三田藩儒官白洲家に生まれる
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白洲退蔵 は1829年(文政十二年)七月十五日、三田に生まれている。
白洲家は代々藩の儒官であり、父の文五郎は当時、藩校造士館教授を務め
ていた。
退蔵は1845年(弘化二年)、藩から勤学料として年十両を
与えられ、大坂の儒者篠崎小竹 (1781―1851、寛政の
三博士の一人である古賀精里の弟子。)について学び、後、江戸
の古賀謹堂(1816―84、古賀精里の孫。幕府の外交に従事
した。)について儒学を修めた。三田に帰ってからは、父の後を
継いで造士館教授に就任し、1860年(安政七年)、百三十石
を与えられている。
彼は1854年(安政元年)一月十五日、藩命を受け、浦賀沖に
来航した黒船に庶民の姿に変装して近づき情報収集を行っている。
当時、このような行動が見つかれば相当の刑罰を覚悟せねばなら
なかったことだろう。吉田松陰の場合は、ただ単に黒船を見るだけ
でなく海外渡航を図ったのだが、余りの計画性のなさに当然のよう
に発見され、牢屋に幽閉されている。
他の藩でも隠密裏に情報収拾をした話は残されている(例えば松代
藩では佐久間象山を派遣している。)が、山奥の小藩である三田藩
が独自に情報収集を行なったということは実に驚きである。
藩政に参画
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九鬼隆義の偉さは、彼が藩主になった時、退蔵の人柄と学識に感銘を
受け、自ら下座に降りて師の礼をとったことでも窺えるが、その一方
で、退蔵その人も相当の人物であったことは容易に想像がつく。
1863年(文久三年)、退蔵は隆義に懇請されて藩政に参画。最初
は郡奉行として、財政再建・治水事業といった難問の解決に全力を投入
した。
当時、藩の財政は極端に窮乏しており、負債二十数万両に対し、藩庫
にはわずかに三十両を余すのみであったというからこれは末期的である。
もうどの御用商人も、これ以上三田藩に金を貸したりはしなくなって
いた。藩札もそれまで、元禄札、元文札、天明札、嘉永札、慶応札、
番地札等が出されており、財政状況の厳しさが窺える。
そもそも財政において本来守るべきは、『入るを量って出ずるを制す。』
ということに尽きる。特に当時の財政においては鉄則と言える。税収を
景気とは無関係な年貢に依存している当時にあってみれば、現代の
ように、赤字国債を出してでも有効需要を創出し、景気が回復すれば
税収が増加して赤字を返すことができるなどというケインズ的図式は
成り立たなかった。そもそも歳入の範囲内でやりくりすべきであったのだ。
退蔵は徒歩にて大坂に赴き、債権者の面々に藩邸に集まってもらった。
その時、従来、債権者の饗応は特に豪華な料理をもってするのを常と
してきた慣例を破り、料理といえば鶏鍋 のみという粗餐 で彼らを迎え、
その節約への決意を逆に強烈にアピールした。
そして現在の窮状をありのままに話し、藩主の節倹を旨とした生活ぶり
や財政再建の為に抜擢された自分の抱負を誠心誠意語った。そうした
ところ、彼の誠実な人柄が満座の債権者の心を打ち、中には追い貸しに
応じてくれる人も出てきたという。
彼の藩政改革は、ただ財政改革のみにとどまらない。
彼はまず藩領の境界を明らかにした。次に、神社の一部を校舎として郷学
を設置し、宮田や寺田の一部を学田として財政基盤をも付与している。
三田から出た偉人のほとんどが教育の重要性に意を用いていることは、
特筆すべき事実である。これは、三田の教育が充実しており、自分もその
恩恵に与ったからであろう。しかし、宮田や寺田を収公したことは、後々
領民の不満を呼ぶことになる。
また、村毎に社倉 (凶作に備えた米の備蓄庫)を置き、備蓄した米の半分
を毎年肥料代に充て、肥料を求める村人には米をもって対価とさせた。そう
することで、毎年半分づつの米が新米と更新され、備蓄米の品質劣化を防ぐ
ことにもつながった。
更に藩の刑法を定め、博打 などの軽犯罪については片鬢(側頭部の髪)また
は片眉を剃らせ、溜池開削や堤防工事といった役務に就かせた。現在、三田の
誇る三田牛も、退蔵が飼育を奨励したことから盛んになったと言われている。
明治維新後の退蔵
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1868年(明治元年)には大参事(従来の家老職に相当)となり、戊辰戦争
勃発を機に三田へ戻っていた川本幸民を師として藩士に洋学を学ばせ、一方で、
福沢諭吉が三田藩のブレーンであったことから、九鬼隆義の意向もあり彼の
啓蒙書 を大量に購入。郷学で学ぶ若者達に頒布するといったこともしている。
(白洲次郎によると、彼の家には福沢諭吉から退蔵宛に五万円ほどの借金を無心
する手紙も残っていたという。)
