インタビュー 医療法人社団・成和会西新井病院理事長・院長 金萬有先生に聞く 「民族と祖国を愛する心なくして真の生活はありえません」
医療法人社団・成和会西新井病院の理事長・院長として地域医療はもとより、在日同胞社会と祖国の医療に特出した貢献をされてきた金萬有先生を自宅に訪ねた。
金萬有先生 |
―解放前、先生は、どのような志で苦学をされたのですか。 済州島のモスルポで生まれた私は、「書堂」で学んだのち民族学校の「漢南義塾」に入ったが、授業がやさしすぎてそのまま一級上のクラス、2学年に飛び入学しました。そこは2学年しかなかったから、日本の官制小学校の3年に入りましたが、4、5年は未設なので再び「漢南義塾」に5年生として戻りました。そのようにして4年で卒業しました。 その時、済州島一の秀才と言われた姜文錫先生の影響をうけました。先生は民族主義や社会主義、帝国主義について、非常に解りやすく情熱的に教えてくれました。私は「この先生のような立派な人になりたい」と思い、ソウルへの苦学の道に飛び込んだのです。 親兄弟が賛成してくれる訳はないと考えたので、私はこのことを内緒にしました。そしてハラボジに、「アボジがこづかいを借りて来なさいと言っています」と、ウソを使ってお金を貸してもらい、旅費の一部に充てました。 ソウルでは、先輩らがしばらく居候させてくれました。しかし、誰もが生活苦に喘いでいたので何時までもお世話になる訳にはいかない。私は苦学生たちを寄宿させ、中学の勉強をさせてくれる「苦学堂」を知り、そこで学ぶことになりました。ところが、栄養失調状態になってしまい、あげくには化膿性肋膜炎にかかってセブランス病院に入院しました。当時この病院は、貧しい人々を無料で治療してくれたので、私は助けられました。私はそこで、右の肋骨を3本切り取る手術をうけました。一ヶ月入院し、退院後まもなくまた発熱が続き、セブランス病院へ駆け込みました。今度は腸チフスでした。意識不明になるほどの高熱で、生死を彷徨いました。半年間入院した後、私は強運にも恵まれ無事退院することができました。 「苦学堂」を1年で中退した私は、YMCA中学の速成科2年(3年制)に入り、中学のカリキュラムを勉強しました。そして翌年、普成高等普通学校(普成高普)4年に編入しました。普成高普は朝鮮人が通う私立中学校で、民族色のつよい学校でした。 普成高普に入った年の1931年7月、「万宝山事件」が起こりました。私は仲間らと「この事件は、日本帝国主義の満州侵略のための策略だ」と見て、闘いに立ち上がりました。朝中両国人民の離間を図ろうとする日本帝国主義を糾弾するビラをつくり、各学校に撒きました。その翌年4月、私は授業中にいきなり踏み込んできた刑事らによって、鐘路警察署に連行されました。 私は逮捕されて来た仲間と共に、当時朝鮮総督府でも知られた「三輪」と名乗る特高警察官の取調べを受けました。未成年の私も、容赦なく拷問をうけました。その後、未決犯としてソウルの西大門刑務所に9ヶ月、既決囚として慶尚北道の金泉少年刑務所に一年間も収監されました。そこでは「ただ一人の少年政治犯」で、「思想を広めないよう」に独房に入れられ、凍傷に苦しみました。私は獄中で書物を読み思索にふける中で、将来社会の不条理をただす作家になりたいと思いました。 服役後19歳になった私は、ふるさと済州島へ帰りましたが、「政治犯」のレッテルがつきまとい、進学や就職の道は完全に閉ざされました。私は3年間、「ソェテウリ(牧童)」として家業を手伝いましたが、夢が遠のいていくようで堪りませんでした。 ―先生は、どうして医師の道へ進まれたのですか。 私は21歳の時、面長をしていた兄の助けで日本への渡航許可書を取得し、大阪に嫁いでいる姉を頼ってきました。しかし、過酷な民族差別のなか悲惨な生活を強いられている在日同胞たちを見て心が痛みました。姉は、使い古しのセメント袋を再生させる仕事で生計を立てていましたが、作業中に出る粉塵を吸い込んで肺を冒されていました。私は辛くてたまりませんでした。何としても学問を修め、姉やその家族を楽にしてあげたいという衝動を抑えられませんでした。私は文筆家になりたかったので、アルバイトをしながら関西大学の第一予科3年コースを一年で終了し、一年浪人した後、上京しました。そして第一高等学校(一高)― 現在の東京大学教養学部―を受験しました。