと思うが、同人誌即売会である。売り手は、いくつ売れるかと気を揉むことになる。一方、買い手は、己の目を頼りに、良い同人誌だけを選り分けて購入しようと、オタク力の発揮を目指す。
 楽しい即売会への参加を、まだ諦めてはいない永田である。


10月27日

 永田は「もえる年賀状」という雑誌を書店で見た。
 現実には年賀状を出す数は極めて限られている。それに内容も、十年前と同じく、プリントゴッコを使った簡便なものだ。学生のころ、親しい人にイラスト入りの年賀状を出したことはあるが、今から振り返るとけっこう痛い行為だったように思われる。イラストはむろん美少女キャラのイラストだ。
 懸賞に応募するハガキは、ただ必要事項を書くだけでなく、カラーペンを使って目立たせるとか、頼まれもしないのに美少女キャラのイラストを描くとかした方が当たる確率が上がると聞いたことがある。
 まあ、年賀状は懸賞ハガキとは全然違うものだ。やはり日頃のご愛顧に感謝し、新年を共に祝うという心が必要である。だから年賀状に描くキャラは美少女キャラであっても振袖とかの正月らしい服装をしていることが望ましい。ちなみに永田は着物のたぐいのイラストは現在に至るまでほとんど描いたことがない。「柄を描くのが大変そう」というのがその理由であった。しかし今ではパソコンを使えるわけだし、柄も既存の素材を使えば簡単に作れそうなものだ。
 描くのが簡単になった分、おざなりな内容になるのはよろしくない。これは永田も常に心に留めておかねばならないことだが……やっぱり人間、できるならラクをしたいものである。
 年賀状や年賀イラストは、着物や干支の動物を描かねばならないのでこれまで敬遠してきた。当サイトでも(気の早い話だが)そうしたものを描きたいものだと思うが、来年の干支は牛であり、牛イコール巨乳娘という単純な発想しかできない永田は、やっぱり再来年からにしよう、と思うのであった。


10月26日

 紺ハイソっ子(クリックで大きくなります)

紺ハイソ ブルマー

 無茶な姿勢だ……


10月25日

 金髪ツインテールっ子(クリックで大きくなります)

金髪ツインテール

 作品タイトル「倶胝竪指」


10月24日

 永田はまだまだ「弟切草」をプレーしている。選択肢の数は1202個になったが、まだ金のしおりにはなっていない。全部制覇できるのはいつの日になるのか……。
 日記絵と称して、きっちり彩色した絵、あるいは少々ラフな絵を毎日のように掲載しているサイトがある。もちろん描かれるのは女の子が主体だ。
 女の子の絵は、とにかく瞳を丁寧に、かつ流行のやり方を真似して描けば、あとは少々テキトウでも評価してもらえるのではないか。永田がイラストを描くと、どうしても目がカンバス全体に比して小さくなってしまう。これは、絵を描くからにはバストアップではつまらないので、全身を描こう、と思ってしまうからだ。あとやっぱり脚を描きたい(紺ハイソのため)し、胴体も描きたい(スク水のため)。
 一流の萌え絵は、おそらくこんなちっぽけな戦略を超越したところにある。それはきっと、実力ある絵師が、自分の好みのままに描いた絵のことであろう。よく神は細部に宿ると言うし、鳴子先生のように細部に非常にこだわりつつ、かつ主役キャラが萌えであることが必要だ。
 ここで考えていても絵ができるわけではない。ちゃっちゃと手を動かすことが必要だ。永田は自分の漫画をまだ充分にアピールできていない。例えば、登場人物の顔と説明書きを載せたり、やるべきことはいくらでもある。「チサト日和」は前世紀から描いており、古くて下手な冒頭を読んで去ってしまう読者がいるのは遺憾なことだ。しかし、リメイクと称して今から描き直す必要があるかというと……。
 と言っている間に、所定の字数に達したので、あとは休みを利用して、制作にいそしむことにしよう。


10月23日

 永田は数日考えて、新しい短編漫画の構想がやっとできたので、さっそく形にしていきたいと思っている。
 自分の頭の中でどのようにアイデアができていくのか、素人がそんなことを他人に教えても別に有難がられはしないと思うが、漫画のアイデアを出してしまって日記のネタがないので、やむなく書くことにする。
 漫画をどこから考え出すか。初めからか、終わりからか、人それぞれだろう。エドガー・アラン・ポーは終わりから書くという方式だったそうである。
 永田の場合はとりあえず冒頭を考える。そこからは気の向くままに話を展開させる。作業としては、ComicStudio上で真っ白なカンバスにセリフ等の文字を入れていく。文字を入れ終わったらその位置に合わせてコマを割る。
 他の人の例をよく知らないのだが、ストーリー漫画の話の作り方というのは、一人一人違って千差万別であるような気もするし、あるいは大してパターンはないような気もする。大まかに言うと、見せ場をつなぎ合わせて話を作るのは、商業誌的なやり方である。これに対し、行き当たりばったりで話を作るのは素人だ。
 永田は行き当たりばったりで話を作ることをむしろ楽しんでいる。それは結局自己満足に他ならないが、この世にない新しいストーリーを作れそうだという自負はある。永田は今まで多くの漫画を読んできたけれど、本当に好きなのはギャグ漫画であって、ストーリー漫画を繰り返し読んで楽しんだ経験はほとんどない。それに手本とすべき映画・ドラマもほとんど知らない。
 だから本来、永田はストーリー漫画を作れないはずだ。そこを無理して作るのが、無茶な点でもあり、また面白い部分でもある。完成した自分の漫画を読み返すのが至福の時であることは、言うまでもない。
 新しい漫画に、ひとつご期待を頂きたいところである。


10月22日

 「すくみず」おまけイラスト(クリックで大きくなります)

スクール水着漫画 おまけ絵

 おまけイラスト(カラー)です。

 「すくみず」についてコメントをいただきました。ありがとうございます。漫画の受け取り方は人それぞれなんだなあと改めて感じました。


10月21日

 「すくみず」P2(クリックで大きくなります)

スクール水着漫画 2ページ

 スク水漫画2ページ目(完結)です。まとめて読みたい方はこちらから。


10月20日

 4万ヒットありがとうございます!
 記念として漫画を掲載しますのでご覧下さい。

 「すくみず」P1(クリックで大きくなります)

スクール水着漫画 1ページ

10月19日

「女の子エンターテイメント」という言葉を先日出した。「あずまんが大王」に代表される。現在では萌え4コマ雑誌などをめくれば簡単に似たような作品が見つかるだろう。
 永田も、いつも萌え4コマはダメだと言っているわけではなく、「ひだまりスケッチ」「○本の住人」「ひろなex.」といった4コマは一応愛読している部類に入る。
 女の子ばかり出てくるが、少女漫画ではない。主人公は恋愛をしない。個性の強いキャラクターをたくさん出して話を作る。ただ少年漫画のような男くささは皆無である。たまに熱血な者が出ても、どこか世間とずれていたりする。要するに、男が主人公のギャルゲーに、代わりに主人公として女の子をはめこんだようなものだろうか。
 まあ、こんな分析をしてもアイデアが出るわけでないことは分かっている。永田が「これはたまらん!」と思える話は萌えやナンセンスであることもすでに述べているが、それとて、一般ウケするような萌え・ナンセンスとは限らない。拙作「本を買うならフックオフ」の第7笑「萌えが見えない」でもちょっとした議論をした。オチがなんか変である。当時は確かアニメ「ギャラクシーエンジェル」にハマっていたか、あるいは禅問答にハマっていたかして、ちょっと力の抜けたおかしなオチを目指していたようである。
 百合ものの漫画についてはどうか。永田も一時は「百合姫」とかの雑誌を好んで見ていた。百合はいいものだ、と一応言えるけれど、「最後の制服」のようにマジなものはちょっと引いてしまう。ドロドロした展開よりも、あっさりと(?)レズエロ展開に持っていってほしいと思う。
 いずれにせよ、理想を打ち立て、それに向かって突き進むことが素人漫画においても必要であろう。少なくとも、赤松漫画のように大勢の少女たちがワイワイやっているのは好みではない。かといって、一人だけでは漫画にならない。二人だけというのもちょっと寂しい。描くのが面倒にならない範囲で描き分けをして、常時三人ぐらいの少女を出して話を作っていければ幸いである。


10月18日

 休日なのでバリバリ制作をしよう、と思っているが、ネタがない(いつものこと)とか、ネット巡回に余計な時間を使ってしまうとかして、なかなか制作に取り掛かれない日もある。
 pixivというものを以前から知っているが、メンバーにはなっていない。招待制なのかどうかもよく分かっていない。ともかく、イラストを描き、それにキーワード・タグをくっつけて検索できるようにし、多くの人に閲覧してもらえるというのがその骨子だろう。ウェブ拍手やコメントのような機能もついていると思われる。
 このようなサービスは、とにかく自分の絵を誰かに見てもらいたい、と思う作家にはぴったりだ。版権ものはもちろん、オリジナルであっても、「ツインテール」「ハイソックス」「スクール水着」などのタグをつければ、需要を掘り起こすことができるだろう。
 ちょっと話が飛ぶが、女の子のイラストを描くにあたり、「心」をどこまで入れるかという問題がある。永田の場合、例えば先般描いた「映像散歩たん」の絵(映像散歩ファンページを参照)のようなものには、「心」はあまり入っていない。ただ単に、彼女のメッセージをはっきり伝えるために、ポーズをとらせた絵を描いたのである。
 絵師の知り合いがいないので、空想で語ってみるが、女の子の絵を描く場合、萌える気持ちとか、リビドーの流れとか、そういったものがあるのは普通だろう。永田も、かつてリアルタイムで見ていたアニメの少女キャラを描いてサイトに載せていたころはそんな感じだった。もちろん現実の恋とは違っているが、それに似たものもあったのだろう。
 つい最近でも、漫画の中で女の子の絵を描いているが、そこそこかわいいな、と思うこともある。「心」を入れたからそうなったのか、それとも自分の絵だから贔屓目で見てしまうのか、詳しくは分からない。とりあえずいつも心がけているのは、丁寧に描こう、真面目に描こう、ということである。そう心がければ、少なくとも自分のベストを尽くした絵になるだろう。
 結局、良い絵を描くためには、基本的な技術と「心」の両方が必要だという、当たり前の結論になりそうだ。今の永田も、おそらく将来の永田も、pixivに参加しても大していい結果にはならないだろう。基本的な技術らしきものはなく、ただ中学時代から自己流でプロの絵を真似して描いてきただけだ。建物を建てるには基礎が必要である。とはいえ、一応「やさしい人物画」「ポーズカタログ」を参考にすることもあるのだし、上記の要素に加えて「センス」が必要なのかな、とも思う。永田の場合、とりあえず一枚ものの絵を描く際のポーズを決めるセンスが欲しい。実際のところ、他人の描いた絵のポーズを真似る(トレースではなく)のは悪いことではなかろう。そのためには雑誌を買うなどして(まあ、エロゲー情報誌とかになりそうだが)、男の一部を熱くさせるイラストの研究をしてみようかと思う。

 ところで、ハロウィンが近づいている。ハロウィンイラストはどういうものかちょっと掴みかねているが、おおかたカボチャのアクセサリをつけた魔女風のものだろう。ファンタジー世界の少女は紺ハイソもスク水もまとっていないので、描く意欲がない永田である。


10月17日

 引き続き、女の子の心理についてぼんやり考えているわけだが、永田は少女漫画における女の子というものは「恋する存在」であると思っている。兎にも角にも、男に対して恋心を抱く。まあ、その例外として、女の子に恋心を抱く場合もある。たまたま、袴田めらの「最後の制服」全3巻を読み返したのだが、特にドキドキを感じるというわけでもなかった。作為的なものしか感じないということである。
 なぜ、恋をするのか。手前味噌になるが、永田の作品「チサト日和」においては、主人公が恋をしそうになったことは一度だけあるが、その他は全然ない。「あずまんが大王」に代表されるような、いわゆる「女の子エンターテイメント」においては、恋愛はむしろ邪魔なものとされている。恋愛をリアルに描こうとすると、どうしてもドロドロしたものになる。鬱展開もあるだろう。そうしたものは、気軽に読める4コマなどには似つかわしくないということだろう。
 というわけで、恋愛を全くしない、ただ萌えの対象となるキャラクターたちが生まれるわけである。彼女たちは時には真剣で、時にはやる気がない。それはともかく、恋をせず、かつ女の子ばかり登場するという、新たなジャンルの漫画が生まれたわけだ。
 自分の漫画を考え出すにあたって、永田はあまり深く考え込まない方がいいのかもしれないと思っている。萌え要素、ナンセンス要素を必ず入れようとするからややこしいことになる。ただこればかりは零細同人作家としての資質だからしょうがない面もある。永田は女の子を描きたい。それも、自分の望むような完璧な女の子を描きたい。ストーリーテリングの能力、キャラメイキングの能力を鑑みて、実際にどこまでできるのか、まずは試してみるしかない。
 それはそうと、書店でよく見かける「日常。」という漫画の内容がちょっとだけ気になっているのだが、どうせ下らないのだろうという思いもあり、いまだ確認できないでいる永田であった。


10月16日

 永田は漫画を描くようになってから、書店の活字コーナーをあまり熱心に見なくなった。かといって、漫画コーナーを舐めるように見ているというわけでもない。プロの漫画には、影響を受けたい、圧倒されたい、と思うけれども、シュリンクに包まれた本のカバーを見るだけではそんなことは叶わない。まあ人の目を引くイラストの研究にはなるだろう。
 ネタを脳の中で転がしていて思うのは、作者の価値観などを登場人物に体現させるのが果たして良いのだろうかということだ。漫画はエンターテイメントだというのが基本である。永田はウェブ活動しかしていないので、よそのウェブ漫画サイトを見たりするが、単に毎日更新すればいいというものではない。頑張ってる、とは思わせるけれど、どこか無言のプレッシャーを感じさせる。まあ、零細同人作家である間は、そうやって努力して毎日更新するのもいいだろう。しかし飄々として気まぐれに更新するサイトの方が、読者の飢餓感をあおり、ちょうどいい場合もある。
 女の子を描きたいので、女の子の心理を想像して描くのである。女を最もリアルに描いた小説はモーパッサンの『女の一生』だと聞いている。これを永田も一度読んだが、退屈でつまらない話だなと感じたのを覚えている。女の子の心理を解剖すると、実は大して面白くないのかもしれない、とその時思った。
 エンターテイメントの作り方もまた難しいものである。ベストなのは、作者が読者と同じ感性を持ち、同じように自分の作品を楽しめることだ。だが永田のように萌えやナンセンスに傾注している者は、そうした境地からはかなり外れている。少数の固定客以外は離れていくかもしれない。読者の立場に立って考えたいが、その「仮想読者」というものが結局永田のような者であっては、一般ウケすることはまず無理だと諦めなければならないだろう。
 4コマは難しい。労力のわりに実入りの少ない作業だと思っている。しかし永田の拙いストーリーテリング能力を活かせる一番いい方法を探し続けて、もしかしたらそこにたどり着くのでは、という気もしている。原稿用紙に向かって描く場合は、ワクが窮屈に思われるけれど、デジタルでやる場合は表示を自在に拡大縮小できるから、それほど窮屈に感じないかもしれない。
 基本は普通にコマを割った漫画だが、4コマも視野に入れていきたい永田である。


10月15日

 永田の使っているペン・タブレットはFAVOという一昔前の型のもので、描画サイズはB6横である。現在はIntuos3というモデルが最新のようだが、こちらはサイズがA版になっている。またペンの種類としても、ツルツル描けるもの、フェルトペンのように抵抗が少しあるもの、エアブラシのようなものと多彩に揃っているようだ。
 別に永田はワコム社の回し者ではない。しかし、フルデジタル作画に慣れてくると、もう少し道具に凝ってみようとか、いろいろ考えるものだ。
 描画サイズが大きいものほど高価になるのは当たり前だ。問題は、大きければ使い勝手が良くなるのか、ということだ。例えばA4横のタブレットを使うとすると、その大きさは大体15インチくらいのモニタ(4:3)に相当する。ペンを持った手をあっちに動かし、こっちに動かし、描画するのは、紙の上に描画するのと似た感覚かもしれない。
 これに比して、永田の今使っているB6のタブレットは領域が小さいので、あまり手を動かさずコチョコチョと描画する感じだ。これはこれで決して悪くない。手を大きく動かす場合、それだけ精度が求められ、疲労も違うであろう。補正機能をうまく使って、小さい範囲で描画すれば、大して疲れることはない。それだけ気軽に描けるということだ。
 もし次にIntuosを買うならA5サイズにしようかと思っている永田である。


10月1〜14日

ストライクウィッチーズ 少女ノ巻 第2章「るっきーとの日々」


10月8日−2

 「チサト日和」に関して、ウェブ拍手でコメントをいただきました。ありがとうございます。
 今はさっそく「その15」に取りかかっています。あまり急がず、面白い話を追求していきますのでもうしばらくお待ちください。


10月2日−2

 チサト日和 その14が完成しました!
 とはいっても、今回は前回予告したおとまり会の前フリという形なので、本当のおとまり会は次の「その15 おとまり(後編)」でやることになりました。
 今回からフルデジタル作画を取り入れ、今後も継続して漫画を描いていけそうな感じがしています。ともかく、一年以上引き延ばしていたおとまり会の話を、近々必ずやろうと思っています。
 ご意見、ご感想お待ちしています。


9月30日

 初音ミク漫画 P4(クリックで大きくなります)

 ミク漫画4ページ目(完結)です。

 4ページまとめて読みたい方はこちらから。

 漫画がひと段落ついたので、明日から放置していた某SSを掲載します。


9月29日

 初音ミク漫画 P3(クリックで大きくなります)

 ミク漫画3ページ目です。


9月28日

 初音ミク漫画 P2(クリックで大きくなります)

 ミク漫画2ページ目です。


9月27日

 初音ミク漫画 P1(クリックで大きくなります)

 ミク漫画1ページ目です。全ページ数は未定。


9月26日

 永田は以前、初音ミクが出るパロディ漫画を描きたいと考えた。ただ考えただけであって、今ではすっかり流行に乗り遅れてしまったが、せっかく創作意欲があるのだから、描いてみたいものだ。
 巷ではどのようなミクのウェブ漫画があるのかと思ってちょっと検索してみた。それほど気に入るもの、手本にしたいようなものは見つからなかった。
 基本は、マスター(主人)とミクとの交流である。永田が今まで描いてきた漫画は、大勢でワイワイやるタイプでなく、少人数のコミュニケーションが多かった。だからマスターとミクの二人きりの漫画はわりとやりやすいのかなと思う。
 ただ、ここに萌え要素やナンセンス要素を入れようとすると途端に難しくなる。永田が初音ミクのソフトに全く触れたことがないのも弱みである。今まではそういう無知を気にせず、力技で話を作ってきた経過があるのだが、今度ばかりは少々ピンチである。
 特に恋愛関係というわけでもない男女二人の関係について、この機会にじっくり考えてみるべきだ。


9月25日

 ショート漫画 P3(クリックで大きくなります)

 ショート漫画3ページ目(完結)です。

 3ページまとめて読みたい方はこちらから。

 ようやくタブレットの操作に手が慣れてきたようだ。またComicStudioによる描線の補正のクセも分かってきたようである。フルデジタルを始めた当初よりはかなりやりやすくなってきた。
 問題は、話のネタをどう出すかである。「快描教室」にはネタの出し方がちょこっと載っていた気がするが、要するに、自分で「これはたまらん!」と思えるような話を作れということだ。永田の場合、「これはたまらん!」と思えるのは、やっぱり紺ハイソやツインテールなのだが、特に紺ハイソをひたすら描くだけでは話も何もできない(本当のフェチのみの漫画になってしまう)。それに自分で描く紺ハイソにはそんなに萌えられないようである。なぜかは分からない。
 だとすると、今までやってきたように、なるべく可愛い女の子を描くしかないだろう。パーツに気を配るのもいいが、もう一度昔の原点に帰って、普通に可愛い女の子を描くわけにはいかないだろうか。永田もツインテール狂になる前は、ミスJBSコンテストに出るような健康的な少女を好んでいた。時代は移り、萌えが美少女界の中心となった。しかし永田の今までの漫画(量は少ないが)では、露骨に萌えを意識したキャラはほとんど出さなかったと思う。
 そもそも永田はどのような萌え漫画を理想としているのか。好きな漫画ランキング上位に入り、かつ少女が主人公として活躍する漫画としては「菫画報」以外にないといっていいだろう。しかしこれは(絵的に)萌え漫画ではない。最近は「アンニョン!」があるが、話の筋はシンプルで深みはない。
 というわけで、萌える漫画を描きたいというわりには、目標とできる萌え漫画がないのが残念である。やっぱりいつも通り、ちょっとヘンな漫画を描くしかないのだろうか。


9月24日

 ショート漫画 P2(クリックで大きくなります)

 ショート漫画2ページ目です。


9月23日

 ショート漫画 P1(クリックで大きくなります)

 ショート漫画です。全部で3ページの予定です。
 次はすぐには描けないかもしれませんが、辛抱強く待っていただければ幸いです。


9月22日

 というわけで、永田は萌える心を取り戻すため、新作のショート漫画にとりかかることにした。
 永田は「快描教室」という漫画の指南書を持っている。最近、ウェブ拍手の解析ページでこの書籍を含む三部作がよく取り上げられている。初級者から上級者までカバーする内容で、プロ漫画家も参考にしているとの噂である。
 永田の漫画がどのような級に属するのかは、正直よく分からずに描いている。とりあえず自分が楽しめるのならば良い漫画だと思っている。しかし、コマ割りとかセリフ回しのちょっとした工夫で漫画が少しでも良くなるのならば、こうした指南書を試してみる値がありそうだ。
 新作のショート漫画は、相変わらずおかしな内容になる予定である。ダジャレというか言葉遊びを使ったネタだ。できることならば明日のうちに1ページ目を完成させて公表したい。


