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丸山南里
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2005/06/10のBlog
現代の技術と科学論――21世紀の希望の時代にむけて

ここでは17世紀機械論哲学の登場からニュートン力学の成立過程をニュートン力学の及ぼした社会的・技術的・哲学的影響に関連させることにより、我々にとっての技術と科学の意味を定義します。17世紀機械論哲学以来の主観的認識の発展過程を学ぶことにより、現代の政治家が民衆から追放される21世紀の民衆の文化革命に共通する概念を探っていきます。

このための解析手法(新しい見方)に必要な道具を(技術の科学の歴史から借用して)定義しておきます。

複雑な現象の観察を民衆が数十年の時間スケールで繰り返し実践することにより得られる主観的認識の集合が技術であると定義します。

複雑な現象の主観的認識が空間的に客観化されたもの(つまり地球の上のいかなる空間で誰がやっても同じ認識が得られるもの)が、その時代における科学とよばれるものであると定義できます。

すなわち民衆の主観的認識としての技術が客観化されたものがその時代における科学です。これがここで使う新しい道具です。(従来の定義と矛盾しているわけではありませんが、定義を方法を見る角度を変えたのだと思ってください。これは理解を深めるための比喩です。)

デカルトやガリレイの時代は潮汐現象をどのように認識するかということを題材として、月や惑星を観察する技術の積み重ねによる技術者の主観的認識が客観化される過程だったのです。この過程を経てようやくその社会の民衆と社会の体制(と権力機構)の客観的認識として形成されたのがニュートン力学であったといえます。

註:潮汐や惑星の運動のみではなく、18世紀、19世紀、20世紀を通して、ナポレオンに対するヘーゲルの見方、ヘーゲルから神を追放したマルクス、絶対的認識を廃止したフッサル(Fussel)の現象主義、現象主義を原動力としてソビエト社会主義の解析に努力したサルトルの方法には「体制化された客観的認識が正しいという保証はどこにあるのか?」という問いかけがありました。

これは認識する対象が潮汐現象なのか社会現象なのかという違いがあるだけで、主観的認識の客観化過程の問題はなんら解決されなかったと言えます。ブッシュのイラク民衆大量殺戮戦争における兵站戦略に合流することを人道的な戦争支援活動現象と強弁する自民党員の現象論が正しいという保証はどこにあるかという問題は、彼ら野蛮な政治家を養っている現代の我々自身の問題です。

17世紀のデカルト以来の認識論の問題は積み残しのままで、400年経過したのだと悲観的になってはいけません。ナポレオンの時代に悩んだヘーゲルよりも我々のほうが歴史からたくさん学べるからです。

哲学者が積み残してきたこれらの現象認識の問題は技術と科学のにおける認識の問題と瓜二つです。なぜなら、「絶対静止座標をどのようにして保証するか?」というニュートン力学の基本の問題は、その後マッハの力学やアインシュタインの特殊相対性理論の形成に引き継がれるだけでなく、ニュートンの力学的世界が、物質だけでは自己完結しないこと(すなわち外部に能動的な作用因としての絶対座標を保証する何者かを含んでいた)からです(山本義隆、1987、熱学思想の史的展開――熱とエントロピー、539ページ参照)。

我々が複雑な現象をどのように認識するかという問題は特にフッサルによって現象論哲学として提起され、この方法を引き継いだサルトルはソビエト社会主義について思い悩んだのです。自然現象について思い悩むことを職業としている人が自然科学者であると分類できます。民衆と社会体制の相互の作用について悩んだのがかつてヨーロッパの哲学者です。現代の我々は何を悩むべきか?

現代の納税者民衆は民衆の技術社会を管理することを目的として、税金の配分を政治家に委託しています。したがって現代社会に生きる我々にとっての技術論とは、民衆の認識から得られる主観的認識(技術)を客観化する過程において、政治家が民衆の代表として現象を認識する能力があるかどうか(技術の客観化能力)を評価するための我々の哲学であるといえます。

現代の政治家は納税者民衆の主観的認識さえ理解する能力を持っていません(天木直人のホームページを参照)。あのニューズウイークでさえ、最近は日本の政治家の卑劣さを皮肉っています(ニューズウイーク日本語版のここ数週間のジェームズ・ワーグナー副編集長の記事を参照)。したがって現代の政治家は社会を構成する要素として不適切であるなかりでなく、社会に害毒さえ及ぼす寄生虫の役割を果していると判断すべきです。

科学と技術の歴史(山本義隆著「磁力と重力の発見」を参照)やヨーロッパ哲学の歴史を、現代日本の政治家と民衆の問題(つまり民衆が政治家の嘘を見破り、政治家は民衆を舐めきっているこの日本の社会の関係)を、科学と技術の歴史における主観的認識の客観化過程)と関連させて考えることにより見えてくる21世紀における我々の文化革命は我らに希望を与えてくれます。
2005/06/01のBlog
17世紀機械論哲学の歴史から学ぶ現代の理論
山本義隆著:磁力と重力の発見3巻近代の始まり 
第19章 17世紀機械論哲学と力から何を読むか?

