JUDY AND MARY
恩田快人



 昨年は武道館や大阪城ホールを制覇し、紅白歌合戦にも出場して、まさに国民的なロックバンドとして名を馳せたジュディ・アンド・マリー。3月26日、そんな彼らから油断すると感電してしまいそうな超強力アルバム『THE POWER SAURCE』が届けられた。
現在は『THE POWER SAUCE DEL-IVERY ,97』と題したツアーで、パワーの源となる刺激的なサウンドを全国にデリバリーして回っているジュディ・アンド・マリー。そのベーシストであり、リーダーである恩田快人にインタビューを敢行した。高校一年でメンバーとなったという神戸の実力派バンドのフェリア、プレゼンスの前身となった樹雷(ジュライ)、念願のメジャーデビューを果たしたプレゼンス、プレゼンス解散後に加入した元ガスタンクのTATSU率いるジャクスン・ジョーカー、そして恩田自身のソロワークスから誕生したジュディ・アンド・マリー。そんな過去のバンドから現在までを振り返ってもらい、より深く彼のバンドスピリッツを語ってもらった。このインタビューを18`19ページのバンド系図やディスクレビューと合わせて読んでもらえば、ジュディ・アンド・マリーというバンドが、決して勢いだけで武道館や大阪城ホールを制覇するビッグネームになったのではないことが分かるはずだ。


バンド虎の穴その1
実力派バンド、フェリア

●恩田さんってパンキッシュなイメージがあるだけに、過去の経歴にプログレッシブハードロックバンドのフェリアの名があるのが意外なのですが。
恩田 快人(以下、恩田):このころはパンクバンドはテレビで観たアナーキーしか知らなくて、良い悪いじゃなくて僕にはまだ理解できなかったんですよ(笑)。パンクに目覚めたのは遅くて、20歳ぐらい。セックス・ピストルズを聴いて「ビートルズとどこが違うのかな」って。「いい曲じゃん。もっと早く知れば良かった」って(笑)。最初はビートルズバンドだったんで、中学最後の学園祭でレッド・ツェッペリンとディープ・パープルとキッスをやってからですね。だんだんとトゲトゲしいものに冒されていく自分に気付いたのは(笑)。だから、プログレもそんなに知らなかったんですよ。

●じゃあ、なぜフェリアに?

恩田:神戸のヤマハでバンド合戦というコンテストがあったんですよ。神戸ってライブハウスがなかったじゃないですか。チキンジョージぐらいでしょ。チキンジョージってプロやセミプロとか認められている人しか出れない。

●そうなんですよね。
恩田:そのバンド合戦というのは、土・日の二日間で50〜60バンド出るんです。で、二曲か三曲ぐらい演奏をやって、1位からきっちり順位を付けられる。1位、2位、3位までが黒帯で、10位ぐらいまでが茶帯で、あと紫帯とか決められるんですよ。それでね、そのコンテントに出ると必ず黒帯を取っているバンドがいくつかあって、フェリアはその一つだったんです。その時、僕は高校一年生で、フェリアのメンバーは大学生とかですごく年上なんですよ。で、ベースを探していると聞いたんで、友達の友達とかに紹介してもらったんです。「あの…もしよかったらベースやらして下さい」って。でも、全く鼻にもかけられなかった(笑)。その二、三カ月後にバンド合戦があって、僕らのバンドも出たんです。ジューダス・プリーストとかガールのコピーバンドだったんですけど、7位ぐらいになって茶帯をもらったんですよ。それをフェリアの人が観ていて、出演者リストを調べたみたいで家に電話がかかってきたんです。「一緒にやらない?」って言われて、「ちょっと前にお会いして断られたんですけど、覚えておられます?」って(笑)。それで一緒にやらせてもらえるようになったんですけどね。

●フェリアは神戸でも名の知れた実力派バンドであり、サウンドもプログレだっただけに、メンバーとして加入したとなるとかなり苦労したんじゃないですか。
恩田:バンド虎の穴その1みたいでしたね(笑)。「ピッキングが違う!」って。変拍子とかも、僕はエレクトーンをやっていたんで譜面は読めるし、変拍子の感覚も分かるんですけど、それを実際に鍵盤でやるのと、弦楽器でやるのとは全然違ってて、難しかったですね。すごくしごかれました(笑)。