9月21日

 「チサト日和 その14」は完成に近づいている。
 せっかく漫画を描く意欲が高まっているのだから、一昨年来放置している「本を買うならフックオフ」も続きを描きたいものだ。ただ現在の永田は漫画ネタも本屋ネタも古本屋ネタもろくにない。本屋にはしばしば行くけれども、漫画のネタになりそうな光景はない。
 ブックオフはどうであろうか。せいぜい週に一度ぐらいしか行かないが、品揃えは大したことない。秋葉原ではないので、店員がメイド姿になるとかそんなことはありえない。
 「本を買うならフックオフ――first impression」は、だんだん辛気くさい内容になっていったのが残念である。漫画に関して、時には禅問答みたいなことをやって、読者を煙に巻いている。本来、このように漫画マニアの少年少女が活躍する話では、いろいろな有名漫画のパロディをやるとか、漫画を買いすぎて失敗するとか、漫画と他の物との間で葛藤するとか、そういうのが面白いのだろう。「こち亀」のように執拗に流行を追っていくことが必要だ。
 一枚もののイラストは、以前頑張って描いていたが、いろいろな面で下手なのでうまくいかなかった。これは永田のフェチ度が増したことと関係がある。女の子キャラを全体として見るのでなく、ハイソやツインテールといった部分のみに執着して描いていた。だからキャラの顔や手足などに「心」が入っていない。魂の入っていない人形のようなものである。
 確かに、永田は最近漫画を描いても、いちいちキャラに萌えながら描いているということはない。ただストーリーを伝えるためにやむなく描くという感じだ。こういう描き方しかできないと、単なる作業になってしまい苦痛を伴う。漫画にしてもイラストにしても、キャラ萌えの心を取り戻すことができたなら、また違った作風のものが描けるようになるだろう。


9月20日

 チサト日和 おまけ漫画3(クリックで大きくなります)

 永田は、40000ヒット記念企画として、今自分ができそうなことを挙げてみる。
 まずは「チサト日和 その14」である。これは、すでにおまけ漫画を描いていて、ファイル名から分かるように、「その14のおまけ」という意味である。だから本編の「その14」もすでに進行していると思っていただいてよい。
 あとは「ストライクウィッチーズ」のSS第2章(50枚程度)がほぼできている。それと「アンニョン!」のSSが途中のままになっている。
 この他にできそうなことは、紺ハイソフェチな絵を描くとか、スク水フェチな絵を描くとかであろうが、必ずできるというお約束はできない。
 以上を踏まえた上で、もし40000ヒット記念としてご希望のものがあれば、ウェブ拍手のコメント等で遠慮なくお知らせいただきたい。


9月19日

 学生時代の永田には、何よりもまず、ウェブ以外にも作品を発表する場があった。その存在が何よりも大きかった。そのサークルの会誌は順調に売り上げを伸ばし続けている。コミケ、コミティアにも出ている。そういうところに来るお客に、何としても自分の作品を見てもらいたかった。
 単調で長いアナログ作画を、徹夜で行っていた頃が思い出される。まだ眠気を我慢するのが一種の快感だった時代である。また、パソコンがショボいものだったし、高い作画用ソフトも買えなかったから、アナログしかなかった。「チサト日和」と「フックオフ」を交互に描いていた頃が一番充実していた。
 話の内容はどうだろうか。初期の「フックオフ」は内輪ネタのようなものを多分に含んでいた。こういうものを描くのはとても楽しいものだが、オリジナルな作品とはちょっと言いがたい。一般ウケも難しい。反面、「チサト日和」は誰にでも分かる作品を目指していた。しかし最近は「よく分からないけど面白い」作品を目指している感がある。ナンセンスに偏っているということか。これは結局エンタメ精神の問題である。
 今後、漫画を描いていく上で永田の支えとなるものは何であろう。サイトのヒット数かもしれない、ウェブ拍手の数かもしれない。しかし、根本には「人を楽しませたい」という心がなくてはならない。自分の力量も考慮しなければならない。両者を合わせて考えた時、永田は漫画を描くのか、文章を書くのか、その結論がおのずと出てくるであろう。


9月18日

 永田にはツインテールフェチ、紺ハイソフェチ、スク水フェチといった要素が集結している。なかなか厄介なフェチといえよう。ツインテールフェチだけならひたすら頭部だけを描けばいいが、紺ハイソなら脚だ。スク水なら胴体だ。よってこれらを描いて欲求を満たすには、必ず全身を描かねばならない。
 まあ、全身を描くのがそんなに苦手とは思っておらず、ただ手間がかかるだけだ。だが、キャラのポーズを決めるセンスが欠落しているのが痛い。ひとつここは腰を据えて、萌え絵におけるキャラのポーズを研究する必要がありそうだ。
 しかしここでも永田のあまのじゃくな性格が顔を出す。萌え絵といっても、女キャラがバストアップでツインテールにしていて、ちょっと頬に線を入れて(赤くなっているという表現)こちらを見ているだけの絵はもう飽きてしまった。そういうものはさっさと卒業するべきだ。そうして、なんというか、「シチュエーション萌え」みたいなものを勝手に模索しようとしている。イラスト一枚から短いストーリーを思い浮かべ、それに萌えるというパターンだ。こうなるともう二次元萌えなのか何次元萌えなのか分からなくなってくる。
 かつての永田は、中途半端な使命感を持っていた。自分の絵は萌え絵であり、これを一般に公表するべきだという考え方である。しかし今ではそのような自信はなく、せいぜい漫画を描いてクスッと笑ってもらえればそれでいいやと思っている。絵はストーリーを伝えるための道具にすぎない。
 自分が描きたいものを、描きたいように描くだけでは、寡作になるのはやむを得ない。かつて熱病にとりつかれたように漫画を描いていた学生時代、そのころのことを思い出す必要があろう。今では体力も生活習慣もすっかり異なっている。当時永田を支えていたものは何であったのか、それは明日の日記にゆずる。


9月17日

 ウェブサイトを華やかに見せる方法の一つとして、マスコットキャラを作るというのがある。もちろんそのキャラには作者の好みが反映されていることが望ましい。
 永田の場合、一番描きなれているのはやはり「チサト」である。しかしこのキャラに萌えポーズ等をさせるのは、永田の超自我が断じて許さないのであった。そもそも漫画の設定では男がほとんど出てこないので、男に媚びる必要が全くない。よって、全く自由に振る舞わせているつもりである。
 当サイトは一定数のお客を得ているが、一体作者は何を見せたいのか、自分でも分からなくなってきた。まあ、読者の方からあれが見たい、これが見たい、というレスポンスがないのも一因かもしれない。ウェブ拍手はたまに頂くが、拍手だけを手がかりにして方向性をさぐっていくのは難しい。
 結局、自分の気まぐれを持て余しているのだ。永田は直情径行なタイプだと自分で思っているが、直情径行な上に気まぐれでは、結局何も身につかずに終わってしまうのではないかという不安がある。「己には文章しかない」と思ったこともあるが、「でも漫画も描きたい」という心の声を無視することはできない。決して幻聴などではない、真の心の声である。


9月16日

 永田は連休中に急に興味の矛先が変わってしまい、これから当サイトをどう運営していくべきかと考えている。
 1ページものの漫画を頻繁に更新しているサイトはしばしば見かける。特に4コマが多い。いくら4コマといっても、毎日更新するとしたらその労力は計り知れない。永田は4コマを特に軽蔑しているわけではなく、ただ苦手意識は持っている。まともに人間の出てくる4コマを描いたことは一度もないといっていいだろう。
 やはり平日は、帰ってくると疲れなどで思うように創作ができない。今までは少しの時間を見つけて文章を書いてきたが、絵の場合は少々腰を据えて描かねばならない。まして、酒の酔いがあると思うように描けないのはもちろんである。
 というわけでここ数日は出たとこ勝負の日記となることをご了承願いたい。

 永田は「アンニョン!」のSSを書くため、この漫画を何度も読み返した。これはやはり萌え漫画の部類に入るのであろうが、韓国風の表現にどれだけ萌えを感じられるかは人それぞれであろう。罰として正座させられて両腕を上げる姿が萌えなのか。アンナが風呂の中で「わたし便秘じゃないよ!」と言っているのが萌えなのか。「男はみんなツインテールでミニスカでないと可愛くないしー」というセリフは狙いすぎていてちょっと嫌なのであった。
 それにしても、永田の短い歴史の中でこんなに創作意欲をかき立てられた漫画は久しぶりだ。ちなみに当サイトの「チサト日和」は、小原愼司の「菫画報」とゲーム「くるみミラクル」に多大な影響を受けたと思っている。このどちらが欠けても、この漫画は成立し得なかったであろう。偉大な先人たちに感謝するとともに、もっと漫画に目を向け、影響を受けていきたいと思うのである。


9月15日

 チサト日和 おまけ漫画2(クリックで大きくなります)

 おまけ漫画その2です。午前中を利用して仕上げました。
 フルデジタル製作は労力の節約ができますが、Gペンで紙に描くあの感触は味わえません。しかし一旦タブレットに慣れれば、気軽に漫画を描いていけるでしょう。


9月14日

 チサト日和 おまけ漫画(クリックで大きくなります)

 というわけで、おまけ漫画です。初めての試みとして、フルデジタル製作を行ってみました。
 すなわち、ComicStudioで下書き、ペン入れ、トーン貼りをし、Photoshopで仕上げたものです。
 ちなみにこの話は、ネタがなかったので、先にコマ割を済ませた後にネタを考えて入れてみました。結構いい加減なものです。


9月13日

 どうでもいいが、萌えキャラを苗字で○○君、と呼ぶのはどうだろうか。
 いや、どうだろうと言われても困るかもしれないが、例えば最近漫画版が人気の二見君とかである。
 他には長門君とか、綾波君とかもいるであろう。(無口つながり)
 ちょっと古いが木之本君とかもいる。
 一歩間違うと腐女子とごっちゃにされるので注意が必要だ。


9月12日

 永田は「アンニョン!」1巻を買った。韓国漫画である。
 いつもなら、だらだらと批評をするはずだが、この漫画に対しては不思議と言葉にできないものを感じている。共鳴、であろうか。創作意欲を非常にかき立てられる作品であることは確かだ。
 まあ、永田がいつもやるように、「わけの分からないものを有難がる」、「中身のないものを有難がる」、というパターンなのかもしれないが。
 今の永田には、この作品のSSを書いてみることが、さしあたってできる唯一のことである。掲示板などのネット情報は一切遮断してやってみたい。


9月11日

 永田はいよいよ所有する本が本棚からあふれてしまい、床の上に立てて置くことにしている。まさに本棚の決壊である。
 本棚には漫画も少々あるが、8割方は文庫本である。そしてその半分以上は新潮文庫である。さらにその三分の一ぐらいは外国人作家のものであろう。
 これ以上の本を収納するためには、「こち亀」をどかさなくてはならない。どうせ全然読んでいないのだから、押入れにしまっても構わないという気もする。漫画を描くのに参考にすることもなくなった。
 大地震が来る心配はほとんどないと思うが、いつかこの部屋の所定の重量をオーバーして、床が決壊するのではないかと、時々思うことがある。本はこれからも少しずつ増えていくはずだ。そういえば、雑誌を2000冊ぐらい溜め込んで、床が抜けたという古いアパートのニュースを聞いたことがある。
 押入れにしまい込む本は、たいてい「めったに読まないけれど保存しておきたい」本である。こういう本は外に出しておくと日に焼けたりして残念なことになる。押入れのキャパシティを超えないよう、要らない本を上手に売ったり捨てたりできるかが、本好きの運命の分かれ道となるだろう。


9月10日

 推敲について。今までは推敲を必ずしっかりと行うべきだと思ってきたが、そうすべきでないという批判もある。
 要するに、誤字・脱字や基本的な文法の誤りは当然直すべきだが、それ以外の部分は、一発必中という感じで、一発で決めてしまえという考え方だ。
 昔の作家が、「前に書いたものよりも後に書いたものの方が優れていると言うのは、自分に対する冒涜である」とか何とか言ったそうだ。
 永田も先日からSSを書いていて、時々読み返すと、そんなに悪くないという感じがする。推敲によって原型をとどめないほど滅茶苦茶にしてしまうのは、それこそ作品に対する冒涜といえないだろうか。良い部分は積極的に残すようにしたいものだ。そして、どうしても不満足な出来になってしまったら、その作品はスッパリ忘れて新たな作品に取り組めばいい。
 当たり前だと思っていた推敲に関してもこれだけ見解の差があることは、覚えておかねばなるまい。


9月9日

 永田はまだ『決壊』を読むことができない。というのは、机の上に置いた『決壊』の上に、新たに買ってきた本をどんどん積んでいるので、それらを消化しないことには先に進めないからである。このような経験がおありの方もいるだろう。
 もしライトノベルだったら、ここで軽く考えて、『決壊』の内容を勝手に想像したノベルを書くのかもしれないが、『決壊』は純文学(たぶん)なので、さすがにそんな力量はない。そもそも、書評を色々読んではいるのだが内容はほとんど分からないままだ。
 そういえば、こないだ書店で『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とかいうラノベを目にした。非常に目を引くタイトルである。いつもの永田だったら、このラノベのパロディをやって、俺の方が可愛い「妹」を描ける、とかいう自己満足をするかもしれないが、今は別件で忙しくしているのでそんな暇はないのであった。
 しかしその別件というのも要するにSS書きである。まもなく当サイトは4万ヒットを迎えることになろうが、その記念として出そうか、それとも別の企画を立ち上げるか、悩ましいところだ。


9月8日

 永田は中島らもの『ガダラの豚』全3巻を読了した。日本推理作家協会賞受賞作とのことである。
 アフリカのケニヤについて、多くの文献を渉猟し、調べながら書いたもののようだ。また、タイトルからも分かるように聖書のエピソードも多く知っていて引用している。この作品を読んで、おそらくベテラン作家なら、「テーマを詰め込みすぎだ。これだけで私なら何作もの長編が書ける」と言うのではないだろうか。
 『ガダラの豚』は中島らもがデビューしてからまだ日が浅い頃の作品であるそうだ。作家としての全能力をつぎ込んだ超大作といえるだろう。永田としても、自分の持つ乏しい資質を一つの作品に集中させ、せめて原稿用紙100枚ぐらいの作品をさっさと作れないものかと思っている。
 ちなみに、上に述べたような賞を受賞していることから、この作品はミステリに分類されているのかもしれない。しかし1、2巻あたりまではそんな感じではなかった。神秘主義やオカルトに興味のある永田にとっては面白く読めた。ただ、超能力や超魔術が人気だった当時の作品であるから、今読むと少々古くさい感じもする。大衆文学の宿命であろう。
 どうでもいいがこの作品は「長門の100冊」にノミネートされている。まあ、長門なら読みそうだという感じもする。


9月7日

 永田は読書の方針を少し変えることにした。今までなら日本人作家では芥川賞をとったような人にしか興味を示さなかったが、もう少し興味の幅を広げてみたく思っている。
 こないだは、今さらだが吉本ばななの『TUGUMI』(中公文庫)を読んだ。つぐみは今でいうツンデレ少女っぽいのだが、作者の性格が投影されているそうである。萌えとはちょっと違うようだ。あとやっぱりハッピーエンドは大事だなと思った。
 それと、重松清の『エイジ』である。カイジとは関係ない。今読むと少々古いのだが、新聞連載当時はかなり時流に乗っていたのだろうと思った。氏の別の作品を読むかどうかは未定である。
 あと、ブックオフでチャンドラーの『長いお別れ』を買った。かなりの名作だという評価もあるが、ちゃんと読んでみないうちは分からない。


8月31日〜9月6日

涼宮ハルヒの鬱 第2稿

 作品のあらすじ
 なんと、あの元気なハルヒが、鬱状態に陥ってしまった。キョンのできることは……?

 この作品を読む


8月30日

 永田は「涼宮ハルヒの鬱」という小文を書庫に載せているが、こないだからネタを探していて、この作品を全面改稿してはどうかという考えに至った。ちなみにこの作品は、ただ原題をちょっともじって話が作れないかと考えて作った、ほとんどやっつけ仕事のような作品なのだが、一部の方に好評をいただいたものである。
 その改稿した作品は明日以降に掲載するとして、そもそも「ハルヒ」のSSが巷にあふれているのはなぜか、ちょっと分析してみる。
 原作はわりと何でもありな設定の上に、みんなキャラが上手い具合に立っていて、原作をそれほど読み込んだ者でなくても、数人のキャラを使ってちょっと考えれば話が作れるという自由さがある。また、主人公「キョン」の一人称語りという形式がわりと真似しやすいのかもしれない。実際に創作においては一人称語りは三人称語りよりも難しいと言われている(「神」の視点でなく、一人のキャラの視点から物語全てを描写しなくてはならないから)。しかしキョンのちょっと軽妙な一人語りは、多くのSS作者に「真似したい」と思わせたようである。
 どの作品に多くのパロディSSが作られているか、そんなに詳しくないのが残念だが、とりあえず社会現象となるような作品には多くのSSが作られて公開されているはずだ。「エヴァ」のパラレルワールドなど無数に存在していると思われる。永田も、実際には書かなかったが、テレビ版最終話に出た平和な日常生活が実現したらいいと願ったことがある。
 いずれにしても、大事なのは永田がどんどんSSでもオリジナルでもいいから文章を書いて上達していくことである。上達のよすがとなる面白いアニメ・ラノベ等が見つかれば幸いである。


8月29日

 日本で発売される小説にはさまざまなカテゴリーがある。
 外国には基本的に純文学・大衆文学・ライトノベルの区別はあまりないといわれている。日本ではこれらが截然と分かれている。それはレーベル名や挿絵の有無から明らかである。
 永田はドストエフスキー、カフカ等が好きであるが、これらの作家の作品もやはり最初から純文学だ、大衆文学だ、と区別して書かれたわけではない。日本で翻訳されると、結局は純文学という扱いになっただけだ。
 永田の普段の創作態度は純文学にほんの少しは寄っていると思う。だから先日、ライトノベルを意識して書いた作品(ここでは未公表)は、良い評価を受けられなかった。はっきりと「ライトノベルではなく、大衆文学寄りだ」と指摘されたのである。こういう状態をカテゴリーエラーと呼ぶそうだ。
 面白いラノベが読みたいと思う人々の中に純文学寄りの作品を投入しても、評価されないのは当たり前である。まあ、幸いにして、文章の書き方の基本については「できている」と言ってくれる方が大半であった。この点は自信になった。
 いろいろ人とも相談しているのだが、永田のすべきことは「書きたいことを思い切り書く」ことであって、カテゴリーうんぬんはその後に自然とついてくる問題だと思う。仮にカテゴリーが半端な作品を得意とするのなら、そういうのを必要とする文学賞を探して送ればよい。書くこと、読むこと、市場調査をすること。永田には課題が多い。


8月28日

 「長門の100冊」は実際誰が選んだのか? と今さら気になっている永田である。SF・ミステリに偏っているのはやはり原作者の趣味か。
 文章による創作について日記を書こうとすると不思議とスラスラ書けるのであるが、これは別に偉くも何ともなく、ただ書きやすい駄文を垂れ流しているだけだと気づいた永田である。本来の日記というものの趣旨から大きく外れていることは読者はとっくにお気づきであろう。
 永田が最近読んだ本は、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』と、井伏鱒二の『黒い雨』、円城塔の『オブ・ザ・ベースボール』(「文學界」2007年6月号)である。
 『西の魔女――』はもともと児童文学だったようだ。そこから見出され、一般向けとして売り出されるようになった。なるほど、隙のない構成である。ウンチクも豊富だ。児童文学やラノベには青少年の知識欲を満たすものがなくてはならない。映画化されるとのことだが、映画よりも原作の方が面白いのはいつものことである。
 『黒い雨』は被爆者を描いた戦争文学だ。終戦日近くだからちょうど良いと思ったのである。被爆者の過ごした一週間あまりの期間が、日記の形を借りて濃密に語られる。純文学を期待して買ったのだが、これはむしろ記録文学であろう。最近正統派純文学に飢えていた永田にとってはあまり嬉しくなかった。
 それから『オブ・ザ・ベースボール』である。面白すぎてまだ半分しか読んでいない。オチも知らない。第104回文學界新人賞受賞作である。どこが純文学か? と思わせるが、最後まで読んでみないと分からない。もう一方の受賞作『舞い落ちる村』は純文学っぽいようだが。
 遅い夏休みには何を読もうかと画策している永田である。


8月27日

 永田の日記はいつでもインドア志向である。まあ、話題にできるのが、自分の部屋にあるものと、あとインターネットで見たものぐらいであるから、インドア的になってしまうのはやむを得ない。
 ちょっとアウトドア的なことも書いてみたい。永田は休日に外出することがあるが、そのほとんどが書店に行くためである。自転車をこいで、三軒しかない書店と一軒のブックオフを回る。
 永田の自転車は昨年買ったもので、一応21段変速のものである。3×7=21通りの組み合わせというわけだ。ただし自転車屋の店主からは、「一番軽い組み合わせと一番重い組み合わせは使わないで下さい」と言われているので、実質的には19段変速である。
 永田は中ぐらいの重さのギアでいつもこの自転車を使っている。田舎なので都会のように通行人を気にすることなく、スイスイ進むことができる。国道沿いの空気は少し臭いが、川沿いの堤防の上を走ると、刈った芝生の青臭いにおいや、川のにおいが感じられ、すがすがしい。
 子供の頃の記憶はだんだん薄らいでいくが、「におい」に関しては永田はわりと多くを記憶している。それは遊びに行った祖父母の家のにおいであったり、花火大会の火薬のにおいであったり、祖父が家庭菜園でつくっていたニンジンのにおいだったりする。
 子供の頃の記憶をたくさん持ち、それを文章化できる人が、すぐれた作家になると言われている。永田はこの点でかなり不利を背負っているが、「におい」を的確に表現するのは、プロ作家でもなかなか難しいだろう。大江健三郎の本でも読んで研究するしかない。
 これからは寒い季節へと進んでゆく。歳をとるごとに、寒い時期に自転車で外出するのはだんだん面倒になってゆく。今年も、長いようで短い夏であった。凍てつく冬はもうすぐそこである。


