言葉を越えて
.ネットでイロイロな方と「意見交換」していると、興味深い。
キリスト信仰をもっていない方と、人間の価値基準について「意見交換」すると、結局は「人間中心主義」というところで、壁に当たってしまう。
これは仕方ない。聖書は人間が書いたモノに過ぎない、という立場とは、土俵が違う。お互いが「信じる」ところで生きていくしかない。
キリスト信仰を持っているモノ同士でも...。
途中までは「意見交換」が進んでも、聖書の捉え方、神学、教会観などで異なる部分が明確になっていき、最終的には、お互いが信じるところで、という結論に達する。
いわゆる「クリスチャン」という言葉。
宗教として「キリスト教」を信じている人も「私は〜です」というので、なかなか難しいところがあったりする。
人は、各々が「世界観」というか「認識枠」を持っている。それによって物事が定義されている。生い立ち、経験、受けた教育はもちろん、経済状態や人間関係などの現状の生活によっても、その「世界観」や「認識枠」は変わってくる。
クリスチャンの場合、「世界観」や「認識枠」の主張の根拠が聖書にあればいいのだが、聖書から逸脱したものであれば、なかなか厳しいものがある。
特に、カリスマ・ペンテコステとひと括りにされる、いわゆる聖霊派という流れは、奇妙というか異様というか、不可解な方が多いように感じる。
俺自身もその流れにあって、信仰生活をおくって来たので、他人事ではない。表れは軽いものから重いものまで様々だが、精神を病んでいる方が多いような気がする。しかも、それを「レイテキ」と捉えてしまっている。
精神に異常をきたしながら、それを「レイテキ」と認識していると、これは根が深い。見方を変えると、悪霊を招き入れているようなものである。
下記のような症状が出てしまう。
認知の歪みの定義
http://www.nakaoclinic.ne.jp/mental%20health/mental100.html (コピーやリンクへの注意書きがなかったので記載。指摘があれば削除します)
こういった症状に陥り、悪循環を招いてしまう。
本人がそこに留まる意思を持っている以上、どうしようもないだろう。 主にお任せするのみである。
さて本題。
先日「自分の十字架」という記事をアップした。
そのことも絡めつつ、今日は1曲紹介したい。 聖歌でも賛美歌でもない。プレイズ&ワーシップでもない。 世の中の曲であるw
「Extreme」という、米国のハードロックバンドの曲らしい。
曲名は「more than words」という曲である。 ずっと以前、15年くらい前?に聞いたことがあり、ずっと気になっていた曲をユーチューブで見つけた。
世の音楽であるから当然のことだが、男女間の恋愛について歌っている、そう思われる歌詞である。
作曲の意図においては、恋愛の中で言葉ではない感情表現、おそらくは性的接触、に誘うような歌詞内容なのだろうと推測できるのだが。
ここで「認識枠」である。
この曲の歌詞の日本語訳を読んで、歌い手が「君」に伝えているメッセージは、キリスト・イエス御自身が、キリスト者に発信している内容と感じるのだ。
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「More than Words」 by Extreme
「愛してる」っていうことだけが
僕の聞きたい言葉じゃないんだ
もちろんそれは
君に言って欲しい言葉だけど 君の胸の中に 秘めていてくれればいい
君が感じていることを
理解するのはとても簡単なこと
言葉以上のものがあれば
それははっきりと分かるはず
そうすれば僕に
「愛してる」なんて言わなくて済むよ 分かりきったことだから
僕のハートが二つに裂かれたとしたら
いったいどうすればいいんだろう
君の気持ちが
本物だということを知るには 言葉以上のものがあればいい
そんな言葉を
どこかへやってしまったとしたら 何て言えばいいんだろう
「愛してる」というだけじゃ
何も変わらないから 言葉以上のものがあればいいのに
君に伝えようとしてきた
分かって欲しいんだ
目を閉じて
手を差し出して 僕にふれてごらんよ
僕を抱き寄せて
どこにも行かないから 言葉以上のものを君に伝えたい そうすれば もう「愛してる」なんて言わなくてもいい なぜって 分かりきったことだから
(Lyrics Translated by Kay.T)
(コピーやリンクへの注意書きがなかったので記載。指摘があれば削除します)
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「僕のハートが二つに裂かれたとしたら いったいどうすればいいんだろう」
という歌詞は、罪のある人をも愛して止まない、神の「愛」。同時に、罪は絶対に受け入れられない、神の「義」。この葛藤を、感じずにはいられない。
もちろん「いったいどうすれば」の答えは、ゴルゴダ(カルバリ)にて、イエスご自身がハッキリと答えてくださった。
賛美、特にプレイズ&ワーシップの中で「愛します」という内容は、よくあるので、キリスト者は愛の告白を、イエスに捧げている。
だがそこで、口先だけ、になっていないだろうか...。
二葉亭四迷という方は
I Love You = あなたの為なら死んでもいい
と訳したそうである。
「あなたの為なら死んでもいい」
キリスト者が、こう告白できる相手は、主イエスのみであろう。
イエスは、みなの者に言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ルカ9:23
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心の病を、レイテキとして利用する危険について、なるほどと思いました。
2009/4/4(土) 午後 5:02
あと、more than wordsは、高校時代バンドでやった思い出の曲です。
2009/4/4(土) 午後 5:04
Homareさん
初コメ感謝します。
利用といいいますか...見分けがない、見分けができない、という感じですかね。
もともと占いやオカルトにハマっていた、とか悪霊的な影響があった場合が多いと思われます。
現代は、ハリポタなどの映画、ファンタジー系のテレビゲーム、対戦カード、そういったモノから、魔術的オカルト的な世界観が子供に植え付けられているので、この先おそろしいことになるでしょう。
また「聖霊の声を聞く」とか「主の導きに注意深く」とか教えられていると、真面目で熱心な方、言い換えると、心に余裕がなく冷静でない方、なんかは次第におかしくなっていくようです。
そういう面において、聖書に書かれている範囲に立たない聖霊派は、とても危険です。
昔、相当流行ったみたいですね〜w
2009/4/4(土) 午後 11:02 [ 武州乃鳩 ]
武州さん、はじめまして。
記事には共感するところがたくさんあります。
2009/4/14(火) 午前 11:11
スミスさん
はじめまして。コメ感謝します。
2009/4/14(火) 午後 8:47 [ 武州乃鳩 ]