||  夏雨

 暦の上では残暑の割にそう呼ぶのはまだ程遠い猛暑の中、薔薇の館で唯一の涼である湿気の含んだ重たい風はまるでサロンに入り込むのを拒んでいるかのようにカーテンを孕ませる。加えて存在感のある入道雲の淵に心持ちその身を隠した太陽が照らす日差しのお陰でうだるような暑さに見舞われ、つぅっと汗が伝ってくるほどの熱がこの部屋には篭っていた。
 暑い、と口にしてしまえばよりそれが増してしまいそうな気がして麦茶とともに何度も喉の奥へと飲み込む。何より目の前にいる志摩子さんが同じ部屋にいるにも関わらず常に涼しげだから暑いのはきっと私だけなんだと思うと言うに言えなかったりして。
 表情一つ変えないで、なんであんなに涼しそうなんだろう。
 そんな疑問を浮かべながら様子を窺っているとちょうど顔を上げた志摩子さんと目があった。

「この暑さじゃ捗らないし、そろそろ切り上げましょうか」

 書類の上を走らせていたシャープペンシルを置きながらそう言う志摩子さんの視線は、明らか私の前に山積みにされた書類を捉えていた。ほぼ同じ枚数で同じ時間を掛けて作業した割に一向に減らない私の分と、一方で残すところあと数枚となった志摩子さんの分。これはもうあれだ、遠回しにやる気がないなら帰りなさいと言われているようなものだ。

「ご、ごめん、私ぼーっとしてて……」
「ううん、私も暑くて集中力が続かないから。こんな日は早めに切り上げる方がいいと思うの」

 綿飴みたいに微笑んで、促すように目の前の書類を仕舞い始める。その口ぶりとは裏腹に実際仕事は順調に片付いているわけだからどう考えても私に気を遣ってくれているとしか思えないのだけれど、そんなさり気ない優しさはこういう状況だと喜ぶべきなのかそうでないのか判断が難しい。

「それにほら、耳を澄ましてみて? 何か聴こえない?」
「…………蝉の鳴き声」

 言われた通りに耳を澄ませば五月蝿いほどの蝉時雨。耳を澄ませなくとも聴こえていたけど、それだけに集中して聞いていると余計に暑さが増したような鬱陶しい感覚に囚われる。

「違うわ、蝉じゃなくてもっと奥。目を瞑って、意識を音にだけ集中させるの」

 そう言って瞳を閉じる志摩子さんにつられて私も同じように視界をゼロにした。
 静まり返る部屋、志摩子さんの息遣い、私の鼓動、蝉時雨。そのもっと奥が一体どの辺なのだろうと意識の中で彷徨って、まだ聴こえぬ音の気配を探る。
 マリア様の像、銀杏並木、正門――

「あ」

 そこへ来てようやく別の音が耳へと介入してきた。神経を研ぎ澄まさなければ聴こえないほどの、そう、まるでコンクリートの上を滑るスケートボードのような鈍く、重く地面を擦る音。

「ね、聴こえるでしょう?」
「うん、聴こえた。これなんて言うんだっけ?」
「遠雷。夕立が来る前に帰りましょう」

 夕立。志摩子さんがそう告げた途端、空が急に泣き出しそうに暗くなったような気がした。窓から入り込むのは皮膚が震えざわめき立つような風。あれほどまでに騒がしかった蝉時雨はいつの間にか止んで、雨を予感させるようにひっそりと静まり返っている。
 夏の天気は乙女心以上に移り気だ。少しでも機嫌を損ねるとすぐに泣き出してしまう。
 テーブルの上の書類を片付けてから志摩子さんと手分けして戸締り、流し台の後片付けに掛かる。今日は私たちしかいないからさほど時間は掛からず、志摩子さんが帰りましょうと口にしてからものの五分程度で薔薇の館を後にした。
 空を仰ぐ。純白の雲は迫り来る灰色の影に襲われてもはやその姿を捉えることすら出来ない。遠雷とは呼べないほどに近くで唸る雷は、もう間もなく癇癪を起こすぞと空がぐずっているような感覚。

「少し急いだ方がいいかもしれないわね」

 いつもはゆったりと歩く志摩子さんの歩調が心持ち速くなって、追いかけるように私も歩調を速めた。視界に移る空に夏空を映えさせる入道雲はもう見当たらない。代わりにあるのは分厚く、濁った色の積乱雲。
 やがてマリア様の像の前へと辿り着き、スルーするかと思いきやいつもと変わらずお祈りし始める志摩子さん。本当に敬虔なクリスチャンなんだな。つられて立ち止まり、マリア様に祈りを捧げる。といってもただ手を合わせるぐらいだから志摩子さんほど時間を掛けるわけでもないんだけれど。

「今、滴が落ちてきた気がする。乃梨子は先に行って? すぐに追いかけるから」

 志摩子さんの言うように髪に雨粒が落ちるのを感じ、周囲を見渡すとアスファルトの上に次々と雨の跡が出来ていった。次第に粒は肥大しその数も増すと、深い濃紺の制服も染みを作り始め、雨の重さを感じるようになった。

