[ 民族の独立運動
3 独立運動の展開
概要
 わが民族は日帝に国権を強奪された後、国内では抗日結社を組織して日帝に対抗し、国外では独立運動基地を建設し、独立戦争の基礎を固めていった。このようななかで、無数の愛国志士は自らを犠牲にしながら日帝の侵略に抵抗した。

 このような民族の意思が一つに結集し、爆発したのが3・1運動であった。3・1運動は全民族が参加した大規模な独立運動として、それまでの民族独立運動を新しい段階に転換させた重要な分岐点となった。そうして最初の民主共和制政府である大韓民国臨時政府が樹立され、独立運動の求心点となった。

 遠州と沿海州では独立軍を組織し、武装独立戦争を展開することによってわが民族の自主独立に対する意思と熱意を世界にとどろかした。また、国内では6・10万歳運動と光州学生抗日運動が相次いで起こり、さらに数多くの独立投資が日帝要人と親日派の処断、植民統治機関の破壊などの活動を展開した。

◇研究課題◇
1 3・1運動の民族史的、世界史的意義は何か。
2 大韓民国臨時政府の樹立と発展過程はどうだったか。
3 海外での独立軍の活動と成果はどうだったか。
4 3・1運動以後国内の独立運動はどのような方向に展開されたか。
5 韓国光復軍の性格と活動の内容はどうだったか。


1 3・1運動
秘密結社の組織と活動
 わが民族はたとえ日本帝国主義の侵略によって植民地支配を受けることになっても、長い民族の文化と伝統を土台にして、自主独立の精神で独立国家の建設を期することができた。

 乙巳条約を前後して全国的に広まっていた義兵戦争と愛国啓蒙運動は、国権を強奪された後にもつづいていた。日本軍の弾圧が苛烈になると、義兵は国内での活動を継続する一方、その一部は国外に移動し独立運動の基地を建設するとともに、武装闘争の伝統を受け継いでいった。

 しかし、国内での独立運動は日帝の無慈悲な弾圧によって秘密結社運動に姿を変え組織的に展開された。民族指導者は独立義軍府、大韓光復会、朝鮮国権恢復団、自立団、鮮命団など数多くの抗日結社を組織し、各種の宣言文、檄文などを通じて独立思想を鼓吹することに力を注いだ。そして民族文化の優越性を土台に光復に対する希望と信念を吹き込んでいた。

 また、このような抗日結社は各地の教育機関および宗教団体の組織をとおして教師と学生、そして志を同じくする宗教人を糾合して、祖国の光復のための独立運動を幅広く展開した。そして植民地経済政策によって搾取されていた農民、労働者とも連結して民族運動を幅広く展開していった。

 1910年代抗日結社のなかで最も活発だった団体は大韓光復会であった。この団体は軍隊式の組織で朴尚鎮が総司令、金佐鎮が副司令で、各道をはじめ満州にも支部を設置した。

 この団体の活動目標は満州に独立軍基地を作り、そこに士官学校を設立し独立軍を養成することであった。そしてこれに必要な資金づくりのために各地の冨豪に義捐金を納入させた。それだけでなく各地の親日派を探し出し、処断することもあったが、組織が密告者によって日帝に発覚し、総司令の朴尚鎮をはじめ多くの団員が逮捕されることによって活動が中断した。


3・1運動の胎動
 国内外で独立運動が粘り強く展開されているころ第1次世界大戦が連合国の勝利に終わった。終戦後パリで講和会議が開かれ、アメリカ大統領ウィルソンの世界平和案などが論議された。これに励まされて、民族指導者はパリ講和会議に民族代表を派遣し、わが民族の独立の熱意を伝え、国際的な協力と援助を得ようとした。こうして上海で組織された独立闘志の集まりである新韓青年党は金奎植を民族代表としてパリヘ派遣した。

 一方、国内の愛国志土は宗教界を中心に、国権の被奪以来世界情勢の変化を深く注目しながら、挙族的な独立運動を準備していた。

 この時、日本に留学していたわが留学生は東京に集まり、独立を要求する宣言書と決議文を宣布し、これを日本政府に通告したのち示威を展開したが、これが2・8独立宣言である(1919年)。