また1869年(明治二年)の廃藩置県に際しては、武士の帯刀 を止めさせる
べく、隆義を通じて廃刀令の採用を政府に上申 したりもしている。この種の
上申を行うことが当時にあって命懸けであったことは、退蔵がこのために京都
で命を狙われたことでも判るであろう。
廃藩置県後、退蔵は新政府から民部省への出仕を打診されるが、この時は福沢
諭吉の教えに従って官吏の道を選ばず、九鬼隆義・小寺泰次郎らと神戸で志摩
三商会を起こしている。(しかし、退蔵は小寺泰次郎のような実業家タイプでは
なかったように思う。)
1880年(明治十三年)には兵庫県会初代議員となっている。
1882年(明治十五年)八月には、九鬼隆義と福沢諭吉の推薦もあって、
横浜正金銀行(後、東京銀行と改称。現在の東京三菱銀行。)の官選取締役
副頭取となり、明治十六年一月には頭取になっている。(福沢諭吉は、我が
国経済の将来を考えると金融の発達は不可欠だと考え、この横浜正金銀行の
設立に協力したほか保険会社の設立も提唱していた。なお、退蔵が頭取の時の
副頭取は小泉信吉といい、その息子が慶応義塾の名塾長として有名な小泉信三
である。)
しかし横浜正金銀行は退蔵が入行する前、紛争が勃発していたらしい。加えて
時の銀行局長と衝突し、退蔵が頭取の職にいたのはわずか二ヶ月で、小泉信吉
副頭取共々辞任している。
その後も大蔵御用掛に抜擢されたり岐阜県大書記官に就任したりするが、明治
二十三年、突然職を辞した。公務の傍ら旧主九鬼隆義の家宰 も勤めており、
こちらが忙しくなったためである。
1891年(明治二十四年)一月二十四日に九鬼隆義は他界するが、退蔵は
その間寝食を忘れて看病したという。その後、看病疲れからか退蔵自身も体調
を崩し、同明治二十四年九月一日に発病。二週間にも満たないわずかな闘病
生活の後、隆義の後を追うようにして同月十三日死去している。享年六十三歳。
儒学者に相応 しく、主君隆義公への忠義を貫いた一生であった。
白洲退蔵への評価
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三田藩は明治新政府に一銭の負債も引き継がなかったというから、財政改革は
徹底したものだったのだろう。しかし結果から言えば、このことが後の百姓一揆
を引き起こしたとも言える。一揆後の弾正台 (明治二年に設置された警察機関)
の取調べで退蔵は、『今回一揆が起こったのは、郷倉を建ててここへ年貢米を
運び込み不作飢饉に備えようとしたのを、誰かが誤り偽って人々を迷わし群集が
騒ぎを起こしたのである。しかしその首謀者は既に絞首刑にした。』という意味
の発言をしている。そこには全く反省の色がない。
確かに白洲退蔵の行動は儒者である彼らしく、全て正論から発している。財政
改革にしても『借りたものは返さねばならない。』という彼の正論に正面切って
反対することは困難である。しかし、政治というものは、必ずしも理論通り行く
ものではなかろう。一つの施策によって、喜ぶ者と悲しむ者が出てきてしまうと
いうジレンマに陥ることもしばしばである。しかし、絶対に必要不可欠なものは
別にして、基本は、喜ぶ者の数とその程度との掛け算をして、悲しむ者のそれ
との比較検討の中から正解を引き出していく作業が政策論議ではないだろうか。
(政治の難しいところは、必ずしもこれだけではない点にあるが…。)
その点、退蔵はこの検討作業を怠ったか、事実認識が不十分(領民の苦しみを
過小評価していた)だったのだろう。確かに負債が大きければ、藩士への給金
の支払いが滞る可能性もあるだろう。また、その負債を明治政府に引き継が
ざるを得なくなったとした場合、新政府での三田藩や藩主隆義の発言力が下がる
ということがあったかもしれない。
百歩譲って、そのことが仮に三田藩の為政者にとって極めて重大な関心事であった
としても、新式銃の購入等の多額な出費を一方でしていることの説明は困難で
ある。急激な財政改革というような強い薬には、副作用がつきものであるという
重要な事実にもっと早く気付くべきであった。
ただ、我々は結果論で議論しているわけで、こうした批判は当時の退蔵達には
酷かもしれない。九鬼隆義に宛てた手紙の中で、福沢諭吉は退蔵のことを
『白洲先生』と書いている。九鬼隆義が師の礼をとっていたことから敬称を
使ったのかもしれないが、もしそうであっても、尊敬に値する人物と福沢が
認めていた節がある。これは大変なことではないか。慶応義塾創設者で一万円
の顔でもある人物に、『先生』と呼ばせていたわけだから…。
様々な毀誉褒貶(きよほうへん)を別にして、疑う余地なく彼の政治手腕は三田
藩随一であった。それだけに中央政界で活躍する白洲退蔵の勇姿 を一度見て
みたかった気もするのである。
白洲文平
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白洲退蔵の子文平は、多くの伝説を残す豪傑(変人?)だった。彼は明治学院の