8月26日

「リア充」という言葉を最近知った。リア王とは関係ない。「リアルが充実している」の略である。リアルとは現実での生活のことで、充実とは要するにコンパやデートなどで異性との関係を楽しんでいるという意味である。
 永田はこの言葉を初めて目にした時から、なんとなく意味は推測していた。そして、インターネットを活用する世代において、出るべくして出てきた言葉だなと思った。それにしても略し方が非常に大胆だ。
 男のオタクはたいていインターネットの世界に長時間接しており、また彼女がいないので、自分と正反対の人々をうらやましく思う気持ちはあるだろう。そこでリア充という言葉を作り、リア充たちをうらやみ、また自分たちとは違う人種として隔離しようとしている。
 永田もまたリア充ではない人間の一人である。現実での世界は「充実」しておらず、特にさせようと努力しているわけでもない。これでは救いようがないが、日常の勤務をこなすことと、余暇に文章を読むこと、書くことで手一杯であり、それ以上の活動はできていない。
 特にひがみを言うつもりはないが、リア充の人々もそれなりに大変だろうなと思う。生身の人間を相手にするのは大変だ。いや、恋する気持ちに夢中になっていれば、別に大変ではないかもしれない。夢中になれるということはいいことだ。永田の場合、夢中になったはいいが相手が振り向いてくれないという経験があった。
 リア充という言葉自体は、普通の意味を持った言葉である。しかしこの言葉が一部(オタクの集まる掲示板等)でしばしば使われるのは、どこか世相を映し出しているといえるかもしれない。リア充が勝ち組、それ以外が負け組という考え方もありそうだ。いずれにせよ、この言葉はけっこう長く使われるかもしれない。インターネットやゲームなどのバーチャルな世界にうつつを抜かす人々は、リアルそっちのけでのめり込んでしまう。彼らが口に出すリア充という言葉は、楽しい幻想の世界でなく、つらい現実世界でしか生きられない人々に対する哀れみの表現なのかもしれない。


8月25日

 永田は当サイトに掲載している文章について、感想をいただいたことはほとんどない。感想を言うこと、もらうことの是非について考えてみたい。
 ここに、一つの投稿サイトがある。そこでは作品を投稿して感想をもらったり、他人の作品に感想をつけたりできる。
 基本として押さえておくべきことは、作者は作品を「見せてやっている」のではなく、「見ていただいている」のである。
 確かに、作者の側は作品を作るのに多大な時間とエネルギーを使っている。一方で、読んで感想をつける者もまた、素人の(まずい)文を真面目に読んで、批評を下さなければならないから、やはり時間とエネルギーを使う。
 では、作者と読者、どちらを尊重すればいいのだろう。結果的にそれは「作品が面白いかどうか」にかかってくると思われる。読者としては、作品が面白ければ「良い作品をありがとう」と言うだろう。また、作品がまずければ「ダメです」と言うはずだ。
 よって、立場としては読者の方が上、ということになる。しかし永田はそんなに卑屈な気持ちで文章を載せているのではない。まあ、「楽しんでもらえたら幸いです」ぐらいに思っている。
 作者としては、謙虚な気持ちを忘れずに、また読者としては、自分の立場がつねに上であること(面白くなければいつでもやめられるから)を認識し、気持ちにゆとりを持って作品に対面したいものである。「素人の文だからどうせくだらん」というより、「楽しめればラッキー」ぐらいに思っていただけると幸いである。


8月24日

 永田はこれといって「こだわり」を持っていることがない。ゲームにしても漫画にしても、かつては「これは絶対面白い」と主張することが多かったが、今はそれほどの熱意がない。まあ、ストーリー、ゲーム性云々よりも、萌えるかどうかに関心が移ったことも原因であろう。
 具体的な話をすると、例えば「ストライクウィッチーズ」は戦争ものの話ではあるけれど、女の子をかわいく描くことを最重要なポイントととらえているらしい(ノベル版のあとがきによる)。しかしこの記述には大いに疑問を持った。というのは、アニメ、漫画、ノベル等さまざまにメディアミックスされているが、それぞれの作者が自分なりのこだわりを持って「かわいく」女の子を描いたとしたら、結果として各メディアでキャラクターの同一性が微妙に保たれないような気がするのだ。この方がかわいい、この方が萌える、などと各作者が主張したら、まとまるものもまとまらなくなってしまうだろう。
 永田はあらゆるストーリーを相対的に見るようになってしまった。こういう見方が一度身についてしまうと、なかなか抜けないものだ。そして、純粋にストーリーを楽しむ姿勢を喪ってしまう。本職の作家がこういうことになるのは職業病みたいなものでやむを得ないが、素人がこうなってしまうとなかなか辛いものだ。他人の作った物語を楽しめないならば、自分で作って楽しむしかない。そこには自己満足の罠が待ち受けている。特にウェブサイトで一方的に発信している者が陥りやすい罠である。
 永田は「眼高手低」にはなりたくないと思っている。これは批評眼が鋭いが、実作は下手だという意味である。ひたすら読むことと書くことを繰り返せば、この陥穽から抜け出せる日が来るであろう。


8月23日

 永田はまだ「弟切草」をプレーしている。ピンクのしおりのままで、金のしおりは出ない。選択肢の数は現在1175である。
 そういえばチュンソフトのサイトを見ると、何とかいう新しいサウンドノベル風のゲームがこのたび発売されたようだ。これはやってみたいと思ったが、しかし「弟切草」を超えるゲームかというと、おそらく超えていないような気がする。だから買おうという意欲がわいてこない。
 プレション版の「弟切草 蘇生編」は本当にひどかったので売ってしまった。グラフィックはそんなに悪くないが、シナリオが完全に改悪されていた。くだらぬオヤジギャグなど、作者の趣味が露骨に出てしまっていた。
 思えば、一度買ったゲームを売ることなど、昔は到底考えられなかった。ゲームは高価なもので、一度買ったならとことん遊び倒すのが当然と思っていたからだ。
 「風来のシレン3」も買っていない。かつてチュンソフ党の信者だった永田も今では見る影もない。こないだのDS版シレンは買ったが、全然遊んでいない。
 これからも、ゲームにおいては、「弟切草」と「くるみミラクル」を交互に遊ぶパターンになっていくのだろう。面白いゲームは何度プレーしても面白いのだ。くるみミラクルだって、もう各シナリオの展開は充分記憶しているけれども、それでも魔法選びなどのゲーム要素は面白いままである。
 バーチャルコンソールでドラクエシリーズが配信され始めることを切に願っている永田である。


8月15日〜22日

「ストライクウィッチーズ 少女ノ巻 第1章」

 作品のあらすじ
 フランチェスカ・ルッキーニ少尉は、第501統合戦闘航空団、通称ストライクウィッチーズの一員である。毎日気ままに昼寝をむさぼっていたルッキーニだが、ある日厄介な事件に巻き込まれることになり……?

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8月14日

 明日から「ストッチーズ」(略称)のSSをここに掲載していくつもりである。永田は前述のように、この作品のノベライズを買って何度か読んだ。だから作品の世界設定は大まかに知っているものと思っている。
 巷でどれだけアニメのストッチーズが人気なのかは、正直よく分からない。掲示板を見るにしても何せアニメ自体を見られないのだからちんぷんかんぷんである。よってルッキーニ等の単独項目を見て萌え楽しむしかない。
 そこの話題によると、ルッキーニ少尉はあまり目立った活躍はせず、マスコット的な存在のようで、誠に遺憾である。せっかくツインテール・縞パン・褐色肌の萌え要素が揃っているのに……。
 ともあれ、例のごとく、作品を全然知らない人のためにも分かりやすいように書くのは当然の配慮だと思っている。ちなみにハイソックスがどうこうというフェチ要素は今回のSSに入っていないので、ご安心されたい。
 とりあえず、DVDが出たらレンタルできるといいと思っているが、ルッキーニが活躍するらしい第5話「はやい・おっきい・やわらかい」ぐらいは買ってみてもいいかなと思う永田である。


8月13日

 永田は以前、小説の投稿サイトに投稿したことがあるとすでに述べた。やはり現実の日常では交友関係が少なく、永田の文章を読んで感想をくれる人というのはなかなかいないものだ。そんな時にサイトを利用すれば二、三の感想はすぐに得ることができる。もちろん、こちらも他人の作品の二つや三つを真剣に読んで感想をつけることを求められるのだが。
 しかし、永田は現実の交流に比べると、ネットを介した交流をあまり好んでいない。こればかりは好き嫌いの問題だから仕方ないのかなという気もする。文字だけを媒介とするから、自分の意図をしっかり伝え、相手の意図をしっかり読み取ることに苦労してしまう。
 本来、ネット世界もウェブ2.0などといって、双方向性の時代になって久しいから、現代人としてはもっとコミュニケーションに積極的になるべきかもしれない。ネットゲームというのも、結局はチャット等を介してコミュニケーションしてレベルを上げていくものだから、どれだけ(ネット上の)友達を見つけられるか、というゲームになってしまっている。
 永田の場合、社会人として勤務をし、余暇には一人でパソコンに向かって文字を打ち込む。そういうことができる環境に感謝しなくてはいけない。また、それ以上の新たな人間関係に踏み出すためには、まだエネルギーが不足していると感じる。まあ、作家を目指してニートを何年も続ける人の例もあるし、永田もしばらくはおとなしく創作に打ち込んで、いざとなったら大海に漕ぎ出すことを夢見つつ暮らしたいと思っている。


8月12日

 永田は漫画の中で「個人サークル」というものを登場させた。これはもともと同人用語として聞いたものである。コミケなどの即売会に参加するのは「サークル」単位であり、一人だけでやっているサークルもあるから、これを個人サークルと呼ぶらしい。
 この言葉に着想を得て、どこかの高校において、普通の部活動ではなく一人だけでやる部活動を「個人サークル」と呼ばせた。そして、これに熱心に取り組む生徒には授業の取得単位を一部免除するという取り決めを結ばせたのであった。
 手前味噌になるが、この制度はなかなか奥が深くて面白いと思う。ただ作者の能力不足で作品をどんどん量産できないのは汗顔の至りである。作品は本来、始めた人間が責任を持って完結させるべきものだ。まあ、カフカの長編のようにどうしても完結できなかったものもあることはあるのだが……
 というわけで、この「個人サークル」というものに少しでも興味を持たれた方がいたら、ぜひ拙作の「チサト日和」を読んでみて頂きたい。最初の方は絵もまずくて話も荒いが、だんだん良くなってきているのは確かである。今の永田はむしろ文章創作の方に気持ちが傾いているが、あまり文章形式の「チサト日和」は作りたくない。もし発表するなら今後も漫画ということにしていくつもりである。


8月11日

 永田は「ストライクウィッチーズ 乙女ノ巻」というラノベを買ってきて、何度か読んだ。以下にその内容を分析してみようと思う。
 これは紛れもなくラノベである。わりとすらすら読めたのであったが、それは一つ一つのセンテンスが短いためであろう。ツンツン描写や、感情が込み上げる描写にしても、一行や二行でさらっと表現している。このことは少し物足りなくも思うが、言葉の選び方は適切であるから、キャラの心情はよく伝わってくる。この点は見習わなくてはならないと思うと同時に、こういう改行の多いスカスカしたものよりは、もう少し字の詰まったものを書きたいと思うのであった。
 もう一つ大事なのは、適度な「省略」である。行間の出来事とか心理とかをいちいち「説明」せず、読者に委ねている。これはわりと高等なテクニックだ。まあ、アニメを知っていることが前提(と思われる)のノベルであるから、詳しくはアニメを見てくれ、と誘導しているだけかもしれない。
 今週中には永田の書いた二次創作ノベルの掲載を開始することができるだろう。


8月10日

「寸止め」という言葉がある。別にオタク用語というわけでもないと思うが、狭い意味でいうと、キスや性交などの描写に入る直前に邪魔を入れて、それらの行為を止めてしまうことである。少年向けの漫画などでこういうことを行うのはもはや常識といえそうだが、これはいたいけな少年の性欲に関する飢餓感をあおる効果がある。
 要するに、その作品に対する妄想を膨らまさせる効果がある。例えばルイズなんたらというキャラがいるとして、そのキャラについて「寸止め」描写を行う。そうすると、ルイズなんたらに関するエッチな妄想が読者の心に残り、いつまでも消え去らない。そういう心のもやもやをどう発散するかは個人の自由であるが、読者はルイズなんたらの虜になってしまうだろう。
 わざわざ、この日記の読者の方々にこんな「寸止め」論議を見せることはナンセンスかもしれない。しかし、寸止め描写は二十歳を超えたらもう卒業とか、そういうものではない。男が女キャラに対して抱く妄想はまことに貪欲であるから、たとえ二次元キャラだとしても、エッチな振る舞いを見たい、見させたいと思うことであろう。そういう妄想を実現するために多くの人がやっていることは、人気エロ絵師の絵を見ることである。あとは自分で創作するか。いずれにしても、寸止めは老少問わず男のロマンといってよかろう。
 さて、何を言いたかったのだろう。永田はここのところ寸止め描写に接することはほとんどないのだが、かつて寸止め描写に興奮していた頃のことをなつかしく思っている。寸止めのままやめておけばよかった……と後悔する人間もいるということである。


8月9日

 永田は女性声優の百合関係を妄想するのがわりと好きである。まあ、自分でカップルを考え出すよりも、掲示板等で話題になっているカップルをいちいち検証し、本当にその百合関係が萌えであるかどうか判断するのだ。……こう述べ立ててみるとなんだか立派なことをしているように見えなくもないが、本当にダメな行為であることは疑いない。
 永田が今思いつく百合カップルは次のようなものである。少々ラインナップが古いかもしれない。
 やまなこ
 ぱっくぎ
 tiaraway
 中原×清水
 なばいと
 なば能登(?)
 声優百合SSはなかなかいいものだと思うが、特別その声優でなければならない、というSSはめったにない。要するに、一般的な百合関係にある女二人に関する短い小説を書いて、そこに既存の声優の名前を当てはめてそれで完成というものが多いのではないか。
 しかしディープなマニアはそれではなかなか満足しないだろう。だから作者としては、取り上げる声優についてきちんと雑誌やラジオで勉強し、ある程度の知識を得ておかなくてはならない。こういう性質のものはとにかく細部を大切にすることが肝要だと考える。
 永田もひまがあれば書いてみたいと思うが、上記のように細かいところまで知っている声優はいない。それよりも、(学生は)夏休み期間ということで、自称ライトノベル書きたちがちょっとしたコンテストをウェブ上で開催している。永田もそれに参加して短編(30枚位)を書いている。もし気が向いたらここにも掲載していきたい。


8月8日

 引き続き、図書館や図書室について。
 永田は図書館の雰囲気が好きとか、本の匂いが好きとか、そういうわけでもない。やはりきれいな本が並んでいる新刊書店の方が好きである。ただ、もう売っていない本を読むためには図書館に行かざるを得ない。
 結局、空想の中の図書館が好きなのである。今の永田はフィクション内の読書好き少女には素直に萌えの感情を抱くことができる(現実は別にどうでもいい)。「ハルヒ」の長門はSS保管庫が作られるほどの人気を誇るが、本好きイコール萌えということだろうか。永田は「消失」を読んでいないのだが、「消失」のおかげで人気があるのかもしれず、よく分からない。
 永田は長門にそんなに萌えていない。ただ、ボブ・カットというか、顔を広く覆い隠す髪型は(ツインテールの次に)好きである。永田が似た髪形の綾波をそんなに好きでないのは、読書もせず、中身がカラッポだからだと思われる。
 永田の漫画にも、読書好きで図書委員をしている者が出てくるが、あちらはあんまり萌えを意識したものではない。ただ「図書委員はこんなものだろう」と想像して作っただけだ。
 せっかく気分が開放的になる夏であるから、図書館・図書室をテーマにした萌え小説を書いてみたいものであるが、その前に別のSSをここに掲載していく予定であるので、乞うご期待といったところである。


8月7日

 高校時代の図書室・図書局について考える。
 図書室や図書局をテーマとした物語を考えるのはわりと楽しい。なぜなら、本が好きなので、本がメインで登場するお話を考えるのは楽しく、また得意に思われるからである。誰だって苦手な分野(永田の場合SFやファンタジー)に挑戦するよりも、得意分野でいつまでも空想の世界に浸っていられる方が楽しいに決まっている。
 楽しいことばかりやっていてはいけないと、某投稿サイトではいちいち「お題」を設けて、それに合う小説を募集したりしている。
 まあ、永田は別に修行をしているわけではないので、図書室関連で話を作りたいと思っているが、恥ずかしいことに自身の高校時代にはこういうものを軽蔑していた。本を軽蔑するというより、それに没頭する(多くは)女子生徒たちに対し、「本ばかり読んで、他の教科をおざなりにしている怠け者だ」と思っていたからである。
 しかし大学に入ってから永田の態度は一変し、理学から文学へと興味をシフトさせたのだが、しょせんは独学なので、大したものにならず、こうして雑文を書き散らして過ごしている。ことわざにいわく、「田舎の学問、京の昼寝」。
 老齢で初めて名を成した作家(セルバンテスなど)や、死後名を成した作家(カフカなど)がいることは少しは心の支えになるだろう。


7月31日〜8月6日

「涼宮ハルヒの殷賑」

 作品のあらすじ
 キョンは、高校で涼宮ハルヒと知り合い、SOS団というクラブに入った。わがまま放題のハルヒであったが、キョンはそんな彼女のある部分に目をつける。それは、黒いハイソックスであった……。

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7月30日

 永田は文章術や文章読本といった本を何冊か持っている。それらは主に、文章を「どう書くか」に主眼を置いている。「何を書くか」については軽く触れてお茶を濁す程度で終わっている。
 日頃、「退屈だ、退屈だ」とばかり言っていては面白いことは見出せない。やはりどんなものでも面白がる姿勢が大切とのことだ。どうしても起伏のない日々を送ることしかできない人は、読書するしかない。
 ちょっとブログでも始めようかと思って、「文章術」等と称した本を買ってみようと思う方は、その本の中に「書きたいこと」は含まれていないことに注意した方がいい。
 永田はかつて、読売新聞「人生案内」コーナーの藤原正彦氏の回答を喜んで読んでいた。面白い回答を日記にコピペしたこともある。藤原氏の『国家の品格』は、例によって説教を多く含んだ著述であった。
 個人が趣味でやるブログだからといって、必ずしも下手に出た文ばかりを書けばいいというものでもなかろう。世の中、何がウケるか分からない。しかし永田は自分の日記がどうにも中途半端だという気がしている。説教をするか、自分をネタにしてウケを狙うか。これらのどちらかしか選べないとしたら残念だ。もう少し永田らしさを出し、かつ読んで面白い記事にできればと思っている。

 永田はこれまで平野啓一郎の『決壊』に関する書評を何度も読まされてきたので、ちょっとこの作品を読んでみようかと思っている。現代文学を見直すきっかけになるか、それとも……?


7月29日

 無人島に行くとしたらどんな本を持っていくか? という質問が、インタビュー等でしばしば出される。この質問にどう答えるかは、その人の読書経験による。また、質問をどう解釈するかも面白さの一つである。ただ単に「無人島」と言われても、恐ろしい猛獣がうようよしている島だったら、本など読んでいる場合でなく、木の上にでも登って震えていなくてはならない。また、無人島に行くとは言うけれども、そこに当人が住んだ時点で無人島ではなくなるのではないか?
 ……とまあ、下らない理屈を並べてみたが、永田も無人島に住めたらいいなと思ったことはある。子供のころ、物語や漫画を考えていて、よく思いついたモティーフがこの無人島である。そこにどのような心理が働いていたのかはちょっと分からないが、単純にドキドキワクワクの冒険物語を空想していたのだろう。『ロビンソン・クルーソー』等のお話を読んだことも影響していると思われる。
 現在ではすっかり夢を喪っているので、無人島で暮らしたいなどとは夢にも思わない。かつては都会暮らしをした反動で、自然の景色に強いあこがれを抱いたこともあったが、今はさほどでもない。デジカメは持っているけれど、風景をわざわざ撮りに行くこともない。
 さて、今回は最初の質問に自分で答えようとしたが、なるたけ最後まで引き延ばそうとして小理屈を並べたのであった。上手くいっただろうか? 永田が無人島に持っていく本(一冊ではつまらないので二冊)は、『吾輩は猫である』と『カラマーゾフの兄弟』である。


7月28日

 バーチャルコンソールで配信されている「弟切草」をなぜ永田はサルのようにプレーするのか。もう、107回目である。選んだ選択肢の数は1166個を数えた。しかしまだ金のしおりにはたどり着いていない。
 単純に面白いからプレーしている。それはお話の面白さというよりゲームとしての面白さだ。特にピンクのしおりに到達してからは、普通のシナリオとピンクシナリオとが交錯し、選択肢一つですぐに入れ替わってしまうのが、ナンセンスでもあり、面白い。
 文章はとても読みやすい。毎日プレーしているうちに自然と文章を書くのが上手くなりそうな気もしている。実際は大して変わっていないわけだが……。
 まあ、世の中には「トルネコの大冒険」のもっと不思議なダンジョンを3000回以上プレーし続けているツワモノもいる(ここまでくるとちょっとアレだが……)。永田が「弟切草」や「くるみミラクル」を何度もプレーするのは、大したことではないのかもしれない。


7月27日

 先日、「まんがタイムきららキャラット」8月号をうっかり買ってしまったと述べた。内容を見ると、「ひだりスケッチ」(覚え違い)以外の作品はほとんど読むに堪えないものであった。まあ、せっかく350円も支出したのであるし、本日はこの雑誌を手がかりに萌え4コマについて考えてみたい。
 萌え4コマはオチが弱いというか、そもそもオチていない。起伏のない話が延々と続いている。絵はごくまれに達者なものもあるが、看板作品以外はかなりショボい。
 最近の漫画界全体のレベル(このレベルというものの定義も難しい)をよく知らないのだが、萌え4コマは確実に漫画界の底辺にいるといえる。ただ絵柄の萌えとか、話作りのメチャクチャさがウケたりして、萌えがないものや安直な展開のものと比べると、(間違って)売れてしまう可能性はある。が、正直言って、このような雑誌が商品として売られていること自体、危険な感じがした。他の純粋なギャグ4コマ雑誌の方が(たとえ絵が植田まさしだとしても)まだましであろう。ギャグというもの、漫画というものを萌え4コマはないがしろにしている。
 では、萌え4コマをどうしていけばいいのか。どうするも何も、勝手に消えていくだろう、と言う方もいるだろう。しかし永田を含む萌えオタクが一定数いる限り、くだらない作品でもなかなか消えてゆかない。ライトノベルを挿絵目当てで買う者もいるのだから、漫画においても然りである。永田にはただ萌えを享受することしかできない……
 漫画雑誌の売れ行きはどんどん悪化していて、人気作品の単行本のみが売り上げを伸ばしていると聞く。不人気作品は単行本が出ないか、出てもすぐ絶版となる。当たり前のことだが、自然淘汰の原理は萌え4コマにおいても同じように働く。既存の漫画やアニメからしか学んでいないような、外見だけのこけおどしの作品がどんどん消えてゆき、真の実力を持った漫画家のみが生き残れば本望である。