”最後の長老“と呼ばれた
プレゼンスでメジャーデビュー


●そんなフェリアを経て樹雷を結成するんですけど、どんなバンドだったんですか。
恩田:オリジナル曲が一曲か二曲で、ほとんどがレインボーとパープルのコピー。あと、ジミ・ヘンドリックス。(系図を指さして)このギターの本荘くんというのが、リッチー・ブラックモアを弾かせたらという…。

●リッチーマニアみたいなギタリスト。
恩田:そうそう(笑)。ドラムの吉田くんもコージー・パウエルのマニアだったんですよ。ボーカルも…関西のハードロックバンドって特にこのころボーカリストがいないんで、イアン・ギランみたいなハイトーンが出るというだけで「オーッ!」って(笑)。フェリアは高校一年の終わりから三年までやっていて、三年の終わりぐらいに樹雷に入って、みんなで高校を卒業したら大阪のライブハウスに出て行こうと決めてたんですよ。

●オリジナルをするようになったのは、プレゼンスから?
恩田:そうですね。

●そのプレゼンスでバハマ(大阪の老舗のライブハウス)に出るようになったんですよね。
恩田:でも、最初はバハマもオーディションがあって出られなかった。僕らはオーディションを受けたことがなかったし、デモテープを作ったことがなかったんですよ。オーディションがなくて、デモテープなしでも出してもらえるところって、当時はブロウダウンだったんで、そこに出たんですけど、大阪に知り合いもいないし、神戸から観に来てくれる人もないから、お客さんが一人もいない(笑)。でも、お店の人がすごく気に入ってくれたし、日曜日の昼間に4バンドか5バンドか集まって、バンド同士でお客さんになってお互いを観るライブをやりなさいというようなイベントがあったんで、それにばっかり出てましたね。それってお客さんはいなかったけど、他のバンドの子が京阪神から来ていたんで、「プレゼンスという面白いバンドが出てきたぞ」というのが口コミでバーって広がっていったんですよ。ちょうどその広がったころにデモテープを作って、バハマにオーディションを受けに行った。そしたらバハマの藤田淑子さんが「私が面倒見たる」って気に入ってくれて…バハマが面倒みてくれるとなると、それがニュースになるんですよね。やっぱりノヴェラとかアースシェイカー、アクション、44マグナムとかのバンドを手掛けてきてますから。それで70〜80人のお客さんが一気に来るようになって、バハマでレギュラーでやらせてもらえるようになったんですよ。

●プレゼンスって84年にヒバリ(岡本浩明)さんが入るまでメンバーチェンジが激しかったんですが、そこでバンドが崩壊しなかったのは、やっぱりプレゼンスの目指すサウンドがみんなのやりたい音だったからなんでしょうか。
恩田:う〜ん、メンバーチェンジが激しかったのは、曲の指向が違ってきたからかな。(系図をしげしげとながめながら)そうそう、僕と(西川)シゲルだけになってしまったんだな。うんうん、ギターがなかなか見つからなかったんだ。ドラムもね。

●当時は関西メタルがもてはやされた時期でもありましたけど、プレゼンスのサウンドはメタルじゃなくて、ハードロックでしたよね。
恩田:初期はすごくハードロック。それもヨーロッパ系の様式美だったんですけど、ヴァン・ヘイレンとかを観てしまって、アメリカンハードロックにだんだん傾倒していった。明るくてヌケのいいのをやりたくなったんですよ。ヴァン・ヘイレンとかビデオを観てもハチャメチャじゃないですか。「カッコええ! なんでこんなにカッコええんや」って。みんなステージングとかもまねしてね。そうそう、それで「こんなギタリストいないかな」と思って、白田を見つけた。ラジャスをやってたんで、引き抜いたら失礼だったし、なかなか引き抜けなかったんだけど、ラジャスが活動停止になったんで入ってもらった。…白田が入ってからかな、ツアーをやり始めたのは。魔女卵(マジョラン)のツアーに同行して、東京へ連れていってもらった。

