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気仙坂

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新型インフルは人類への警鐘
☆★☆★2009年04月30日付

 弱り目にたたり目とはこのことだろう。世界同時不況の次に世界を襲ったのが豚インフルエンザ。すでに発生元とされるメキシコでは百五十人の死者を出し、犠牲者はさらに各国に広がりそうだ。
 このインフルエンザは変異し、新型インフルエンザとなったことが発表された。世界保健機関(WHO)は、世界レベルの警戒水準(フェーズ)を3から4に引き上げた。これは世界的大流行(パンデミック)への移行を懸念してのことである。
 パンデミックは世界的流行病をも意味し、文字通り二十一世紀の一大流行病となる可能性を示唆している。日本ではまだ一件の発症例も報告されていないので対岸の火事視している面がなきにしもあらずだが、世界の隅々まで邦人旅行者が足を延ばしている現状から推して「外務省や現地大使館の報告によると日本人の感染者はまだ確認されておりません」などとノホホンを決め込んでいる場合ではなかろうと思う。なにせこの時期常夏、常春の国々に「避寒」する旅行者は多いからである。
 新型インフルエンザの発生は、現代に対する警鐘であろうと考える。話はそれるが、わが国の衛生状態は、極めてという表現が思い上がりだとしたら比較的良い方で、これは伝統的にきれい好きの民族であることによるものだろう。
 江戸後期日本を訪れた外国人は例外なく日本人が清潔な生活を送っていることに驚いている。住まいは決して立派ではないが、しかし家の中も通りもきれいに保たれ、人々も風呂や行水を好み服装も小ざっぱりとしていて、少なくとも衛生面で不快な思いをすることがないと絶賛している。
 つい近年まで地方は水洗便所など普及しておらず、どの家も汲み取り式だったが、それでも便所は毎日のように拭き清められ少なくとも「御不浄」(便所の呼び方)というイメージはなかった。その伝統は現在にも及び、公衆トイレのきれいなこと(例外はあるが)は、当地を訪れた米国人が「信じられない」と驚いていたほどだ。
 このように清潔さを好む民族が当然と考える衛生思想がどの国にも普及していると思ったら大間違いなのは、テレビなどで紹介される途上国の様子からも大方が理解済みであろう。
 水道はおろか、飲料水の確保さえままならず、ボウフラの湧くような川や沼の水を飲む以外にないような国々において、清潔さを保つなど期すべくもなく、病原菌を自然に培養するような劣悪な環境下に置かれていることは周知の通りである。
 だが、このような国々に対する先進国のインフラ整備支援は遅々として進んでいない。作家の曾野綾子さんがアフリカの実情について書いている報告を読むと、医療、衛生、生活その他の現実は想像を絶するというより絶望的ですらあるという。先進国が日々の豊かな生活を享受している一方で、このような「化外の地」(見捨てられた土地)が厳然として存在し、それは新たな病原菌の発生を促す可能性が極めて高い。にもかかわらず、他人事として救援の手は差し延べられずにきた。
 新型インフルエンザはメキシコが「震源地」とされるのも、この国が決して経済的に恵まれずその結果、非衛生的な一面を残していることも発生と無縁ではなかろう。いまパンデミックに発展しそうな感染の拡大は、豊かな国々が負うべき世界的な環境の整備を積み残してきたツケが回されたと考えるべきであり、人命を疫病から守るためには、以前はやったコマーシャルではないが「元を断たねばダメ」なのであることを強く促された思いがする。
 日本上陸を水際で阻止することはむろん大事だが、この問題をそれだけにとどめ、矮小化してしまってはさらなる「新型」の登場を食い止めることもできまい。「自国だけ安全ならいい」という「我利」主義に対する大きな警鐘、警告が発せられたと自覚する時だろう。(英)