7月26日

 このごろは金曜にジブリアニメがテレビ放映されていた。「ポニョ」の宣伝のためもあるだろう。
 永田は「耳をすませば」のファンである。学生のころは調子に乗ってレーザーディスクを買おうとしたが、9800円もしたのでやめた。その後、DVDを購入した。英語の字幕つきで観るのも乙なものである。
 現在、この作品は視聴者に何を投げかけるのだろうか。リアルタイムで観た人々はとうに成年を迎えてしまったわけだし、過去を振り返って懐かしむことしかできないのか。
 まあ、雫は宝石の原石であってどうたらこうたら、というくだりがあるし、われわれも(今はあまり輝いていなくても)将来は輝きを放つことができるかもしれない、という希望を持つことはできるだろう。
 ヴァイオリンを弾く人はそう多くはいないし、むしろ雫のように物語を書いている、あるいは書いた経験がある人の方が多いはずだ。だから雫に自己を投影して観ることになろう。だとすると、この映画の恋愛模様はあまりに少女趣味な気がする(当然か)。感情移入は六ずかしい。
 永田がこの映画を最後に観たのは二、三年前ぐらいである。そろそろテレビ放送(あれば)とかDVDを見直して、生きる支えとしていくのが良いかもしれない。


7月25日

 一昨日の記事はどういう出来だったか今ひとつ分からない。
 これの他にネタにできるノベルは「ハルヒ」ぐらいしかないが、すでに「涼宮ハルヒの鬱」という小文を書庫に置いてある。
 実は、それとは別に、「涼宮ハルヒの殷賑」という小文を昔書いて掲載していたが、知っている方はかなりのマニアである。当時はハルヒの黒ハイソックスにしか目がゆかず、内容はとてもフェティッシュであった。万が一読みたい方がいるのなら、修正した上でこの日記に掲載しようと思うので、ウェブ拍手のコメントでその旨お教えいただきたい。
 いずれにしても、永田は涼宮ハルヒに一応萌えているけれども、それは黒のハイソックスをはいているからだということを重ねて言っておきたい。いくらのいぢ絵でも、ソックスがなければ決して創作意欲は湧かなかったであろう。
 フェチ心が創作に結びつくのは良いことだろうか。まあ、面白い作品さえできればそれでいいのかもしれない。しかし永田はツインテール小説の落選をきっかけに、もっと人間そのものを見つめなくてはダメかなと思うようになった。女の子の頭部、髪を両側に向けてなでつけている丸い後頭部だけを見つめていてはいけないのだ。


7月24日

 絲山秋子の『ニート』(角川文庫)を買ってきた。注目すべき作家だという一部の書評を見て買った。実は以前にも『海の仙人』を買ったのだが、全く手をつけていない。たまにはまじめな読書日記をつけるため、努力して読むべきか。しかし解説から先に見てみると、非常に下品な短編も含まれているとのことで、ちょっと読む気が失せた。
 どうにか『ニート』の短編五つのうち頭の三つを読んだ。夢も希望もないという感じで、現代純文学はこんなものなのか、と暗い気分になった。現代の文学界に挑戦するのは言うまでもなく大変である。
 某田舎書店には、こないだ復刊された『未成年』が上下巻三冊ずつ陳列されている。しかし一ヶ月経っても売れている気配がない。ドストエフスキーを読む人は、少ない。
 ブックオフで、貴重本と思われる『ウンベルト・エーコの文体練習』(新潮文庫)を見つけた。300円。
 あとどういうわけか気の迷いで「まんがタイムきららキャラット」8月号を買ってしまった。内容はあまりにもアレなので(ry。将来は「まんがタイムナンセンス」とかのナンセンス・ギャグ漫画雑誌ができることを熱望している永田である。


7月23日

 永田は「メグとセロン」シリーズを3巻まで持っている。しかし見たのは挿絵部分だけで、お話の内容は全然分からない。だが、これは逆にチャンスといえないだろうか。挿絵だけを手がかりにして、お話を勝手に考えてみる遊びができそうだ。もちろん原作者にはかなわないし……素人の遊戯ということでご容赦願いたい。

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 あたし、メグ。メグミカ・シュトラウスキー。
 ええと、何から話せばいいのかな。あたし、歌うのが好きです。歌を聴くのも好き。運動はちょっと苦手。
 外見は、わりと地味なほうです。髪の毛は紺色で長く、二つに分けて結ってます。背は中ぐらいで、特にやせすぎではないです。
 あの、何かもっと大事なことを言わなきゃいけない気がしてたんですが、ごめんなさい、忘れちゃいました。とりあえず、あたしたちが住んでいる世界の、世界観みたいなものを説明しますね。
 え、聞きたくない? 退屈ですか? まあ、人間の文明なんていつの時代もそんなに変わらないものですけどね。
 あたしは16歳の学生です。さっきも言ったけど、歌が好きだから、音楽は得意。他の科目はちょっと……正直、苦手なのが多いです。
 一番の楽しみは、休み時間に友達とおしゃべりすることですね。名前は思い出せないけど、仲のいいクラスメイトとか、後輩とかがいます。あ、一人、新聞部の子がいて、いつもカメラを持って走り回ってるんだけど、その子だけはどうも苦手です。背がちっちゃい子で、おとなしくしていればかわいいところもあります。
 男の子のことは……あまりよく分かりません。あ、一人名前を覚えてる子がいます。セロンっていって、鋭い目つきをした、ちょっと怖い感じの男子です。女の子たちにはすごく人気があるみたいですが、誰かと付き合ってるって噂は特に聞きません。
 あたしが小さかったころ、好きになった男の子は何人かいました。やさしい子も、かわいい子もいて……でも、それからあたし、遠くへ引っ越しちゃったから、その子たちにはもう会えません。好きだった気持ちももうほとんど忘れてしまって……あたしって軽薄ですか?
 すみません、記憶があやふやで、こうやって長いスピーチをしたのも入学試験の面接の時以来なので、うまくしゃべれません。何かご質問があれば、お答えしますが……え? 靴下がたるんでる?
 あぁっ! やっと思い出しました! 今朝、ソックタッチをつけるのを忘れてきちゃって、だから、今日はソックスがずるずるずり落ちて大変だったんです。女の子の必需品ですよね。
 くれるんですか? ありがとうございます。シュッシュッ、ピタッ……これでよし、と。
 どうですか? ソックスが脚にぴったりくっついて、いい感じになりましたよね!
 え、すごくかわいい? やだ、照れちゃいます。でも、女の子の脚ばかり見てちゃダメですよ。
 じゃあ、失礼します!

 「メグとセロン 3305年のハイソックス」 完
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 永田は特にコメントすることはない。


7月22日

 新潮文庫の『未成年』をようやく読了した。この作品はすでに岩波文庫で二回読んだ覚えがある。他にも図書館から全集を借りて読んだかもしれない。今回の訳で読むのは初めてだったが、少々時間の無駄使いをしてしまったという感じだ。主人公のアルカージイの物言いがいちいち仰山なわりに、大した事件は起こらない。
 ここでまた『猫』を引き合いに出してみる。『猫』という小説は、語り手の猫が、猫のくせにいっぱしの知識人のような教養を持ち、それを元に時には衒学的に、そして饒舌に語るのが面白さの一面といえる。一方、アルカージイはただの世間知らずの未成年にすぎず、語り手としての魅力がない。長すぎる前置きや言い訳にはうんざりさせられる所もあった。
 ただ、印象に残ったのは、マカール老人の語りの中で、金持ちの地主が貧乏な家の男の子を無理に引き取って英才教育するけれども、結局死なせてしまうというくだりであった。あの部分だけは引き込まれるように読むことができた。
 ドストエフスキーの作品で、あと読んでいない(持っていない)のは『おじさんの夢』や『ネートチカ・ネズワーノワ』ぐらいである。後者はなんとレズ小説だという噂もあるので、図書館で借りて読んでみたいものだ。


7月21日

 この日記はつねにネタ切れの危機と隣り合わせだが、そんな当日記を活性化させるための方法を思いついた。「三題噺」である。三題噺とは、もともと落語用語で、落語家がお客の出す三つの題をもとに即興で落語を作るものである。広辞苑によると1804年に創始された。
 あらかじめ単語やフレーズを書いたカードでもたくさん作っておいて、毎日三枚ずつ引いてそれをもとに話を作るようにすれば、うまくいくかもしれない。もちろん、一つながりの話にするわけだから、お話作りの能力が試されることになる。何時間もかかって下らない話しか作れないのでは意味がない。
 永田はお話作りについて、これまでわずかばかりの自信を持って暮らしてきた。しかし気まぐれなので、ある時は読書がしたくなったり、漫画のネームに手をつけたり、ラノベを書き始めたり、まことに節操がない。『吾輩は猫である』の苦沙弥先生のような感じだ。まあ、あちらはもっと学問をして高尚なことをやっているので、単純な比較はできないが。
 三題噺は、お客から題をもらい、話を作ってお客に返すという呼応の関係がある。永田のように一人でニヤニヤしながらカードを作って話を考えるのは本来のものではない。それよりもそのカードで、松本人志がやっていた「面雀」(おもじゃん)でもやった方がまだ楽しいかとも思うのであった。


7月20日

 話題のツインテールキャラについてはつねに調査を怠らない。このたび「ストッチーズ」(略称)にとても萌えなキャラがいることが判明した。フランチェスカ・ルッキーニという12歳の少女である。声は斎藤千和氏だ。どんな声か正確には知らないがきっと萌えボイスだろう。
 オープニング映像をよく見ると、ツインテールの揺れが実に可愛らしく表現されている。アニメにツインテールキャラは数多く登場するけれども、揺れまで表現していることはあまり多くない。作画に手間がかかるから、というのが単純な理由であろう。永田のようなフェチでもない限り、ツインテールがかわいく揺れないからといって製作会社にいちゃもんをつける輩はいないのかもしれない。
 せっかくツインテールの話題を出したのに、語るべきことをなかなか見出せないのは、すでにとことんまで考えつくし、ツインテールを主題とする約100枚の小説まで書いてしまったからだ。ちなみにこの小説は出版社に送ったのだが、落選となった。
 ツインテールは髪であり、また神である。世界のどこかに、女性が髪を長くし、二つに結って、神への捧げ物とする原始宗教があるはずだ。確証はないけれど、そう信ずるものである。


7月19日

 ウェブ拍手の解析ページに広告が表示されることは先に述べた。毎日そのページを見るが、クリック一つで簡単に買い物ができるとなると、逆に警戒してしまって、簡単には買わないぞ、という気になる。
 学生時代はたいていお金がなくて我慢するけれど、社会人になったとたん物欲魔人と化してしまうことはよくあるようだ。永田の場合も、初めてのボーナスでパソコンを買い換えたりした。しかし現在では貯蓄を大事にしていて、ものを買う喜びよりも、ものを買える可能性を持っている喜びの方が大きくなっている。
 これは、学生時代に漫画を買いすぎたことの反動かもしれない。また、「ギャラクシーエンジェル」(第1期)のDVDを全巻買い揃えたことも公然の秘密である。
 それにしても、今日は特に退屈な日記になってしまった。以前の日記はいわば「回想日記」であったが、今度の日記は「言い訳日記」になってしまわないかと心配している。変な枕詞のつかない、ごく普通の日記を書ける日は来るのだろうか?


7月18日

 この日記になかなか新しいことを盛り込むことができないのは残念だ。小説の話題を出すにしても古い名作が中心になってしまう。漫画はほとんど読まない。音楽は古いもの(80〜90年代)が中心である。
 新しいものはいずれ古くなる。その一方で、古い名作はいつまでも古びないものである。そのような名作を作り出せたらいいなと思う。
 昇華という言葉がある。広辞苑第四版の説明を引用してみると……
 「精神分析の用語。社会的に認められない欲求や無意識的な性的エネルギーが芸術的活動・宗教的活動など社会的に価値あるものに置換されること。」
 ぼんやりとしか知らない言葉だったので、辞書を引くと新たな発見があって楽しい。
 永田は「チサト日和」という漫画を(一応)続けているが、かつては性的エネルギーや「萌え」のエネルギーがこの作品の製作に大きく関わっていたことは確かだ。きっと昇華の作用が行われたのだろう。しかし今ではそういうエネルギーが創作の方向にあまり向いていかない。日頃の勤務にエネルギーの大半を使ってしまうし、残ったエネルギーは……どこに行くのだろう。ただ眠るためだけにもエネルギーは必要だ。
 今でも一応、女子学生というものに夢やロマンを感じている。それを大事にかき集めながら、どうにかこうにか作品を続けていきたいと思っている。ただ、漱石は晩年まで女というものを軽蔑していたし、もしかすると「女はしょせんこういうものだ」という諦め(明らめ)が生まれた時、その時こそが真の創作の始まりなのかもしれない。


7月17日

 この日記も三回目だ。形式を変えてから三回目ということである。果たして良い方向に変わったかどうかは読者に判断していただくしかない。
 永田は絵だけでなく、ライトノベルにも挑戦したことがある。ワナビー(作家志望者)たちが集うウェブサイトに通い、自分の作品を読んでもらったり、他人の作品に感想をつけたりした。
 だからといって、市販のライトノベルのファンとはいえない。結局これも昨日の萌え絵と同じように、自分の作品だから面白く感じるし、女の子キャラには萌えることができるというわけだ。まことに結構な脳味噌をしている。
 そういえば「文学少女となんとか」というシリーズのノベルがあるが、こういう作品では作者の文学知識、読書傾向が如実に表れるものだ。永田はこのシリーズを特に読みたくないのだが、中高生ウケのいい作家が出てくるのではないかと勝手に想像している。中高生向けといえば、小畑健氏のカバーイラストで知られるように、太宰治の『人間失格』が売れているようだ。他にも漫画家がイラストを描いた名作が出ている。いわゆる「ジャケ買い」を狙ったものだ。
 永田がジャケ買いしたノベルで代表的なのは、「魔王、始めました――しお味」(スーパーダッシュ文庫)という作品だ。しかし内容はあまりにもアレなのでコメントは差し控える。


7月16日

 ドストエフスキーの『未成年』(新潮文庫)が復刊され、さっそく購入して上巻の400ページくらいまで読み進めた。人物関係が複雑でやや混乱する。この作品を本当に「五大長編」の一つとして数えるべきかどうかは疑問が残る。
 永田は、萌え絵が好きであることを非オタクの人には隠している。読書好きであることは特に隠さない。しかし世の中は広いから、読書好きであることを周囲に隠して生きている人もいるだろう。周りの友人に趣味やファッションを合わせる人々は大変だろうなと思う。
 永田はマイナーなものを好む傾向があると以前述べたが、萌えに関しては別にそうともいえない。ちゃん様や鳴子先生などのメジャーな作家の絵を好んで見ている。決してマイナー好きとはいえない。まあ、田舎にいるのでマイナーな同人作家などの作品に触れる機会がないことも原因であろう。
 絵を自分で描く人は、よほどでない限り、自分の描くキャラを好んでいるはずだ。それは永田にしても同じことで、ヘボい絵ではあってもそこに萌えがあるのだ。これまで描いてきた一枚もののイラストは見るのも嫌になって消してしまったが、他人の評価を気にしすぎず、自分の「萌え」に忠実になって描くことができたなら、再びこのウェブサイトを賑わすことができるであろう。


7月15日

 やぶうち先生の「ないしょのつぼみファンBOOK」を遅ればせながら買った。本来この本は、やぶうち先生の信者である女子小・中学生をターゲットとしている。しかし永田のような信者はそんなことに構わず買うものである。
 ブックレットに、付録の「Secret box for GIRLS」という箱がついている。この箱の中にはめくるめく世界が……しかし順序立てて、まずブックレットについて述べる。これははっきり言うとOVA「ないしょのつぼみ」の販促アイテムだ。永田はアニメ化されたやぶうち先生の作品にはほとんど興味がない。漫画の繊細な絵をアニメで再現することがほぼ不可能だからだ。
 「シークレット・ボックス」の説明をする。まずは飾りのついた髪留めゴムで、これをつけてつぼみに変身しよう、というもの。次は生理用ナプキン(寝るときガード)で、これをつけてつぼみに(ry
 以上眺めると、この商品は男オタク向けのものではない。性情報に汚染されていない小中学生がちょっとドキドキしながら、読んだり、結んだり、装着するためのものだ。

 まあ、これはこれとして、読みもしない「メグとセロン3」を買ってしまってどうしようかと思う永田であった。


6月30日

 永田はウェブ拍手の解析ページに貼られている広告で、絵の描き方の指南書をよく見かけるようになった。これは、永田が登録している個人情報の中に「絵日記」というものが含まれているからだ。現在の当サイトにはそんなものは見る影もないが……。
 永田も何冊かの指南書を持っている。「やさしい人物画」にはじまり、「快描教室」、「スーパーマンガデッサン」、「パース! マンガでわかる遠近法」、あとはポーズカタログ・背景カタログのたぐいである。
 こういう本を、やぶれるまで読みつくせば、悟りを開くことはできなくとも、多少は上達すると思われる。しかし永田は買ったことに満足して、そこから学ぼうとする意欲がない。

 一ヶ月間日記を書いてきたが、当サイトのお客は、こんな日記を求めてはいないようだ。わざわざ訪れて、読みにくい長文を何分もかけて読んでくれる奇特な人はいない。やはり漫画などの読みやすくて楽しめるコンテンツを求めている。
 日記を書く試みが挫折したわけではないので、これまでの日記を全て消すということはしないが、今後は更新が少なくなっていくであろう。
 ここで、反省会が必要である。永田は知っている人の日記をしばしば見るが、そういう日記は内輪に向けて書かれていることが多い。つまり特定の趣味をもつメムバーということだ。日記はあまり長くない。ポツリと一言、二言丈で終わることもある。しかしそこには本音、真実が語られている。
 今さら、自分の日記の形式を変えようというつもりはない。ウェブ上で言いたくないこと、言ってはまずいことがある。しかしそれを避けて通ると、本当に言えることが少なくなってしまうようだ。
 永田は先日、カフカの『城』(池内紀訳、白水社)を買った。すでに新潮文庫では何度も読み返している。はっきり言って白水社版はひどいと思った。もっと立ち読みして熟慮すべきだった。だが、角川文庫版はもっと評判がいいらしいので買ってみたい。
 あと、島本理生の『ナラタージュ』が文庫になっていたのに気づき、買った。最初の章を読んでみると、永田の感性にぴったりくる文章のようなので、ちゃんと読むのが楽しみである。

 そういえば、永田のウェブ活動は、これまで常に「マイナー路線」を突き進んできた。「映像散歩」を気違いのように鑑賞したり、「くるみミラクル」をサルのようにプレーしたり。古いファミコンゲームについてくどくど書いたり。マイナーなものを愛する気持ちは大事だが、どこかネクラな感じがする。「いっしょに楽しもう」でなく、「分かる人丈分かってくれればいい」という感じだ。
 そういう生活態度をすぐに変えることはできない。が、どう変えていけばいいのか、アドヴァイスをくれる方がいたら、ぜひウェブ拍手のコメントやメールでお寄せいただきたい。コメントをいただけるまで、日記は当分休むことにしよう。


6月29日

 回想的なことをあちこちで書き散らしているから、初めて書いた話題なのかそうでないのか、よく分からなくなってきた。
 何ヶ月も新しい日記を続けるのはしょせん無理なのか……と思ってしまう。
 永田は本棚を見渡す。三つの本棚に本がびっしりだ。さらに本棚の上にも本立てと本が置いてある。写真を掲載すれば一目瞭然なのだがそれはやめて言葉で説明することにする。
 本棚の全ての部分に、前列と後列がある。前列にあるのは大事な、しばしば参照したい本である。さして重要でない本は後列に回している。
 真ん中の本棚の一番上の段には「こち亀」の1〜38巻、次の段には同じく「こち亀」の39〜74巻が見える。ここにこの漫画を配置するのは大学生のころから変わっていない。(東京には「こち亀」コミックスを持って行かなかった。その代わり東京の古書店では「こち亀」の古い版を探して購入していた)
 そろそろこの「こち亀」をリストラすべき時かなと思っている。永田の部屋は一般的な一人暮らしの男性の部屋よりも大分片付いている。本棚からあふれてしまった本もそんなに多くない。だから無理してどける必要はないのだが……これは気持ちの問題だ。
 最近ジャンプに載っている「こち亀」には全く目を通していない。もうあれは作者が変わってしまって駄目になったのだとあきらめている。この作品にいつまでもこだわるべき理由はない。
 しかし、初期の作品は文句なしに面白いのだ。だから古本屋に売るつもりは毛頭ないし、できれば手元に置いておきたい。初期、中期の「こち亀」は、まさに「漫画で描かれた百科事典」であると思っている。
 おっと、これもどこかで言ったことがあるような文句だ。残念だ。もっと新しいことは言えないのか。
 新しいことを言うのが六ずかしいのは、ただ記憶のみに頼って日記を書いているからである。まあ、大作『失われた時を求めて』のように、作者が15年間引きこもって記憶を頼りに書いた大長編もある。しかし永田は凡人なのでそもそも小説すらろくに書けない。
 記憶のみに頼っているのがよろしくないということか。つまり、日常起こったことを克明に書けば、もっと生き生きとした日記になるのか。
 ……ここで結論みたいなものを出して、日記をやめてしまうつもりはない。ただ、先日言ったように、頭のなかでこね上げた小理屈を何百ページ並べたって、事実の持つ重みには勝てないのではないだろうか。まあしかし、事実は単に事実であって、他人にとって大した重みを持たないとも言える。それほど立派な人生を送っているわけではない。
 永田は、過去の関係者でなく、全く知らない赤の他人に向けてこの日記を書いているつもりだ。そういう場合にどう書くべきかを考える参考となるのは、自分が赤の他人の日記を見るときどのような態度で見ているかを考えることである。だが、永田は不幸にして日記を毎日面白く拝読できるような他人を知らない。だからこそ、自分で書いて自分で面白がれる日記にしたいと思っているのだが……。
 結局、漫画にしても小説にしても、日記にしても、自給自足の精神でここまできたのである。たとえ客観的に日記が今よりつまらなくなったとしても、そもそも永田にしか書けない日記なのだから、そこにはオリジナリティがある。そのことをせめてもの心の支えとしつつ、本日の日記を終わることとしたい。