前身である東京築地英語学校を出た後、ハーバード大学とドイツのボン大学に
留学。留学中、終生の友人となる池田成彬 (1867―1950、後の三井合名
常務理事、日銀総裁、大蔵大臣。)と出会っている。帰国後三井銀行に入行し、
後に鐘紡 に移った。しかし結局、サラリーマンは性に合わなかったようだ。
上役の奥さんが何かの拍子に文平に対し、『お前さんがたは…』と言ったのに
腹を立て、『家老の息子にお前さんとは何事か!』と憤然退社を決意し、独立して
貿易会社白洲商店を始めた。会社は一時、綿貿易で大成功する。(当時、綿貿易は
我が国に大きな利潤をもたらしていた。従来から大阪では、河内木綿 といって
地の厚い綿織物(暖簾 や足袋 裏にした。)を生産していたし、当時の大阪の
繊維業界の隆盛は『東洋のマンチェスター』と称されるほどであった。今も大手
商社の中にニチメン(日綿)やトーメン(東洋綿花)のように綿の字のつくもの
があるのはその名残である。)白洲商店では当時、『二十世紀の商人白洲文平』
と大きく書かれた番傘を使用していた。また文平自身、『白洲将軍』と渾名され
ていたという。
建築道楽で家に大工を住まわせ、次から次へと家を建てた。この大工も変わって
いる。元々京都御所の宮大工だったが、大酒飲みのため御所修理中に酔っ払って
失敗し首になったらしい。(おそらく腕だけでなく、この経歴が文平の気に入った
のだろう。)建てた家も、別に自分が住んだわけではない。子供がプラモデルを
作るような感覚で楽しんでいたらしい。(金持ちの考えることは私の理解の外
である。)そのため今でも、阪神間には『白洲屋敷』なるものが多く残っている
そうだ。そして最後に建てたのが伊丹の大邸宅で、四万坪もある敷地には、
美術館(コロー、モネ、マティス、ピカソなどがあった。)あり、牡丹畑あり
という贅 の限りを尽くしたものであった。
大森実の『戦後秘史』には、文平がひどい日本人嫌いで、宴席の芸者を日本人
臭すぎるとして襖の外で三味線を弾かせたり、終電車に酔っ払いが相乗りする
のを嫌い、電車一台を借り切ったという逸話が紹介されている。しかし一方で、
東郷艦隊がロシアのバルチック艦隊を破ったとの報せに、お祝いと称して電車に
乗り合わせた乗客全員をビアホールに連れていって大盤振る舞いをしたりも
しているから、根っからの日本人嫌いではなかったのだろう。
しかし、その後文平は、破産の憂き目に遭う。1828年、大恐慌の一年前の
ことである。
破産した文平はその後、九州の阿蘇山麓に細長い四階建ての家を建てて移り
住んだ。一階が風呂場(阿蘇の温泉が引かれていた。)、二階が居間、三階が
寝室、四階は屋根裏部屋であったという。(白洲正子によると『掘っ立て小屋』、
麻生和子によると『煙突みたいな家』ということになる。)寝室のベッドの下
には用意のいいことに棺桶 が収納されていた。文平はこの家で息を引き取った
が、彼の死は掃除のために近所の農家のおばさんが来るまで誰も気づかなかった
という。生前、戒名も葬式も不要だと言い残していたという白洲文平らしい死に
方だった。
白洲次郎(1902―1985)
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その文平の次男で、吉田茂(1878―1967)の懐刀 としてサンフランシスコ
日米講和条約締結の影の立役者となったのが、1902年(明治三十五年)三田
に生まれた白洲次郎 である。白洲退蔵の家系は、孫である白洲次郎に至って花開
いた。(もっとも、現在では次郎の妻であった白洲正子のほうが有名であるかも
しれない。)
神戸一中時代の次郎の同級生である今日出海(作家・初代文化庁長官)は
『野人・白洲次郎』というエッセイの中で親しみを込め、白洲の特徴として
(背が高い・訥弁 (少々どもったらしい)・乱暴者・短気)の四点を挙げている。
次郎の父文平は大酒飲みで道楽者で家庭では専制君主であったが、それでいて
家族への愛情は異常なほど深く、子供の帰宅が遅いとひどい雷が落ちたという。
次郎はそういう父親のことを嫌っていたが、その実、どこからどこまで父文平
そっくりだったと白洲正子は『白洲次郎のこと』の中で語っている。
白洲次郎は神戸一中を卒業した形跡がないことから、退学して海外に行った
可能性が高い。或いは乱暴でもして退学になったのかもしれない。後年も
神戸時代の思い出についてはほとんど口にしなかったという。神戸一中での
成績は中の下。成績表の素行欄には、『やや傲慢』とか『驕慢 』『怠惰』
といった文字が並んでおり、一方で神経質であることも指摘されている。
当時、父文平の与える小遣いは法外な金額で、与え方も『これで一年間過
ごせ』といった風であったという。(庶民と異なる金銭感覚は、こうして次郎
にもしっかり受け継がれた。)また文平は次郎に、米国車のペイジ・グレンブ
ルック1919型を買い与えている。中学生にして米車を乗り回していた少年が