いつも心に感動を
☆★☆★2009年04月29日付

 今月頭、ある葬儀のために私の親族が気仙を訪れた。愛知、静岡から車で片道十二時間の旅。しかもETCの付いていない車で、というから高速料金割引もなく、ただただ周りが心配をしてしまうばかり。
 せっかくそれだけ時間をかけてきたのだからと葬儀の合間をぬって弊社に立ち寄った後、比較的近場の碁石岬を案内した。葬儀に来ておいて観光もないだろうという思いもあって、浮かない気持ちで末崎町内を車に揺られていると、車内では海が見えるたびに感嘆の声の嵐。
 極めつけは碁石に到着してからで、急峻な崖の下に立ち並ぶ奇岩の数々と荒波、そして目いっぱいに広がる水平線に「こんないいところに住んでるなんてずるい」といわれのない非難まで聞こえる始末。気仙をこよなく愛した故人がいいところを存分に見せるべく粋な計らいをしてくれたようで、雲一つない青空がそうはお目にかかれないほどの美しい海を演出していたのだが、それにしても来訪者たちのあまりの感動ぶりにこちらが呆気に取られてしまった。
 地元に住んでいる手前、「なるほど、外から来た人にしたらそんなもんかね」などと偉そうにうそぶきつつ、はっと気付かされることがあった。自分も当地で二年しか暮らしていないが、来た当初の新鮮に感動できる気持ちが薄れてしまっていたのだ。
 自分で語るのも何だが、「食器を洗っておけ」などの家庭内指令健忘癖は例外として、細かな日常の物事に関してのもの覚えは比較的いい方だと自負している。しかしながら肝心なこと、手痛い失敗の反省や悔しかった思いはすぐに記憶の彼方へ押しやられ、同じ過ちを繰り返す。その学習能力のなさが仇となって今日の未熟者が完成しているのだが、今回もまた大事なことを忘れてしまっていた。
 こちらに来てすぐのころ、先輩記者が「町おこしには『若者』『馬鹿者』『よそ者』が必要」との有名な言葉を添えて、外からの視点で気仙に評価を与える重要性を教えてくれた。気仙の発展のために外来者の自分が少しでも貢献できると気付き、使命感に燃えていたのはいまや昔。豊富な海の幸、山の幸に毎晩舌鼓を打っているうちに、心から骨抜きにされてしまったようだ。
 この二年間だけを振り返ってみても、今までの人生ではまったく得難い経験を気仙に味わわせてもらっている。盛漁期に魚市場へ行けばこれでもかというほど多種多様の魚が水揚げされ、海の奥深さを思い知らされた。交通事故発生と聞き夜中に住田町の奥まで駆けつければ、田園一面から聞こえる虫たちの大合唱と上空を埋める星々の瞬きにただただ圧倒され、本来の用向きを忘れるほど。食材の豊かさは言うに及ばずで、運動不足もあいまって体脂肪は都会暮らし時の倍と、メタボ化も進行中というオマケまでついた。
 そうした新鮮な驚き、感動を地元内外の人に伝え、逆にそのセールスポイントをさらに引き立たせてもらえるよう進言するのが我々の使命だったと、今回の件で再認識させられたのだった。
 だが、当地に馴染み、当地の人に半人前だけなり切ったことで、強く幸せを実感できたことが一つある。それは長い冬を越えた後にやってくる春の素晴らしさだ。
 雪の降る曇り空やシケで荒れた海といった、暗いイメージがつきまとう東北の冬。それだけに木々が芽吹き一斉に花が咲き誇る春の色鮮やかさは、モノクロテレビを一気にハイビジョンフルカラーに買い換えたような趣がある。
 不況で東北、本県の経済も「急速に悪化」と下方修正が進む。しかしこの冬の時代も、乗り越えた後に迎える春の喜びを知っている東北人だからこそじっと我慢し、土中深くへと根を伸ばす努力を続けることができるはずだ。
 そしていつかはわが社にも、冬のモノクロを経てカラーあふれる春の紙面℃梠繧ェ到来し、読者の皆さんにもっと喜んでもらえるようになったら、と会社の片隅で一人ひそかに夢見ているのであった。(織)