16世紀後半から17世紀はじめにかけて、自然の諸現象があきらかになり、それまでの神秘的教説・魔術思想の主観的でご都合主義的な議論にとってかわる新しい哲学の創出を目指す動きが全ヨーロッパで湧き上がっていたとき、ガリレイとデカルトの機械論哲学が出てきた。デカルトやガリレイの功績は、16世紀までの神秘主義・魔術的思想から離れ、考察する対象と認識する人間とを分離したことだ。諸々の感性的性質にひそんでいるもの〔隠されたもの〕を取り出したのである。

ガリレイは潮汐を地球の自転と公転」の重ね合わせの効果とする説に固執したわけはなぜだろう?デカルトが「世界の構造について多くの事柄が少数の原理から演繹される」と言って、恣意的な議論によるもっともらしい捏造しかできなかったのはなぜだろう?

結局、ガリレイの数学的現象主義も、デカルトの機械論も、古来ときには魔術とも見られた磁力や遠隔力としての重力に対して、科学概念としての権利を認め、その法則を確定し、理論の中に位置づけるこことに失敗したのだ。観測で得られたケプラーの法則には目もくれずに、ケプラーが懐胎した重力の概念を育て上げようとしなかったのだ。(加藤紘一の科学技術立国論にはこの歴史認識が欠けている。)

アリストテレス・スコラの不毛な言葉の氾濫や、魔術思想のご都合主義であいまいな説明にうんざりしていた17世紀世ヨーロッパ民衆にとって、デカルトの機械論哲学は単純な議論は新鮮で明快に訴える力を持っていた。モリエールの喜劇「女学者」では「私はデカルトの流体説の方が親しめますわ。私はあの人の渦動運動説が好きよ。」とパリの民衆はデカルトを支持したのだった。デカルトの機械論は俗受けする要素を持っていたのだ。(演劇狂いしていると言われる小泉はモリエールの喜劇「女学者」を読んでデカルトの真似しているのだろうか?)

「対象を観測して得られた自分の主観的な認識が、観測された対象とまったく同じものである保障はどこにあるか?」という設問がニュートン力学の成立後にマッハやアインシュタインに引き継がれ、絶対と相対という概念がはっきりと提示されるのはようやく19世紀になってからである。

つまり、「自分が認識していることは観察している自然対象と同一であるか?」すなわち「理論は自然を正しく表現しているか?」という理論物理学の問題は17世紀のデカルトが観測される対象と観測する側の認識を分離して以来、18世紀-19世紀ー20世紀をかけて哲学者たちに引き継がれ、Fussel現象論哲学からサルトルのパリ労働者学生との連帯思想にまで流れるのだ。

ロシア革命成立後のスターリンの時代、戦前戦後の社会党と共産党との近親憎悪の時代、60年代、70年代の新左翼と呼ばれた団塊世代の仲間内の殺し合いをなぜ我々は避けることができなかったのだろうか?

対象と認識が一致すると主観的に思い込むことの問題を物理学で突き詰めたのはマッハとアインシュタインである。これは今日の物理学の絶対座標と相対座標と問題である。

Fusselで代表される哲学の問題は17世紀のガリレオ以来の問題ではないだろうか?すなわち、「対象を観測して得られた自分の主観的な認識が、観測された対象とまったく同じものである保障はどこにあるか?」という設問は我々に残されたままだったのだ。

「絶対座標をどのようにして保証するのか?」という物理学の問題を考えることと「主観的に認識されたことが観察された対象と同じであることをどのようにして保証するのか?」という哲学の問題とは本質において同じではないのか?これは、「ブッシュの主観にもとづいた認識がブッシュの観察した対象と同じであることをどのようにして保証するのか?」という現代の我々の問題である。

自由のためにイラクに戦争を仕掛けるというブッシュの主観が真理を表現していることを保障できないことはFusselがすでにあきらかにしているのだ。ブッシュや小泉に戦争兵器開発を進言する科学者たちに「呼びかける。
「哲学に戻ろうではないか?」

参考文献:山本義隆:磁力と重力の発見3巻近代の始まり
 みすず書房 2004年 ISBN4-622-08033-8
山本義隆:シモン・ステビンと16世紀文化革命、湘南科学史懇話会通信第7号
 http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/home.htm
2005/05/26のBlog
なぜ岩波書店の雑誌「世界」2005年6月号はYKKの加藤紘一にインタヴューしたのだろうか?