●で、いよいよ87年にメジャーデビュー。
恩田:かなり時間がかかりましたね。5年ぐらい(笑)。

●「次はプレゼンスだ」ってずっと言われてましたもんね(笑)。
恩田:言われたまんま、2年ぐらいたってた。何回か話はあったんですけど、なかなか決まらなくて…。だから、”最後の長老“という書かれ方もしましたよ(笑)。

●当時は寡黙なベーシストが多かっただけに、プレゼンスの恩田さんって派手でよく動き回るベーシストという印象が強く残っているんですよ。それとコーラスとね。
恩田:やっぱりヴァン・ヘイレンのマイケル・アンソニーがハーッてすごい声を出すから、それをまねしたかったしね。でも、僕はフェリアに誘われた時点で、そういう指向性だったから(笑)。UFOのピート・ウェイを高校二年の時に知ってしまったから、それを長年かけて煮詰めてきてた。

●プレゼンスは89年に解散してしまったんですけど、やっぱりオリジナルメンバーだっただけにショックだったのでは?
恩田:やっぱりプロになると早いですよね。アマチュアのバンドはプロになろうという目的でバンドが一つになれるんですよ。で、その目的を果たしてしまうと、次の目的があるわけじゃないですか。自分たちの音楽をもっともっと煮詰めて確立していこうと。そこで出てきてしまうんですよね、音楽性の違いってのが。プレゼンスは白田が「もう辞めたい」と言い出したんで、「それだったら、みんなバラバラになろか」ってなったんですけどね。

ジュディ・アンド・マリーのアイデアが浮かんで眠れない

●今度はヘルプという形でジャクスン・ジョーカーに参加するんですよね。
恩田:やっぱりプレゼンスの教訓を生かして…入った! 合わないから辞める!ってのは失礼だなと。

●ジャクスン・ジョーカーのサウンドって、ダイナミックでワイルドだけに、すごく音に緊張感があって、ライブでプレイしていてもメンバー同士が刺激し合ってスリルがあったんじゃないですか。少しでも気を抜くと力負けするような。
恩田:それは、もう全曲。17、18曲全部が集中力を抜けないような曲でしたからね。それが気持ち良かったしね。

●恩田さんが加入してジャクスン・ジョーカーも早いペースで音源をリリースして、ライブしてといい感じできていたんですけど、一旦活動が止まる…。
恩田:ジャクスン・ジョーカーは映画(『いつかギラギラする日』)に出たから、録った2ndのリリースをその公開に合わせて半年遅らせることになったからね。

●その半年のブランクの間に、ソロ活動ということでジュディ・アンド・マリーを作ったんですけど、なぜベーシストとしてのソロアルバムを作るんじゃなくて、バンドを作ったんですか。
恩田:ジャクスン・ジョーカーでベーシストとしてプレイできるだけで満足できていたんですよ。で、ジャクスン・ジョーカーで使わなくても、曲も作ってたんです。やっぱり曲がたまるとそれを形にしたくなって…それが大前提だった。プレゼンスの初期のころは展開の激しいプログレッシブな曲とか作ってたし、後半はシンプルなハードロックやパンクやロックンロールに傾倒していったからシンプルな曲を作ってたんですけど、ジャクスン・ジョーカーの展開がすごく激しかったりする曲はやっぱりギターのTATSUが作った方がうまかったしね。…ジャクスン・ジョーカーというバンドは彼がネーミングから歌詞からコンセプトからすごく苦しんで作ってたから、ノリ一発のハードロッカーとは違って、自分の作っているものに精神性とか意味を求めていたのはパンクスだなと思うし、年下だったけど彼からはすごく影響を受けましたね。それに僕の作る曲はプレゼンスの後半からすごく…。