二つの歌といくつかの別れ
☆★☆★2009年04月28日付

 桜って奴は、いくらなんでも忙しなさすぎやしないか。もっとゆっくりしていけばいいのに、ようやく来たかと思ったら、すぐ北へと過ぎ去ってしまった。
 などと、ぶつぶつ言いながら、思わず溜息をつく。ここのところ、親しい人たちとの別れが続いたのでナーバスになっているのだ。
 機知の仲間が四月に東京へ転勤し、五月にはまた別の知人も異動で大船渡を去ることになった。勤務先も年齢も育った環境も異なるのだが、何かにつけては飲み歩き、下らない話で夜更かしをした「悪友」である。
 この年になっても共に悪ふざけができる(とは言え、さすがに公園で全裸になったりはしない)彼らは、私にとって貴重な存在だった。最初から「いつかいなくなる」とは分かっていたけれども、やはり友達になれて良かったと思う。
 それにしても、なぜ別れの季節は春と相場が決まっているのだろう。別れは双方にとって寂しさを伴うものだが、見送る側の寂寥感と言ったらこの上ない。春の風景が輝いて美しい分、心の中とのコントラストが際立つではないか。
 自分は定点に留まっていて、過ぎ行く人々を見ているだけしかできないというのは、なかなかにつらい。ずっと同じ場所に立っている木のようなものだ、と思う。
 時にはその下に憩いを求めて人がやってくることはあっても、ひとたび汽車に乗ってしまえば、旅人にとって木などは流れる景色の一つでしかない。去っていった側は新しい土地での生活に追われ、すぐに木のことは忘れてしまうだろう。
 そう考えると胸がスースー空虚な音を立てる。一人だけ置き去りにされたような理不尽な気持ち。この地に骨を埋める覚悟でいる以上、私はおそらくこれから先も見送る側にしかなれない。桜が散るのを見るにつけ、胸のざわつきは強くなる一方だった。
 在原業平はかつて「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集)と歌った。業平…美男だっただけでなく、なんとうまいことを言う男だろう。人を焦らせ、もやもやと落ち着かない気分にさせる桜とは、吾から罪な存在だったのだなあ。
 その心ざわめく桜の季節、祖父との永遠の別れも訪れた。いまわの際には立ち会えたのだが、死ぬ当日の昼まで元気だったため、まったくの寝耳に水。医師が臨終を告げたときも、何より先に「まだ早すぎる!」と思った。
 九十二歳の人を前に思うことではないのだが、私にとってはあまりにも早い死だった。百まで生きてもまだ足りないような人だと考えていたのだ。
 周りからは「大往生だった」「最期まで潔かった」と言葉をかけてもらってありがたかったし、本人が最期に何か言えたのだとしたら、「わが人生に悔いなし」と呟いたことと思う。しかし、私のほうには悔いが強く残ってしまった。祖父のためにできなかったこと、しなかったことばかりが頭に浮かんだ。
 魂がもうそこにはない体を前に、「なんとか生き返らないかな」とひたすら願ってみたり、いつまでもメソメソしたりしていたので、それが往生際悪く映ったのだろう。父からは「こんないい季節に、あれだけ見事に逝ってくれたんだ。むやみに悲しんでその死を台無しにするんじゃない」と諭された。
 最初は「そんなこと言ったって悲しいものは悲しいんだよ」と心の中で逆ギレしていたが、やっと気持ちが落ち着いた今、あれは実に天晴れな死だったのだなと思えるようになってきた。
 改めて見ると、「天晴れ」というのは、なんとも良い字を書くことだ。祖父は文字通り、よく晴れた春の日に逝った。
 ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ(「山家集」西行法師)
 お世話になっている知り合いが、この歌を教えてくれた。常日頃、「ぽっくりと、明るく死にたい」と言っていた祖父の顔が浮かび、思わず泣けた。これから毎年、この花咲く季節に祖父のことを思い出せるのなら、それはとても幸せなことなのかもしれない。
 春に別れがあるのは、残された者がそれを思い出すとき、一緒にその風の暖かさや花の美しさまで感じられるように、と誰かが計らってくれたんじゃないだろうか。
 なんて、柄にもなく思ったりしたのだった。(里)

黄金の歴史を後世に
☆★☆★2009年04月26日付

 「ローマは一日にして成らず」と言われる。国や地域の振興には、時にはカンフル剤的戦術も必要だがそれには限界があり、やはり長期戦略が欠かせない。
 アメリカやシンガポールはカネの力で世界中から有能な研究者を集め、カナダやオーストラリアは自国にない技術を持つ人材を招いて国勢伸張を図ってきた。
 では日本の国策はとなれば、やはり「貿易立国」となるだろう。資源がないにもかかわらず、加工技術の先端性で世界に冠たる経済大国にのし上がった。だが、そこに落とし穴がある。
 自動車や電化製品などを輸出する見返りに、貿易相手国からは農林水産品の輸入を要求される。で、どうなったかと言えば、牛肉・オレンジの輸入解禁に代表されるように安い外国産品があふれ、一次産業を基幹とする地域が大打撃を受けた。
 農山漁村地域に頼る自治体は、いずこも基幹産業の衰退による人口減が進行。人口が少ないと投資効果も少なく、公共投資が進まない。投資がなくて産業基盤が整備されないと企業進出もなく、雇用の場が確保されない。雇用の場がないと若者は故郷を離れ、人口減が進む…という悪循環に陥った。
 中山間地に位置する気仙地方も、その例外ではない。現在、人口層が厚いのは五十代から七十代にかけて。この年代層が平均寿命に達する三十年後、気仙の人口は40%近い落ち込みとなる。
 気仙の通勤圏として頼みとする周辺諸都市はさらに厳しく釜石、遠野、気仙沼の各市は、41〜51%もの大幅な人口減が予想されている。周辺都市の落ち込みは気仙経済にもハネ返る。こうした三十年後の圏域人口半減を見据えて、今のうちから長期戦略での備えを始めなければならない。
 戦後気仙のピーク時で、年間の出生数は約三千人もあった。ところが近年は四百五十人を切る年が続いているだけに、ピーク時のわずか15%しか子どもが生まれない超少子化≠ェ現実となっている。
 後に続くべき若者世代の絶対数が少ないだけに、劇的な出生数の回復はまず難しい。となると、急激な人口減は避けられないことになるが、真の問題は人口減ではない。残った人たちが、経済的にも精神的にも安心して暮らせる社会構造であれば、何も問題はない。それを実現するために、どういう手を打って置くかが問題なのだ。
 今や九州の温泉で全国的人気を誇る由布院や黒川は、何年もかけて温泉組合や地域が一体となってイメージ戦略に取り組んだ成果だと言われる。
 平安時代に遡り、千二百年もの長い歴史を誇る気仙は、京の都にも奥州平泉の輝きにも豊富な産金で貢献した。その黄金の歴史を掘り起こし、近未来の輝きに変えるためには、個々バラバラな誘客戦略ではならず、精神的に一つにならなければならない時だと思う。
 たとえばの話だが、仮にサクラの苗木をどこかに集中して千本ほど植えたらどうだろう。三十年先には、お花見名所の仲間入りをするだろう。何もしなければ、何年経っても何も変わらない。日本や岩手の置かれた状況は、もはや親方日の丸≠ニして陳情一本で要求を実現できる時代ではない。
 「トマトがトマトである限り、それは本物。トマトをメロンに見せようとするから偽者となる」(相田みつを)の言葉もある。気仙が迎える危機感を共有したうえで、まず気仙の持つ本物の素材を再確認することから始めたい。
 「あなたはあなた」では、取り組みの効果も限定される。気仙の全産業が素材や情報などを互いに提供し合うようになれば、「あれは五年経ったらこうなる」「こっちは十年先にはこうなる」という夢や希望が生じ、若者も観光客も喜んで黄金の国・ケセン≠ノ目を向けるようになるだろう。何より、互いが協力し合おうという心こそ黄金なのだが…。(谷)