[写真:2・8独立宣言書]

 このような学生の独立示威運動が起こると、国内外で民族指導者が独立示威抗争を具体化していった。


3・1独立宣言
 挙族的な万歳示威運動を計画しながら、たがいに連絡を取り合っていた宗教界の代表が先頭に立って、ついに1919年3・1運動を起こした。孫秉煕、李昇薫、韓龍雲など民族代表33人の名前で独立宣言書を発表し、独立を国内外に宣布した。ソウルではタプコル(パゴダ)公園に集まった各級学校学生と市民が市街地に出て万歳示威を展開した。ほぼ同じ時期に地方でも万歳示威が相次いで起こった。全民族がこれに加わり、太極旗の波と大韓独立万歳を叫ぶ喊声は全国津々浦々に拡大、波及していった。

[写真:3・1運動当時徳寿宮前での万歳示威運動]

 これに大きく狼狽した日帝は、憲兵警察はもちろん、陸海軍まで緊急出動させた。平和的な示威によって正当な要求を主張したわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷され、家屋と教会、学校などの建物が焼き払われたり、破壊されるなど激しい受難にあった
(2)


(2) 定州、泗川、孟山、遂安、南原、陜川などでは日帝軍警の銃撃で数十人の死傷者を出し、華城堤岩里では全住民を教会に集合させた後、監禁し、火をつけ、虐殺した。また、示威に参加したという理由で、無数の人が投獄され、日本の警察から非人遣的な残酷な刑罰を受け、数多くの人びとが命をなくした。柳寛順の殉国の事実はこれをよく物語っている。3・1運動当時、万歳示威に参加した人員は総計2,023,098人であり、日帝軍警に殺された人は7509人、負傷者は15,961人、逮捕された人は46,948人であり、破壊、放火された民家が715戸、教会が47カ所、学校が2力所であった。


3・1運動の拡大
 ソウルからはじまった3・1運動は全国津々浦々に急速に拡大、波及した。ところで3・1運動は拡大する過程でだいたい3段階の様相を呈した。

 1番目は民族代表が独立宣言書を制作、配布することによって万歳示威運動を点火した段階で、このときの独立運動の方向は非暴力主義であった。

 2番目は学生、商人、労働者層の参加によって示威運動が都市に拡大した段階である。学生が主導的な役割をし、商人、労働者が万歳示威、罷業、運動資金の提供などの方法で積極的に呼応した時期であった。

 3番目は万歳示威運動が主要都市から全国の農村各地に拡大した段階である。農民が示威に積極的に参加することによって示威の規模が大きくなる一方、示威群衆は面事務所、憲兵駐在所、土地会社、親日地主などを襲撃した。このように非暴力主義が武力による抵抗運動に変貌していった時期であった。

 国内各地方に波及した3・1運動は、たちまち国外に拡大した。まず、満州と沿海州地方で激しい示威が起きた満州では龍井をはじめ間島地方で示威が展開され、沿海州地方でもウラジオストックで僑民が示威を展開して以来各地に波及していった。一方、ハワイ、アメリカ、メキシコなどの僑民代表はフィラデルフィアに集まり、独立宣言式を挙行し市街行進を行なった。

 国外の3・1運動で注目すべきことは、日本においても示威が展開された事実である。すでに2・8独立宣言をして3・1運動の起爆剤の役割を果たした東京の留学生は、国内の3・1運動の蜂起の情報に接し、ただちに万歳示威を展開し、大阪の同胞も示威運動を行なった。


3・1運動の意義
 3・1運動は独立運動の分水嶺として、わが民族に独立できるという希望と自信感を抱かせてくれた。そしてわが民族ぼ3・1運動をとおして主体性を確認し、民族の知恵と独立の意志を全世界に明らかにした。

 3・1運動は民族の底力を国内外に誇示した快挙であり、日帝に同調していた世界各国に、わが民族の独立間題を正しく認識させる契機となった。また、3・1運動は中国、インド、東南アジアおよび中東地域において反帝国主義民族運動を起こす先駆的な役割を果たすことにもなった。さらに3・1運動は国内外の民族独立運動を挙族的な抗争に誘導し、より組織的で体系的な独立運動へと発展させた。