「いいよ、待ってるから。気にせずいつも通りお祈り続けて」
「でも雨脚が……」
「だーかーらー、気にしないでって。本人がいいって言ってるんだし」
「だけど風邪でも引いたら……」
「それは志摩子さんも一緒でしょ? ほら、こんなやりとりしてるうちにどんどん雨強くなっ――」

 ゴロゴロゴロ、ピカッ、ドゴンッ。
 音にするならそれらが適当な雷は近くに落ちたのか光を放ってから音を立てるまでにそう時間は掛からなかった。それを合図に湿った空がとうとう堰を切ったように雨を降らせ始め、思いのほか激しい降りに、薄い制服も髪も、たちまち濡れて重みを増す。

「っ乃梨子、こっち!」
「う、わ……っ」

 呆然と立ち尽くす私の手を取って志摩子さんは走り出す。並木道とは反対の方向、薔薇の館とも言えない所へ。
 一体どこへ向かっているのだろう。
 躓きそうになりながら行き先を考えていると、目の前に見えてきたのは古びた温室。志摩子さんは言葉なく走り続け、その温室の中へと身を投げ込むように飛び込んだ。

 

◇   ◇   ◇

 

「まいったな……当分止みそうにないね」

 吐き出した息とともに呟いて、空を見上げる。
 厚く重い鼠色の雲はまだこの場所を動く様子はない。単なる一過性の夕立にしか過ぎないと思っていたけど本降りだとするとちょっと困って、大分嬉しい。
 理由は極々単純。志摩子さんと二人きりでいられるから。薔薇の館以上に閉鎖された空間で、しかも肩が触れ合うほどの密着した距離。志摩子さんの息遣いがすぐ傍にあって、時折悩ましげに吐き出される色っぽい吐息に心臓のポンプは流れの速い血を循環させるのに壊れてしまうのではないかというぐらい必死に活動している。この鼓動が志摩子さんに届いていないか、それだけが心配だった。

「私がぐずぐずしていたから……ごめんなさい」
「だから私が好きで待つって言ったんだから志摩子さんは悪くないって」

 台詞は違うものの、ごめんなさいという単語を聞くのは温室へ入ってからもう三度目だ。よっぽどの罪悪感に苛(さいな)まれているのか、しおらしく肩を落とす志摩子さんの表情は切なげに、そして、今すぐにでも泣き出してしまいそうな、そんな感じだった。
 見続けていると何だか理性が失われそうで視線を宙に泳がせていると、ふと柔らかい布の感触が頬や首筋に触れた。

「気休めにしかならないけど」

 柔らかい感触の先にあるのは志摩子さんの手。それを辿っていくとすぐ肩先が見えて、随分と近くに志摩子さんの顔があった。何の条件反射か思わず身を引くと、志摩子さんはさらに詰め寄って今度は逃げられないように肩を掴んでくる。

「しま、志摩子さんっ」

 ――近い。近すぎる。思わず声が上擦ってしまうぐらいこの距離は危険なものだった。

「大人しくしていて。濡れたままだと風邪引いちゃうでしょう」

 まるで幼い子供に言い聞かせるように志摩子さんは言って、濡れ鼠な私をポケットの中から取り出したハンカチで丁寧に拭いていく。めっ、なんて顔されたら黙って言うことを聞く以外の選択肢などない。
 髪の毛先から滴り落ちる雫に始まり、顔、首元と徐々に降下してやがて鎖骨に。ハンカチ越しに感じる、ほんのわずかに冷えた手。肌に触れられた瞬間、くすぐったいのもあったけれどゾクっとする感覚と体に熱が篭ったような気がして、不覚にも小さく声を漏らしながら身を捩った。

「あ……くすぐったかった?」
「や、うん、ありがと、もう平気だから……あーほら、志摩子さんも拭かなきゃ! 私が拭こうか? なぁんて…………」

 言葉にした三秒後には吹き荒れる後悔の大嵐。
 アホか私。自ら地雷を踏んでどうする。こんなにもやもやとした気持ちを抱えて志摩子さんに触れた日にはリリアンかわら版に素っ破抜かれる事件を起こしてしまうと決まっているというのに。
 私の内情など露知らず、「じゃあお願いしようかしら」と無垢な笑顔を浮かべてハンカチを差し出してくる志摩子さん。
 もしかして誘ってる? 私のこと誘っちゃってますか?
 沸騰しかけている頭でそんな自問自答を繰り返しながらハンカチを受け取り、その際一瞬だけ触れた手に心拍数は急上昇。心臓が道路工事でもしてるのではないかというぐらいに我鳴りたって、ハンカチを持つ手もにわか震えているような気さえする。
 好きな人に触れるのだからドキドキするのは当たり前。
 そんな都合のいい自分的解釈で心を落ち着かせて、志摩子さんの肩にそっと手を掛けた。

(あー、でもこれってなんかキスの体勢みたい……)