国捨てる覚悟の大一揆
☆★☆★2009年04月25日付

 戦国末期、初代盛岡藩主となる南部信直公は、豊臣秀吉による天下統一総仕上げの小田原城攻めへの参陣命令に応じ、所領安堵された。
 一方、南部氏の支族で、いわば臣下の立場にあった津軽為信は、南部領内の一部を切り取った揚げ句、信直に先駆けて小田原に参陣。秀吉から単独の大名として認められ、弘前藩の基礎を固めた。
 盛岡藩にとっては、こうした経緯から弘前藩設立当初からその存在が認められない状況にあったが、幕府内では本家筋の南部氏より津軽氏が格上に扱われた時期もあり、盛岡藩は「家格向上」を運動。幕末が近づく文化五(一八○八)年に、領地はそのままで十万石から二十万石への格上げを手にした。
 名目加増ながら、幕府からは蝦夷地(北海道)警護に二倍の働きを要請され、対外的な経費も割増となった。で、どうなったかと言えば、新たな財源を課税に求め、藩政期を通じて「最大規模の全藩一揆」(山川出版社『岩手県の歴史』)が発生する。
 時に、弘化四(一八四七)年十月。盛岡藩は六万両の御用金を、領内すべての商人と農民にも要求した。このため、限られた耕地とヤマセで不作の多い野田、宮古、大槌の三閉伊地域農民一万二千人が決起。藩政改革を求めて強訴した。
 その余韻も消えない嘉永六(一八五三)年、累積赤字と参勤交代費用に苦しむ藩は、新たに「郷割御用金」を課したことから、再び三閉伊地域の領民が決起。今度は前回以上、一万六千人が参加する大集団に膨れ上がった。
 一揆勢は釜石まで南下した後、仙台藩への越境を意図。実際、その半数に当たる約八千人が仙台藩領の唐丹番所に押しかけた。
 掲げた要求は、内部の主導権争いばかり繰り返す藩主交代による藩政改革であり、それができないなら三閉伊地域を幕府直轄か、はたまた仙台藩領とすることを基本とした。さらに具体的項目の中には、諸役人の増加による負担反対、今日なら行革による住民負担の軽減要求もあった。
 後世、二度にわたるこの強訴は三閉伊一揆と呼ばれるが、「住民の苦しみを理解できないなら国を捨てるぞ」というこの要求は、盛岡藩の面目丸つぶれとなる内容を含んでいた。
 盛岡藩は、こうした一揆の時以外でも領民は塗炭の苦しみを味わっていた。元禄、宝暦、天明、天保年間には、「盛岡藩の四大飢饉」(同著)が発生。特に天明の大飢饉では餓死者四万人、病死者二万三千人、他領への逃散三千三百人を数えるに至った。
 何千何万もの領民が惨状を味わう中、藩務めの武士はどうだったかと言えば、餓死者はほんのわずか。支配階級たる武士は、自分たちの生活は確保し、残りで領民対応したと言わざるを得ない。
 基本的に徳川幕府は、反旗を翻すことがないよう各藩に経済力を持たせない政策を採用した。その中で、藩のメンツを過大に追い求め、内部では主導権争いに熱中した盛岡藩は、行革に大ナタを振るうこともなかっただけに、重税を課すしか方法がなかった。それに泣かされたのは、お役人ではなく常に領民だった。
 平成の今日、国は八百四十九兆円もの天文学的借金を抱える。「地方に経済力を持たせない」との意図はないものの、疲弊する地方経済に十分に応える力はない。その中で、岩手は少子高齢化時代に突入している。
 特に、企業立地の少ない沿岸部に位置する気仙は、若者たちがまるで逃散≠ナもするように故郷を離れている。圏域人口は、今後三十年で40%近い減少率が推計され、消費者・利用者減による各業種への影響には空恐ろしいものがある。
 各自治体や団体が、互いのメンツと主導権争いに終始することなく、限られた財源を職員でなく、住民生活の安定と福祉に振り向けるには一体どうするべきなのか。(谷)