 一方、3・1運動を契機に上海に正統政府である大韓民国臨時政府が樹立されたが、これはわが民族が自主的に民主共和制の政府を立てたという点で大きな意義があった。


2 大韓民国臨時政府の樹立と活動
臨時政府の樹立
 3・1運動で独立を宣布したわが民族は、その実を結ぶために政府を樹立しようと努力した。しかし、当時国内外で活動していた民族指導者は、日帝の非常に厳しい監視と相互連絡の困難によって、単一政府を樹立できず、いろいろな地域で各々別個の臨時政府を樹立した。

 国内では13道の国民代表名義で李承晩を執政官総裁に、李東輝を国務総理にする漢城政府が樹立され、中国上海では民主共和制の大韓民国臨時政府が樹立され、李承晩を国務総理に推戴した。

 一方、沿海州では孫秉煕を大統領とする大韓国民議会が組織された。このほかにも朝鮮民国臨時政府、新韓民国政府などがあったが、これらの政府は実際的な政府部署を整えていなかった。

 このようにいくつかの政府が各地で樹立されると、民族指導者はこれらを統合して単一政府を樹立し、より組織的で体系的な独立運動を推進しなければならないことを痛感し、統一政府樹立運動を展開した。


臨時政府の統合
 政府統合運動は民族指導者によって行なわれた。すなわち、国内で樹立された漢城政府を継承し、大韓国民議会を吸収し、止海に統合政府である大韓民国臨時政府を樹立した(1919年)。

 大韓民国臨時政府は各地の臨時政府を統合した後、民主主義に立脚した近代的憲法を制定して、李承晩を大統領に推戴した。そして憲政体制を立法機関である臨時議政院、司法機関である法院、行政機関である国務院で構成し、わが国最初の三権分立に立脚した民主共和制政府として出帆した。

[大韓民国臨時政府庁舎(1919)]

 大韓民国臨時政府の憲政指導体制は、政府樹立以後5回にわたる改憲過程を経て整備されていった
(3)

 第1次改憲では大統領指導体制として大統領が国政を総括した。しかし、不合理な点があって、6年後の第2次改憲で国務領中心の内閣責任指導体制に展開したが、2年後には第3次改憲で国務委員中心の集団指導体制に変えた。その後第4次改憲によって主席を中心とする指導体制へ転換したが、臨時政府が本格的に対日抗戦体制を整え、国際的に韓国独立の気運が高まると、と、再び第5次改憲で主席・副主席の指導体制を採択した。


(3) 臨時政府の第1次改憲(1919・9・11)では国務院、臨時議政院、法院の三権分立体制とするが、亡命地で司法権を行使することは実質的に不可能だったので、第2次改憲(1925・4・7)からは法院に関する条項が削除された。しかし、第5次改憲(1944・4・22)では審判院の規定を置き、司法部に関する条項を再び復活させた。


臨時政府の活動
 大韓民国臨時政府は国内外で展開されている民族独立運動をより組織的で効果的に推進する中枢機関の役割を担っていった。そしてわが民族に絶え間ない祖国独立の希望を吹き込んで国家建設の方略を提供した。

 臨時政府は日本の中国侵略によって幾度も中国各地を転々とするなど困難におちいったが、金九らの努力によって組織が整備、維持され、祖国の光復のため最後まで抗戦をつづけた。

 臨時政府の連通制と交通局組織は国内外を結ぶ秘密行政組織網であった。連通制は臨時政府の地方行政機関として、国内の各道、郡、面に督辮、郡監、面監を置いて、政府文書と命令の伝達、軍資金の送付、情報の報告などの業務を担当した。交通局は通信機関として情報の収集、分析、交換、連絡の業務を管掌した。こうして、わが民族はだれもがこれらの組織をとおして独立運動に参加できる道が開かれ、国内で臨時政府と連絡することができた。

 臨時政府の活動には莫大な軍資金が必要だった。臨時政府はこの資金を愛国公債の発行や国民の義損金でまかなった。国内外で集められた資金は連通制や交通局の組織網によって臨時政府に渡され、また満州の恰隆洋行や釜山の白山商会をとおして渡されたりした。このようにして調達された資金は臨時政府の活動費として使われただけでなく、各地で活動している独立運動家に渡され彼らの士気を鼓舞した。