しかし、英語の発音で難点があり、ハードルを越えられませんでした。 途方にくれていた時、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)の期限ぎりぎりの募集広告が目に留まりました。私は、幼いころから医者には嫌な先入観を持っていて苦手でした。でも在日生活を体験しながら、民族差別の中で生きていくには確固たる資格を持つことが有利で、医師になれば何とか生活はできるだろうし、姉のように苦しんでいる人々を助けてあげられるという思いが込み上げてきました。 私は、生活苦を覚悟の上で医学生になりました。新聞配達に運送会社の荷物運びなど何でもしましたが、私にとって最良のオリジナルなバイトがありました。それは収入と学業をミックスしたもので、教授の講義筆写ノートの作成でした。クラスに8人のプリント委員がいて、その責任者に私が選ばれました。私は、何時も教室の一番前の真中に席をとって、棒読みするような教授の講義を自分だけ解読できる略字、記号などを駆使して速記しました。それを8人の委員で照らし合わせながら初校、再校、校了と3回校正し、責任者の私が確認をしたのち、ガリ版でプリントして希望する学生に有料で配ってあげるという仕組みでした。委員たちは私が一番たくさん働いたからと、多くの収入を回してくれました。 ―朝聯時代になぜ医業を他の医師に委嘱し、社会運動に身を投じたのですか。 祖国の解放を迎え、激動を極める情勢の中で、私も座視してはいられない思いでいっぱいでした。もともと医学以前に社会・政治問題に関心が高かったし、反日運動に参加し「少年政治犯」として弾圧された経験から、祖国と民族、同胞社会の状況を見て見ぬふりをするなんてとても出来ませんでした。 私は自ら経営していた医院を他の医師に委嘱し、専従で朝聯活動に専念しました。いつも家を出たきりで、医院はおろか、家庭のこともほとんど顧みませんでした。 朝聯組織拡大のため各地の同胞部落を訪ね、オルグ活動をしました。また一日も早く故郷へ帰りたい同胞たちを支援するため、朝聯下関出張所に所長として一年間、単身赴任して活動しました。そんな中で帰国同胞らのため、人知れず故郷と釜山、ソウルを幾度か往復しました。現地の労働組合や社会団体を訪ね、在日同胞の状況を説明し、協力を訴えました。釜山では海員組合、ソウルでは帰国者らが協力の意思を表明し、現地に「朝聯出張所」を設置することが出来ました。 しかし私は、祖国分断の固定化へと突き進む現実、苦しい生活を余儀なくされている在日同胞を目の当たりにし、心苦しく思っておりました。そして、「人々の病を治すことも大事だが、社会の病を治すことがより重要ではないか」との想いで、朝聯活動に没頭していきました。 私は朝聯中央の情宣部長、機関紙「朝聯中央時報」編集発行人、「朝鮮人生活権擁護委員会ニュース」論説委員などをしながら執筆活動をしました。また、組織部次長として東北・北海道に朝聯地方組織を構築する活動もしました。 ―西新井病院創立時に掲げられた三大方針と、今日の病院の状況について伺いたいのですが。 私は朝聯解散後、医業に戻りました。1953年、29名の朝・日有志らにより西新井病院建設協賛会が発足しました。この有志らは、私が医院をしていた時からの患者や友人で、よき理解者たちでした。彼らは、医療過疎地域であった西新井にぜひ病院をつくって患者らを助けてほしい、そのため自分たちが後援すると言ってくれました。 この年の5月、私は開院時に院長として、病院の3大方針を打ち出しました。それは、「@朝・日親善、A民主的医療センターB社会福祉」です。この方針は西新井病院51年の歴史を通して一貫して堅持してきたポリシーです。 当時、外部の或る人は、「あの病院は『アカ』だ」とイロメガネで見ようとしたし、また内部の職員のなかでも「なぜ『日・朝親善』でなく、『朝・日親善』なのか」と言う人もいました。私は病院の代表者である自分は朝鮮人であり、朝鮮人としての主体的な立場から医療事業を展開していく、だから「朝・日親善」なのだと主張しました。 「朝・日親善」という国際性を基盤にし、「民主的医療センター」として住民が求める高度な医療を民主的な形で実行し、「社会福祉」との関連で病院を考えるということです。半世紀をこえる病院の歴史を通して、この3大方針は成和会の確固たる伝統になりました。