映画で春の夢
☆★☆★2009年04月24日付

 春といえば、個人的には花粉症のためにしんどい、つらい季節。でも、満開のサクラを見ると何だか明るい気分になるし、何よりも本格的な映画館通いができるのでうれしくなる。
 陸前高田市内にあった唯一の映画館が閉館して五年。春から秋にかけては内陸の映画館に通うが、見逃した作品の上映会が地元で開かれる折には、足を運んでいる。
 来月には、大船渡、陸前高田両市で、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」の上映会が行われるという。筆者は一般公開時に見たが、見逃していた方には朗報だろう。世界が認めた作品を、ぜひとも多くの人々に楽しんでもらいたいものだ。
 前置きはここまでにしておき、ここからは筆者の春の夢≠ニして、大風呂敷を広げてみたい。どこかのにわか映画ファンが思い付きでバカを言っていると、大目にみていただきたい。
 その夢とは、映画祭の開催だ。大船渡にリアスホールもできたことだし、ここで気仙を会場にドーンとやってみませんか?
 日程は三日間で、各市町にメーン会場を設ける。目玉はこの辺ではなかなか見られない映画や、公開前の作品。一日あたり三、四本上映するとして、日替わりのプログラムを計画し、各会場で公開していく。
 例えば、初日はA会場でプログラム1、B会場では2、C会場では3を上映。二日目はAで2、Bで3、Cで1、最終日はAで3、Bで1、Cで2と設定し、各市町内で全プログラムを楽しめるようにする。三会場に通い、三日連続でお気に入りの作品を観賞することも可能だ。期間中には、監督や出演者を招き、トークショーやシンポジウムも行う。
 近隣の空き店舗やギャラリースペースも活用しよう。ミニ会場として、新進作家の映像作品や短編アニメなどを特集。映像作家や脚本家を講師に招き、ワークショップや講演会も行うのだ。
 ワークショップでは、小中学生を対象にした企画もほしい。パラパラマンガを作ってアニメーション制作に触れたり、ビデオカメラで三分間の映像作品を撮るなど、映画に親しみ、見ても作っても面白いと肌で感じてもらいたい。
 会場近辺では、来場者に気仙の味覚を楽しめるコーナーを設け、オリジナル弁当や特産品を販売、PRする。遠方からの来場者向けに、観賞券とセットにした宿泊プランも企画したい。気仙各地の会場を結ぶ無料バスも用意し、移動中に気仙の名所や自然を楽しんでもらいたいと思う。
 しかし、映画のフィルムを借りるだけでも、結構な金がかかる。金をかけずにやるイベントが望まれている中で、資金調達は大きな壁になる。
 開催にあたっては気仙独自のテーマ付けも必要であり、吟味した上映作品やプログラム作りが求められる。来場する映画ファンを満足させられるよう、スクリーンや上映技術、環境にも気を配らなければならない。
 多くの市民ボランティアも必要だ。ここは上映作品を無料で見られることで参加を募っていこう。一般だけではなく、高校生や大学生にもぜひ協力してもらいたい。若いうちに多くの映画に出合い、作り手と交流した貴重な時間は、その後の人生で何らかの糧になってくれるからだ。
 フットワークが軽い身であれば、遠くの映画館に足を運ぶことも可能だが、子どもや高齢者をはじめ、そうはいかない環境下の人も多いだろう。年に一度でいい、地域にいながら映画文化にどっぷりつかることができる機会を、映画祭として実現できないものか。
 それがさらに、まちづくりや交流人口の増加、気仙のPRチャンスにつながればなおいいのに…。春のポカポカ陽気を感じながら、そんなことを考えてみました。(佳)