 臨時政府は樹立直後、様々な軍事に関する法令を制定し、軍事活動を展開しようとしたが、中国領土内で直接軍事活動をすることには多くの制約と限界があった。ために臨時政府は上海に陸軍武官学校を設立し、独立戦争を遂行する初級指揮官養成に努める一方、満州で活動している武装独立軍を臨時政府直轄の軍隊に改編しようとした。そうして光復軍司令部、光復軍総営、陸軍駐満参議府などが結成された。しかし、臨時政府が直接武装部隊を編成し抗戦を主導的に展開したのは韓国光復軍が創立された以後のことであった。

 一方、臨時政府はパリで新韓青年団員として外交活動をしていた金奎植を外交総長に任命し、パリ講和会議でわが民族の独立を主張させた。また、国際連盟とワシントン会議にわが民族の独立の熱望を伝えようとし、アメリカに欧米委員部を置いて李承晩を中心に積極的な外交活動を展開することによって、韓国独立問題を国際世論化することに努力した。また、臨時政府は機関紙として『独立新聞』を刊行、配布し、史料編纂所を設けて、韓日関係の史料集を刊行することによって、内には民族の独立意識を鼓吹し、外には韓国の自主性と民族文化の優越性を認識させた。


韓人愛国団の活躍
 1920年代後半から日帝の執拗な監視と弾圧、そして資金と人手不足で臨時政府の活動は次第に沈滞していった。さらに日帝の満州侵略で士気が極度に低下すると、難局を打開するための画期的な方案が必要になった。そのために臨時政府の金九は強力な抗日武力団体である韓人愛国団を組織し、韓民族に希望と勇気を吹き込む方案を実行に移していった。

 その第1の大きな出来事が李奉昌による日本国王爆殺未遂事件であった。この義挙は失敗に終わったにもかかわらず、わが民族には希望を与え、日帝には恐怖を抱かせた。この事件を契機に日帝は、いわゆる上海事変を起こした。

 侵略戦争に勝利した日帝は上海虹口公園で戦勝祝賀式を挙行したが、韓人愛国団は尹奉吉を送り、式場を爆破させた。尹奉吉は爆弾を投げ、壇上にいた多くの日本軍将軍と高官を殺傷し、これによって式場は一瞬のうちに阿鼻叫喚の修羅場になった。

[写真:尹奉吉]
 
 この義挙は国際的に大きな関心事となり、韓国独立運動の意気を高め、とくに韓国の独立運動に冷淡だった中国人に大きな感銘を与えた。中国の蒋介石は、中国の1億人がなしとげられなかったことを韓国の1青年がなしとげたと感嘆し、以後大韓民国臨時政府に対する支援を強化した。

 これが契機になって中国政府が中国領土内におけるわが民族の武装独立活動を認めたことによって、韓国光復軍が誕生することができたのであった。


3 学生の抗日運動
6・10万歳運動
 1920年代に入って、民族主義系と社会主義系が対立し、独立運動はその進路を模索していた。このような時期に6・10万歳運動が起きた(1926年)。

 大韓帝国の最後の皇帝である純宗の大葬の日を期して起きた6・10万歳運動は、3・1運動ですでに中枢的役割を栗たしていた学生を中心に、わが民族が再び展開した独立運動であった。この事件の本質には日帝の収奪政策と植民地教育に対する強い反発があった。

 6・10万歳運動は専門学校と高等普通学校の学生、そして社会主義系の人びとによってそれぞれに推進された。純宗の大葬当日、日帝の物々しい警備のなかで行事に参加していた学生は、激文を散布し独立万歳を叫びながら大規模な群衆示威運動を展開した。そしてこの運動は6月10日だけで終わったのではなく、各級学校に連鎖反応を起こし拡大していったが、これによって数多くの学生が逮捕、投獄された。

6・10万歳運動時の撒文
朝鮮民衆よ!
われわれの不倶戴天の敵は資本・帝国主義の日本だ。
2000万同胞よ! 死を覚悟し戦おう!
万歳 万歳 朝鮮独立万歳。


光州学生抗日運動
 3・1運動以後、活発に展開された様々な民族運動と国内外の抗日闘争は、青年学生に民族自主意識を呼び起こし、自らが民族独立闘争の重要な存在であることを自覚させた。