6月28日

 永田は大学に入るまでは古本屋をほとんど利用したことがない。それ以前にはまだ本は新品で買うものだと思い込んでいた。それに、望む本が上手いこと古本屋で売られているとは限らない。
 大学に入り、漫画調査サークルに入ってから、頻繁に古本屋に行くようになった。東京で行ったことのある古本屋は、ブックオフ(高田馬場、原宿、中目黒等)、DORAMA(下北沢)ぐらいである。あとは地元に帰省した時にブックオフによく通った。
 永田は遊人の漫画を知ってから、漫画で表現される少女のかわいさについて知った。と、一応そういう説明ができるが、萌えオタクとしての萌芽はもっと前から出ていたと思われる。小学生のころ、珍しく買ったコロコロコミックやコミックボンボンを後々まで大事にとっておいたのは、きっとそこにかわいい絵の漫画が載っていたためである。
 そんなわけで、大学に入ってすぐのころは漫画やアニメの萌えキャラを追いかけていた。漫画調査サークルに入ると、その趣味を存分に出した個人原稿等を書いた。それと同時に、いわゆる「漫画読み」のメムバーたちに負けないようにと、名作ストーリー漫画を買いあさった。古本屋に通い、蔵書がどんどん増えていった。最も多い時は1300冊ぐらいになったと記憶している。しかし学生生活後半に入ると徐々に文学の方へと興味がシフトしていき、「こんな下らん漫画を買っていたのか」と後悔の念にかられることもあった。

 漫画から文学への転機となった作品は『アルジャーノンに花束を』であった。この本の序文に、「私の教養は、私と大切な人たちとの間に楔を打ち込む」という記述があり、非常に感銘を受けた。作品自体も素晴らしいものであった。SFでもありながら、純文学要素を多分に含んでいる。その次に出会った名作は『ライ麦畑でつかまえて』である。それ以来サリンジャーの作品で翻訳されているものを全て読んだ。また、禅に興味を持つようになったのも、『ナイン・ストーリーズ』のエピグラフである「隻手音声」がきっかけであった。アメリカでは一時期禅ブームというのが起こったらしい。
 現在は、昨日述べた萌え4コマや、それに類する萌え漫画ぐらいしか手に取ることがない。古本屋では立ち読みができるが、新規作品を開拓しようという昔の情熱は全くない。かつては萌え漫画しか読まない人々を軽蔑していたが、自分がそうなるとは思わなかった。
 最も自由な表現形式は、やはり小説をおいて他にない。漫画は一見自由に見えて、非常に制約を伴う表現形式といえる。文字を連ねることは誰でもできるが、上手い絵は誰にでも描けるものではない。また、漫画は基本的に娯楽であるから、小説でいうとエンタメの部類に入るものといえる。この点ではライトノベルと重なるところがある。作者としては、自分の思想うんぬんかんぬんよりも、読者を楽しませることが必要だ。そのためには他の漫画丈でなく、映画、小説等による勉強も必要である。ただ自分の描きたいこと丈を描いて、それで読者にウケることができるのは、稀有な天才であろう。
 現代の漫画界は「縮小再生産」の傾向にあると聞いたことがある。先人たちのようにさまざまな娯楽に学んで漫画を描いたのではなく、ただ既存の漫画やアニメ等のストーリーをなぞるとか、キャラクターを真似るとかして、作品を作っているのだ。このことはあながち的外れの指摘ではないと思う。書店で漫画を手に取り、絵のかわいさは別として、ストーリーについての説明書きを見て、たまには買ってしまうけれども、中身を見てがっかりさせられることがほとんどだ。(まあ、漫画を選ぶセンスが悪いのかもしれないし、萌え絵の漫画は無条件で賞賛してしまうこともあるのだが)
 何を言いたいかというと、現在最も期待している漫画家は関谷あさみ氏だということである。


6月27日

 まもなくこの日記も開始から一ヶ月になろうとしている。もともと、週単位で書ければそれで良しと思っていたが、予想以上に書くことがふくらんだようだ。
 諸々のテーマについて、数年来考えてきたことを記している。取り上げるべき話題がそろそろ一巡したような気もする。気張っても良いものが書けるとは限らないけれども、毎回の日記の中でできる限りものの見方の新しい側面を示すことができればと思っている。

 永田は萌え4コマを何冊か持っており、萌え4コマの何たるかも少しは知っているつもりである。これとは別にストーリー4コマという形式もある。両者は重なることがある。というのは、ストーリー4コマというのは「あずまんが大王」を代表とするように、4コマ漫画を連ねて一つのまとまったストーリーを形成するものである。このストーリー4コマに、萌え系の美少女キャラを配置すれば、それ丈で萌え4コマのできあがりだからである。萌え4コマには厳格な起承転結は全く必要とされていない。
 最近しっかり単行本を買い、かつたまに読んでいるのが、蒼樹うめの「ひだまりスケッチ」と、kashmirの「○本の住人」である。ギャグとしては後者の方が面白い。前者は典型的な萌え4コマで、絵が達者である。しかし突如として横長のギャグ顔が出てくるのには戸惑わせられる。漱石の『猫』にも、「いくら流行が変化しやすくたって、横に長い顔が流行ることはあるまい」という一節がある。まあ、既存のありがちなギャグ顔(目が丸になったり口が四角になったり)に頼るよりはマシなのかもしれない。
 他にはSaxyunの「空想科学X」や、すかの「ひろなex.」を持っている。この二人の作者は偽春菜関係で以前から萌え絵師として知っていた。ストーリーテラーとしての才能は未知数である。

 永田は、人を引きつける魅力のあるイラストを描ける人が、萌え4コマを描いているのを遺憾に思っている。4コマ漫画は、一応起承転結がちゃんとしていなくてはならないし、ページ数の割に必要なエネルギー(ネーム段階の)がとても多いと思われる。永田としては、Saxyun氏などには昔のように萌えイラストを描いてほしいと思っているが、それ丈ではおそらくほとんど金にならないだろう。漫画の形態をとった方が、絵の労力は減るし、単行本も出やすくて金になるかもしれない。
 と、人の懐具合を心配してもしょうがない。それより、永田は萌え4コマが確固たる市場を築いていることには反対の意を持っている。萌え4コマはまず何よりも話作りの甘さが気になる。起承転結の弱さである。4コマ一本一本につけられているタイトルが妙に説明的なことも気になる。
 萌え4コマを喜んで読むことは、漫画界の衰退につながるのではないか。他の漫画と同列に並べることにはどうも納得できない。絵のかわいさはもちろんクローズ・アップされるが、しょせんそれ丈だ。
 まあ、漫画を読むのに気張る必要はない。かつて永田は多くの漫画を読みこなすサークル活動をしていたが、そのころはやはりオタクとしてのプライドみたようなものがあって、成る丈良い批評文を書こうとしたものだ。萌え4コマには、そうした批評をひらりとかわす柔軟さがある。「しょせん絵だけ」「萌えだけ」という感じだから、読者の心に引っかかりを作ることができない。
 だが、こういう漫画が流行るのが時代の趨勢だとしたら? 漫画以外のさまざまな娯楽が次々と生まれている。肩肘張って読まなくてはならない漫画が減り、「萌え!」「メイド!」「スク水!」というふうに分かりやすく気軽に読める漫画が必要とされている。
 永田が学生時代に、それまであまり好まなかった重厚なストーリー漫画を何作も読んだのは、サークル活動をしていたからだ。サークルメムバーたちに自分の存在をアピールしようとして頑張った。そして今は完璧にサークルを離れて、自由にものを読んでいる。サークルから離れたことが結果的に良かったのかどうかは分からない。ただ、永田の心は明らかに萌え4コマの方に傾いており、手塚治虫が築いた漫画界の健全な発展にはあまり貢献できない気がする。萌えオタクであり、今やどんな漫画も萌えの観点からしか見ることのできない永田は、萌え漫画を買いあさるただの金づるでしかないのかもしれない。


6月26日

 規則的にものを書こうとすると、時にはネタ切れに直面するというのは仕方ないことだ。永田のような素人はもとより、毎週や毎月の雑誌に漫画を載せている漫画家もまた、ネタ切れに苦吟することがあるだろう。
 こないだ日経新聞で、ある作家の随筆を読んだ。よくありがちなように、「アイデアが出る秘訣があるのならこっちが教えてほしい」と書かれていた。
 アイデアを駆使する商売といえば、永田はショート・ショートを思い浮かべる。あれこそまさに凝縮されたネタそのものである。酒に例えるなら、手間ひまかけて作られたブランデーといったところか。
 まあ、ショート・ショートが現代文学の中に定着しているかというとあまりそんな気はしない。ただ、ショート・ショートの第一人者である星新一の作品がきらりと輝いているだけだといえよう。
 永田もまた、多くの若者と同じように、星新一を愛読し、そして卒業した。いい大人になってからも星新一を愛読しているという人を、ちょっと冷めた目で見てしまうのはなぜだろうか。
 結局あれは純文学ではなく、SFであり、それも物語の骨格だけでできているので読みごたえがない。本当の文学は、もっと様々な要素で肉付けされている。ショート・ショートを批判する人はこのように言うだろう。
 永田も、中高生のころは星新一に熱中していた。その分、熱が冷めてから批判的な見方をするようになったのは仕方ないことだ。
 ショート・ショートを論じる文学論というものを知らない。先日発売された新潮社の「星新一 一〇〇一話をつくった人」という本は買ったが、まだページを開いていない。なんとなく読む気がしないのは、いい歳をして星新一に熱狂する人々と一緒にはなりたくないという気持ちの表れかもしれない。
 彼の個々の作品を挙げて批評するのは大変なのでやらない。今の永田は純文学とエンタメをきっぱりと分け、エンタメをばっさり切り捨てた生活をしているので、明らかにエンタメの部類に入るショート・ショートを今から読み返したいとは思わない。そんな時間があるならドストエフスキーやトルストイを読みたいものだ。
 というわけで、永田お得意の非生産的な日記となってしまった。たまにはこんな日もあるさとご容赦願いたい。

 そういえば、まだ歌の話をしたことがなかった。永田のいう歌とはいわゆるアニソンのことである。
 永田は今から10年程度前ごろ、一番熱心にアニメを見ていたのだが、当然アニソンも多く聴くことになった。
 そのころ永田を支配していたのは、「アニメソングは励ましソング」という考えだ。この点で、一般音楽とは少し異なったものだと思っていた。
 「アニメソングを聴くのはアニメオタクが多い。アニメオタクは引きこもりなど社会不適合者が多い。だから彼らにウケるために、彼らを励ますような歌を歌ってあげよう」。このような考えを永田は読み取っていた。
 林原めぐみが作詞をして歌った歌の多くは、このような「励ましソング」であったように思われる。永田自身は彼女の歌にあまり励まされたことはなかったが、「ああ、アニソンとはこういうものなんだな」と思ったものである。
 もちろん、昔も今も、励ます丈の歌ばかりではない。ごく普通に詩情を歌ったものも多いはずだ。しかし、アニメ視聴者に向けた歌というものは内容的に一般向けの歌とは違うという感触は今でも持っている。
 ここでひとつ、好きなアニメソングや作詞作曲家について述べられるといいのだが、これといって思い浮かばない。ふむ、そういえば永田は田辺智沙先生のファンである。この方の作る詞や曲はまことに素晴らしいので、思わず「先生」と呼ばずにはいられない。
 田辺先生は歌手の近藤名奈に多くの曲を提供している。近藤名奈の歌についてはまた別のところで述べることにするが、永田は彼女の歌の大ファンである。しかし彼女の声や容姿が好きというよりは、なによりも詞が好きなのである。二十歳前後の若者の瑞々しい感情を歌った曲群であった。3枚のオリジナルアルバム、そのどれもが永田の宝物である。
 さて、田辺先生はアニメソングの作詞・作曲もしており、アニメ「ギャラクシーエンジェル」においては数多くの歌を手がけられた。永田はもともとこのアニメのファンであったが、お誂え向きに田辺先生が詞と曲を提供してくれたので狂喜した覚えがある。先生の書く詞は、情景を分かりやすく的確に伝えてくれて、ある意味マンガチックな詞といえる。最近アニメをほとんど見ないので作品に触れることも少ないのだが、制限のある文字数で豊かな世界を創造してくれる先生に、今後もエールを送っていきたい。


6月25日

 声優がアニメキャラの格好をすることには、どうあっても反対である。しかしたまには、声優自身がかわいいとかいうこともあって、コスプレが妙に似合ってしまうこともある。そういう場合、イベントは大盛り上がりであろう。
 声優に萌えるのは、まず一つはアニメキャラに萌えていること、もう一つは声優の声に萌えていること、この二つのどちらかである。他にも声優を純粋に女優として見ている場合もありそうだが、ここでは除外する。
 声優のコスプレは、この前者の場合を想定しているといえる。つまりオタクたちがアニメキャラへの萌えの延長として声優にも萌えているとの想定だ。だから声優にコスプレをさせる。このコスプレに萌えてしまう人々は非常に痛いと思えるのだが、それは昨日述べたように、アニメキャラと人間を同一視しているからである。いってみれば、声優に対する盲目的な信者であり、手がつけられない。
 一方、後者の場合、つまり声優の声に萌えているのは、例えばラジオ番組などを熱心に聴くファンなどにみられる。こういうファンはラジオを聴くうちに次第に洗脳され、声優本人への萌えの気持ちが起こってくる。それは、声が好きだからである。人間のもつさまざまな側面のうち、声がかわいいというのは大事な要件である。おまけにラジオを通して伝わってくる性格が好ましいものであれば、なおのことファンになるであろう。詳しくは知らないけれど、声優のラジオでは実にさまざまな企画が行われ、声優本人の芸人性が求められるものになっていると思う。
 二つのケースを見比べると、後者のケースは案外痛くないのかな、という気がする。しかし、ある面では危険もはらんでいる。声優の声を愛し、声優自身を愛し、その想いが止まることを知らず、ストーキングなどの道へ進んでいく可能性は否定できない。ここで問題となるのは、声優が自分の全てをラジオ等でさらけ出すのではなく、あくまでも声だけを出すということだ。熱心なファンは、声やしゃべり方を聞き、その声優の人格を勝手に補完することができる。その補完は各自思いのままであり、人間の空想力というものは止まることを知らないものだから、空想丈が一人歩きしてしまう。こうなると、痛いというよりも、かなり危険ではないだろうか。それとも、不健康という言い方の方が正しいか?
 前者のケースは、アニメキャラの完璧な美しさと、声優のそうでもない美しさとが重なるわけで、オタクたちには現実に帰る道が残されている。確かに痛いけれど、まだ救いはある。
 よく分からない話になってきたが、永田自身は先に述べたように声優のコスプレを基本的に認めない。だが、声優は好きだ。つまり永田は「後者」のケースであるというわけで、まず声優萌えが先にあって、そこからアニメキャラの○○たん萌え〜、という感情につながっている。これが永田の声ドルマニアとしての精神分析である。
 大分単純化してお話してしまった。実際はもう少し複雑で、アニメキャラの絵と声に萌えるけれどもその声優には全然萌えない、ということもあった。あるいは、好きな声優の演じるキャラならばどんなキャラでも萌えるというわけでもない。しかし永田は、全く未知のアニメを見るとき、キャストを知らないまま見るのはとても不安である。まずはキャストを押さえて、声優がどんな声を使って演じているかを記憶し、しかる後に萌えの作業に入るのだ。こう見てみるとやはり永田は声ドルマニアである。

 永田は「書庫」に「Mary's ツインテールDay」という小文を置いている。これはメイド喫茶で店員が皆ツインテールに結っていたという伝説の一日の記録である。感情を成る丈抑制し、冷静に綴った記録文であり、これもまた当時の永田の精神を分析するのに適した材料といえよう。
 現在のメイド喫茶というのは、客が調子に乗りすぎるとかして、ちょっと物騒な空間になってきていると聞いている。まぁ、客がみんな永田のように無言でメイドさんを穴の開くほど見詰める必要はないが、やはり気楽なエンタメ空間として楽しめるようなメイド喫茶になってほしいと遠くから祈っている。


6月24日

 かつて「ファミコン気違い」と呼ばれていたかどうかは知らないが、永田はレトロなゲームのファンであった。といってもそんなにたくさんのハードウェアを知っていたわけでなく、せいぜいファミコン、スーファミ、PCエンジンの一部(カトちゃんケンちゃんのみ)といった具合である。
 ファミコンの話をすると、懐古的にならざるを得ない。懐古趣味を持っていることを恥じる必要はないが、ウェブ上で何度も同じような話をするのはちょっとどうかと思う。永田は以前と比べると大分懐古趣味はなくなってきた気がする。小供のころ遊んだファミコンゲームについてくどくど語りたいとは思わない。
 ただ、古い名作文学については依然語りたいと思っている。もしかすると永田の懐古趣味は、数十年の単位から数百年の単位へシフトしただけなのかもしれない……
 それはそれとして、ファミコンゲームで永田が最も愛しているのは「スーパーマリオブラザーズ2」である。ディスクカードも、GBA版も買ったし、バーチャルコンソールでも購入した。このゲームを知ったころは、(小供にありがちだが)ファミコン禁止令が出ていた。そのため、3、4年ぐらいプレーをじっと我慢することになった。そのころ永田が代わりにやったのは、ノートにマリオ2の創作ステージを書くことであった。とことん六ずかしいステージを、空想の中でプレーするのである。あとは「ファミリーコンピュータマガジン」に載っていたマリオ2の全ステージの写真を何度も繰り返し見て、仮想プレーをした。
 Wiiを買ったのも、最新のゲームをしたいというよりは過去のゲームを手軽にプレーしたいためであった。とはいっても、マリオ2や弟切草、風来のシレンなどの名作タイトルが既に配信されており、これから旧作が積極的に配信されるかどうかはちょっと微妙なところだ。特にドラクエなどのシリーズものが配信される見込みは薄いと聞いている。ドラクエ1や2のようにセーヴ機能がついていなかったゲームを気楽に遊べるといいのだが。

 「映像散歩」を愛するのも、完璧に懐古趣味である。永田は古くさい自然風景や、80、90年代フュージョンが大好きである。詳しくは「映像散歩ファンページ」の中の「映像散歩と私」の項に書いてあるので、今さら繰り返さない。

 さて、これで終わってしまっては一日の分量に比べていささか少ないと思われるので、次回予告を兼ねて新たな話題を出そう。永田は好きな声優について語ることをどうしても「痛い」と思ってしまう。そのくせ、他人が声優について語るのを喜んで読んだりする。
 好きな俳優とか女優について語ることはあまり痛くないと思われる。なぜ声優丈が痛いのかちょっと分かりかねる。考えてみると、声優は言うまでもなくアニメに直結している。アニメといえば萌えアニメを連想する。萌えアニメには萌えキャラだ。萌えキャラに、声優の顔や声優本人を重ね合わせると、どうしても齟齬が生じる。絵と生身の人間は違う。はなはだ遺憾である。
 アニメキャラが好きであることと、声優本人を好きであることとは別なのに、俳優や女優の場合と同じように考えてしまうから痛いのである。○○たん萌え〜、という言い方を声優にしてしまうのは痛い。しかし萌えというのは(永田の定義によると)性欲の倒錯的発現であるから、美人の女性声優に萌えるのはあながち変なことではないのかもしれない。ただ普通に女性を愛するのとは違うということだ。ましてや、普通は手の届かない存在である。
 とりあえず今日言えることは、声優がイベントでアニメキャラのコスプレをすることがあり、それを見ると非常にいたたまれない気持ちになるということだ。キャラへの萌え、幻想というものが、生身の声優が登場することによって打ち砕かれる。まあ、ある程度の美人さは声優に要求されるものだが、場合によっては……。
 そもそも、どうして声優にアニメキャラの格好をさせるのか。それも含めて次回考えてみたい。


6月23日

 日本語の良い文章というのは、主語のない文章だと聞いたことがある。よって本日の日記ではなるべく「永田」という者を出さずに主語を省略して書いてみる所存である。
 熱しやすく冷めやすいという言葉がある。これを別方面から見ると、ある作品に熱中する度合いが強ければ強いほど、冷めた時に無関心になってしまうという傾向を示しているのではないだろうか。一時的なブームになり、それに乗って一緒に熱狂するが、ブームが過ぎ去ってみると、なんだか熱狂していたことが腹立たしくさえ感じられるものだ。このような心の動きは多くの人が経験しているのではないかと思う。
 だから、誰かがウェブ上でなにがしかの作品に熱中していると書いているのを見ると、皮肉な考えが浮かんでしまう。この人は今は熱中しているけれど、やがて熱が冷めたら、今度は意地になってその作品を批判さえし始めるのではないか、と。
 このままでは抽象的すぎて、どうしても具体例を挙げなくてはならないのでやむなく挙げるけれども、「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズがある。ノベルの第一作を読んで、なかなか面白いと思った。次に、第二作は地雷だと聞いたので第三作を買って読んだ。別段面白いとは思わなかった。それ以来、このシリーズはノベルも漫画も全然買っていない。
 アニメ化もされ、主役の演技力が高いということもあって、大勢の例にもれず夢中になった。調子に乗ってハルヒのイラストも何枚か描いた。なぜ描いたかというと、やはり人気の高いキャラであり、また黒のハイソックスを履いているということもあって、楽しんで描くことができたからだ。フェティシズムの仕業というわけである。
 この「ハルヒ」シリーズがだんだん鼻についてきたのは一年前ぐらいだろうか。書店では「少年エース」等の表紙を飾ることもしばしばあった。それを見せられるたびに厭な気持ちになった。いったいこんなキャラのどこがいいんだ、と思った。まあ、そうはいっても、第一作を読んだのはもうはるか昔なので、どんなキャラであったのかすらろくに覚えていないのだが。
 こういう心の動きの根底にあるものは何だろうか。おそらくそれは、たとえ一時的であってもそのキャラクターに魅せられてしまったことの悔しさであろう。だから、そのことへの復讐として、キャラクターを嫌う気持ちが起こる。こう考えると辻褄が合う気がする。
 要するに人気作品への嫉妬心があるのだろう。自分自身がヒット作を作れない、その悔しさを、既存の人気作品にぶつけてしまうのだ。こんなところで負けん気を見せても仕方ないのだが、事実だからしょうがない。もう少し生産性のある感情を持てるといいのだが……。
 他にはこれといって嫌悪する作品はないようである。「エヴァ」にも一時かなり熱中したが、今は冷静に見ることができ、嫌悪はしていない。「電脳コイル」の内容はおおかた忘れてしまった。「天然華汁さやか」は全くどうでもいい。