昭和と浪曲とフォークソング
☆★☆★2009年04月23日付

 大船渡市民文化会館で先ごろ、「岸壁の母」で有名な二葉百合子さんと、「母に捧げるバラード」のヒット曲で知られる武田鉄矢さん率いる海援隊の二つのコンサートが相次いで開かれた。
 歌謡浪曲とフォークソング。そこで歌われた「母と子」の物語。戦後の昭和という時代を振り返させるものだった。
 二葉さんは、平成十八年度秋の叙勲で旭日小綬章を受章しており、昭和四十九年に大ヒットした「岸壁の母」は、第二次世界大戦後の引き揚げ船にまつわる実話をもとにした歌謡浪曲。コンサートでは、モデルとなった母子の姿や復員兵を乗せた引き揚げ船を出迎える当時の様子を写真で映し出していた。戦争を知らない世代だが、胸を打つものがあった。
 京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館のホームページによると、終戦時、海外にいた日本人の数は軍人・軍属が約三百二十万人、一般邦人が約三百万人以上といわれ、昭和二十年九月から引き揚げ湾に指定された舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司で帰還が始まった。
 引き揚げ船が着くたびに、全国各地から夫やわが子の帰還を待ちわびる家族が駆けつけ、出迎える姿があった。その中に、歌のモデルとなったといわれる端野いせさんがいた。一人息子の死亡通知書を受け取っても、「きっと帰ってくる」と信じ、引き揚げ船が入るたびに東京都から舞鶴へ六年間通い、岸壁に立ち続けた。
 「もしや、もしや」と息子の姿を探し求めて岸壁に立つ母の姿がその後に歌となり、モデルとなった端野さんは願いもかなわず昭和五十六年に八十一歳でこの世を去った。
 引き揚げ船は、最終船が入港した昭和三十三年まで十三年間続き、その間、舞鶴は六十六万人を越える引き揚げ者があり、他港が廃止後は国内唯一の引き揚げ湾として最後までその役割を果たした。当時の引き揚げ船の様相は、史上、例を見ない民族の大移動とされ、海外メディアも取り上げたという。
 海援隊の武田さんは、戦後間もないころ福岡県に生まれた。海援隊トーク&ライブの後援に、母校の大船渡高校同窓会や我が社が名を連ねていたので出かけた。メンバー三人がギターを演奏しながらフォークソング全盛時代のヒット曲などを歌い、武田さんはその豊かな表現力で言葉の数々を散りばめて自分たちが歩んできた時代を語った。
 武田さんといえば、ドラマ「3年B組金八先生」の主題歌「贈る言葉」も有名で、俳優としても活躍中。昭和四十八年の「母に捧げるバラード」は、夢を追いかけることを許してくれた母への詫び状のつもりで作った曲という。亡き母を追慕した「母に捧げるラストバラード」の曲もあり、それらの歌にも、たくましくも慈愛に満ちた昭和の母の姿が歌われていた。
 昭和二十四年の生まれというから団塊の世代。戦後の数年間に出生率が上昇した時期に生まれた世代を指し、アメリカではベビーブーマーといい、世界的な現象であったとか。
 多子化時代に生まれた武田さんは、五十人学級で一学年が十クラス以上あったと、教室の過密ぶりを語っていた。現在の少子化と対比させて語られる悲喜こもごもの少年時代のエピソードは、パワーに満ちた昭和という時代を思い起こさせるものであった。
 団塊の世代がその膨大な数の力で、戦後のさまざまな現象のもととなったことはいうまでもない。(ゆ)

「桜並木のはしご」日記
☆★☆★2009年04月22日付

 「今年の桜はいつになく綺麗ですね」という会話を多く耳にした。確かに美しかった。連日の晴天も桜色を際立たせた。今月半ばにポカポカ陽気が続き、気仙各地のソメイヨシノが一気に満開の時となり、もう桜吹雪の季節。二十一日の雨でフィナーレを迎えた見どころも多い。
 「これじゃオラホの猪川町五年祭(五月三日)も碁石海岸観光まつり(同四日)も葉桜か」「花見はきょうがピークだべ」と日曜日の朝餉の会話。「天気もいいし、花見でも行ぐが」と家族で車上の人となった。
 目的地はまだ決まっていない。「そういえば今朝のトーカイに赤羽根直売所のウルイが載ってだぞ」「ほんだら遠野の桜並木を見さ行ぐべ」という家長のツルの一声で遠野の桜を見に行くことにしたのだが…。
 午前十時に出発。大船渡高校前の桜並木は今が盛り。いつ見ても素晴らしい母校の桜だ。ろくろ石橋から立根川右岸にこれもまた見事な桜並木がある。市内でもこれだけの桜ロードは盛川右岸線のほかに見当たらない。
 「桜満開、春爛漫」。車上お花見会は、軽快に国道107号白石トンネルを抜けて住田に入った。山桜もよく見るといろいろな色をしている。気仙の春は、いずこも桜色に染まっていた。途中、下有住の知人宅に顔を出すも留守。庭先に咲く紫色のカタクリが出迎えてくれた。
 山菜の季節にはまだ早いことは分かっているが、いつもの癖で赤羽根トンネル前の直売所に顔を出す。駐車場が満杯だ。ウルイ、タラノメはもう売り切れという。新聞の威力はすごい。やっと味噌おにぎり一個にありつけた。
 トンネルを抜けると、遠野の道路はハイウエーのように広い。ガソリンが安いというので店頭表示を見たらやっぱり大船渡より安かった。「沿岸部が高いのは輸送コストがかかるから」という話になり、油代の差額と走行距離、燃費を計算しているうちに変なことに気がついた。
 そういえば、トンネルを抜けてから肝心の桜の木にお目にかかっていない。道路沿いにも山にも、そして目的地の猿ケ石川沿いにある桜並木もほんのり桜色のつぼみが確認されるだけ。仕方なく“冬枯れ”の遠野路を「道の駅・風の丘」にひた走る。
 それにしてもこのおびただしいクルマの数は何だ。コンサート後のリアスホール並の大渋滞だ。相変わらず大船渡の顔なじみとよく出会う。タラノメとウドはどうにかゲットしたが、パック入りの高価なハウスしどけにはさすがに手が出なかった。遠野名物ひつこ蕎麦を食べて帰途に就く。「花より団子」とはまさにこのこと。
 このまま、真っすぐ帰ってもつまらない。どうせなら、釜石の桜並木でも見ようということになった。仙人峠道路を遠野から釜石に抜けて大船渡に戻るコースをとる。「どのトンネルが西松建設のだっけ」などと四方山話に花を咲かせながら釜石大観音を目指す。
 途中、桜並木を見つけるとやけに心が躍った。今は市民体育館となっている新日鐵の旧小川体育館のほとり。のんびりお弁当を広げてお花見している家族連れがとても羨ましかった。
 その時、大観音のお導きか。今度の日曜日(二十六日)に『桜ウオーキング』(三陸鉄道主催)が唐・丹で行われる情報が脳裏に閃いた。唐丹といえば本郷の桜並木がある。知る人ぞ知る桜の名所である。
 国道45号を南下すること二十分。唐丹町本郷地区に着いた。昭和八年の三陸大津波で大被害を受けた旧唐丹村の復興への願いと、同年に現天皇陛下のご生誕の祝福を兼ねて、昭和九年、唐丹地区に二千八百本もの桜が植えられた。いちばんの見どころが本郷の桜並木。街道沿いに約百五十本のソメイヨシノが今が満開、それは見事な桜のトンネルをつくっていた。
 桜並木のはしごと洒落こんだ一日。かなり遠回りになったが、ガソリン代を上乗せしても、こんな素晴らしい桜並木を観賞できるとはラッキーだった。その夜は余韻を楽しみながら、家族だんらん花見酒となった。(克)