 6・10万歳運動直後から全国各地の各級学校では大小の抗日結社が組織され、植民地教育に激しく抵抗する同盟休学などの形で抗日闘争を展開した。さらに民族唯一党運動で組織された新幹会の活動によって国民の自覚を高めた。

 このような状況の下で光州で日本人男子学生が韓国人女子学生をひやかした事件を契機に、韓日学生間に衝突が起こった。これを収拾する過程で日本警察が一方的に韓国人学生だけを検挙、弾圧すると、光州のすべての学校の学生が決起し(1929年)、これに一般国民も加勢することによって、光州学生抗日運動は全国的な規模の抗日闘争に拡大した。

 学生の抗日闘争は翌年3月まで全国で闘われ、194個の各級学校学生5万4000余人が参加することによって、3・1運動以後最大の民族運動に発展した。さらに満州にまで及んで、この地域の民族学校学生も参加し、日本に留学していた韓国人学生も決起した。

 このように、3・1運動以後にも民族の独立抗争は6・10万歳運動、光州学生抗日運動に継承され、とくに学生は独立闘争の主役になるとともに、全国的な規模に発展していった。

光州学生抗日運動時の撤文
“学生、大衆よ決起せよ!
検挙された学生はわれわれの手で奪還しよう。
言論・結社・集会・出版の自由を獲得せよ。
植民地教育制度を撤廃せよ。
朝鮮人本位の教育制度を確立せよ。"
“勇敢な学生、大衆よ!
最後までわれわれのスローガンを支持せよ。
そして決起せよ。
戦士よ力強く戦え"

[資料:同盟休学件数]


4 抗日独立戦争
独立運動基地の建設
 19世紀後半、間島と沿海州には韓国人移住民の数が急増し、集団村を形成するまでになった。そうして自治機関と各種団体を結成し韓民族の権益を守る一方、数多くの民族学校を設立して民族教育を実施した。

 日帝の侵略が激しくなると、移住民は愛国団体を結成し、抗日意識を鼓吹し、義兵を起こし抗日闘争を展開した。

 日帝の国権強奪と前後して、多くの愛国志士が間島と沿海州地方に亡命し、日帝の経済収奪によって生活の基盤を失った農民がここに移住してくることによって、抗日運動はさらに活気をおびた。

 国外の愛国志士は、国内の独立運動と連結しながら各地に独立運動基地を作り、移住してきたわが同胞の社会を中心に独立運動を展開した。国外独立運動の先駆的任務を担った団体は新民会であった。新民会の活動は当時義兵戦争とともに抗日運動の大きな幹を成していたが、新民会は国内での活動が制約を受けるようになると、国外の独立運動基地の建設の先頭に立った。

 独立運動基地の建設は、間島と沿海州に韓民族の集団的居住地域を開拓、拡張し、抗日独立運動の拠点を設け、決定的な時期に独立を勝ち取るための基盤を作ることにその意義があった。そしてこの地域を中心に産業を起こし経済的土台を築き、青少年を集め近代的民族教育と軍事訓練を強化し、武装独立戦争を遂行しようとしたのであった。このなかで有名なのは李会栄、李相龍などが設置した南満州の三源堡と李相咼、李承煕などが建てた密山府の韓興洞、そしてウラジオストックの新韓村である。

 これらの基地を拠点に瑞甸書塾、明洞学校など民族教育機関と新興学校のような独立軍指揮官養成のための武官学校が設立された。1919年まで間島一帯だけでも百数十校の学校が設立され、沿海州にも新韓村の韓人学校をはじめ十余個の民族学校があった。

 さらに李相咼と李東輝を正・副統領にする大韓光復軍政府がウラジオストックに樹立され(1914年)、独立軍の武装抗日運動の基盤が作られただけでなく、臨時政府樹立の道を開くことになった。