YKK(山崎拓と加藤紘一と小泉)の加藤紘一と山崎拓やその他多数の政治家が科学技術立国という新語を発明して、日本の納税者民衆を欺いている。

あの岩波の雑誌「世界」2005年6月号が科学おんちを自称する加藤紘一にインタビューして、結局は加藤紘一の宣伝役に徹したのはなぜだろうか?

岩波の雑誌「世界」の記事はインターネットで公表されている2000年5月22日の化学関係学協議会における加藤紘一の科学技術立国日本という題の講演内容とほとんど同一である。したがって、岩波書店が2005年に加藤紘一にインタヴューするなら何か理由があったのか?

インターネットで公表されている加藤紘一のこの講演記録を読むと、加藤という自由民主党員は憲法に書かれている民主主義も理解せずに、山崎拓やほかの自民党議員の名前をあげながら、また自分が外務省官僚に採用されてから納税者民衆のお金で米国留学を楽しんだことまで自慢しながら、まるで封建領主が奴隷に恩を施してやったような恩着せがましい口調で自分の権力を日本の納税者民衆に誇示している。

彼の講演の最後では「自然と共生できる科学の発展を目指ざそう」と言って「神様とは土着の山岳信仰みたいなものじゃないか」と言い、「実は日本のアイデンテイテイーなのかもしれない。本来、そういうもので 天皇家というのは、実は自然と人間との間を結ぶ役割」と言ってのける。

科学技術立国という巨大予算を配分したこの加藤という男は自分の言葉がここでは「自然と共生する科学の役割とは天皇家の役割である」と論理的に帰結することに気がついているのだろうか?

若いころの加藤紘一は東京大学法学部で法律の論理を学んだはずなのに、自由民主党員になって論理がわからなくなったとでも言いたそうである。

この加藤という男には納税者民衆のお金を使った科学と技術の政策を任せられない。加藤紘一には納税者民衆がこの国の主権者であるという日本国憲法の知識と、科学と技術の歴史と哲学の学部程度の知識を誰も教えていなかったのだ。

「ヒットラーがドイツ国のアイデンテイテイーに成ったとき、ドイツ人はヒットラーに抵抗できなくなった」とフロムは言う(エーリッヒ・フロム:自由からの逃走、参照)。 

「日本のアイデンテイテイーなのかもしれない。本来、そういうもので、天皇家というのは」ととぼけている加藤紘一は1930年代のヒットラーのナチズムを知っていたのだろうか?

この加藤という自由民主党員は自らが自由から逃走しているだけでなく、この国の民主主義を殺し、日本の民衆にファッシズムを導く役割を果していることを果して自覚しているだろうか?

科学と技術がどのようなものかももわからない加藤紘一を、まるでNHKテレビにでてくる封建時代のバカ殿のごとくふるまわせている2000年5月の化学関係学協議会はすっかり加藤に舐められたと私は思う。

以下は加藤紘一の講演録(http://www.katokoichi.org/database/kj_20000522-kgk.html)からの抜粋である。――――――――――――――――――――――――――――――――
■自然と共生できるような科学の発展を目指そう

体細胞を使って亀井静香を100 人つくっちゃいけないだろうと思います。そんなことをしたら神様に怒られる。神様に怒られるとみんなが漠然と言うとき、何でそんなことを言うんだろうと。

それは何かの規範が心の中にあって、その規範というのは、
日本人が心の中で思っている神様というのは、やはり山川草木、すべてに命と神が宿っているんだから、それを大切にしようとした土着の山岳信仰みたいなものじゃないかと。

自然をコンカーというか、克服しないようにして、自然とコウエグズィステンスをねらい、生活の中に取り入れて、していただいてありがとうと言いながら、日々暮らしていくというふうに、どうも先祖様は考えたらしい。