西新井病院 この間、成和会の本院である西新井病院は、幾多の困難をのりこえ基幹病院へと拡大発展しました。さらに成和会は関連医療機関として、成和循環器クリニック、成和クリニック、成和腎クリニック、西新井病院附属上野診療所、看護専門学校、和宏会歯科そして介護保健施設「むくげのいえ」を運営しています。とりわけ、ピョンヤンには「金萬有病院」があります。 ―祖国に建設された、東洋一のスケールを誇る「金萬有病院」についてお話下さい。 病院経営が軌道にのり、関連医療機関を完備する事業もすすんだ頃、私はそれでも何か物足りないものを常に感じていました。今まで自分が、果たして祖国に直接貢献したものがあるのかと思えたからです。それからも随分考えました。共和国を訪問した息子から、現地の保健事情について聞き、祖国の医療事業に何か役立ちたいと考えました。 私は祖国に総合病院を、それも東京の西新井病院より大きい病院を建てると決心しました。ところが祖国の関係者は当初、医療器具などを何点か提供したいという話だろうと思っていたようすで、本当に驚いたようでした。私の決心が、ただちに金日成主席と金正日書記(当時)に報告されました。私は、この病院の名称を「平壌市民病院」、もしくは「愛国病院」としてはと考えていました。ところが主席は、私を高く評価して、「金萬有病院」とし、私を名誉院長にするよう指示されました。夢にも思っていなかった配慮に、私は感激を抑えることが出来ませんでした。 そして幾度となく祖国を訪ね、現地の医療現場を見て回り、さらに北京の中日友好病院も視察してみました。敷地を定めるため平壌市内を廻ってもみました。主席は、先生が良いというところは私も賛成だと言われて、敷地の問題も解決して下さいました。このような過程を経て、病院設立に関する議定書に共和国保健部副部長と私が署名しました。 ところがその後、私は上半身を支える柱の役目をしている両大腿骨の頭部が腐ってしまう恐ろしい病気に襲われました。私は歯を食い縛って手術に絶えぬき、車椅子で祖国に行って仕事をすすめました。そして、1986年4月に「金萬有病院」が開院しました。この病院はスケールにおいて東洋一となり、内部の構成面でも病舎は一つに中央化し、エレベータを合理的に設置するなど、独自の構想が実現されています。 ―金日成主席にお会いになった時はいかがでしたか。 主席は開院式の翌日の夜、私たち夫婦を芸術公演に招待して下さり、「こうして会えて嬉しいです。院長先生が祖国に、人民のために立派な病院を建ててくれて本当に感謝します。」と言って下さいました。私は上気して、自分があいさつも申し上げられなかったことを、あとになって気が付いたのです。 その翌々日、主席は私たち一行を招いて下さり、家庭的な昼食を共にしました。その場で、「金萬有先生がわが人民の健康増進のために、祖国に立派な総合病院を建てられた功績について祖国は永遠に忘れないでしよう。」と言って下さいました。 私は、この栄誉は決してお金で買えるものではないと思いました。栄誉に包まれ、幸せな気持ちでいっぱいでした。 ―最後に、朝大卒業生や在学生に貴重な助言を下さい。 この日本の地で生活を営んでいても、日本に帰化することなく、チョソンサラムとして堂々と生きて行くべきと言いたいのです。 自らの民族と祖国を愛することを忘れては人間として、真の生活を営んでいるとは言えません。グロ−バル時代だの、ボーダレス時代だのと言っていますが、自分の出自を度外視し、自らの民族と祖国を離れては如何なる親善も友好もあり得ません。 私は朝大卒業生達に、この日本の地で民族性を守り、在日同胞社会を守る運動で中核的な役割をいつまでも果たしてほしいのです。
―ありがとうございました。 カムサハム二ダ。
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財団法人金萬有科学振興会について
洪南基 在日本朝鮮人科学技術協会東京支部会長