 一方、中国、日本、アメリカなどにも独立闘士が亡命し、そこの韓人同胞社会を中心に独立運動を推進した。


国内武装抗日闘争
 3・1運動以後、武装抗日闘争の本拠地は満州と沿海州がその中心になったが、国内でも独立軍部隊が結成され、日帝軍警と熾烈な戦闘を展開した。

 国内の代表的な武装団体としては、平北の東岩山を根拠に武装活動をしていた普合団、平北天摩山を根拠地とした天摩山隊、そして黄海道九月山の九月山隊をあげることができる。国内で編成されたこれらの独立軍部隊は、満州に根拠地をおいていた独立軍と緊密な連絡を取って、日帝の植民統治機関破壊、日本軍警との交戦、親日派の処断、軍資金募金など武装抗日闘争を展開した。

[図:満州と沿海州の独立運動基地]

 とくに、天摩山隊は日帝軍警に対する遊撃戦を展開し相当な戦果を収め、満州に設置された光復軍司令部と緊密に協力し合った。その後、天摩山隊は日帝軍警の執拗な反撃によって活動が難しくなると、満州に移り大韓統義府に編入された。


愛国志士の抗日義挙
 武装抗争のなかには、愛国志士が個別的に展開した義挙も幾度もあった。彼らは独立運動団体に所属して特命を受け義挙を起こしたりしたが、まったく個人的な判断で起こした場合もあった。そのなかには金元鳳が組織した義烈団と金九が中心になって組織した韓人愛国団の活動が最も目立っている。

 国内での義挙では総督を狙撃した姜宇奎、鍾路警察署に投弾した金相玉、そして総督府へ投弾した金益相と東洋拓殖株式会社に投弾した羅錫畤などの活動が有名である。

 国外でも義挙を起こした志士が多かった。台湾で日本王族を殺した趙明河、日本に渡って日本国王を殺そうとした金祉燮の事件は国際的に韓国独立運動の意気をさらに高めた。

[写真:趙明河]


独立軍の抗日戦争
 挙族的な3・1運動は独立運動の分水嶺となった。これを契機に民族指導者は非暴力抗日運動では独立を勝ち取れないことを自覚し、祖国光復を達成するためには何よりも武装独立戦争の組織的な展開が近道であることを悟るようになった。

 そうして民族指導者は間島をはじめ満州と沿海州一帯に住んでいる100余万人の同胞社会の協力で多くの抗日団体を組織し、独立運動の基地化を推進すると同時に、武装独立軍を編成し、同胞が提供した資金を基礎に武器を購入、抗戦準備を整えた。

[資料:独立軍の国内戦闘状況]

 独立軍は部隊を整備、強化した後、武装して鴨緑江と豆満江を渡り国内の日帝植民地統治機関を襲撃、破壊し、日本軍警と熾烈な戦闘を展開した。このような独立軍の活動は国内の青年を鼓舞し数多くの愛国青年が満州と沿海州に渡って独立軍に加わり、大韓帝国時期の義兵もここに加担し、独立軍の勢力は日に日に強力になっていった。


鳳梧洞・青山里の戦闘
 1920年代に入って満州と沿海州には数多くの独立軍部隊が活動していだ(4)。彼らは日本軍警と戦闘を展開するとともに、軍資金募金、密偵の処断、親日派の粛清などの活動を行なった。このなかで最も輝かしい成果をあげたのは洪範図が率いる大韓独立軍が勝ち取った鳳梧洞戦闘と、金佐鎮が率いる北路軍政署軍などが勝ち取った青山里大捷であった。

 大韓独立軍は崔振東の軍務都督府軍、安武の国民会独立軍と連合して、鳳梧洞を奇襲してきた日本軍1個大隊兵力を包囲、攻撃して大勝利を収めた。これが鳳梧洞戦闘であった(1920年)。

 日本軍は独立軍に思いがけない惨敗を喫したので、韓半島に駐屯していた部隊と関東地方に駐屯中だった部隊およびシベリアに出兵中だった部隊を動員して3方面から独立軍を包囲、攻撃してきた。

 ために北路軍政署軍、大韓独立軍、国民会独立軍などの独立軍の違合部隊は日本軍大部隊を迎え6日間、十数回の戦闘で日本軍を大破する輝かしい戦果をあげた
(5)。これが青山里大捷であった(1920年)。