謙虚に育つはずもなかった。
その後、次郎は英国ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学した。
白洲退蔵が神戸女学院の設立に尽力した関係で、以前から同校の外人教師が
白洲家に寄宿しており、次郎はその外人教師からネイティブの英語を学ぶ
ことができたので語学力に問題はなかった。また、漱石がロンドンに留学した
頃と違い、当時日本は既に一流国の仲間入りを果たしていた。加えて百五十
センチ少々の漱石と違い、白洲次郎には百八十センチの長身と文平から送ら
れる潤沢な生活資金に恵まれていた。留学中神経衰弱に罹った漱石に対し、
次郎の留学生活は酒と薔薇の日々だった。次郎は後年になっても英国留学時代
を懐かしみ、母校ケンブリッジ大学のラグビーチームが来日した折などには、
何くれとなく世話を焼いている。
ケンブリッジで次郎は終生の友と出会う。それは七世ストラトフォード伯爵
である。当時はむしろ次郎のほうが羽振りが良く、二人はブガッティやベン
トレーを駆 ってヨーロッパ中を旅し、その費用のほとんどを次郎が持った。
彼の紹介で次郎は多くの本場英国貴族の知人を得ることになった。(英国貴族
の知人と親しく接していたことから、後に妻となる日本の華族令嬢正子にも臆
することがなかったのだろう。)
ケンブリッジ大学での楽しかった日々も、突然の文平破産の報せで終わりを告
げる。十年間の留学生活にピリオドを打って、次郎は1928年(昭和三年)
に帰国した。帰国直後に樺山正子と出会い、翌昭和四年に結婚している。
(その顛末 は後述)
帰国後、次郎はジャパン・アドバタイザーという新聞社に就職する。この
頃ケンブリッジ留学の経歴を持っていれば、官民の別なく、どんなところへ
でも就職できただろう。日本を海外に紹介するこの新聞社をわざわざ選んだ
のがどういう動機だったのかは分からない。いずれにせよ給与の余りの低さ
にすぐ退社し、セール・フレーザー商会という英国系貿易会社に転じている。
通常の会社の十倍の高給であったという。また次に日本水産に移っているが、
相当高額だった給料も、次郎と正子の金遣いの荒さが半端でなかったため、
わずかながらも手元に残っていた名画を一枚、また一枚と売る筍 生活だった
という。大体、次郎が社用で海外出張する時、しばしば正子が自費でついて
きたというから驚かされる。
新婚時代、白洲夫妻は吉田茂の知遇を得る。吉田茂の岳父牧野伸顕(1861
―1949、大久保利通の次男で伯爵)と正子の祖父樺山資紀 (1837
―1922)が共に薩摩閥の大立者で旧知の仲だったことが背景にあるようだ。
次郎は正子と結ばれたことで、吉田茂との運命の出会いを果たしたわけである。
吉田茂は白洲次郎を殊の外可愛がった。次郎の中に自分と似た資質を見出した
ようだ。そう言えば吉田茂も、現在の貨幣価値で数十億円といわれる遺産を
戦前にすべて使いきってしまったという大物である。(浪費家であるだけ
では単なる性格破綻 者・社会不適合者にすぎないが、彼らはそれだけに
留まらなかった。)
白洲次郎は政治的野心を持たない人であったようだ。吉田茂には健一
(1912―77、英文学者・評論家・小説家。)という息子がいたが、
健一が政治家になるつもりがなく向いてもいないことはよく分かっていた。
二人の歳は二十四も離れていたことから、吉田は次郎を我が子のように
可愛がった。次郎がその気なら、後継者に指名したことは間違いないだろう。
吉田茂の英国大使時代は、次郎が出張でロンドンに行くたびに大使館地下で
ビリヤードを楽しんだり、酒場に出かけては気勢を上げた。二人は傍から見て
いると喧嘩 でもしているように大声で口角泡を飛ばしていたという。
吉田茂の娘和子の婿にと、欧州へと向かう船内で知り合った九州の炭鉱王
麻生太賀吉(1911―80)を紹介したのも白洲次郎だった。いつしか
次郎は、吉田家にとって家族同然の存在になっていた。
また、近衛文麿 とも近付きとなった。それは、近衛の秘書官であった牛場
友彦(1901―93)の紹介によるものである。親同士が親しかった牛場
と次郎は、『ジロー』『トモ』と呼び合う関係だった。次郎は近衛の通訳を
する一方、私的ブレーンの一人として軍部台頭への対策案を具申したりもし
ている。
一方、次郎の表の顔は、日本水産の役員として、日本とヨーロッパの間を
年に二回も往復する生活だった。しかし、会社勤めは太平洋戦争勃発の一年
前にやめ、町田市鶴川に居を構えた。そして、専業農家になろうとするかの
ように、一生懸命農業に打ち込む毎日を送っている。一方吉田茂も、その自由
主義的発言や親米派ということで軍部から睨まれ、大磯に逼塞していた。
しかしそれでも特高は吉田を逮捕し中野刑務所に収監したが、その後証拠不十分
で釈放されている。結局この刑務所経験によって戦犯指定を免れ、戦後すぐ