たばこ飲みの自己弁護
☆★☆★2009年04月21日付

 喫煙という悪弊にとりつかれて四十数年。チェーンスモーカーだから、当然のように気管支炎を起こし、そのつど禁煙するため、「よく止められるね」と感心されるが、「なに禁煙など簡単。これまで何度もしているよ」と相手を「煙に巻く」ことにしている。
 最長で三年、最低で三日の禁煙歴を持っているが、三年止めた時も毎日吸いたい、吸いたいと考えていた。隣で吸われてもなんともないが、映画やテレビで役者がうまそうに吸っているのを見るともうたまらない。なにか理由をこしらえて再開するのがこれまでの常だった。
 最後の禁煙は二年前。半年ほど続いたが、喫煙で病気になるか、ストレスで病気になるかと自己審問した結果前者を選んだ。まさに自己弁護以外の何物でもないが、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、吸いたいものを吸ってどこまで生きられるか──それは時が判定してくれるだろう。
 自己弁護といえば傑作は、経済アナリストの森永卓郎さんが新聞紙上の一問一答の中で「強弁」している内容だ。もっとも過激な発言は「もっとたばこ税率を下げて普通のサラリーマンでもたばこをばんばん買えるようにして、三年ぐらい早く死んでもらうと年金・医療の大きな改善になる」という個所。まあ極論としても、この開き直りは反駁しにくい。吸って病気になるのも自己責任であり、そこまでとやかく言われたくないという気持ちは当方にも大いにある。
 たばこを吸い続けるかという質問に森永さんの「我慢してつらい思いをして数年長生きしてもしょうがない。(中略)私も約三十回禁煙を試みたが、禁煙できたのは二週間から二時間ぐらいだ」というくだりに思わず相づちを打つ。
 その他「止めた方がいい」という「甲論」に「乙駁」して、禁煙運動家が聞いたら目をむくような持論を展開している。小欄でも喫煙のことを書いて読者からえらく反発されたことがあるが、当方は人生の敗残者として意志の弱さを認め、だがまた禁煙したとしても周囲に勧めたり、促したりすることは絶対にあるまい。少なくとも飲酒と喫煙で「高額納税」しており、旧国鉄の赤字返済にもささやかながら貢献しているという点だけは大いに理解してもらう必要がある。
 しかし禁煙包囲網はどんどん広がっており、「肩身が狭い」と嘆きながら隅っこの方で煙をふかしている光景と、かって誰もが「威風堂々?」と吸っていた時代とは隔世の感がある。
 禁煙運動は北欧あたりから始まり、やがて米国に伝わったようである。その米国でも西海岸と東海岸では伝播の速度が異なることを知って、この国の広大さを思わされたことがある。もしオバマ大統領が西海岸の住人だったら、大統領就任直前まで吸っていたということはなかっただろう。大統領ともなれば禁煙せざるを得ないのが米国のいまのありようだが、はたして完全に止めたかどうかは報じられていない。ホワイトハウスの一室で人目を憚って吸っているかもしれず、もし目撃できたら「よう、ご同輩!」と声をかけてやろう。
 百害あって一益なしと言われる喫煙だが、泥棒にも三分の理があるようにたばこ飲みにも三分の理がある。それまで全面的に否定はできまい。喫煙と肺ガンとの関係は疫病学的に指摘されているが、では車の排気ガスと肺ガンの関係はどうなのか。その解明も必要であり、その「受動吸煙」まで問題にしないと医学的に不公平のそしりは免れない。
 そして、道義的問題である。地方自治体はたばこ税の還元を受けている。市部では一億円以上の収入となっているのに、それにはそ知らぬ顔で公共施設は禁煙にするというその二律背反をどう説明するのか?さらに葉タバコ生産者の収入を自動的に逓減させていくという責任を誰が取るのか?
 などと敗者の負け惜しみを書き連ねて一服し、ふと手にした産経新聞の一面横に亡くなったばかりのノンフィクション作家・上坂冬子さんの遺稿が載っていた。それは「枝葉末節な禁煙の理由」というタイトルで、全編これ喫煙者の擁護にあてられている。まったくの偶然にしても、たばこ飲みではない上坂さんが、「二千年も前から人々が愛用している嗜好品なら、魅力的なものに違いないではないか」とこの愚稿にエールを送ってくれたような気がした。「ホタル族」の出現が男の地位を下げたという上坂さんの推論は、当たらずとも遠からずであるまいか。(英)