 大きな打撃を受けた日帝は、独立軍の抗戦を自分たちの植民統治に対する脅威であると判断し、この機会に満州にある韓国独立運動の根拠地を掃討しようとした。そうして日帝は、独立軍はもちろん満州に住んでいる韓国人を無差別に虐殺し、村を焦土化させた間島惨変(庚申惨変)を起こした
(6)

[資料:鳳梧洞戦闘記事(『独立新聞』)]



(4) 1920年代を前後して、満州では大韓独立団、西路軍政署、北路軍政署、大韓独立軍、大韓独立軍備団、義軍府、光復団、太極団、光韓団、光復軍司令部、光復軍総営、大韓統議府、匡正団などの独立軍組織が、沿海州では血誠団、警備隊、新民団などが、アメリカでは国民軍団、飛行士養成所、少年兵学校などが設立された。

(5) 青山里大捷の戦果は資料ごとに異なっていて正確に明らかにできない。大韓民国臨時政府の発表は日本軍死亡1254人、朴殷植の『韓国独立運動之血史』では約2000人、この戦闘に参戦した李範奭の『陣中露営火』には死傷者を3300人であると記録している。

(6) 間島地方で日本軍に虐殺された韓国人は琿春県で242人、延吉県で1124人、和龍県で572人、汪県で347人、寧安県で17人、このほかの県で804人にもなった。


独立戦争の試練
 独立軍の度重なる勝利で士気が上がっていた満州の韓民族に対し、日本軍は韓人村に対する大量虐殺と放火、略奪、破壊を無慈悲に行なった。これに対し独立軍は一時各地に分散し隊列を再整備し、そのなかで4000余人規模の主力部隊はソ満国境に位置する密山府に集結した。そこで徐一を総裁とする大韓独立軍団を組織した後、日本軍の追撃を避けてソ連領土内へ移動した。

 彼らはそこで韓国人の民族運動を支援するという赤色軍の甘言異説にだまされ自由市に移動し、赤色軍を助け内戦に参戦した。しかし、赤色軍は内戦に勝利した後、独立軍の武装を強制的に解除しようとし、これに抵抗する独立軍を攻撃して無数の死傷者を出した、いわゆる自由市惨変を引き起こした(1921年)。

 赤色軍の背信で瓦解した独立軍は、これに屈することなく再び満州に脱出し、組織を再整備しながら力量を強化した後、各団体の統合運動を推進した。そうして鴨緑江の向かい側の地域では臨時政府直轄下に陸軍駐満参議府が設立され、吉林と奉天を中心とする南満州一帯では正義府が結成された。また、北満州一帯ではソ連領土から引き返してきた独立軍を中心に新民府が組織された。

 これによって満州の独立軍組織は参議府、正義府、新民府の3府に再編成された。これらはそれぞれその同胞の自治行政を担当する民主的民政機関をおき、立憲政治組織まで整え、独立軍の訓練と作戦を担当する軍政機関も設置した。そしてそれぞれの武装独立軍も編成し韓満国境を出入りしながら日帝と激しい戦闘を展開した。

 しかし独立軍は、日帝と満州軍閥の間で独立軍を弾圧するために結ばれた、いわゆる三矢協定によって再び大きな打撃をこうむった。この協定は日帝と満州軍閥が共同で独立軍を掃討し逮捕した独立軍を日本側に引き渡すという内容であった。

[資料:武装独立軍の対日抗戦]

 つづいて、日帝が満州事変を起こし、傀儡政権である満州国を樹立した後、満州一帯を掌握することによって、ここを根拠地として活動していた独立軍はいっそう大きな脅威を受けるようになった。それにもかかわらず、わが独立軍はあらゆる困難を克服しながら抗戦を続けた。

 とくに、わが独立軍は日帝の満州侵略で抗日意識が高まった中国軍と連合して抗日戦を展開することによって、この難局を打開しようとした。まず、池青天がひきいる韓国独立軍は中国の胡虜軍と韓中連合軍を編成し、双城堡戦闘、四道河子戦闘、東京城戦闘で日満連合部隊を大きく撃破し、とくに大旬子嶺戦闘では4時間の激戦のすえ勝利し莫大な戦利品を獲得した。

