四月二十日、二十一日と対馬に行った。 大阪から八尾の三宅博市議、堺市の水ノ上成彰市議と池尻秀樹市議という気心の知れた四人連れ。それに博多から、同志の対馬の古族である阿比留一馬さんが加わって五人で対馬に渡った。
対馬は、国境の島で、現在の我が国の縮図である。 従って、「日本」を考える上でも、国防を考える上でも、対馬を念頭におけば、抽象論に流れず地に足が付いた極めて具体的なイメージが得られる。 現在日本の危機は、対馬に目に見えるかたちで現れている。 例えば、東京には、「日本は日本人だけのものではない」と言うのが政党の幹部をしている。 (そもそもこの幹部は金持ちらしいが、「私の家は私だけのものではない」として今年の初めに日比谷公園に集まった人々に住んでもらっているのだろうか) この開いた口がふさがらない程度の者でも政党の幹部でいられるという風潮は東京では危機とは見えないが、国境の島対馬では次の如く現れてくる。 対馬の要地、またこともあろうに海上自衛隊基地の周辺が外国人に買い占められている。 さらに、韓国の退役軍人達が対馬の市役所前で座り込んで、「対馬島は韓国の固有の領土だー」と叫ぶ。警察はそれを排除できない。やりたい放題である。 また、東京では、「日本は侵略国で、近隣諸国に悪いことをした国だ」という村山富市談話を全ての党派が信奉して翼賛体制をつくっている。 従って対馬では、「日本は侵略国」なのだから、竹島と同様に朝鮮のものであった対馬を日本が侵略して奪ったのだという妄想を確認しに対馬に来る韓国の「観光客」に、何の反論もせず、ご丁寧に朝鮮語の「観光案内」を対馬市がつくって配布している。まるでマンガだ。 陸上自衛隊は対馬に三百人が駐屯して、連隊長クラスの大佐(一等陸佐)が隊長をしている。しかし、小銃の弾はあるがその他の弾はない。島内では演習ができないから弾は置いてないという。また、この陸上自衛隊は対馬防備の為にいるのだが、移動手段としてのヘリや船艇を与えられていない。つまり、即応体制がない。 また中部に船のない海上自衛隊基地、そして、北部に飛行機のない航空自衛隊基地も対馬にあり、レーダーによる海と空の情報収集をしている。 しかし、これらの基地では、自隊警備つまり自分の基地を自分で守れるのかどうかも不安が残る。これらの基地が、武器を持つ数名のプロの強盗団、工作員、コマンドによって制圧され、優れた機能を持つ基地のレーダーが、日本のためではなく敵のために使われるのではないか。 このようなとき、基地の指令は110番して警察を呼ぶのだろうか。警察は対馬に八十名ほどいるが、二十名の「対馬は韓国のもの」というデモ隊も排除できない。警察はそもそも自衛隊基地を攻撃するプロに対処できない。南に駐屯する陸上自衛隊は、陸路走ってくるので時間がかかる(対馬は南北八十余キロの山岳と森林の島で海岸の総延長距離は約九百キロ)。 以上の通り、対馬は日本の縮図。 東京や大阪などにいると感じない我が国政治の病状も、対馬では日常具体的に感じられる。 対馬が立ち直るということは日本が立ち直ることであり、日本が立ち直れば対馬は安泰である。 反対に、対馬が「日本は日本人だけのものではない」ということになれば、日本全体が日本でなくなる。 よって私は、毎年一度は対馬に行くことにしている。 対馬市役所、陸上自衛隊基地そして海上自衛隊基地を廻って懇談したが、やはり、対馬の史跡を訪れることによって対馬に日本の源像を感じることができる。
対馬市は六町合併による市誕生前から、五十キロ海の向こうの韓国からの訪問客誘致によって経済活性化を図ろうとしていた。しかし、その訪問客は、「対馬はもともと韓国のもの、日本が侵略して韓国から奪った」という妄想を抱いて対馬に来る。そして、対馬の土地を買う。 この事態に私は危機感を懐いて、平成十九年四月に、政府に質問主意書を提出し、「国境の島に於ける土地所有権譲渡に関しては国防という公共の福祉の観点から規制を設けるべきである」と政府に質した。政府の答弁は、「憲法二十九条の財産権の保障の観点から慎重な検討を要する」、つまり、「何もしません」というものであった。 しかし、私の懸念は現実化し、翌平成二十年には竹敷にある海上自衛隊基地周辺の土地は韓国系によって買収され韓国人向けのリゾート宿泊施設になる。 このことをまず週間新潮が伝え、次に産経新聞が特集して、漸く国民の関心が高まりだしてきた。昨年末には平沼赳夫会長を中心に超党派の国会議員がこの海上自衛隊基地周辺を視察した。