カメちゃん、NHKに!
☆★☆★2009年04月19日付

 新聞屋稼業になってから三十年余、毎晩枕元に置くラジオを点けっぱなしで寝ている。当初は小さな音量で聴いていたものの、「クチャクチャして眠れない」と家人にえらく不評だったので、何年か前からはイヤホンをしている。地震、津波、火事…といった緊急情報を得るための、新聞記者ならではの悲しい性≠ネのだが、緊急事態はそんなにあるわけではなく、今ではもっぱら寝付くまでの子守歌になっている。
 チューニングダイヤルを合わせておくのは、ここ十年来ずっとNHK第一「ラジオ深夜便」。時折目覚めれば「ロマンチックコンサート」や「にっぽんの歌」「こころの時代」に耳を傾ける。ただ、四月の番組改編で昭和の名人が登場していた落語コーナーがなくなったのが大いに不満だ。
 ラジオの深夜放送といえば、昭和四十年代から五十年代にかけての民放が一番のブームだった。ラジオ東京(現TBS)の「パックインミュージック」、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」、文化放送の「セイ!ヤング」が御三家=B受験生だった団塊世代を中心に支持され、いずれも高聴取率を誇った。一番の聴きものが最新の洋楽(ポップス)チャートで、ビートルズ、ストーンズ、ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクルら欧米のミュージシャンと新譜の最新情報はここで仕入れ、翌日学校の話題にした。
 TBSと文化放送の番組は十年以上も前に終わったが、ニッポン放送の看板でもある「オールナイトニッポン」は、岡村隆史・矢部浩之のナインティナインらをパーソナリティー(司会進行役)として現在も続いており、四十三年目に入っている。さすがに、おじさん世代は話題や音楽について行けない。時折そのテレビ版があって楽しんでいるが、このほど予期しなかった朗報が届いた。
 なんと、昭和四十四年から四年間「オールナイトニッポン」のDJ(ディスクジョッキー)を務めたカメちゃんこと、亀渕昭信さんがNHKに(!)自分の番組を持ったとのこと。題して「亀渕昭信のいくつになってもロケンロール!」。四月七日から隔週火曜日午後九時五分から五十分間、ラジオ第一で放送していくという。
 これを知ったのは翌日。残念ながら初回は聴き逃してしまった。あとで調べると、この日放送したのはビートルズ「愛こそはすべて」、ドアーズ「ハロー、アイ・ラヴ・ユー」、タートルズ「ハッピー・トゥゲザー」など十一曲。アンドレ・クラヴォー「パパと踊ろう」やニールセ・セダカ「カレンダー・ガール」も含まれていたというから、カメちゃんの軽快なトークとともに、全く惜しいことをしてしまった。
 亀渕さんは団塊世代よりちょっと上、昭和十七年札幌生まれの六十七歳。ニッポン放送でラジオ番組の制作・演出の担当だったが、アルバイト時代からレコード整理などの実務能力に長け、入社後の米国留学で洋楽の感性を磨いたこともあってか、「オールナイトニッポン」の自前≠cJに。頼れる兄貴分として若者の人気を博した。たしか、「そんでもってー」が口癖だった。
 降板後は制作部長、編成局長、常務、専務とキャリアを積んで平成十一年から六年間は社長。この間、ポニーキャニオン専務、デジタルラジオ推進協会理事長も歴任。十七年のライブドアによるニッポン放送株買い付けをめぐる騒動に巻き込まれたが、取材した若い経済記者の多くは、穏やかな口調のカメちゃんが「オールナイトニッポン」のパーソナリティーだったことを知らなかったという。嗚呼。
 さて、「いくつになっても…」の第二回放送はこの二十一日。「今度こそ聴きのがすまい」と、番組ガイド「ステラ」の午後九時欄を黄色でマークした。郵送や番組ホームページでリスナーからのリクエストも募っているという。カメちゃんと一緒に過ごした青春時代を思い起こす「自分だけの曲」をかけてもらおうかな。(野)


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