 一方、梁世奉が指揮する朝鮮革命軍も中国義勇軍と連合し、興京城戦闘、永陵街戦闘で日本軍と戦い大勝利を収めた。

三矢協定の内容(1925・6・11)
 満州にいる韓国独立軍を根絶するために中国の奉天省警務處長干珍と朝鮮総督府警務局長三矢との間に結ばれた協定である。その重要内容は次のとおりである。
(1) 韓国人の武器携帯と韓国内侵入を厳禁し、違反者は検挙し日本警察に引き渡す。
(2) 在満韓人団体を解散させ、武装を解除し、武器と弾薬を没収する。
(3) 日帝が指名する独立運動指導者を逮捕し日本軍警に引き渡す。
(4) 韓国人取り締まりの実況を相互に通報する。

 1930年代半ばまでつづけられた韓中連合作戦は、その後日本軍の大討伐作戦、中国軍の士気低下、韓中両軍の意見対立で、これ以上つづけることができなかった。また、臨時政府が直轄軍団編成のために満州にいる独立軍の移動を要諸すると、大部分の独立軍は中国本土に移動し、韓国光復軍の創設に参加した。


韓国光復軍の創設
 大韓民国臨時政府が宿願の事業であった韓国光復軍の創設を試みたのは、中日戦争以前からであったが、本格化したのは中日戦争が起こった後であった。光復のためには日本と決戦をいどむ道が最善であり、国際情勢も日本と戦争する時期が差し迫っていることを示唆していた。

 臨時政府が軍事計画を推進するにあたって最も大きな困難は訓練を受けた兵士の不足であった。それで臨時政府は中国政府に要請して韓国の青年を中国の正規軍事学校に入校させ軍事訓練を受けさせた。その後、臨時政府の金九、池青天らは満州とシベリアで抗戦していた新興武官学校出身の独立軍と中国大陸に散在して独立運動に参加していた数多くの青年を集め、ついに重慶で韓国光復軍を創設した(1940年)。


 これに先立ち、金元鳳の朝鮮民族革命党は朝鮮義勇隊を結成し、中国各地で抗日闘争を展開していた。そこで韓国光復軍は、朝鮮義勇隊を吸収統含して軍事力を増強し、中国国民党政府との積極的な協力のもとに連合軍の一員として対日戦争に参戦するために努力した。

[写真:韓国光復軍]
[写真:大韓民国臨時政府の対日宣戦声明書(写本)]

 一方、韓国光復軍に合流せずに、中国共産党とともに延安を中心に活動を展開していた朝鮮独立同盟系列の朝鮮義勇軍は、華北地域で抗日闘争をくり広げた。


対日宣戦布告と韓国光復軍の活躍
 大韓民国臨時政府は中国国民党政府とともに、移動をくり返したが、重慶に定着した以後には、政府組織を本土の失地回復のための体制に整備した。そして散らばっていた各地の武装勢力を臨時政府傘下の韓国光復軍に統合し、軍事力を強化した。

 太平洋戦争が起きると、臨時政府はすぐに対外活動を展開し、対日宣戦布告を発表し、韓国光復軍を連合軍の一員として参戦させた。その後、ドイツに対しても宣戦を布告することによって国際的地位を高めた。

 第2次世界大戦に参戦した韓国光復軍は、中国では中国軍と連合して日帝に対抗し、ミャンマー、インド戦線にまで派遣されイギリス軍との連合作戦を遂行した。対日戦に参戦した韓国光復軍は、直接戦闘に参加すること以外に、捕虜の審問、暗号翻訳と宣伝ビラの作成、対敵懐柔放送などの心理戦にも参加した。

 韓国光復軍は中国と東南アジアー帯で連合軍とともに対日戦に参加するとともに、もう一方では祖国の光復をわれわれの手で勝ち取るために、直接国内に進入し日本軍との全面戦を展開することを計画した。

 韓国光復軍は総司令官池青天、支隊長李範奭などを中心に、中国に駐屯していたアメリカ軍と連合し国土の失地回復作戦の任務を担当する国内挺進軍を編成し、特殊訓練を実施し、飛行隊の編成を計画した。

 しかし、1945年8月15日、日本の無条件降伏によって、韓国光復軍はその年9月に実行しようと準備中だった国内進入計画を実現できずに光復を迎えたのである。


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