金萬有先生といえば、東京都足立区の西新井病院とピョンヤンの金萬有病院を思い浮かべる人が多いはずだ。一方、「財団法人金萬有科学振興会」については知っている人よりもよく知らない人のほうが多い。私は自分が金萬有科学振興会の研究奨励賞をいただいた縁から振興会の選考委員として運営に参加するようになったので、その経験から朝大の同窓生達に是非知って欲しい事をまとめてみた。 金萬有先生が科学振興会の仕事を始められたのは1977年、63歳の時である。ご子息が大学の医学部に通っているとき、学費がなくて研究生活をおくれない若き同胞青年がいるとの話を聞いて心を痛められ、病院もうまく行っているのでひとつやってみようかと研究条件に恵まれない在日同胞自然科学者のための財団法人作りに取り掛かったのである。 基本財産2億円を用意して1977年に「金萬有科学振興会」を設立し、財団法人の認可を獲得するために課税をいとわず実績作りの助成を続け、ついに1982年文部省から財団法人としての認可を獲得された。以来、経済情勢の変動にもかかわらず毎年一度も欠かすことなく助成は続けられ、1977年から2004年までの27年間、総件数346件の研究助成を行ってきた。その内訳は、研究奨励(一件70万円)214件、共同研究の助成(一件150万円)10件、特別奨励賞12件、学術助成(一件50万円)60件、留学助成(一件50万円)20件、海外渡航援助(一件20万円)30件で、会誌の助成を含めると総額で二億円を超える助成がなされてきた。 金萬有先生は今年の8月で卒寿(90歳)を迎えられたが、今も若い科学者、研究者を育てる事には何よりも熱い情熱をお持ちである。今年5月の授与式でも金萬有先生は挨拶の中で、自分がかつて祖国を失った一人の在日朝鮮人医学徒としてなめた辛酸の日々を思い起こし、この研究助成事業を思い立ったと設立当時のことをお話された。また、祖国と民族の発展に役立つ研究者を育てたい、「在日同胞科学者の中からノーベル賞を」という民族の未来の「夢」を、現代に生きる在日の若い同胞研究者に託して27年間、今日までさまざまな困難を乗り越えながら振興会の運営をやって来たと感慨深くお話された。 日本では在日の我々に対し同化政策が推し進められ、民族の独自性が無視され、自主性の要求に対して差別と敵視で対応されることが多い。勉学に勤しみたくても学資がない、就職できない、さまざまな困難を目の当たりにして初めからあきらめ、或は途中で投げ出してしまうことがよくある。とくに朝鮮大学校卒業生には日本の大学卒業者以上に差別が大きい。金萬有科学振興会の研究奨励賞は日本の大学で博士号を取得したか、もうすぐ取得できるという若手の研究者を中心に贈られることになっているが、この間行われた助成では、日本や欧米の学会賞に輝く研究者が現れ、また科学研究の第一線で活躍する同胞研究者が数多く育った。この受賞者の中には朝鮮大学校の出身者49名が名前を連ねている。まことに嬉しい限りである。 毎年の事ではあるが、授賞式で研究助成金を授与された研究者達からは、研究者としての誇りと決意、自分達に対する金萬有先生はじめ在日の諸先輩の熱い励ましに対する感謝の気持が溢れている。日本や外国の研究機関で活躍する若い人がたくさん育っており、経済的な事ばかりでなく、学問そのものから来る困難をも果敢に乗り越えながら頑張っているのである。受賞者のほとんどが祖父母やアボジ、オモニの苦労を目の当たりにしているので、この助成金に込められた金萬有先生の高い志を率直に感じ取っている。 振興会の事業に対して人々は賛辞を惜しまない。私たちの住む日本という困難な社会情勢の中で、金萬有先生はこれから育つ研究者達に一筋の光をあててくださったと思う。 振興会が健全に今日まで発展してきた陰には院長婦人、辺玉培女史の内助の功がある。何時、いかなるときでも金萬有先生のそばで先生を助けながら財団の成長を見守ってくれたのである。何事も始める事はできるがまっとうすることは難しいものである。改めて金萬有先生とご家族に感謝したい。 先生がよくお話されるが、我が朝鮮民族からいまだ自然科学の分野でノーベル賞が出ていない。学位を取得し、研究者として一人前になった在日同胞科学者が、朝鮮人としての誇りを持ちながら自分の立っているところで真に努力するならば、祖国の社会主義建設と科学技術の発展に優れた貢献をすることができるであろう。そして、人類に貢献できる業績をも上げられると思う。 最後に今年卒寿を迎えられた金萬有先生のご健康と長寿を祈念する。
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