●ポップでしたよね。
恩田:うん。そのころからね、胸がキュンとなるメロディーが生まれてたんですよ。で、「なんでかな」って思ってたら、エレクトーンを習ってたからなんですよね。エレクトーンの練習曲というのが洋画のサウンドトラックだとか、スタンダードのジャズの歌モノとか、ミュージカルの曲とかビートルズの曲だったんで、心が洗われる胸キュンモノが多かったんですよ。そんな曲を小学校の一年から中学校でバンドをやり始めるまでたくさん練習してたんで、体にそういう旋律が染み込んでいるんですよね。だから、自分には自分のメロディーがあるっていうのが何となく分かってきて、それを形にしたいなと。ボーカルもジギーの森重 樹一くんみたいな、曲がメロディアスだからメロディーをきっちりとリスナーに伝えることができるボーカリストに頼もうかなって思って。

●ワイルドな感じじゃなくて。
恩田:ボーカルのNIXXも歌い方がしっかりしていたからできたと思うけど、すごくバッドボーイのイメージできていたNIXXに、この曲を歌ってもらってもいいのだろうかというのが(笑)。で、女の子でもいいかなと。ラモーンズの『ロックンロール・ハイスクール』というB級映画なんだけど…。

●女の子がラモーンズをバックにして歌うヤツですよね。
恩田:そうそう。そのイメージがあって、「こういうのでもいいなぁ」って。だから、女の子のボーカリストを探そうと思った。

●で、YUKIさんに声をかけるんですか。
恩田:彼女とはジャクスン・ジョーカーで映画に出た時に、たまたま知り合って。で、デモテープを送ってもらったんですよ。話し声はすごくハスキーなんだけど、歌っている声は高い声で「歌うとこんな声なんか」ってびっくりしたんですけどね。で、YUKIちゃんに歌ってもらおうかなって。

●ドラムが五十嵐公太さんなんですけど、やっぱり五十嵐さんが在籍していた十二単(十二単)やセブンス・ゲートのライブを観て声をかけたんですか。
恩田:公太くんの十二単は観ていないかもしれない。でも、彼がセブンス・ゲートをシゲルとやる前から、鹿鳴館とかのイベントとかで何回か一緒にやったことがあったんですよ。ギターの藤本泰司くんもそうだしね。

●この時のジュディ・アンド・マリーは、あくまでも恩田さんのソロ活動なんですよね。
恩田:インディーズ盤を作った時も、泰司くんと公太くんとYUKIちゃんに「これはこれからも続けていくバンドじゃないから」って言ってたし、YUKIちゃんもプロを目指してやってたから、「このアルバムが名刺代わりになったらいいね」という話をしていましたね。…ジャクスン・ジョーカーも、入った以上は責任を持って3年か5年ぐらいはやろうと思っていたから辞める気もなかったし。それに参加してくれたメンバーに対してもリスクを負わせることができなかったから、ライブも音源も全部、僕が自腹を切ってたし、メンバーはギャラ制にしていたんですよ。

●大変ですよね。インディーズ盤を出したチェインソーレコードというのも恩田さんが自分で設立したんでしょ。
恩田:ジャクスン・ジョーカーがインディーズ盤を出した時もレーベルは自分たちで設立したから、そのノリで。バンド名も自分で考えているし、レーベル名も自分で考えて…やっぱりTATSUの影響が大きくて、何かに付けて意味を求めていましたからね。

●最終的にはジャクスン・ジョーカーを脱退して、ジュディ・アンド・マリーを正式なバンドにするんですが、やっぱりそれだけジュディ・アンド・マリーが本当に自分がやりたかったサウンドだったから?
恩田:インディーズ盤を作り終えたんで頭の中が空っぽになって、半年ぐらいジャクスン・ジョーカーをやってたんですけど…日中の生活をしている時はジャクスン・ジョーカーのことを考えているんですけど、ベッドに入って横になるとジュディ・アンド・マリーの曲とかアイデアが浮かんでくるんですよ。それで、眠れなくなってしまった。別にそれが負担になって、ジャクスン・ジョーカーのことに手が回らなくなるってことはなかったと思うんですけど、頭の中でそんなことを考えているのは良くないなと思って。で、ジャクスン・ジョーカーを辞めるんですけど、「飛ぶ鳥後を濁さず」で次の人が決まらないうちに「辞めます。ハイ、さよなら」というのは筋が通らないので、次の人が決まるまでは続けてたんですけどね。

