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連載・エッセイ

絲山秋子「書くことはとても難しい——ミシェル・ビュトールとの対談を終えて」 ―2009.01.26

 控え室がなかったのでロビーの隅のソファで、ビュトール夫人とカタコトのフランス語で話しながら待っていた。しばらくすると休憩時間になったらしくホールの大扉が開き、出てきてあれこれ話し合う人々の向こうに御大が現れた。どっしりとした体格、白い髭、輝く強い視線、そしてなんというのだろうか、ベストとズボンが繋がった服を着ていて、それが体の一部のように似合っている。もちろん、その日はビュトール学会で、彼は一日中立教大学にいたわけなのに、私にとってはまるで彼が時間と空間を飛び越えて突然現れたように思えてならなかった。彼の背後に『段階』に出てくる教室とパリの景色が見えていても、どこかの山荘の初夏の風景が見えていてもおかしくなかった。それほど存在感があった。もちろん、最初の挨拶は言葉にもならないような嘆声となってしまい、しかしビュトール(以下敬称略)はまわりの空気全体を包み込むようにして、あなたがマダム・イトヤマか、そうかそうかと大きな手を差し出すのだった。するとその姿がますます大きく見えた。

 もちろん、ビュトール学会における対談相手の日本人作家として自分が一番妥当だったとは今でも思っていない。私は僅かに『心変わり』と『合い間』を読んで影響を受けただけである。大量の資料は読んでも尽きることがなく、文章は難しかった。学会で発表する研究者だったらずっと昔から知っているようなことを私は全く知らない。私はテクストの背景にあるヨーロッパの歴史や文化について知らない。研究者たちがビュトールを熱愛しているとしたら、私が思い描いているのは初恋のような淡い憧れにすぎないのだ。そう思ってどんどん自信をなくしていくうちに当日となった。
 きっとそれは顔に出ていたのだろう。対談が始まってすぐ、ビュトールはおどけて言うのだった。
 「私はとても不本意です。なぜならマダム・イトヤマは十四歳の頃から私の本を読んでいる。ところが私は八十を過ぎてまだ、マダム・イトヤマの本を読んだことがない!」
 私は、聴衆ではなく私の右側に座ったビュトールの明るい表情を見て、数多くはないが真に信頼できる相手に出会ったとき、いつも思う言葉を心の中で繰り返していた。
 ―この人には何を喋ってもいいんだ。
 その後すぐにまたこんな会話がある。海外経験を問われて、私がセネガルに行った、と答えるとビュトールはお気に入りの冗談をみつけたみたいな顔をしてこう言うのだ。
 「私は旅行家として評判だと言われますが、誰かに会うと―今がまさにそうですけれど―そのひとの方が私の行ったことのない国に行っている、ということがよくあるんです。いつかセネガルに行けるかどうかわかりません」
 ビュトールのユーモア溢れるフォローのおかげで、このあとすんなりと、人間や文学、産物に与える土地の影響、という話題に入ることができた。ビュトールのテクストは難しいと思っていたが、単語も話し方も非常に明快で、わかりやすかった。私はフランス語を十分に話せるとは言えないが、それでも同時通訳の前に笑い出したり、頷いたりすることが多くあった。それは彼の親切で、誠実な人柄を思わせるに十分だったと思う。

 ビュトールに特に話したかったことがある。それは私固有のことだがちょっとした発見だったのだ。私は生まれつきの斜視であり、両目で物を見ることができない。ちょうど、視力検査で片目を隠したり、カメラのファインダーから風景を覗いている状態、といえばわかりやすいだろうか。利き目は左で、普段本を読むとき、原稿を書くときには殆ど左目で読んでいる。
 ところが、ビュトールの空間詩である『合い間』、それから絵とテクストがちょうど絵本のように一緒になった夢についての話『文学と夜』を読んでいるとき、私は右目で読んでいることに気がついたのだ。右目は左脳に繋がり、左目は右脳に繋がっている。この話をビュトールは、すばらしい、とても面白い、と喜んでくれた。
 「ふだんとは違う注意の向け方、あるいは特別な問題提起をその本に対して絲山さんがされたから、ふだんとは違う目でお読みになったのではないかと思います」と彼は言った。
 ビュトールという実験的な行為を続けている作家に対して、ましてや『合い間』のような変則的な文体で綴られた、一見して他のどんな本とも違う本に対して、読者はもちろん特別な注意を払い、特別な興味を持って読まずにはいられない。もしくは初読のときの私のように何が何だかわからず、混乱してしまうか。
 自分が若い頃ではなく、今、ビュトールに会えた機会を本当にありがたいと思う。若い頃の読み方と、四十を超えた今の読み方は違うし、学生だった頃、会社員だった頃、作家になってからの読み方も違う。どちらがいいとか、どちらが進化しているとかいうことはいちがいに言えない。ただ、一冊の本に対して、読者は別の人間になることができるのだ。逆に言えば作家は一冊の本に対して常に一人の作家でしかない。

 その後、あらためて『心変わり』の二人称について話を聞いた。私も『袋小路の男』『ニート』など二人称の小説を書いている。もちろんビュトールの『心変わり』がなければ考えつくこともなかっただろう。ビュトールはこれについて、料理のレシピや探偵小説といった例をひいて、
 「二人称が使われているのは能動的なテクストなのです」と答えた。
 私の場合、二人称は主語の強調という意図から選択した。これによって読者は違和感を持ち、不自然、不安定な感じを受けるという狙いがあった。対して、ビュトールの二人称は人称に応じた動詞の活用を重んじていた。ビュトールが何百回もされている質問と知りながらも、このことを聞くのが私にとってはとても重要なことだった。
 対談の最後にビュトールは私にこう言った。
 「書くことはとても難しいことです」
 経験の浅い私にとってだけではなく、多くを書いたビュトール自身が「ますます難しくなるように感じられる」と言うのだった。

 対談の後、ビュッフェで軽食を取った。出てくると外はもう暗くて、ライトが立教大学の煉瓦の建物を照らしていた。足が痛いというマダムをかばって、ゆっくり、ゆっくりと歩いていくビュトールを、私は学生達と一緒に見送った。

(筆者=作家)

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