政治活動を再開できることにつながった。怪我の功名といえよう。
東京裁判で絞首刑となった元首相の廣田弘毅と吉田茂は外務省の同期だった。
外務員試験も十五人中廣田はトップ、吉田は七番。出世のスピードも、英国
大使の吉田に対し、廣田は戦前首相を務めている。しかし、二人の戦後の運命
は対照的だった。皮肉なものである。
昭和二十年十二月幣原内閣に外務大臣として入閣した吉田茂は、白洲次郎を
終戦連絡事務局参与に任命した。ここに戦後の次郎の活躍が始まるのである。
事務局で携わった最大の仕事は日本国憲法の草案翻訳とこれに関する意見具申
であった。次郎はこれらの仕事に寝食を忘れて取り組み、鶴川の自宅に帰れる
のは稀で、もっぱら麻生太賀吉邸に寝泊りしたという。(そのほか、吉田茂が
外相の時は外相官邸、総理の時は首相官邸に寝泊りすることも多かった。)
彼は当時最もダンディーな日本人の一人といっても言いすぎではない。背広は
すべてヘンリー・プール(英国)で仕立てた服(今もこの有名な店に次郎の型紙
が保存されている。)、靴もロンドンからのオーダーメイド(次郎の靴型で作った
後、『履き屋』が皮をなじませてくれたのだそうだ。)、床屋は帝国ホテルと
決まっていた。しかし、彼は見かけだけの人間ではなかった。GHQを相手に
しても全く臆することが無く、我が国最高のタフネゴシエーターでもあった。
次郎が終戦連絡事務局参与から次長に昇格した時、泣く子も黙るGHQ民政部長
コートニー・ホイットニー准将が、次郎の英語の余りのうまさに感心したところ、
『閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ。』と応えたというエピソード
などは実に痛快である。(ちなみに次郎は子供を日本語で叱ることができず、
いつも英語でまくしたてたという。吃音のせいもあったのかもしれない。)
もっとも、この事だけではないらしいが、ホイットニーには相当睨まれている。
ホイットニーにしてもアイビー・リーグ(米国東部の名門大学八校の総称)出身
の教養人である。しかし、そのアイビー・リーグの八大学は英国のオックス
ブリッジ(オックスフォードとケンブリッジをまとめてこう呼ぶ。)に範を採って
おり、アイビー・リーガーもオックスブリッジの卒業生には頭が上がらなかった
のだ。そこを敗戦国の人間に突かれては、頭にもきたことだろう。ホイットニー
の回想録に次郎への皮肉な記述が多いのはそうしたことも背景にあると思われる。
当時次郎はホイットニー達GHQ側に、憲法草案が余りに急進的な改革を要求する
ものであることを批判する文書を出している。これが世にいう『ジープウェイ・
レター』である。要するにGHQのやり方は、日本の狭い道をジープで強引に走る
ようなやり方だという内容のものであった。
次郎は相手がマッカーサー元帥であっても、言いたいことは率直に口にした。
天皇陛下からのクリスマスプレゼントを、次郎がマッカーサーの部屋に持参した
時のことである。マッカーサーはそれを適当なところへ置いてくれと命じた。
その時、次郎は血相を変え、『いやしくも日本の統治者であった者からの贈り物を、
その辺に置けとは何事か!』と言って叱り飛ばしたのである。さしものマッカーサー
もあわててテーブルを用意させたという。
かといって次郎は戦前のような天皇の神格化には反対の立場であり、サンフラン
シスコ講和条約締結後には天皇は退位すべきだという意見の持ち主であった。この点、
吉田茂とは考えが違っている。彼には彼のしっかりした意見があった。
いくつもの武勇伝を残して、次郎が終戦連絡事務局を辞したのは昭和二十二年の
ことであった。翌昭和二十三年には初代貿易庁長官に就任している。実際の貿易に
携わっていた経験を生かし、彼は貿易庁を中心とし、当時商工省の課長であった
永山時雄 と共に商工省を通商産業省に移行させる仕事を進めていった。一方、
経済安定本部次長や賠償協議会副会長を歴任している。
まさに八面六臂 の大活躍だったが、吉田茂がワンマン宰相としてマスコミの批判
を浴びるに従って、世の批判は次郎に及び、彼を『白洲天皇』、『茶坊主』、
『ラスプーチン』、『ミスター・ヴィトー』(拒否権さんという意味で、外務省の
人事を含む一切を仕切る次郎に同省の役人が奉った渾名 )と言って攻撃した。
吉田は政治家だからマスコミ操縦は慣れていたが、次郎は日本の復興に誠心誠意
尽くしてきただけにこうした批判が許せなかった。彼は通商産業省を誕生させた
のを期に、役人の世界から完全に足を洗った。『白洲三百人力』(次郎一人で
自由党代議士三百人に匹敵するという意味)という、次郎の能力の高さを示す渾名
ももらっていたのだが…。
この頃、次郎が駐米大使を狙っているという事実無根の噂も流れている。世の表
舞台からの引退を考えていた次郎だったが、世間はそれを許さなかった。電力
事業の再編成と民営化に携わってきた次郎は東北電力の会長にと請われるので
