第2回 自由なキャンパス/不自由なキャンパス

渡辺 真理インマーマンさんと筆者(WEAIで)

 ニューヨークもとても気持ちのいい季節になってきた。学生たちが溢れるような陽光のなかで日向ぼっこをしている。ここのキャンパスは広大で、緑も多く、あちこちに芝生があり、屋外にもベンチやデスクが配置されている。今のような気候のいい時には、学生たちは、芝生に座りこんで議論したり、宿題なんかも屋外でやっている。もちろん図書館も満員だ。本当にこちらの大学生たちはよく勉強するし、よく遊んでいる。何だかエネルギーの総量が違うみたいだ。55歳の大学生は、それを横目でみながら、いいなあ、と思う。大学生たちは社会人の予備軍だという考え方が日本では主流だが、こちらの大学生たちはすでに社会化されていて、もう一人前の大人然としているような気がする。


コロンビア大図書館前の日向ぼっこ:筆者撮影

 さて、こちらに来てから、大学生たちが「行動している」ことが目に留まるようになった。進歩的なことで知られるニュー・スクールの学生たちが、学長の退陣などを要求して、食堂を占拠した出来事があったのが去年の冬だった。確か、作曲家のジョン・ケイジもニュー・スクールの教授だったように記憶している。今年になってからも、ニューヨーク大学の一部の学生たちが、「TakebackNYU」(ニューヨーク大学を取り戻せ運動)を自称して、建物の一部を占拠、不透明な経理の公開や、パレスチナ・ガザ地区への連帯を表明したことがあった。コロンビア大学自体も、1968年に激しい学生闘争が展開されたことは有名な事実である。映画『いちご白書』はその闘争がモデルになっている。少数だが、当時のことを記憶している教員もまだ教壇に立って教えている。いずれその教授に話を聞いてこの欄でご紹介しよう。


芝生のなかも出入り自由:筆者撮影

 実は、昨夜(4月16日の夜)のことだが、コロンビア大学のキャンパスで、小規模ながら学生たちによる集会とデモがあった。バーナード・・ホールの前に夜の9時頃だったが、数百人の学生たちが集まって集会を始めていた。ホールに面したブロードウェイには何だかやけにものものしい感じでパトカーが何台も停まっている。「Take Back the Night March」と銘打ったこの集会は、コロンビア大学構内で頻発する性的な暴行、ハラスメント、差別に抗議する目的で催されたものだった。しばらくその集会に参加する形で話を聞いていた。実際にこのキャンパスで起きた出来事の「被害者」たちが、スクリーンの後ろで顔の見えない形で参加者たちに被害の実態を訴えていた。もちろん参加者たちの多数派は女性だったが、僕も含めて結構、男性の参加者も目立った。
 集会を終えて参加者たちは短いコースながらデモ行進も行った。特に何の混乱もなく終わったのだが、僕はそれをみながら、日本の大学のキャンパスで、今目の前にしているこのようなことが、実際問題として、起きうるのかどうかをずっと考え続けていた。起こり得ないとしたら、それはなぜなのか? 日本の大学生たちはアメリカの大学生に比べて社会問題全般に無関心なのか? そのようなことを企画する能力がないのか? いや、勇気が欠如しているのか? 大学の管理者たちは、そのようなことを容認する力量があるのかどうか? さまざまな考えが頭をよぎった。インターネット上でものを言ったり、匿名で投稿したりするのは実に簡単だが、実際に何か自分以外の人々を巻き込んで行動を企図して、意見を表明することは、本当はとても難しいことだ。大体、膨大な手間暇がかかり、お互いに意志を共有するという物理的な作業(これが本当は一番大事なプロセスなのだけれど)が必要だ。


Take Back the Night Marchの集会:筆者撮影


集会後のデモ:Columbia Spectator撮影

 日本の国際社会でのステイタスの凋落ぶりとかが指摘されているけれど、 自由なキャンパスの気風を維持することはとても大事なことだと思う。それこそ「多事争論」の目指しているところだったはずだ。それを許さない「管理」一辺倒の発想は、想像力の劣化を招く。麻生邸への見学ツアーの参加者を警察がパくったシーンをみながら、このアメリカでは、巨額ボーナス支給が国民的な非難を浴びたAIGの幹部経営者の豪邸を見に行くバスツアーが挙行されたことを思い出した。多くのメディアがその模様を取材していた。この「落差」。「断絶」。息苦しさに風穴を開けられるのは、自由な想像力だけだと思う。

金平茂紀

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