そこなんじゃないか。自然と共生するという、
実は日本のアイデンティティーなのかもしれない。本来、そういうもので。天皇家というのは、実は自然と人間との間を結ぶ役割、

徴税権も軍事統帥権も持たないがゆえに、126 代、日本社会の中で権威として存在したが、

あの中曽根康弘さんがおっしゃっているということは、実はかなりの自然というものと、我々の関係を象徴しているのではないかなと思います。

こんなことを実は半年くらい私は考えて、あちらこちらでしゃべっているんですが、
森さんがああいう発言をされたものですから、ここ1、2か月はしゃべらないようにしていかないといかぬ と思いつつ、

人間の生活をより豊かに、優雅にし、そして、自然と共存できるような科学の発展、それをプリンシプルに置きながらお考えいただく限り、そして、本当にいい研究にはお金を注ぎ込んだって大したことありません

是非この学会も御協力いただきたく、そして、会の間ちょっと役員の代表の皆さんにお会いしたんですが
本当にみんなで大同団結されて、お互いに相集うところでもあれば。

お手伝いに行くということを産業界でも、大学の学科のレベルでもどんどんやっていただかなきゃいかぬ 時代じゃないかなと思います。

2005/05/23のBlog
ぺトラ・ケリー「希望のために闘う」

この国の40%の民衆は政治家に幻滅し、選挙に行く価値さえも見出せないのに、小泉という軽薄な男の支持率がさがらないとされているのはなぜだろうか?

「ワールドピースナウと労働組合が理解しあえないうちに、トンビ(敵)は
ちゃっかりと油揚げをさらっていくのだ」などと腐っていましたが、
先日は古本屋でぺトラ・ケリー著「希望のために闘う」春秋社1985年を買って読み、目が覚める想いをいたしました。

この本には社会民主党を離党したぺトラ・ケリーが、緑の党員として社会民主党の
ウイリー・ブラントに公開質問を送っていたことが書かれています。

社会民主党が当時のドイツ民衆から見放されようとしているのは
「ドイツ民衆が右翼を求めているからではなく、ドイツ民衆は革命を求めているのだ」
ということを、ぺトラ・ケリーは社会民主党のウイリー・ブラントに説得することができたようです。
この本の目次だけを列挙してみると
 今の体制は破産している。
 ブルジョア社会の冷酷さにたいして連帯が必要である。
 これまでの諸政党ーー破産した体制の鏡像
 非暴力抵抗とは何か
 暴力機構からの脱却
 軍備をなくそうーー下から
 毒ガス貯蔵庫をなくせ
 カトリック教会への挑戦
 軍隊的考えに反対して
 環境兵器に反対する
 癌は環境だ
 原子力と癌
 癌の子供たちのための心理社会モデル
 ウイリーブラントへの公開状
などがあります。

ウイリーブラントは左だったからこそ、ぺトラケリーの訴えが理解できたのだとおもいます。
果たして現在の民主党には民衆の熱い変革への渇望を理解できる左翼などいるのでしょうか?

戦後の50年間に日本共産党はよくも悪くも「民衆のために」を目標に掲げてきながらも、
藤岡信勝東大教授などのようにかつての共産党員が現在では右翼に転向しているものが
少なくないのがこの国には見られます(鶴見俊輔、1995参照)。

自由と民主主義を理解できない小泉、公明性を理解しない冬柴公明党議員、
民主主義を理解しない西村民主党議員など、この国の国会議員の野蛮さを民衆は直感的に察知します。

ぺトラーケリーのこの本は80年代のドイツの状況を書いているのですが、
「既成政党が破産した体制の鏡像である」という言葉は現在のこの国の政党にぴったり
当てはまるのではないかと思います。

自民党+公明党+民主党が日本の民衆から見放されて壊滅し、
赤と緑の連帯がこの国の民衆を幸福するためには、
緑が戦後50年間の赤の失敗から学ぶことが必要ではないでしょうか?(大西・武井、2005年参照)

参考文献: メデアを創る:天木直人事務所 http://www.amaki.cc/

ぺトラ・ケリー著「希望のために闘う」春秋社1985年
Petra K. Kelly Um Hoffnung KampfenLamuv Verlag, 1983.

鶴見俊輔著「戦時期日本の精神史」岩波書店 1995年
同時代ライブラリーISBN4-00-260082-3

大西巨人・武井昭夫:21世紀の革命と暴力「縮図・インコ道理教」をめぐって、「社会評論」No.141 2005年春号 スペース加耶出版 
ISBN 4-434-06030-9