ある。一つ受けると、そのほかに、大沢商会会長、日本テレビや大洋漁業の社外
重役、外資系投資銀行のウォーバーグ商会顧問などといった肩書きもついてきた。
彼は、これらの企業にとっての用心棒のような存在だったのだろう。
その後吉田茂は、サンフランシスコ講和条約の大仕事を前に、再び白洲次郎に
白羽の矢を立てた。辞令の肩書きは講和会議首席全権顧問。吉田は随行団に娘婿
の麻生太賀吉も入れ、腹心で固めて主戦場のアメリカを目指した。講和会議は
米国側担当大臣ダレスの根回しの甲斐あって、当初予想を下回る五日間の会議で
閉幕し、吉田は無事講和条約にサインすることができた。
白洲次郎はここで、吉田茂の調印後の演説を当初考えていた英語から日本語に
変えさせている。吉田をよく知る次郎は、彼の英語が決して胸の張れるもので
はないことを知っていたのだ。急遽 通訳が付き、演説の要旨の翻訳文を事前に
会場参加者に配るという気配りをし、吉田は堂々と日本語で演説したのである。
その時、吉田が読んだ手もとの巻紙を各国のマスコミは、吉田のトイレットペー
パーと呼んで自国に打電したが、この巻紙こそは、次郎がサンフランシスコの
チャイナタウンで急ぎ求め、下書きをしたためたものだった。次郎は吉田茂の
負託に十分応え、無事大役をこなして帰国の途についた。
ここらで、白洲次郎の人気の秘密でもある趣味の世界に話題を転じよう。
次郎の酒好きは有名である。次郎は生前、本場のスコッチ・ウィスキーを親友
のストラトフォード伯爵から送ってもらっていた。それは伯爵がスコットランド
の蔵元から熟成したスコッチ・ウィスキーの原酒を樽ごと買取り、伯爵の広大な
邸内で寝かせ、頃合いを見計らって送ってくる絶品だった。
幸運なことに偶々これを次郎から飲ませてもらった映画監督の大島渚は、随筆の
中で何度もこの時の経験を綴っているが、表現力の人一倍あるであろう大島監督
をして、『うま過ぎるとしか表現する能力を持たないことが無念だ。』と語らせて
いるのである。
大島監督は酒に対して一家言持っている美酒家である。彼は貯蔵二十年を超えた
ウィスキーが限りなくブランデーに近づくことを不満に感じ、貯蔵の年月とウィス
キーのうまさは比例するという世の常識に反する意見も述べている。彼にかかると
私の好きなロイヤル・サルートも一刀両断である。(私はブランディーに近づこうが、
いいものはいいと思うのだが…。)その大島監督は、『本場スコットランドでも
数多くのモルト・ウィスキーを飲んだが、この時の白洲次郎のウィスキーを超える
ものには結局出会わなかった。』とまで書いている。そして『ストレートで飲んだ
最初の一口は、ウィスキーのカテゴリーを超えて天上のものだった。』と締めく
くっているのだ。
白洲次郎に、酒に関する死の直前の有名なエピソードがある。
病室で注射でもする時だったのだろう、看護婦に右利きですか?左利きですか?と
尋ねられた次郎は、『右利きです。でも夜は左。』と真面目くさって答えたと
いう。結局これが、彼の最後の言葉となった。後に親しかった料亭の女将は、
次郎は非常に酒が強く、特に日本酒とウィスキーが好きだったが、一度も酔った
ところを見たことがなかったと語っている。英国紳士が人前で酔ったところを
見せるはずもなかった。
1982年(昭和五十七年)、次郎は名門軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長に就任
している。彼は、車や酒と同じ位ゴルフを愛した。そして彼はゴルフのマナー
を大事にし、ゴルフ場運営の改革を推進している。次郎はゴルフ場には決して
日本流の融通を持ちこませなかった。誰もを平等に扱ったが故に、要人警護の
SPの立ち入りを禁止し、時の首相に『どうしてもゴルフがしたければやめて
からにしろ!』と言い放ったという話が残っている。
しかし、キャディー達には大変に慕われ、次郎の死後も、彼のことに話が及ぶと
涙ぐむキャディーが多かったという。
最後にどうしても車の話に触れないわけにはいかない。白洲次郎は
有名なカーマニアだった。
中学生にして米国車を運転していたことは既に述べた。そして英国留学中、
彼がまず乗ったのがブガッティ最高の傑作と言われるタイプ35であり、
走る宝石とまでいわれた名車である。次に乗ったのがベントレーの3
リッターカー。その耐久性がル・マンでの優勝でも証明されたこれまた
名車中の名車。ちなみにこのベントレーは日本にも戦前七台輸入されたが
、あまりに高くて三台しか売れなかったという。価格がフォード車の二十倍
だったというのだから当然だろう。
そして結婚した時(後述)、父文平からランチャ・ラムダを送られ、助手席
には花嫁を、後部座席には山のような荷物を乗せて、彼は京都から奈良・
箱根と回って東京へ帰り着いた。これが彼らの新婚旅行だったのだ。その後、
鶴川の車庫にはアメリカ製パッカードの姿があったが、ガソリンが配給制に
なると、ドライブもままならなかったようだ。