 と、このように主語を使わずに書いてみたが、少々書きにくいと思うのは、文章が下手なためか、単に慣れていないためか、ちょっと分かりかねる永田であった。


6月22日

 永田はライトノベルを全然読まないが、ライトノベルに関する議論を見るのは好きなのでよく掲示板を見たりする。読んだことはないけれども世間(の一部)で人気を博している作品群については内容を大体把握しているつもりである。
 具体的に特定の作品を論じることは、読んでいないのでできない。ただ、ライトノベル業界については漠然としたイメージを抱いている。掲示板で熱心に議論する人々の年齢はいくつぐらいか知るよしもないが、おおむね10代〜20代だろうと思われる。
 ライトノベルを楽しめる人々のことを、永田は単純にうらやましいと思っている。だが、もっと上質の純文学やエンタメを楽しんだことのある人間には、ライトノベルは楽しめないのではないか。
 この考え方を永田は当然のものと思ってきたが、もう少し深く追求してみよう。永田は大学生時代から現在にかけて、多くの純文学を読んできた。非常に感銘を受けた本も数多くある。まさに文字を使った芸術という感じだった。そういうものを知っているから、単なるドタバタだったりラブコメだったりツンデレだったりするライトノベルを、物足りなく感じられるのは当然であろう。
 そういえば、先日珍しくまじめに読んだライトノベルがあった。増子二郎の「ポストガール」(1巻)である。すでに売ってしまって手元にはない。短編を連ねた、さほど悪くない作品であると思った。しかし感動や楽しみを得るまでには至らなかった。「どこかで見たことのある話」の域を出なかった。この作品はあまりメジャーではないようだがまあ仕方ないだろう。
 ライトノベルの発祥を考えると、元々は小説というより、漫画や脚本に近いものであった。その系統を引いている作品もあるし、また、もう少し小説っぽい作品もあるだろう。基本的には純文学とは異質のものである。使われている表現技法や文法も違うのだから、永田にとって楽しめないのは仕方ないことではないだろうか。逆に言うと、青少年向けの少年漫画を普通に楽しんで読める人ならば、ライトノベルも同じように楽しめるだろう。
 永田のように、自分は多くの純文学を知っているから、ライトノベルなんて下らない、と思う人もいるだろう。さらに永田の場合は一般小説のエンタメ分野の作品も大して好きではない。それは結局、ただ泣かせたり笑わせたりするだけで、大した中身がないと思っているからだ。
 何でも蚊でも、小説ならば大抵楽しめるという人もいる。楽しみの度量が広いわけであるから、そういう人のことをうらやましいと思う。だが、おそらくそういう人で自分でもものを書ける人は稀ではないかと思う。永田の場合、自分でも創作をしようと思って苦吟してきたわけであり、創作の糧とするにはやはり純文学だと思って、いろいろ読みあさってきた。
 要するに、自らの糧となる作品、何かを深く考えさせてくれる作品を永田は愛するわけである。そうでない作品には洟も引っかけない。ライトノベルを素直に楽しめない言い訳として、永田はそのように考えている。

 先日、小説に登場する女キャラに萌えることができると述べた。そういうキャラは、人間の似姿というよりも、記号として特化されたキャラであることが多い。要するにツンデレなど、人間の一面を極端に誇張したようなキャラである。まあ、必ずしもツンデレ丈がいいと思っているわけではない。現代風の少女には欠けているような、勤勉さ、素直さといったものが小説で表現されていると嬉しい。
 考えてみると、いかにもアニメ風といえるイラストの女キャラも、瞳や鼻や口、胸や腰や尻といった部分は全て記号であるといえよう。あくまでも永田は記号を消費するわけだ。これはイラストでも小説でも同じことである。
 こうした「萌えキャラ論」は一般の書籍やウェブ上ですでになされているはずで、今さら永田に付け加えられることはない。ただ、永田にできることは、自分好みの萌えキャラを探すことであり、その発見をきっかけとして、自分自身の性癖を知ることである。萌えキャラを媒介とした精神分析というわけだ。これはこれでまた新たな日記の話題となりうるはずだが、本日はここまでにしておこう。


6月21日

 ウェブサイトの運営に完璧を求めすぎてはいけない。もちろん、「絶対毎日更新するぞ」とかの目標を持つのはいいことだが、それに振り回されてしまって、楽しみを損なうことになっては困る。内容についても同様で、「正しいことを書こう」と決意するのはいいが、「人を感動させられることを書こう」と気張っても、素人には六ずかしいことである。
 小理屈を何百行も書いた日記よりも、ほんの一言の本音の方が読者の心を打つこともある。永田の場合は残念ながらこの小理屈を並べるのが得意なので、肝心の本音が隠れてしまい、しかも本音を隠していることすら気づかないということがある。
 「本音を述べたら嫌われる」と考える人は多いか少ないか。永田は若い世代にそういう人が決して少なくないと思っている。公共の場で傍若無人に振る舞う者たちも、仲間うちでは嫌われないよう、仲間外れにされないようにと心を砕いているはずだ。そのことには同情せざるを得ない。
 永田としても、何でも蚊でも本音を述べることが良いとは思わない。ウェブ日記というのは六ずかしいもので、本当のことや本音を書くことが他人との間に思わぬ障害を発生させることがある。わざわざ言うまでもなく、ウェブ日記は不特定多数の人に見られる可能性があり、また、表情や身振りを使わず文字だけで伝えなければならないからである。
 これもまた常識かと思うが、アメリカ人はアメリカン・ジョークというものを使いこなす。アメリカ人は嘘をつくことを神に対する罪であると考える。かといって真実を語りたくない時もある。そういう場合にジョークによってお茶を濁すというわけだ。これに比べると日本人などは割と平気で嘘をつく人種であるといえよう。
 残念ながらアメリカン・ジョークの具体的な例をすぐに挙げることができない。それは仕方ないが、ともかく永田の日記もこのアメリカン・ジョークに似たようなところがある。本音を述べるべき箇所において態度をあいまいにし、どっちつかずにしている。そんなものをいくら毎日書き続けたって、読者の心を打つことはできないではないか。

 永田は大学生のころ、飲み友達との話の中で、「自分自身に関心がない」と述べたことがあった。これは、より正確に言うと、「自分自身について他人に伝えることに関心がない」ということだ。この態度は今でもあまり変わっていないと思われる。自己顕示欲が弱いということか。
 そのような永田がウェブ日記を書いているのはどういうわけだろう。自分でも不思議でならない。永田はかつて継続的に漫画を描いていたころのことを思い返す。なぜ描いていたのか。理由などなく、ただ描きたくて描いていたのではないだろうか。
 漫画や小説を創る能力を断念しつつある永田にとって、ウェブ日記はいよいよ最後の砦となった。これができなければ、他者に向けた創作・文筆活動は全くできず、ただ手を拱いて飯を食うだけの無能な人間となってしまう。それだけはどうしても避けたい。
 ……結局、永田は自己顕示欲が誰よりも強い人間なのかもしれない。


6月19日

 こないだの土日は本を読もうと思っていたが、ほとんど読めなかった。永田の最大の欠点である「飽きっぽさ」によって、教養のための読書が妨げられたのかもしれない……
 唯一読み返したのが、カフカの『城』である。この作品を初めて読んだのは6、7年前であったか。最初は、ただもどかしいだけの小説だと思って読んだ。主人公のKが全然「城」にたどり着くことがなく、回り道ばかりしていたからだ。
 大まかに話の筋を頭に入れ、もう一度読んでみると、これはすごい、と思うようになった。Kと、彼を妨げる周囲の人々とのやりとりは、どこか漫才のようでもあり、プッと噴き出さずにはいられない箇所も多い。しかしそうして笑った後、いや、笑っていいのだろうか、と冷静さを取り戻した。永田は思った、この作品は一人の男の孤独、絶望を徹底的に描いたもので、本来は笑う箇所などなく、むしろ泣きながら読むべきではないかと。
 永田はカフカの他の作品のファンでもある。『審判』は未完の箇所もあるが、「鞭を鳴らす男」の章と「伽藍」の章は圧巻だった。また、『失踪者』はカフカには珍しい冒険譚である。しかしこちらでも主人公はこっけいな紆余曲折をたどる運命にあった。

 大学の、文学を研究する専攻においてどんなことを学ぶのか、永田はよく知らない。ただ、国文学とかドイツ文学とかフランス文学とかの専攻があって、それぞれその国の文学を読んで論文を書くものだということぐらいは分かる。永田は大学で文学を専攻しなかったが、もしやるならやはりドストエフスキーか、カフカか、あるいは漱石かということになるだろう。ただ、一人の作家の、それも翻訳されたもの丈を読んで論文が通るものなのかどうかは知らないが。
 先日、あおり文句に引かれて外山滋比古の『思考の整理学』(ちくま文庫)という本を買った。その最初の章に、学問をするために大学へ行くべきか、という内容があった。どうも日本人は「学問」イコール「学校」ということに縛られすぎている、とのことである。永田のように都会に出ることがなかなかできない者は、学問をするのに必ずしも大学に入る必要はないのではないか。自分で自分を律し、参考書を選んで何度も読めば、それなりのものになるような気もしている。あるいは、放送大学テキストを活用するのもよいだろう。
 「もう一度大学で学び直したい」とは、多くの大卒者が思うものである。最近は会社に通勤しながら経営学修士(MBA)を目指す例をよく見かける。多くの大学院で、土曜日に授業対応をしてくれるようになってきたと人から聞いた。永田もまた、目一杯貯金をして、しかる後に仕事をやめて学問に集中するのもいいだろうが、それよりも仕事をして収入を確保しつつ、休日を利用して学問する手もあるのではないかと思っている。

 あまり面白くない話になってきたようだ。「積読」の本も相変わらずなかなか解消されない。先日は評判を聞いて「狼と香辛料」の1、2巻を買ったが、大して読む気になれず、売る本リストに加わっている。古本屋に売るというのは、著者に対する一種の復讐であろう。ブックオフやゲオのみが儲けて、著者には一円も入らない。
 ところで、やぶうち優先生の本を永田はほとんど欠かさず買い、また、決して古本屋に売ったことはない。ここまでくると立派な信者といえよう。「少女少年」2巻にサインをもらったのもいい思い出である。最近は、先生の本を買うべきか、いいかげん飽きるべきか、と葛藤することが多いが、「ないしょのつぼみ」4巻には可愛いツインテール少女が出てきて、さすがサーヴィス精神旺盛だなと思ったものである。ストーリーはあまり心に残らないけれど、オタク向けのサーヴィスを忘れないやぶうち先生(札幌在住)にエールを送ることにしよう。


6月18日

 フロイトの精神分析療法では、患者がベッドに横たわり、頭に思い浮かぶことを何でも言うことが求められた。
 現実の世界においては、頭に思い浮かぶことを何でも言ってしまうと、いさかいの元となる。だから永田をはじめ人はみな本心を隠すことが多い。そうして病んでいく人もある。
 この日記(あるいは週記)でできそうなことは、永田について余すことなく語ることであり、つまり私が自分について余すことなく語ることである。
 しかし実際にそううまくいくだろうか。永田がウェブ活動を始めた十年以上前から、そういうことはほとんど達成できていなかった。永田は本心を隠した。しかしたくみに隠すことは苦手であり、単に日記を「書かない」ことによって本心を隠した。

 話は変わるが、永田がフロイトの言葉の中で強い印象を受けたのは、「芸術家の天分とは抑圧の弱さと昇華力の高さである」という一節である。永田も、漫画を継続的に描いていたころがあったから、芸術家のほんの端くれぐらいには思っていたことがある。しかし彼において抑圧と昇華力は実際どうであったか。実際は、抑圧が強くて、思ったことをどんどん作品に盛り込むことができず、また、昇華についてはうまくできたという実感がない。性欲を創作活動でエネルギーに転換させたといえる経験はない。
 こればかりは、文字通り天分であるから、どうにもならない領域であるかもしれない。「努力できることが才能である」という言葉もあるが、これは単なるトートロジーということもできよう。抑圧が弱く、昇華力が高いから、努力を続けられる、という見方である。

 とにもかくにも、この「抑圧」の強さというものには永田も悩まされている。そうして、同じような人、つまり抑圧の強そうな人に好感を持つことが多い。しかしこれはあくまで他人に対してである。永田の親もまた抑圧の強い人であるが、そのことに共感を感じるよりも、むしろ腹立たしささえ覚えることがある。親の教育が永田の「超自我」を形成し、日頃の言動を左右しているのだから、よりにもよって抑圧の強い人生を歩むこととなったのを遺憾に思うこともある。
 大事なのは、抑圧のくびきを逃れる道を模索することだ。かつての永田にはそれが漫画であったといえるかもしれない。あるいは、まずい小説であったかもしれない。描くこと、書くことによって束の間の自由を得ることができた。
 現在、そのような創作をしていないのは、それが日記に取って代わられたからであろう。日記には、萌えとか、文学とか、宗教とか、永田の普段興味を持っている話題が出てくる。しかし、今日記を書いていて、それほど自由になったとは思われない。抑圧のくびきを本当に逃れたとは言いがたい。心に閉じ込められたエネルギーが行き場を求めてさまよっている、そんな状態といえる気がする。エネルギーを閉じ込めている力はとりもなおさず抑圧である。
 もし、この日記を書くことが永田の心に効用をもたらすのだとしたら、それは良いことである。どんどん書くべきであるといえよう。しかし、ますます気分を落ち込ませるだけだとしたら、さっさと已めた方がいい。
 一番心配なのは、漫画や小説から遠ざかることによって、その作り方を忘れてしまうことである。心のエネルギーを開放し、カタルシスをもたらしてくれるこうした活動を忘れてしまうのは誠に惜しいことだ。しかし本当にカタルシスを得ていたかどうかは少々疑問が残る。いや、かなり疑問だ。永田の作品を読んで、抑圧からの開放を感じる人はほとんどいないのではないかと思うし、永田自身も作品を振り返って、単なる小手先のお遊びとしか感じることができない。
 この日記こそが本当にカタルシスへの第一歩となることを願っている。


6月15日

 「魔法」について考える。
 永田は以前、新紀元社の「魔法・魔術」という本を買った。Truth in Fantasyというシリーズの一冊である。
 なぜ買ったのかよく覚えていない。魔法というものを、アニメ・漫画等の絵空事の中ではなく、学術的に捉えてみたかったのかもしれない。
 しかし実際にこの本を読んでみると、それほど学術的というものでもなかった。錬金術とか、魔女狩りとか、永田にもなじみのある話題が並んでいた。しかしあまり満足のいく内容ではなかった。もっと真面目に学問的に解説してほしかったからである。
 そもそも、魔法は先に述べたように、アニメ・漫画・ラノベ、あるいは童話・子供向け文学の中に出てくることが多い。要するに子供や青少年向けの話題である。大人向けの本にも出てくることは出てくるが、もう少し大人向けの味付けがしてあり、よりリアリティを持っていることは確かである。
 永田は一応大人である。魔法が現実に存在するとは信じていない。しかし、そういうものを心のどこかで信じていて、漫画やラノベを無心で楽しめたらいいだろうなと思っている。永田は子供らしい心をすっかり喪ってしまった。だからこそ、前述の本を買って、魔法が実在するということを教えてもらいたかったのかもしれない。
 「神様もの」とでも呼ぶべきジャンルのエンタメがある。これは、例えばごく普通の中学生が突然神になるとか、あるいはごく普通の大学生のもとに天から女神が降りてくるとか、そんな感じの話である。永田は夢がないので、こういう話を聞いただけで胡散臭く思い、拒絶してしまう。しかし本心ではそういう話を素直に楽しみたいと思っているのだ。神様が夢やロマンにあふれる魔法を使い、人間たちの間に大騒動を巻き起こす話を、昔は楽しく読んでいたはずである。
 身近な例として、永田はプレションの「くるみミラクル」をしばしばプレーする。このゲームの世界では、「魔法使い」と「そうでない人」とが截然と区別されている。魔法を使えるか否かは血筋によるものと思われる。しかしそこらへんのことはあまり詳しく説明されず、いわゆる「魔女っ子もの」として、プレーヤーに暗黙の了解を求めているのである。
 主人公のくるみは、いろいろな魔法を使う。永田はそれを見て、いちいち格好いいとかうらやましいとか思ったりしない。しょせんはゲームなのだから当然であろう。魔法使いなのだから、火や水の魔法、催眠魔法や解呪の魔法を使えるのは当たり前である。そのことに何ら疑いを持たないのは、永田が子供のころからそういうストーリーに親しんできたからである。もし漫画・アニメを知らず勉強ばかりしてきた世代がいたら、きっと違和感を覚えるであろう。
 永田は子供らしい心を喪った代わりに、大人らしく魔法について調べたり、考えたりしたいと思っている。それに近いのはいわゆる神秘主義であろうと思われる。これは、例えば禅仏教における悟りの境地とか、数々の天啓宗教における神の啓示みたいなものである。
 しかし、先日神秘主義の入門書を読んだところでは、夢やロマンあふれるワクワクする世界というふうにはいかないようだ。というのは、そもそも悟りの境地などは言葉で表すことが非常に六ずかしいからである。僧侶や学者たちが知恵を絞っても言葉にできないのだから、素人の永田や、一般の消費者には到底分かるはずがない。
 そんなわけの分からないものよりも、夢やロマンがあってかつ分かりやすい「魔法」というものは、一般の消費者にとってはるかに受け入れやすいものである。一方、「わけの分からないものを有難がる」傾向は一部の人間にみられるもので、永田もその一人といえる。
 子供の心を取り戻したい永田であるが、そこへたどり着くまでにはかなりの障壁が想定されるのであった。


6月14日

 永田の手元に、株式を保有している会社の株主総会案内が届いた。総会は東京で行われるので行くことはできない。まあ、たった1単元だけ持っていて総会に出ても気まずい思いをするだけのような気もする。将来は有望株にドンとつぎ込んで、自信を持って総会に臨めるようにしたい。

 休日に向け、どの本を読むのか計画を立てようとしている。永田は先日から、あまり役に立たない小説よりも、学術書・実用書を読む傾向が出てきた。しかし例えば新書を読むとして、一つのテーマについて入門的な知識を得ることはできるが、結局そこに留まってしまって知識を深めることができない。さらに学ぶためには参考文献として紹介されている(高価な)本を購求しなくてはならない。
 新書の大ヒット作は何冊も出ている。永田は「バカの壁」は読んだが「さおだけ屋」は読んでいない。「国家の品格」は読んだが「女性の品格」は読んでいない。別に読む必要もなかろうと思う。
 読書をするなら楽しめなくてはダメだ、と言う人もいるだろう。そういう人はラノベ類を読む。あるいは広くエンタメ系に分類されている本を読む。永田は以前「鉄道員(ぽっぽや)」を読み、なるほどこれがエンタメか、とうなずいたが、それ以上他の作品を読みたいという気にはなれなかった。自分は純文学を読むのに向いているのではないかと思った。
 「積読」になっている本が何冊か、というより何十冊か存在する。そこには小説が多く含まれる。これらを我慢して消化し、貴重な休みを無駄に過ごすこととなっては遺憾である。しかし一応、読む価値がありそうと思って買った本ばかりであるから、放り出したままというのももったいない。
 ここで「この本を読むぞ」と宣言しても、実行されなければ意味がないのでやめることにする。

 永田は一時的に金持ちになっている。今は部屋のゲーム専用テレビは20型のブラウン管テレビであるが、これをいずれは32型の液晶テレビに買い替えたいと思っている。しかし今のところ値段は十万円前後であろう。それはいささか高すぎる。せめて半分になってくれないだろうか。
 DVDレコーダーはかなり安くなってきた。しかしあまり安くなると見劣りがしてきて、今度はブルー・レイディスクレコーダーを購求したくなってくる。六ずかしいところだが、時間がいずれ解決してくれるような気がしている……
 電器屋と本屋以外では特に物欲を発揮することはない。その物欲も大したものではない。北国でエアコンを欲しいとは思わない。有名同人作家の同人誌は欲しいが、書店委託されなければどうしようもない。その書店にだってめったに行くことはできない。
 こんなケチケチサイトをどれ丈の人が見てくれるか分からないが、カウンターは一応順調なようなので、もう少し続けてみたいと思っている。


6月12日

 週末や週初めには読書することが多いが、週の中ごろは帰宅しても酒を飲んでそのまま寝てしまう永田である。
 週の中ごろに書くべき話題はなかなか思いつかない。新しいテレビゲームをするわけでもないし、書店で本をあさるわけでもない。
 しかしこういう時こそ何とか書くことをひねり出せなければ、この日記のような週記のようなものも今後続けていけないだろうと思う。よって、永田が普段わりと関心を持っている「国語」について書くことにする。

 高校の国語の教諭が言っていた。「国語の教師をやることは人生を切り売りすること」だそうだ。永田は国語教師どころかどの教師の教職単位も取ったことがないので、国語の先生というものがどれ丈人生を切り売りすべきなのかは知らない。まさか学習指導要領にはそんなことは書いていないのではと思う。
 現代文の教師にはちょっと変わった人が多かった。ある人は、テストを採点する時、答えの記述のみならず、その以前に消しゴムで消された内容まで判定して、点数をつけるのだと言った。変な人だと永田は思ったが、今ではその意味が分かる気がする。
 人間の持っている論理(ロゴス)の力を駆使して、こういう回答はこういう過程で導き出されたのだな、と判定することは可能である。この教師はそれだけレヴェルの高い教師であった。残念ながら永田はこの人に対しただ「変な人」というレッテルを貼って卒業したのであったが。
 教科書には漱石などの小説が載っている。元来こういう小説は個々人が好きなように読んで理解すべきである。そういう代物を学校で読み教えるためには指導要領が欠かせないし、おそらくそれ丈では不足で、そこに必要とされるのが教師の人生経験ではないだろうか。
 永田の教科書には『それから』の一部が載っていた。この小説を「高等遊民の陥る悲劇」と単純に片付けてしまうのは簡単だが、それだけでは凡百の教師と変わらない。登場人物への、同じ人間としての共感が求められる。まず教師が自ら心の琴線を研ぎ澄ませて、作品に共鳴し、その波動を生徒に伝える。すると、全員ではなくても、一部の生徒は同じように共鳴するであろう。成る丈分かりやすく、自分の人生経験に照らして作品を読み解いてあげることが、優れた教師のすべきことだと永田は思う。
 こんな当たり前のことをもっともらしく言っても大して役に立たないのだが、永田は自分が教師としての資質・資格を持っていないだけに、世の国語教師に対して期待をしている。「読み・書き・ソロバン」は教育の要である。

 小六ずかしい話題を書き終えたので、もっと軽い話題にしてみよう。永田は先日「虎の穴」へ行って、「ツンデレカルタ」なるもののサンプルヴォイスを聴かされた。最初は、金田まひるの声だなと思っていたが、よくよく見ると釘宮理恵だった。「ツンデレ」と「カルタ」という、全く異質なものを結びつけた発想力には感嘆せざるを得ない。しかしお正月の遊びにはちょっと使えないなと永田は思った。
 オタクショップには本当にたまにしか行けないので、行ってみると軽くカルチャーショックすら受けることがある。同人誌が高価買い取りされているのを見て、「なんでこんなものが」と思うこともある。エロ漫画の売れ行きランキングが発表されているのは面白い。また、メロンブックスは軍事オタク向けのコーナーが充実しているのが特徴的である。
 都市部に住んでいないと、オタク趣味もなかなか続かないような気がする。まあ、ネット通販という手もあるが時間的なギャップは埋められない。地方在住者は新しい情報を仕入れる早さについてはあきらめざるを得ない点があるが、その分、一つの作品にじっくり向かい合い、充実した読書をして埋め合わせをすればいいだろう。
 というわけで、永田は以前一度読んでチンプンカンプンだった『百年の孤独』をブックオフで買ってきて、再び読もうとしている。今度こそこの作品のメッセージを受け止められるだろうか……?