メジャー契約を取るためにコネを使いたくなかった

●いよいよジュディ・アンド・マリーが正式なバンドとなるのですが、やっぱりインディーズ盤に参加してくれたメンバーに声をかけたんですか。
恩田:やっぱり自分がやろうと思って始めたバンドだから、できるだけメンバーにはリスクを負わせたくないというのと、音楽的な面でも、レコード会社とか事務所とか含めたプロモーションの面でも、とにかくバンド活動に携わるすべてのことで「やって良かったのかなぁ」って思わせたくなかったんですよ。「頼む、やってくれ!」って言ったからには責任を持って「これ以上の条件はないぞ!」というところでやってもらいたかったからね。だから、まず契約を取ろうと思って…。

●メンバーを集める前に契約を取ろうとしたんですか。
恩田:そうです。フリーなのはYUKIちゃんだけだったから、YUKIちゃんと僕だけで…っていうか、YUKIちゃんはそんなのよく分かんなくて「お任せ〜」って感じだから、僕が契約を取るためにいろいろと。最初にソニーに持ち込んで、「ダメだったら言って下さい」って。

●でも、恩田さんが動くとなると周りから声がかかるんじゃないですか。
恩田:コネを使いたくなかったんですよ。コネを使うと「元○○の〜」ってポンと出されるでしょ。だから、一アマチュアとして天秤にかけられたかった。このバンドがダメだったら、もう自分には出すものがないから、辞めてもいい…辞められると思ってましたから。「辞められる」ぐらいの気持ちでやるんだったら、自分が思い描いているものを形にしないと辞められないしね。で、ビデオジャムかな? 「もし君がプロのアーティストになりたかったら、ここにデモテープを送ってくれ」ってやってますよね。それに音源とビデオを送ったんですよ。でも、僕の過去の経歴を知ってる人がいて、「この人、メジャーでやってますよ」ってことになった(笑)。

●プレゼンスとジャクスン・ジョーカーなんですから、そんな人がいて当然じゃないですか。
恩田:そうなんですけどね。「BMGと契約しているんじゃないかな」って。一応、書類上では11月ぐらいでジャクスン・ジョーカーを辞めて契約が切れて、後は自由ということだったんですよ。でも、そういうことを向こうは知らないから、電話がかかってきた時に「『BLUE TEARS』って曲すごく好きなんですけど、契約がある方はダメなんで…」って。で、説明したら「だったらイベントに出てもらいましょう」と。

●契約が決まったからメンバーに声を?
恩田:その契約が取れた時点で公太くんに「やってくれないかな」って。泰司くんも誘ったんですけど、彼はソロアルバムをバンドで作る構想があったんで…結局それはダメになって彼はD・T・Rに入ったんですけどね。で、泰司くんとできないんだったら、そういうタイプのギタリストじゃなくてシャケ(木暮武彦)さんとかマーシー(真島昌利)さんとかハードロックのギタリストじゃないんだけど、すごくエモーショナルでカツンっとくるギターを弾く人がいいなと。それでオーディションをしたらたまたまTAKUちゃんがいて、彼がギターを弾き始めた瞬間に「これこれ」って、顔がほころんじゃった(笑)。

バンドで経験できることは全部してみたい

●いよいよ1stアルバム『J・A・M』が発表されるんですけど、サウンド的にはインディーズ盤の延長と考えていいんですか。
恩田:そうですね。選曲とかもだいたい決まってましたし、四人が集まったばっかりで、レコーディングの二週間ぐらい前の合宿で「初めまして〜」って感じだったから。