時は流れて1970年代、次郎はポルシェ911に乗っていた。しかし
1980年、ソアラ開発中のトヨタ自動車開発責任者の岡田稔弘にポルシェ
を目指せと激励し、その愛車をぽんと提供している。MZ10と呼ばれたその
ニューソアラが完成した時、岡田は真っ先に次郎に報告したが、次郎はこの時
『よし買おうじゃないか!』とその場で約束している。死の二ヶ月前のこと
だった。結局次郎は、そのニューソアラに乗ることはできなかった。
1985年(昭和六十年)十一月二十六日、白洲次郎は突如入院した。
入院時、既に次郎の内臓はひどいもので、胃潰瘍は進み心臓は肥大して不整脈
が出、腎臓疾患も併発し、正子夫人は医者から手の施しようがないと伝えられた。
余りに頑健な身体だったために、ぎりぎりまで酷使した結果だった。次郎は何と
入院の二日後にこの世を去っている。彼は死に方まで格好良かった。『葬式無用、
戒名不用』という、父文平と同様の遺言により、その日は遺族だけが集まって
酒盛りをしたという。
白洲次郎の死去に際してコメントを求められた時の首相中曽根康弘は記者団に
対し、『GHQがいばっていた頃、彼は日本人のプライドを守った。そして
ディシプリン(規律)の権化のような人だった。』と語っている。
次郎が逝った翌年(1986年)の春、三田の心月院にある白洲次郎の墓前に
三人の紳士が訪れている。それは当時のトヨタ社長豊田章一郎、長男の章男、
そして永山時雄の三人であった。彼らの墓参りは普通の墓参りではなかった。
三人は岡田稔弘が丹精込めて開発し、次郎の夢を乗せたニューソアラを心月院
に横付けし、その完成を墓前に報告したのである。豊田章一郎はこの時、
『葬式もしない白洲さんのわがままに対応するには、これしか方法がなかった。』
と語っている。
世界を代表するカーメーカーをして師の礼をとらせたカーマニア白洲次郎、
もって冥すべしである。その後次郎の遺志は未亡人正子に引き継がれ、
鶴川の白洲家の車庫に正子の購入したニューソアラの白い車体が無事収まった
ということである。
白洲次郎の一生は男のロマンで溢れている。彼は男が惚れる男の中の男だった。
白洲正子(1910―1998)
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1998年(平成十年)十二月二十六日、白洲正子が八十八歳の生涯を閉じた時、
テレビやマスコミで大きく扱われているのを醒めた目で私は見ていた。その頃は、
白洲退蔵などという人物の存在は全く知らなかったし、ましてや白洲正子その人の
ことを自分の本の中で触れることになろうとは思いもしなかったからだ。ただ、
派手な人生を送った人だなあという印象だけが強く残った。
最近も『白洲次郎の生き方』(馬場啓一著)という本が出版されていることでも
判るように、白洲次郎のダンディズムは今や伝説にさえなっているが、その妻
正子も、その生き方ゆえ、その審美眼ゆえに、彼女のエッセイは今猶多くの人に
読まれ、白洲信者ともいうべき熱烈なファンを有している。
ここまで脱線してしまうと『北摂三田の歴史』とは言えなくなってしまう
のだが、次郎・正子夫妻の墓が心月院にあることから、彼らの心の中に三田の
地がアイデンティティーとして根付いていた気がして、私としては書かずには
いられないのである。
白洲正子は父方の祖父が樺山資紀、母方の祖父が川村純義(1836―1904、
海軍卿であり、海軍が薩摩閥で固められた主犯格。)という海軍薩摩藩閥の重鎮
二人の血を受け継いでいる。明治期の島津家では顧問を五人置いていたが、その
うちの二人がこの両祖父だというから半端ではない。(後の三人とは首相松方正義
・元帥大山巌・元帥西郷従道である。)なお、樺山資紀は当初子爵であったが、
日清戦争の後、伯爵に列せられた。父の樺山愛輔(1865―1953)もアマー
スト大学を出た後、千代田火災・日本製鋼所重役を経て、貴族院議員・枢密院顧問
を歴任。戦後は日米協会の会長も勤めた人物である。
正子が生まれる十九年前の明治二十四年、当時海軍大臣だった祖父の樺山資紀は、
政府提案の軍事予算全てを拒否した自由党に頭に来、国会で『明治四年以来、
内外の多難を排し来たりて今日まで国家を維持したるものは全く薩長政府の功
なり。』とやってしまった。いわば『薩長藩閥のどこが悪い!』という開き直り
ともとれる発言に、議場は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、ついに松方正義
内閣は堪らず解散権を行使した。これが世に名高い樺山海軍大臣の『蛮勇演説』
である。ことほど左様に、樺山資紀は薩長藩閥政治の申し子のような存在だった。
永田町一丁目にあった樺山家の屋敷には馬車が三台、馬が二頭おり、門の脇の
長屋には御者と別当が住んでいた。今、東京国立文化財研究所に収蔵されている
黒田清輝の代表作『湖畔』が客間を、東京国立博物館に収蔵されている『読書』が