6月11日

 永田は最近、夢のお告げというものをよく信じるようになった。
 フロイトやユングに傾倒していると、夢の内容を分析したり、夢には深層心理が現れていてどうたらこうたら、とウンチクを語ったりしたくなる。永田は何かを告げ知らせる夢を「予言夢」と呼んでいるが、この予言夢の内容は、永田の隠された本音であったり、あるいは物事に対する(無意識の)鋭い洞察であったりすると思っている。
 一方で、夢というものに一種の信仰心を抱いていることも確かだ。神様がいて、夢を通じて永田に真理を教えてくれる。こう考えることは自然である。
 そんなわけで、永田は最近の「チサト日和」にも夢のお告げがどうたらこうたら、と書いたりしているのであった。
 実は、以前このサイトに掲示板を設置しようと思ったのも、また、今般このように日記を再開したのも、夢のお告げによるのである。ここまでくると、もう夢のお告げに従って生きているとしかいえないだろう。そうはいっても、「予言夢」を見ることはめったにないのだが。
 齢をとると、もっと眠りが浅くなり、夢を頻繁に見るようになるかもしれない。その時、夢は永田に正しい方向を指し示してくれるであろうか?

 書評について考える。日曜日の新聞にはたいてい書評欄がある。そこには新刊書、新書、文庫などの書評が載せられ、読者の購買意欲をそそるものに一応なっている。
 書評とは、まず第一に一般読者に向けて書かれるものだ。そして、「読んでみたい」という気を起こさせなければならない。
 しかしここのところ、永田は書評欄を見て買いたいと思った本が全くない。つまり書評欄は永田に対して全く機能しておらず、ただ文字の羅列にすぎないわけだ。星の数ほど出版物はあるのに、永田の心を打つ本がないのはなぜだろうか。
 一つには、ベストセラーのたぐいを毛嫌いしているということがある。普段ろくに本を読まない人々が寄ってたかって購入し、ベストセラーへと押し上げられる本どもだ。実は永田のような者のために、近年のベストセラーばかりを集めて紹介した新書も出ているが、それすら手に取ろうとは思わない。
 もう一つ、現代文学に対する不信みたいなものがある。永田は先日吉田修一の本を何冊か読み、「これが現代の純文学か」と納得したことがあるが、もっと他の純文学を読みたいという気にはならなかった。なんたら賞とかの看板がついているだけで内容がスカスカだったり、作者の方が作品より目立っているような作品にはお目にかかりたくない。
 永田は大学の文芸サークルに所属して活発に活動していた頃があるが、その頃は読書自体はあまりしなかった。ものを書くことだけに集中し、それなりの支持を得ることもあった。その後は読書に熱中することになったが、最近は小説を読むことを基本的に時間の無駄だと考えているので、宗教関連とか萌え漫画とかに走ることが多い。
 個人のウェブサイトやブログには、アマゾン等のアフィリエイトが貼られることがある。ここにつけられるのは個人による書評である。できるならばその人のサイトを経由してアマゾン等で書籍を買ってもらいたいわけだ。そのために管理人は、その書籍がいかに素晴らしいかを記事の中で書き記すことになる。新聞の書評は、作者や関係者に読ませたいという意図も持っているが、アフィリエイトにおいてはとにかく「買ってくれ!」のメッセージしかないだろう。そういう書評は永田に嫌悪感をもよおす。
 永田は漫画の書評をしていたことがあるが、その時は誰に向けて書いていたのだろう。それはやはりサークル活動であって、サークルメムバー以外の人に向けては書いていなかった。そんな書評を読まされる人に対しては、お気の毒としか言いようがないが、学生の気楽な趣味ということで了知願いたいところである。
 そんな永田であるが、日曜日の新聞では書評欄を何よりも楽しみにしているのは確かだ。時には古い名作が紹介されることがあり、某社の古典文庫などにもお目にかかるが……「誤訳の博覧会」状態は何とかしてほしいものである。


6月10日

 永田は特定の宗教を信仰していない。しかし、例えば多感な高校時代などにそういう教育を受けたならば、その気になって入信していた可能性はある。
 先日、ちょっと高校の「倫理」の教科書を読み返してみた。人類の歴史における宗教・思想史が語られていたが、当然ながら特定の宗教に肩入れするものではない。いってみれば宗教学の立場から書かれている。それは宗教の比較・分類を事とする学問である。
 当時、大学に合格し、上京することになった。ある人から「オウム真理教みたいなのに入らないでよ」と釘を刺された記憶がある。永田はその人に、いかにも新興宗教に騙されそうな人間として映っていたのだろうか。それが素直とか純粋とかいう意味だったらいいのだが、むしろそうではなくて、一度思い込んだらとことんのめり込むタイプだったという方が正しい見方だろう。永田は高校時代を無我夢中で生きていた。その頃の夢中さは今では見る影もない。
 高校倫理は、特定の宗教を勧めない。それは政教分離の原則によるものかもしれないが、むしろ本当の理由は、優秀だけれど無我夢中でがむしゃらな生徒を、宗教にのめり込ませることを避けるためではないだろうか。
 三大宗教(キリスト教、仏教、イスラーム教)をはじめとする世界宗教を信仰することは悪くないし、日本人なら少しは仏教や神道の精神を持っている人が多いだろう。そうした宗教を信仰する精神を涵養することは、たぶん高校ではまだ早すぎる。大人になり、親しい人の死などを通じて、死後の世界や、絶対的な(神という)存在というものを思い描くようになれば、そこで初めて信仰の精神が生まれるといえるだろう。
 と、もっともらしく語ってみたが、これは永田のような(おおよそ)無宗教の人間の場合である。世の中には宗教を教える高校もあり、そこで初めて宗教に目覚めるという生徒もいるはずだ。そういう生徒たちの心理はよく分からない。若者らしいひたむきさが信仰を生むということは考えられる。……まあ、あまり現代の若者に対して「無我夢中」「ひたむき」というキー・ワードを使って語るべきなのかどうかは少々疑問が残るが。

 上記のことに関連?して、永田は以前「ツインテール教」という宗教を考えて、小説の形にしてみたことがある。このころは本当に宗教学の初歩の初歩を知っただけで、(ありがちなことだが)宗教学の権威にでもなったように思い込み、勢い込んで自分の趣味であるツインテール鑑賞を宗教と結びつけてしまったのである。このことを振り返って恥ずかしく思うが、小説の出来についてはそんなに不味かったとは思っていない。ただ、文学賞に応募して一次選考を通らなかったわけであって、小説としては致命的な欠陥を抱えていたのだといえる。
 ツインテールが好きであるということも、結局は先日述べた「萌え」と同じことだ。要するに性倒錯の一種である。フロイトの『精神分析入門』には、性倒錯の対象の一つとして「おさげ髪」が挙げられている。
 しかし、「なぜこんなにツインテールが好きなのだろう」という気持ちから「ツインテールの神が存在する」という考えに至るのは自然なプロセスかもしれない。デカルトは『方法序説』において神の存在証明を行ったが、そんな六ずかしいことをしなくても、永田のようにツインテールに萌えて、ツインテールの神様に何かを祈っていられれば幸せではなかろうか。永田は「ツインテール教入門」を書いた時、まだ若かったが、もう少し冷静になって宗教というものを見つめられるようになった今こそ、新たな「ツインテール教入門」を書けるのではないだろうか。


6月9日

 たまには電器店に行ってみるが、これといって欲しいものがない。
 最近新聞で知ったのが、耳栓式ヘッドフォンというものである。その名の通り、耳栓のように奥まで差し込んで使う。先日ビックカメラの店頭で試してみた。しかし本物の耳栓とは違ってすぐスポッと抜けてしまいそうな感じだった。音質は良いのかもしれないが、しょせんはMP3の音源であることを考えておかねばなるまい。
 また、ビジネスホテルで薄型液晶テレビを使用した。初めての地上デジタル視聴である。ハイビジョン放送はなかなか素晴らしかった。永田の自室にはテレビのアンテナ線を引いておらず、仮に32型液晶テレビを買ったとしてもテレビゲームの使用のみに限られる。まあ、Wiiのゲームをより高画質で楽しむことはできそうである。
 以前はもう少し頻繁に電器店に通っていた気がするが、最近は欲しいものを買いたいというより、余計なものを買ってしまうのではないかという心配が先に立ってしまう。それだけ物質的に満たされているというわけだ。
 テレビゲームも、プレション3を買う必要性は全く感じていないし、プレションの「くるみミラクル」とWiiの「弟切草」を繰り返しプレーして特に不足を感じていない。そういえば先日「風来のシレン3」がWiiで発売されたようだが、かつてシレンマニアを自称していた永田も今では見る影もない。
 ヤマダ電機の株式は先日から投資単位が10株に下がり買いやすくなったのだが、特に買いたいとは思わない。

 永田は昨年、勝手なランキングを作って、ヤングマガジンで連載された「天然華汁さやか」という漫画を1位に入れた。はっきり言うと下らない漫画なのだが、永田の好みである黒ハイソとか何とかを執拗に強調して描写していたのが気に入った。ストーリーは割とどうでもよかった。
 打ち切りという噂の「エム×ゼロ」であるが、最新第9巻の表紙ではミッチョンなどがメイド服を着ていてなかなか気に入った。そういえば、新聞やネットの一般向けニュースでは絶対に「メイド」と書かず「メード」と書いている。何かこだわりがあるのだろうか……
 永田は本当にメイドが好きなのだろうか。メイドの絵を描くと萌えるし、癒される。今から6年ほど前にメイド喫茶に一度きり入った時の記憶を大事に持っている。しかしメイドに「さん」を必ずつけるほどメイド好きというわけでもない。よく分からなくなってきたが、メイド好きにも派閥みたようなものがあるのかもしれない。
 コミケなどの即売会や、それに付随した創作からは遠ざかってしまった。だからといって評論家を気取ってみても、「鼻持ちならない奴だ」と思われるのが関の山である。漫画・イラストを描きたいけれども描けないという怨恨・痛憤が、人を評論家にする。それは19世紀に『ツァラトゥストラ』を書いたニーチェに通じるものがある。(『ツァラトゥストラ』についてはいろいろ弁じたいと思っているので、近いうちに再読してみたい)
 「永田」という者について書いている私も、実はそのような心理的過程を経て、永田についての評論をしているのかもしれない。


6月8日

 永田はT−SQUAREの最新アルバム「Wonderful Days」を買った。しばらくT−SQUAREの新譜からは遠ざかっていたが、先日新聞でこのCDの紹介記事を読み、なつかしい過去のメムバーも参加すると知って、ぜひ聴きたいと思った。
 九人のアーティストが参加している。ざっと聴いた印象では、T−SQUAREらしさというものをよく感じる。何度も聴くともっと好きになれそうな曲もありそうである。
 T−SQUAREは今年で結成30周年とのことである。フュージョン業界における栄枯盛衰はよく知らないが、特に時代や聴衆におもねるということもなく、自らの創りたい音楽を創ってきたように永田は感じる。また、これまでの数々の名曲を振り返ってみて、やはり安藤氏は天才だと思う。今回のアルバムでは氏は2曲しか書いていないが、また新たなアルバムで多くの曲を聴かせてほしいものである。

 永田は先日、本屋で挿絵に心惹かれて珍しくラノベを買った。これは「メグとセロン」というもので、略すと「メロン」となりそうな代物だ。一応、新しいシリーズとのことだが、それまでのシリーズに出ていた脇役キャラにスポットを当てるという、最近流行のスピン・オフ作品といえそうだ。
 さて、どこに心惹かれたかというと、まずはメグというキャラの髪型である。これはツインテールと呼ぶにふさわしいものだ。また、かわいらしい制服を着こなしており、白き脚は黒ハイソで覆われている。黒星氏はこれまでの挿絵とは少々雰囲気を変えて、永田のような者が好むかわいい顔を描くようになったようだ。
 また、2巻の表紙はジャージ姿である。永田はこの絵を見て「萌えジャージ」というジャンルが優に成立しうるものだと思った。元来ジャージは田舎の中学生が通学時に着用するものだ。昔は男が青で女が赤という分け方をしていた学校もあったが、今では差別を避けるためか、色を(青などに)統一している。
 それはともかく、2巻の表紙のジャージはオリジナルなデザインで、ジャージ特有の生地の質感が見事に表現されている。少女がこのようなジャージを見にまとい、腕まくりなどして運動に集中している姿を想像するととても萌えな感じである。
 肝心の小説部分は全く読んでいないけれど、読んでみてメグへの萌えがますます高まるのならばいずれ読んでみたいと思う。

 日記を書いてみて、自分の持っている話題の引き出しが予想以上に小さく狭いものであることを知った永田である。「萌え」「文学」「宗教」「フュージョン」というように、限られた話題の中でなんとか読んで面白いものをと画策している。
 先日は「萌えのイデア」なるものを考えついたのだが、あれは下らぬたわ言だった。萌えは、性欲が三次元女子に対して正しく向けられるのでなく、ちょっと違った方向に向いている、いわゆる性倒錯の一種ではないかと思うようになった。だから萌えの本質は性欲と大して違わない。だから、かわいい絵を見て萌えるのは当人にとって当たり前のことだ。萌えの源泉は性欲の源泉と同じであるから、男である以上それは基本的に無尽蔵であろう。
 詳しくはフロイトの『精神分析入門』を再読して確認してみるものとしたい。


6月3日

 永田は映像散歩のファンである。最近はNHK総合テレビにおける深夜の映像散歩枠がますます縮小され、人気の高い(と思われる)全国各地を映した番組がほとんど放映されていないようだ。
 しょせんは穴埋め番組であるし、今後同じような番組を新たにNHKが作る様子もみられないので、永田は過去の映像散歩の番組を録画したものを見たり、BGMを抜き出してカーステレオで聴いたりして一応満足している。
 永田は映像散歩のファンページを作り、自分で確認したわずかばかりの情報を掲載した。その後、同じ趣旨のサイトで永田のページよりずっと詳しいものがいくつも出てきたので、永田のページの役目はとりあえず終わったかなと思っている。ただ、一フュージョンファンとして、引き続き熱い想いを発信していければと思っている。

 永田の日常生活はきわめて地味である。ブログを毎日更新する人は(もちろん、内容も面白いものに限るが)すごいと思う。おそらくそういう人は、ブログのネタのために行動できる人なのであろう。
 永田も、やはり田舎にいるということで、行動範囲が広いようで狭いものである。日常業務が終わったら帰って酒を呑んだりWiiのゲームをやったりする。ある時は、このような決まりきった生活をしていては脳が腐ってしまうのではないかと思ったこともあるが、そんなに簡単に腐るものではなかった。ただ、仕事以外にも読書をするなどして脳を使うことは大事である。
 次に何を読もうか。『オデュッセイア』は下巻に突入した。他の読書は、小説を読んで時間をつぶすよりも、むしろ実用的な本を読んでみたいと思っている。そのための本を先般買ってきたのだ。さまざまな宗教を比較検討するための本である。これらの本や、『臨済録』『碧巌録』などの禅の公案集を楽しみながら読んでみたい。

 前から不思議に思っていることだが、絵に描かれた萌えキャラがいる一方で、ラノベの中に登場する萌えキャラがいる。ラノベ中の萌えキャラというものは、(挿絵プラス)文字を連ねる丈で作れるのだから、絵を描くよりもずっと楽チンである。
 永田のような者は、たとえ萌える挿絵がなくても、字を読むだけでその女キャラに萌えることが充分可能である。キャラのセリフは、無理に頭の中で(釘宮ヴォイスなどで)再生する必要はなく、ただ文を読んで萌えられるのだ。
 永田はそこに「『萌え』のイデア」なるものを考えついた。プラトンは様々な事物の理想形としてのイデアを考え、さらにそれらをまとめるものとしての「善のイデア」を提唱した。永田のいう「『萌え』のイデア」は、「それを参照することによって萌えることができる」もの、という意味である。それは観念的で抽象的なものであって、この手につかみ取ることはできない。
 イデア論についてはほんの初歩しか知らない永田であるが、彼は絵を見たり文を読んだりしている時に、無意識的にこの萌えのイデアなるものを参照し、ツンデレ萌え〜、ヤンデレ萌え〜と言っているのではあるまいか。
 萌えのイデアについては日を改めて考えてみたい。


6月2日

 永田は毎週律儀に録画している「東京マーケット情報」のBGMを聴きながらこれを書いている。
 もともと、東京マーケット情報のBGMになかなか良いものがあると誰かに教わったわけではない。ただ先般から株式情報に興味を持ち始め、その流れとしてBS1で放映されているこの番組をチェックするようになった。そうしているうちに、株価そのものよりもBGMに惹かれるようになったのだ。フュージョンやイージーリスニング系の音楽に興味を持つ者としては当然の結果といえた。
 現在はさすがに仕事があるのでリアルタイムで見ることはできないが、週に一度は必ず午前の部と午後の部を録画して(BGMは週替わりなので)、ビデオテープを介してパソコンに取り込んでいる。最近はあまり録画した内容をチェックしていないのだが、「映像散歩」と同じように、一定のスパンで同じ音楽を流しているようにも感じられ、何年も継続して録画することにちょっと疑問も持っている。

 それはそれとして、東京マーケット情報を知ったのは株に興味を持ち始めたからだと先に述べた。今では単に興味を持っている丈でなく、企業の株式も保有している。現在保有しているものを買ったのは昨年の秋ごろで、それからはサブプライム禍によって株価はガタ落ちであったが、最近やっと盛り返してきている。今月末には配当支払書も送られてくるだろう。
 どんな株式を持っているとか、いちいち語ることはしないが、現在はまだ元本割れした状態なので、何とか元本を回復してくれるよう祈るばかりである。

 ところで永田は少年ジャンプを全然読んでいないのだが、風の噂に「エム×ゼロ」という漫画が打ち切りになったと聞いた。永田はこの漫画の3巻だけを持っており、ミッチョンというあまり萌えない名前の萌えキャラが気になっていた。作者の叶氏の絵に永田は一時期(10年以上前)夢中になったことがあり、「プリティフェイス」の連載開始を喜んだりしたが、もし「エム×ゼロ」が打ち切りになったのだとしたら誠に遺憾なことだ。とはいっても、今の永田には少年漫画を(萌え抜きで)楽しむ心が欠けているので、どのみち彼を応援することはできなかった。
 どこかに注目すべき漫画はあるだろうか。今のブームは「ToHeartる」(覚え違い)なのだろうか……


6月1日

 武者小路実篤というと、まず『友情』や『愛と死』といった作品が思い浮かべられるが、その他にも『真理先生』、『空想先生』、『馬鹿一』などの一連の作品がある。これらは「山谷五兵衛もの」と呼ばれている。
 これらの作品では、山谷五兵衛という人物が登場し、作者(実篤)が彼に対し「何か面白い話はないか」と語りかけると、「うん、ある」といって語り始めるというパターンになっている。実篤は原稿の締切が迫った時、こういう形式にすると不思議とすらすら書けると語っている。
 まあ、実篤を真似したというわけでもないが、この私も「永田」という人物を設定して、彼の行動について書くようにすれば意外と長く続けられるかもしれない、と思った次第である……