●じゃあ、2nd『ORANGE SUNSHINE』から四人で作ったって感じなんですかね。
恩田:一枚目を踏まえた上で、みんなが「このバンドで何をやりたいのか」というのを…やっぱり自分のやりたいことや、やれることを形に出してほしいなと。バンドがバンドとして存在する理由というか、要素ってあるじゃないですか。曲にしろ、プレイにしろね。一枚目は四人が集まるためのきっかけで、それを踏まえて「ベーシックはこうなんだけど、俺ならもっとこうやりたい」とか「こうするともっとハッピーだ」というのをみんながどんどん出してくれたら、もっと輝くんじゃないかなって。一人ひとりのメンバーがオーラを発しているとすごく魅力的だと思うしね。そういうのを作り上げようという目的の上で2ndは作りました。

●3rdの『MIRACLE DIVING』は、そんな2ndをさらに押し広げて、一つの完成形を作ったと思うんですけど。
恩田:2ndでまず一つの形ができたと思うから、それをどこまで広げられるか、どこまで広げていいものなのかという。その端を見てみたいなぁと。3rdは幅広くやりましたね。

●このアルバムを引っ提げたツアーでは武道館、大阪城ホールを制覇したんですけど、やっぱりそれらは一つの目標でもあった?
恩田:やっぱりバンドとして活動している以上、音楽の部分でもそうだし、あらゆることでバンドを通して経験できることは全部してみたいという気持ちの基にジュディ・アンド・マリーは始めたんでね。一つ壁を越えたら、また次の壁の向こうを見てみたい。その連続ですよね。だから武道館も大阪城ホールも見てみたい景色の一つではありました。

●3rdアルバムでバンドの出せるものをすべて出し切って、武道館や大阪城ホールも成功させた。僕は、この時点でジュディ・アンド・マリーとして一区切りが付いたと思うんですよ。
恩田:そうですね。

●で、最新アルバム『THE POWER SAURCE』でそれこそハチャメチャなサウンドを作っているのに、ジュディ・アンド・マリーとしてのロックを完成させているから、ワンランク上に行ったという実感があるんです。
恩田:2ndで「できたかな」というのがあって、三枚目で「もっと広げたいな」というのがあって、で、三枚目から四枚目にいく時に「どうする?」ってなったんですよ。でも、みんなの中に信じるべきモノっていうのがあったと思うから、それを押し進めたってところかな。

●最新作では”踊れる“というのがコンセプトにあったそうですけど、”踊れる“といっても16ビートじゃなくて、バンドのグルーブで”踊らされる“って感じですよね。
恩田:歌とか、歌詞とかだけではなくて、演奏でも感じられればいいなと。

●そんな演奏面でも、変拍子とかを使っていても自然にアレンジの中に取り入れられているというのも、やっぱり過去のフェリアとかの経験が生きてきているのかなと思うんですよ。それは恩田さんだけじゃなくてね。
恩田:僕個人で言えばそうかもしれないし、公太くんもジェラルドをやっていたし、TAKUちゃんもスカンクをやってたしね。三人とも変拍子をやっているということを分かってもらえることよりも…。

●さらりとやってますからね。
恩田:そうそう。そういうのが好きなのかもしれないですね。昔は、いかに難しいことをやって、「難しいことをやっているな」と思われることに美徳を感じていたころもあったんですけど。音楽のことがよく分からなかったとしても、理屈抜きでリスナーに「何が理由か分からないけど、何か好きなんだよね」というような気持ちになってもらうことが一番難しいって思うんですよ。

●難しいし、一番大事なことですよね。
恩田:昔にやっていた音楽だとリスナーにいろいろ求めちゃってたのかもしれない。だけど今は分かる人には分かってもらえたらいいし、分からない人にはなんとなくでも面白いとか思ってもらえる…それが両立できればいいかなって。

●今、このアルバムを引っ提げてのツアーの最中なんですが、恩田さんにとってステージとはどんな場所ですか。
恩田:僕は「ああ、自分のいる場所に帰って来たな」って感じがする。そこでプレイして、自分たちが作った曲で、みんなが楽しんでくれて、笑ってたりとか、感情をむき出しにしてくれたり…共感してくれているのかもしれないし、そういうのを見ているとすごく自分の居場所みたいなものを感じられるんですよ。だから、ツアーはすごい楽しみなんですよ。みんなが楽しみにしてくれていたというのも伝わってくるしね。