食堂を飾っていたというから、私のような一般庶民には想像もつかない世界である。
学習院女子部初等科に六歳で入学した時、梅若流の二代目梅若実(1878―
1959)に入門。毎日のように稽古場に通い、十四歳の時、女人禁制だった
能舞台に史上初めて女性として立ち、『土蜘蛛』を舞っている。
1924年(大正十三年)九月、渡米してニュージャージーのハートリッジ・
スクールに留学。女子全寮制の厳しい教育を受けた。
1927年(昭和二年)四月、父愛輔が出資していた十五銀行休業の影響で樺山家
は大損害を蒙る。その影響で永田町の屋敷を売却して大磯の別邸に移ることと
なったため、正子も大学進学をあきらめて帰国を余儀なくされている。
当時、十五銀行の頭取は松方正義元首相の長男である松方巌であった。正義の
三男幸次郎が社長をしていた川崎造船、五男五郎の久慈浜鉄鉱、八男正熊の帝国
製糖に対する総額一億数千万円の融資全てが不良債権となったために、これが原因
で十五銀行は休業。金融恐慌のきっかけとなっている。松方家は公爵家であったが
責任を取って爵位を返上し、松方巌は平民になって世間に詫びた。その後、松方
元首相の恩顧を受けた大蔵省関係者を中心に復爵運動が起こるが、十五銀行は別名
華族銀行と呼ばれたほど華族の出資が多かったことから、華族がこの休業で受けた
ダメージは甚大で、結局松方家の復爵は認められなかった。
帰国の後、次から次へと降るように来る縁談話には見向きもせず、せめて二十五歳
くらいまでは自由気ままに暮らしたいと考えていた正子であったが、十八歳の時、
正子の兄の樺山丑二が偶々友人であったことから紹介された白洲次郎にぞっこん
一目惚れしてしまう。次郎の日本人離れした長身や留学で身に付けたダンディズム
を前にすれば、さしもの正子もその魅力に抗することは難しかったのであろう。
父親同士は学生時代、既にドイツで会って面識はあったようだが、当時、次郎の
父文平は破産していた。(それでも、結婚祝として二人に、当時日本に二台しか
なかったイタリアの名車ランチャ・ラムダを送っているから、財布の底にその程度
(現在の貨幣価値で三千万円程度)は残っていたということか…。)そんなことも
あって、次郎のほうでは究極のお嬢さんとの結婚に若干不安を感じていたようだ。
しかし、むしろ正子のほうが話を強引に進めていった。
常識的に言えば、金融恐慌の影響を蒙ったとはいえ、このような令嬢が破産者の
息子と結婚するのは、当人がどうであれ周囲の反対で破談になるのが普通であろう。
実際、正子の姉の結婚相手は日本郵船社長の令息であった。(日本郵船は、その昔、
会社といえば日本郵船を意味した時代があったほど由緒正しい会社である。)その
意味では、正子の両親の人を見る眼も大した物だったといえよう。
名家同士の結婚には珍しく結納を交わすといったことはせず、代わりに小切手を
郵便で取り交わしただけでエンゲージリングや結婚指輪も無かった。二人の実家が
ある東京と伊丹の中間ということで京都ホテルを会場に決め、近親者二十人ほど
での質素な結婚式を開いたというのも物事にこだわらない彼ららしい。(但し、
仲人は大久保利通の三男である利武が務めているから、決して並ではない。)
1943年(昭和十八年)、正子は志賀直哉や柳宗悦の勧めもあって、『お能』と
いう専門誌を刊行。その後も、能・絵画・陶器・史跡を題材にしたエッセイを多数
発表し、中でも『能面』(昭和三十八年)と『かくれ里』(昭和四十六年)では読売
文学賞を受賞している。1991年(平成三年)には、日本文化の発展・継承に
尽くした功績に対し、第七回東京都文化賞が授与された。
雑誌か何かで白洲正子の書斎の写真を見たことがあるが、書棚には彼女と深い
親交のあった青山二郎(1901―79、美術評論家)や小林秀雄の著作と共に、
三田市史の上下巻があったのが印象的だった。彼女はそれで、次郎の祖父である
白洲退蔵の人となりを学んだに違いない。そして、退蔵の生き方や三田の風土を、
一代の目利きであった白洲正子はきっと気に入ったに違いないのだ。
その証拠に、今、白洲次郎と正子は、退蔵の墓がある心月院の白洲家墓地に
二人仲良く並んで眠っている。白洲家の墓はおよそ百坪の墓域に、整然とL字形
に墓碑が並んでいる。元は兵庫県下の各地に分散していたものを、次郎の母親が
探し出して一つにまとめ改葬したものである。
次郎と正子の墓碑は一風変わっている。昔の板碑を象った五輪塔の形をし、次郎
の墓碑には不動明王が、正子のそれには十一面観音が彫られている。これは正子
のデザインによるものだ。正子の十一面観音は自著で題材にしたことがあるから
であるが、次郎の墓碑が不動明王であるのは白洲次郎その人に似ているからだ
そうだ。泉下の白洲次郎はきっと苦笑しているに違いない。
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