 永田は休日なので本を読んでいた。先日、「本は10冊同時に読め」とかいう指南書を立ち読みしたことが思い出される。これはジャンルの全く違う本を代わる代わる読めという本だったと思う。そうすれば結果的に速く読めるとのことだ。
 永田は速読術についてもちょっと試したことがあるが、それは視線の動きを速くするとか、視野を広くするとかいう修行であった。結果的に、パッと見開き2ページを一瞬見ただけでインプットできるようになるらしい。
 しかしよく考えると、これはページを映像としてインプットしたにすぎず、それを思い起こして内容を把握するためには、結局普通に読むのと同じ時間を要してしまうだろう。馬鹿らしくて已めてしまった。
 「本は10冊――」についても、読みたい本が10冊もないのに無理して色々な本を揃えるのも阿呆らしい。趣味の読書なのだから自由にやりたいものだ。
 そう考えて今回選び出したのは、ホメロスの『オデュッセイア』と漱石の『道草』である。この二冊(再読)をちょっとずつ交互に読むことにした。
 ホメロスが特にブームになった時代というものを知らないが、近現代では聞いたことがない。まあ、長く読み継がれる古典であることに疑いはない。「翼ある言葉」とか、「葡萄酒色の海」とか、「飲食の欲を追い払う」とかの定型的な文句はなかなかカッコいいと思う。こういうフレーズが現代の小説で使われることは寡聞にして知らないが、ホメロスの影響を受けた現代作家というものもあまり聞かないものである。
 『道草』は漱石の自伝的小説である。まだ100ページぐらいまでしか読んでいないが退屈だ。『退屈』と題名を変更したいぐらい退屈だ。永田は一人で言って一人でウケてしまった。


5月31日

 永田は札幌へ行ってきた。目的は図書である。田舎の書店ではなかなか手に入らず目にすることもできない書籍を買うことによって、教養のレベルアップが図られると考えた。
 まあ、本当に教養が欲しいのならば放送大学へでも入ればいいのだが、そこまで学費をかけたいとも思わない。放送大学のテキストには素晴らしい内容のものが多い。個人で買って読む丈でも充分だろう。札幌の紀伊国屋書店には放送大学テキストのコーナーがある。北大生協書籍部には置いていなかった。
 あとは虎の穴で同人誌だ。表紙と内容見本とを見て、良さそうなものを慎重に選ぶ。最近話題になっている「東方」という言葉の意味は、店を探索してもよく分からなかった。まあ、別にいい……

 永田は理学を完全にあきらめた人間である。それだからというわけでもないが、文学系の学問にそこそこ広い関心を持っていると思っている。例えば「哲学・思想」というジャンルは、さらに「哲学」「宗教学」「芸術学」といった細かい分野に分かれている。しかしそれらの入門書を読んでみると、どこかつながりがあることに気づく。以前はどこがどうつながっているか考えてみもしなかったので、いくらか進歩したといえよう。
 仕事をしながら学問をしようとするとなかなか大変だ。家に帰ってからもずっとノン・アルコールの状態でいるのはけっこう厳しい。しかし夢を実現するためには何かを断つことも必要である……

 創作の真似事をするのもたまには楽しいものだ。結局、自分が楽しいように、やりたいようにやるのが一番である。
 しかし永田は、せっかくウェブという道具があるのに、これまでそれを充分に活用してこなかった。今までもこれからも、人の出入りの多い活発なウェブサイトを運営することは無理であろう。そうするための気持ちの余裕が足りない。
 自分の好きなように作品を作ると、読者はあまりついてこないようだ。また、読者層をよく把握できないので、読者側に合わせた作品をというのも六ずかしい。永田のウェブ日記は大学の半ばごろからほとんど「日記」でなく、週記や月記というものになっていき、内容も乏しくなっていった。結局、インターネットと関わり始めた初期のころは、物珍しさと、ものを発言したいという意欲があったので、スラスラと日記を書くことができたのだろう。また、読者の存在というものを今よりずっと有難く思っていた。カウンターが一つ、二つと回る丈で喜んでいたこともある。

 永田はこれから再び日記のような週記のようなものに取り掛かろうとしている。もしこの試みが挫折したなら、今度こそいさぎよく日記のコーナーを廃止し、既存の作品の公開のみとしたい。そんなことを宣言しても、どうせネット上のたわ言で、上書き保存してあっさりと消してしまえば「なかったこと」にできる。今度ばかりはそうならないように致したい。


4月20日

 だいぶ前に、「師匠と僕」という小文を書いて書庫に掲載しました。この文は、人気ニュースサイト「萌えミシュラン」の中で管理者が書いたコメントに触発されて書いたものです。そのコメントとは、萌え絵の道に通じた「師匠」と、サイト管理人の「僕」が短い問答をするものでした。その当時、私は禅問答に強い興味を持っていたので、「萌え絵道」と禅問答をからめてちょっとした話が作れないかと考えつき、文としてまとめたのでした。
 現在も私は萌え絵収集を続けており、ニュースサイト管理者の気持ちも多少分からないでもありません。私の小文は中途半端な終わり方をしていますが、続きを書こうとちょっと考えてみても結末が思いつかないので、やめにしておきます。
 「萌え絵道」でいうと、私はどのような経過をたどったのでしょうか。最初は猫耳や八重歯や頬の赤丸といった記号的な萌えに夢中でしたが、だんだん飽きてきて、もっとナチュラルな感じの女の子を求めるようになりました。しかししばらくするとまた猫耳が恋しくなるという具合でした。そうしているうちに、ナチュラルさもまた一つの萌え要素として捉えられるようになりました。全てを萌えの観点から見るようになったのです。このあたりの経緯は「師匠と僕」にも書いたので参照していただければと思います。
 さて、現在はどうでしょう。そんなに趣味が大きく変わったということはありません。ただ以前よりは萌え絵を見る目が厳しくなってきたようです。特定の絵師に対しても、飽きるのが早くなってきました。ハマり度が高いほど、飽きるのも早いようです。
 他にはこれといって書くことがありません。残念です。


3月23日

 週に一度くらいは制作状況などの報告をした方がいいかと思っていますが、肝心のネームがあまり進んでいないので書くことがありませんでした。
 締切を設定せずにマイペースでやっていると作業が延び延びになってしまうのは致し方ないところです。
 ところで、昨日までに『細雪』を読破しました。四姉妹の物語ということで、有名エロゲーを想起したりもしましたが全く関係はありませんでした。一読の価値はあると思いましたが、古くさいとか起伏がなくて退屈だとか思う方もいるかもしれません。
 あと変わったことといえばプレイステーション版の『街』を買ったことですね。サターン版は持っていますがサターン本体を出すのが面倒なのでプレション版を買うことにしました。このゲームから小ネタを拾い出してホームページに掲載していたころが懐かしいです。
 といっても、当時どんな日記を書いていたのか、記録は残っていないし覚えてもいません。しかし誰が読んでいるのかが割とよく分かっていたので、内容も自然とそちらに寄りかかるものになっていたのでしょう。現在のこのページは、正直誰が見てくれているのかよく分からないので、手探りで、不必要なことは書かないように(一応)神経を使っています。しかしそういう日記よりも過去の日記の方が読んで楽しく、刺激を受けるものだったことには疑いがありません。今のこのページは完全な独り言です。
 何となく口に出す独り言よりも、ページに書く独り言の方が、後から見返して考える材料にできるという点で優っています。私はこれからもウェブ上で独り言を言い続けるでしょう。独り言に飽きたら対話を求めるようになるでしょう。それがいつになるか、今は分かりません。


3月8日

 満を持して、「チサト日和」その14のネームに取りかかっています。前回の発表が昨年10月なので、ちょうど半年経った今年4月の発表を目指しています。
 ネームが終われば作品の半分はできたといってもいいでしょう。さらに下書きが終われば7割方完成です。そこまでもっていくのに結構エネルギーが必要です。
 少し前は、小説もどきを書いて発表していましたが、今度はやっぱり絵を描いてみたいということで、漫画を描いたりはてなようせいを描いたりしています。さらに以前にはエッチなイラストを練習しようと試みたこともありました。
 結局のところ、自分の身の丈に合った創作しかできないと知るべきでしょう。よそのサイトのようにハイレベルなイラストを量産することは不可能です。実に気まぐれな創作意欲しか持ち合わせていないので(といっても文章か絵かどちらかに限られますが)、時には無謀にも文章で生計を立てたいと思ったり、あるいは漫画で読者をうならせたいと思ったりします。
 ツインテールへの愛は変わりませんが、毎日イラストを描きたいと思うほどでもありません。頭部だけを描くなら簡単ですが、身体も描くことにするとポーズを考えなくてはならず、しかもそのポーズがポーズカタログや「やさしい人物画」に載っているようないかにもなポーズとか、そうでなければカカシのように前を向いて突っ立ったポーズになってしまうので、描く人間としても充分な満足を得られません。昔に比べれば目が肥えたということでしょうが、自分の技術もそれに伴って上達しなければ、ただ不満を生むだけです。
 とはいっても、先日のはてなようせいはけっこう楽しく描けましたし、結局はキャラクターへの愛情や萌えが大事なのかなという気もします。現在オタク界で人気があり、かつ自分でも萌えられそうなキャラクターを探してみるつもりです。


2008年1月1日

 あけましておめでとうございます。

 さっそくですが、先日「くるみミラクル」に関する情報をいただきました。CDをパソコンに入れ、とあるファイルをテキストエディタで開いてみると面白いよ、というものでした。実際にどのファイルを開くと良いのかは、くるみミラクルファンの皆さんの楽しみを奪わないように秘密にしておきます。
 そのファイルには、画面に表示されるテキストが全てきちんと読める形で収録されています。おまけにデバッグモードまで入っており、製作者のちょっとしたコメントも読めるようになっています。ファンにとっては垂涎の内容でした。
 そしてさらに、私がファンページで指摘した「髪が伸びる人形?」という幻のエピソードも、ちゃんとした形で存在しています。ただ、チラッと読んだ限りではあまり面白いイベントではなく、ゲーム自体には収録されなかったのも仕方ないかなと思いました。
 今年の年越しもやはり私は「くるみミラクル」をプレーしていました。すでに30のエンディングは見終わっているので、新しい発見はもうほとんどありませんが、私にとっては「弟切草」以上に末永く遊べるゲームです。

 このサイトのメインコンテンツといえる「チサト日和」の最新話を公開したのは昨年10月です。意外と日にちの経つのは遅いものだな、と思っています。次の「その14」でおとまり会をやることは決まっていますが、その次の話の内容は全く未定です。
 「その12」で行き詰まり、もう描けないかと思いましたが、幸いアイデアが出たので続きを描くことができました。「温めすぎた構想は腐る」という言葉を聞いたことがあります。これからはアイデアが出たらなるべく早く形にしていきたいです。
 それから、放置状態になっている「書庫」はしばらくそのままにしておきます。現在は小説などの文章を書く意欲がなく、社会生活の中でアイデアが見つかればまた少しずつ書いていけるでしょう。小説や漫画を読んでインプットすることも必要です。好きな漫画やノベルが現れれば、それを元に二次創作してファンの方と楽しみを共有できるでしょう。なるべくなら文章だけでなく漫画によっても二次創作していきたいものです。
 それでは、今年もよろしくお願いします。


12月10日

 今更と言うほどでもないと思いますが、iPod nano(第3世代、4GB)を買いました。音楽を持ち運びできる楽しみを味わっています。こないだ買ったアルバムや、東京マーケット情報の名曲を放り込んで楽しんでいます。
 以前の私は、mp3プレーヤーなんて欲しくないと思っていました。やはり音の質が悪いだろうと思っていたからです。しかし今は、少々音質が悪くても(そんなに悪いとも聞き取れないのですが)、たくさんの音楽を持ち運べることの方に意義があると思っています。4GBは小さい方のタイプですが、おそらく容量としてはこれで充分でしょう。名曲中の名曲を集めることにすれば、4GBでも充分お釣りが来ると思います。
 VHSビデオテープから落とし込んだ音楽はどうしても少しヒスノイズが交じってしまいます。早くDVDレコーダーを買いたいものです……


12月6日

 GONTITIのアルバム「Sunday Market」(1986年)を購入しました。このアルバムの3曲目「NOON FLIGHT」は映像散歩の「名古屋市周辺名所めぐり」の1曲目に流れる曲です。3分程度と短い曲であることが分かりましたが、特に新たな発見はありませんでした。
 GONTITIの初期のアルバムはレンタルショップでなかなか見つからないので、安いところを見計らって買ってみようと思っていました。このアルバムには他にも聴き覚えがある曲が何曲か入っていました。
 映像散歩の曲情報を提供するサイトは私のページよりも詳しいところが存在しますが、東京マーケット情報に関してはまだそんなサイトは存在していないようです。私は映像散歩の曲で好きなものの所在はほとんど突き止めましたが、東京マーケット情報はまだ未開拓です。かといって、NHKに電話をかけまくって曲名を教えてもらうのも迷惑でしょうし、厄介なところです。

 電脳コイルの最終回を見たらさっそく感想を書こうと思っていましたが、あの最終回はあまり好きにはなれませんでした。まあ、しっかりと地に足のついた、子供に見せるのに適切なアニメだなとは思いました。監督の脚本家として未熟なところが気になりました。一番笑えたのは「ダイチ、発毛ス」の回でした。
 アニメもお金を出してソフトを買うようにすれば、もっと真剣に何度も見られるのかもしれませんね。私は「ギャラクシーエンジェル」(1期)のDVDを買って、せっかくだからと30回ぐらい見ました。今ではその見た内容もあまり覚えていませんが、今さら中古で売っても安く買い叩かれるだけなので、時々は引っ張り出して見てみようと思います。


11月30日

 Acoustic AlchemyのCDが届いたので繰り返し聴いています。やはり「Road Dogs」が最高ですが、他にもバラエティに富んだ曲が揃っています。

 年末になると、その年に流行った商品を相撲の番付に見立てて紹介することが行われます。私は漫画とか特定の分野に限定した番付を作ることはできませんが、「今年(初めて)買ったもの、遊んだもの、見たもの」の番付を作ることは可能かなと思いました。
 項目の数は相撲の番付を元に作ります。横綱、張出横綱、大関、張出大関……とマニアックに作ってもきりがないのでやめますが、東と西で10項目ずつぐらいは作れるでしょう。
 作れるでしょう、と他人事のように言っていますが、実際20項目もの買い物や鑑賞をしていないのが現実です。では何をしているのかというと、例によって「くるみミラクル」を重箱の隅をつつくようにしてプレーしたり、バーチャルコンソールの「弟切草」などを飽きずにプレーしているのです。ケチケチ生活から生まれるのはお金と嫉妬心ぐらいしかありませんが、まだ今年は一ヶ月残っているので、番付を何とか埋められるようにしようと思います。


11月28日

 電脳コイルについて考察するページを始めたのはいいですが、すぐ行き詰まってしまいました。この作品がそれほど好きではないということでしょうか。先週の25話の終わり方を見て、このお話がどう決着するのかますます分からなくなりました。
 電脳コイルの各エピソードで、次のエピソードへと続く「引き」が上手いのは認めます。「引き」を上手にやられると、次の話も見たいという気にさせられます。この点では成功しているといえるでしょう。
 ですが、ただそれだけか、という感じもします。謎をたくさん散りばめておいて、伏線をろくに回収しようとしないアニメは他にもありました。
 まあ、謎を全て説明しようとすると時間もかかるし、セリフばかりの劇になってしまいます。それをやるよりは、見栄えの良さ、カッコ良さを重視した作りにした方が、気軽に楽しめていいのかもしれません。オートマトンがビームを発したり、古い空間が霧で表されていたりするのは分かりやすいです。
 この作品を最後まで見終わっても、得るものは何もないかもしれません。しかしそもそも何かためになるものを得ようとしてアニメを見るものでしょうか。これまで特にそういう態度をとってきたわけではありません。むしろ単純にキャラクターに萌えることが多かったようです。そうしていつしか、キャラクターに萌えることのみに関心が集中するようになりました。
 電脳コイルは、そういうキャラ萌えだけでなく、まじめに話を面白いと思って見るようになった久々のアニメです。しかしキャラクターの人間的魅力については(小学生ばかりということもあって)不足しているかもしれません。イサコに較べてヤサコの影が薄すぎるのも気になります。最終回ではヤサコがどういう人間として描かれるかに注目したいと思います。


11月26日

 日記を書き続けるのはなかなか六ずかしいものです。昨日は東京マーケット情報で流れたBGMを収集してエンドレスで聴き、至福の時を楽しんでいました。曲名は分かりませんがとびきり上等な曲も見つけました。しかし作曲者はなんとなくデイヴィッド・フォスターのような気がしました。スネアドラムの音やバスドラムのリズムに特徴があります。
 デイヴィッド・フォスターはキーボードプレイヤーなどでマルチに活躍している人で、カルガリー冬季五輪のテーマ曲「ウィンター・ゲームス」を作曲した人です。この曲はアルバム「タイム・パッシング」に収録されています。私はこの曲を地域のエレクトーンコンサートで知りました。ダイナミックなこの曲を聴いて非常に感動し、エレクトーンの講師に曲名を教えてもらい、すぐにCDを注文しました。
 この不滅の名曲を自分でも弾いてみましたが、サビの部分で一旦静かになってからの速いメロディーが六ずかしかったのを覚えています。
 私がこれは名曲だと思う曲の中で、映像散歩や東京マーケット情報で放送されたものはほとんどありません。唯一あるのは、カシオペアの「Private Sunday」です。まあ、既に知っている曲をテレビで流されても嬉しくないわけですが、テレビで初めて曲を聴いて気に入ったという人のためにこのサイトのファンページが役立ってくれれば幸いです。


11月25日

 昨日、「黒部峡谷の夏」のトップ曲について書きましたが、そのことについてさっそく情報をいただきました。ありがとうございます。
 「黒部峡谷の夏」のトップ曲はAcoustic Alchemyというバンドの「Against the Grain」というアルバムに入っている「Road Dogs」という曲だとのことです。さっそく検索して試聴してみると、間違いなくこの曲だということが判明したので、通販サイトでCDをさっそく注文しました。
 私はこの曲を映像散歩からCDに落としてカーステレオでよく聴いています。映像散歩(地方もの)の中でも特に名曲だと思っているこの曲の詳細が判明したことに感謝しています。
 web拍手のコメントに際しては今後もできるだけお返事を書くようにし、重要なことはサイトにも反映させていきますので、よろしくお願いします。

 ところで、電脳コイルの25話を見ました。イジメ関連のネタは軽く流されてしまったようです。今は、最終回が楽しみというよりは、終わるのがもったいないという心境です。


11月24日

 たまっていた電脳コイルと東京マーケット情報をキャプチャしながら見ました。
 東京マーケット情報のBGMは午前と午後で違っており、しかも毎週変わります。映像散歩に出るような明るいフュージョン系の曲が多いです。映像散歩では静かすぎて物足りないというフュージョンファンの人でも、けっこう楽しめる内容だと思います。
 先日は、映像散歩(地方もの)の中でも人気が高いと思われる「黒部峡谷の夏」のトップ曲が東京マーケット情報の二部で流れていました。映像散歩の方では曲の頭がカットされていましたが、こちらではちゃんと頭から流されていました。この曲の詳細はいまだ不明ですがいつか分かる時が来るでしょう。
 そして電脳コイルですが、設定を詰め込んであるわりにはけっこういい加減な所もある作品なのかなと思いました。しかし最終回を見るまで判断はできません。それまで、「覚え書き」のページに予想などをいろいろ書いてみようと思います。
 それにしても、VHSをいちいちキャプチャするのはだんだん面倒になってきました。懐具合によってはこの冬にDVDレコーダーを買うことにするかもしれません。


11月19日

 映像散歩のファンとしての活動を最近ほとんどしていません。このままファンページを放置し続けるのか……と思っていましたが、今般久々に「井の頭線の風景」がフルバージョンで放映されることになりました。これは録画の大チャンスです。特にこの番組は、最近映像散歩のファンになった方々にぜひともお勧めしたい番組です。
 今まではVHS3倍で録画したもので満足していました。どうせ古い映像だし、元々大した画質ではないだろうと思っていたからです。しかし今回S−VHS標準で録画したものを見てみると、そのきれいさに驚きました。もっと早くこの良さに気づいておけばよかったと思いました。(まあ、あまり画質にこだわるマニアになるとそれはそれで色々大変でしょうが……)
 これをきっかけに、全ての番組をS−VHSで保存しよう、という気になったわけではありません。大体、放送枠自体が非常に小さくなったため、物理的に無理です。自分の好きな「黒部峡谷の夏」や「名古屋市周辺名所めぐり」、「早春の南房総」あたりは高画質で保存しておきたいものですが……いつのことになるやら分かりません。しかしまだあきらめてはいません。
 近い将来、ハイビジョンを録画できるレコーダーや、ハイビジョン薄型テレビを購入する日が来るでしょう。そうした素晴らしい設備を用いて、映像散歩の番組を心行くまで楽しめる、そんな日が来ることを夢見ています。


10月14日

 今更な話ですが、「ことり文字ふぉんと」の配布が停止されていたんですね。このフリーフォントには昔からお世話になり続けています。かわいい字を自分の手で書けないので、このフォントがとても頼りになりました。(ページ上方のロゴもこのフォントで作りました)

 それはそうと、「初音ミク」の出るショート漫画を描けないかどうか悩んでいます。とりあえずオフィシャル絵を見ながら真似して絵を一枚描いてみましたが、漫画のアイデアが出てきません。しばらくはネタ出しに力を尽くそうと思います。


(クリックで大きくなります)


10月8日

 「チサト日和」その13が完成しました!

 実質的な作業期間は2週間とちょっとですね。私の場合、ネームにとりかかるまでの構想の期間がちょっと長すぎるようです。次からはもっとペースを上げていきたいです。

 「チサト日和」を私の中核的作品と考えていますが、例えば「フックオフ」の続きを読みたいとか、とにかくツインテールキャラが出る漫画が読みたいとかのご希望があれば、web拍手のコメント等でお知らせください。検討致します(web拍手のコメントは全角50字まで送れるようにしました)。もちろん、今回の「その13」の感想もお待ちしています。


2月15日

 おわったー…ほえー


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