やはり、国境の島に於ける土地所有権の譲渡は自由放任にはできない。国益の観点からの規制が必要である。 政府が、平成十九年の私の質問主意書提出の時点で事態に対処していれば防げたものをと、この度の竹敷訪問でも基地の隣の韓国リゾート地を見て痛恨の思いである。「慎重な検討を要する」という答弁書を起案した政府の官僚は名前も分からず何の責任もとらない。 昨年三月、総統選挙中の台湾訪問を思い出す。 国民党の選挙本部を訪問すると、国民党幹部が私に、中国からの観光客が大勢台湾に入ってくるようにすれば台湾経済は潤う、と言った。 私は、その前に東京の歌舞伎町を視察してからにしたらどうか、あの連中はイナゴのように不道徳ももって入ってくる、と答えた。 果たして、国民党が政権を取った台湾の現状はどうなっているのか。台湾は中国のものという大陸の連中を大量に入れて潤ってハッピーなのだろうか。大いに疑問だ。 しかしこれは他国のこと。対馬の行政当局においては、経済活性化のために、韓国からの観光客に依存しようとした方針を変更すべきである。 観光客による、経済活性化を計るなら、あくまで本土からの観光客誘致に的を絞るべきである。 韓国からの客は対馬で金をあまり使わない。五十キロしか離れていないのであるから、食料持参で来て韓国人経営の民宿に入り、豊富な対馬の魚介類を捕りまくって韓国に持って帰る。ゴミは散らかし棄て放題。このような観光客によって、対馬の漁民が育てた貴重な公共の財産である豊かな藻場が疲弊することを思えば、持ち出しではないか。 また、韓国人集団が対馬は韓国のものという思いで対馬をうろついていると思えば、日本人としてけったくそ悪い。 「郷に入れば郷に従う」とはほど遠い連中だ。精神衛生上よろしくない。 かえって、隣国との友好的な感情を育てることができない。
再び言いたい。対馬は日本の源像をのこす島である。 この対馬の森に五百を越える神社がある。その多くの社の中に、天皇皇后両陛下の写真が掛けられている。そして海と山の幸が豊かである。 対馬は、奥深い精神性を湛えた島である。つまり、日本人は、対馬を島そのものを「ご神体」とみて大切に守らねばならない。 対馬の歴史と自然には、無限の観光資源がある。 歴史的に、対馬は三度、日本の運命を決する象徴的な島となった。 西暦六六三年、百済救援のため、我が国は朝鮮半島に兵を送り唐と戦ったが敗北し、百済も滅亡した。 そして、文字通り、対馬は国境の島となる。唐の襲来に備えて主に信濃をはじめ東国から大勢の防人が対馬に送られ金田城等を築き防備を固める。 次に、元寇である。最初の文永の役において、数万の元軍は西海岸小茂田浜に上陸する。宗助国は八十騎を率いて敢然と元軍と戦い全滅する。その激戦の様子を物語るように、今も、宗助国の「首塚」と「胴塚」が別々のところにある。 この助国敢闘の報が、鎌倉の相模太郎、北条時宗に届き、この時初めて日本は「いざ、鎌倉」と一丸となる。 少数のユダヤ人がローマと戦って玉砕した地をイスラエルが「ユダヤの聖地」としているように、助国ら八十騎の奮戦の地、小茂田浜は「日本の聖地」である。 明治三十八年(一九〇五年)、ロシアのバルチック艦隊と我が連合艦隊は、対馬と壱岐の間の海域で激突する。日本の運命をかけた日本海海戦である。沈んだ軍艦からボートにのって北対馬にロシア兵が辿り着いた。対馬島民が彼らに水を与え介抱した。 この対馬沖海戦で日本が勝利しなければ、日本はもちろん、アジアとアフリカの世界地図は今のようになっていない。
この度も、小茂田浜と海彦山彦を祀る和多都美(わたつみ)神社を訪れた。そして、初めて金田城に登ることができた。 和多都美神社は、厳島神社の原型だ。海の上に二つの鳥居がある。 金田城は天智天皇が唐の襲来に備えて築かせた日本最古の城跡。リアス式の海岸から山頂までの急斜面に見事な石垣が組まれている。 その石一つ一つが、万葉集に「防人の歌」を遺した東国からの兵士によって運ばれたもの。そう思うと、妙に懐かしく、その石一つ一つに手を触れてみたくなる。
そこで、この対馬の防衛である。 如何に、この国境の島を守るか。これこそ、日本全体の防衛構想を具体的に練る絶好のリーディングケースといえる。 地元対馬においては、平成十九年に対馬市議会に「自衛隊誘致増強調査特別委員会」が設置された。北朝鮮の脅威つまり朝鮮半島有事を想定した特別委員会である。さすが国境の島である。 そして、空と海の移動手段をもった陸上自衛隊の千人規模への増強とミサイル艇をもった海上自衛隊、イージス艦が寄航できる専用岸壁設置、また航空自衛隊にはパトリオットの配備などを国に要望している。本年に入り、対馬市は市ヶ谷の防衛省を訪れて防衛事務次官に対馬への自衛隊増強要請を行っている。 国は、この国境の島の問題意識を真摯に受け止め、自衛隊を増強すべきである。 その上で、何よりの国防は、国境の島に於ける国民生活の確保であるから、離島振興策を工夫して実施し、都市生活よりも希望と魅力のある島民の生活の充実を図らねばならない。 以上、本稿はここまで。
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