 ――常々思う。私ってアホかもしれない。

「い、痛くない志摩子さん?」
「痛い……? ううん、くすぐったいけど、すごく気持ちいいわ」

 なんて支離滅裂なことを言うのだと一寸思ったけれど、気持ちいいと頬をふにゃっと緩ませる志摩子さんを見ていると何だかもう自分が変態でもいいと思えてきた。否、寧ろ変態。断定したっていい。
 雨に濡れても柔らかくて指通りのいい亜麻色の髪からはほんのりとシャンプーの香りがして私の鼻腔を擽(くすぐ)る。それだけでくらくらするのに、透き通るような白い肌をドサクサ紛れに触ってしまって体の芯が疼いて仕方がない。
 思えばこんな場所で雨を凌ぐ機会は滅多にないもの。気持ちが昂ぶるのも無理はない。けれどそれを悟られないようにするのはなかなか困難で、先ほどから嫌な汗が背中を伝っていた。志摩子さんの妹で居続けるためには、この感情はひた隠しにしなければならないから。

「ありがとう乃梨子、もういいわ。……それとね、実はもう一つお願いがあるの」

 言うなり志摩子さんは突然私の肩口に頭を預けて瞳を閉じた。
 少しでいいから肩、貸して、と語尾はほとんど聞き取れないような声で、まるで独り言を呟くように言ったのち、すぐさま気持ち良さそうな寝息が耳に届く。

「志摩子さん?」

 呼びかけに応答することなく等間隔に繰り返される呼吸。間違いない、志摩子さんは本気で寝入っている。
 まるで試練のようなシチュエーションじゃないか。この状況で何もするなというのはある意味拷問に近い。私はきっと試されているのだ、恐らく、マリア様辺りに。

「志摩子さん。しーまーこさん」
「…………」
「……狸寝入りしてるんならちゅーしちゃうよ?」
「…………」

 返答がないのをいいことにプリーツの上に放り出された志摩子さんの左手に自分の右手を重ねてきゅっと握ってみた。細くて、それでいて丸みのある綺麗な指を絡み取るだけで、体温を感じた私の心は切ないほどに締まってゆく。

「罪な人だなぁ志摩子さんは……」

 科白を呟きながら浮かぶは苦笑い。こんなに無防備な寝顔を晒して、でも私はそれを見つめることしか出来なくて。見つめているだけでも込み上げてくる衝動を抑えるのに必死だった。
 シュワシュワ、とまるで縁日で味わった、口の中で弾け飛ぶラムネのような淡い痛み。眠っているから手を出しても大丈夫、眠っている人に手を出すなんて最低、と頭の中で喧しいほどに対峙する天使と悪魔。一度抱き締めたい衝動に駆られるとどうしようもなくて、先程から手持ち無沙汰な左手が志摩子さんに触れようとしては離れ、落ち着かない様子を丸出しに燻(くすぶ)っている。
 もちろん落ち着いていない真の核は私の心。志摩子さんの手を握った瞬間から込み上げた衝動を抑え込もうとする気持ちと、先のことなどまるで考えていない解放の気持ちが激しく衝突し合って心の中で騒ぎ立てる。

「……りこ……」
「っ……」

 唐突に名前を呼ばれて慌てて右手を離す。様子を窺うように覗き込むと、変わらず聴こえる志摩子さんの寝息。なんだ、寝言だったのか……一体どんな夢を見ているのだろう。でもその夢の中に私が登場しているというだけで何だか嬉しい気分になった。
 私が肩を動かしたせいか志摩子さんの頬には髪の毛が張り付いていて、起こさないよう細心の注意を払ってそれをどけてやる。寝ているからなのか、先程よりも体温の高い志摩子さんに触れるとまたあの衝動がぶり返してきた。
 こんなにも傍にいるのに、私はただ貴方を見つめることしか出来ないなんて。

「結構ツライなぁこれ……」

 自嘲気味に言葉を吐いて、志摩子さんの髪に顔を埋める。
 シャンプーと、雨と、ほんの少しの汗の匂いと。ああ、夏の匂いがする。
 ぐらりとする感覚とともに顔を上げ、前髪の奥にある額へ、ほんの一瞬のバードキスを落とす。これぐらいなら、まだ、マリア様はお許しになるだろうか。
 短く声を上げた志摩子さんは、それでもまだ起きそうになく、相変わらずの寝顔を浮かべたまま。

 ――今はまだ、この寝顔を見つめていられるだけでもよしとしようか。
 そう無理矢理納得して、空を仰ぐ。

 突然降り出した夏雨(なつさめ)は、まだ、止みそうになかった。

 

 

 

あとがき

乃梨子ってどんなキャラだっけと思いながら書くとなぜか佐藤のような感じに……;
企画作品を抜くとのりしま処女作ということになります。
たとえ「これのどこがのりしまやねん!」と思ってもそれを考慮して頂ければ有難く(汗
書き慣れているキャラと違って勝手に走り出してくれないのがいけずな乃梨子さん。
勝手に変態にしてごめんなさい。佐藤と一緒にしてごめんなさい。
そんなわけで、拍手でリクエストを下さったetrangerさんに捧げます。
期待させた割に期待外れな作品ですいませ!!(脱兎)

2006.08.26