ハイナンNETの日常

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おばあちゃんの来日と裁判の報告

2009-04-13 05:53:21 | 活動報告
遅くなってしまいましたが、裁判とそのときのあぽの様子についてです



2001年に原告8名が東京地裁に提訴し、2006年に地裁で敗訴の不当判決が出されたため東京高裁に控訴していたこの裁判は先月、3月26日に東京高裁での判決が下された。

判決は控訴棄却。原告の女性たちの訴えは今回も聞き入れられることは無かった。戦時中の被害事実は当然のことながら、戦後も続いてきた女性たちの精神的被害も事実として認定したうえ、国家無答責の法理を排斥した。つまり原告の女性たちの持つ損害賠償請求権を認めるという判決であった。

しかし、この請求権を女性たちが裁判によって訴える権利は「日中共同声明」により放棄されたことを理由に控訴は棄却された。しかし個人の請求権は消滅しないため、個別具体的な請求について国が自発的な対応をすることは何ら妨げられないことを裁判所は認めた。
大方の予想通り、2007年4/27の最高裁判決を踏襲した不当な判決であった。判決では国に責任があることを認めているのに、司法では裁けないから国が自発的に責任をとることを期待しろということだろうか。やはり日本は三権分立が未だ確立されていない国なのだと改めて感じる。


そんな日本まではるばる海南島からやってきた原告のおばあちゃん。二度目の日本滞在は今回、5日間と短いものだった。私はおばあちゃんの滞在中、身の回りの手伝いをしたり一緒にご飯を食べることができたので、おばあちゃんの日本での様子を簡単に報告したい。


3月24日に成田空港にたどり着いた時には、おばあちゃんは風邪で体調がとても悪く、ひどい咳をしていた。成田からは車でホテルまで移動したが、車に酔ってしまううえ腰痛もあり、シートベルトをして長時間座っているのはかなりきつそうだった。その夜は一晩中、激しい咳で苦しそうに何度も起きていて、おばあちゃんはろくに睡眠をとれていなかった。

次の日25日は雨の中午前中から、車椅子で参議院議員会館まで行き民主党の議員たちに立法解決の要請をした。普段はご飯をよく食べるおばあちゃんはこの日、風邪と疲れのためか昼も食欲が無く、午後の議員まわりは行かずにホテルで休んでいることになった。夕方に漢方に詳しい方のマッサージを受け、湿布を貼り、少し腰などの痛みも和らいだようだったが、この夜に新橋で催された弁護団による歓迎会には行かず、ホテルのレストランでハイナンNETメンバー5名と通訳の方と夕食を共にし、翌日に備え早めにベッドに入った。しかしこの夜も咳が出て熟睡はできなかったようである

そして判決の26日、おばあちゃんはリー族の民族衣装を着て昼過ぎに東京高裁に到着し、ハイナンNET関係者や弁護団、傍聴に来てくれた人たちと一緒に入廷行進をした。支援者が持つ横断幕の前を車椅子でゆっくり裁判所の入り口へと入っていったおばあちゃんの顔は、体調も悪いうえに緊張している様子だったが、それでも凛とした表情だった。

ちなみに裁判所の入り口には、当日の他の裁判の判決を取材に来たらしいマスメディアのカメラが並んでいて、おばあちゃんの入廷も撮影していた。でもあのたくさんのカメラで撮影されたもののうち一体どのくらいの映像がマスメディアで伝えられたのだろうか?撮ったのならきちんと伝える義務があるのではないだろうか。


傍聴には60名以上の人が集まった。小法廷には40人ほどしか傍聴席に入れないため裁判所には再三、大法廷への変更を要請してきたが、結局聞き入れられず傍聴券は抽選となり、法廷に入れない人が何人もでてしまった。
 

入廷から数十分後、おばあちゃんが車椅子で裁判所から出てきた。狭い歩道で門前集会が開かれ、おばあちゃんは至近距離で撮影するいくつもの大きなカメラや記者たちと支援者たちの前で、判決に対する不服を述べた。その日のうちに上告し、「死ぬまで闘う」とカメラの前では発言していたが、司法の場ではもう勝つ見込みがほとんど無い闘いを、こんな細い体でいったいどのように闘い続けるというのだろうか。戦争を生き延び、戦後も苦難の中を現在まで生き続けてきたことだけでもう十分闘ってきたのではないだろうか。それなのに「死ぬまで闘う」とおばあちゃんに言わせてしまっている日本という国。いま闘うべきなのは私たちなのに。。。

短い門前集会のあと、おばあちゃんは判決文の詳しい説明を受けるため弁護士会館へ移動した。弁護団の説明中、(日本語→中国語→リー語と二重通訳のうえ司法の難しい言葉が連続するためとても時間がかかる。)疲れていたのかおばあちゃんは私が差し出したベビーカステラを食べてくれた。そして私たちハイナンNETメンバーや弁護士や通訳の人たちにもお菓子を勧めてくれていた。あんな判決を受けた後なのに、おばあちゃんはいつものようにまわりに気を配っていた。

一度ホテルに戻ったおばあちゃんは、かなり疲れた様子で部屋に着いたとたんベッドにもぐりこんで、「アポ、スイジャオ(おばあちゃんは寝るよ)」と言って電気を消した。しかしあまり眠れず、マッサージを受けるとまたすぐに報告集会の会場へと向かった。報告集会には60人の人たちが集まっていた。ここでもおばあちゃんは判決への不満を表明した。


その後、9時頃に交流会でやっとご飯となったが、おなかがすいている筈なのにおばあちゃんはあまりご飯を食べていなかった。寒さで風邪が悪化したからか、判決による心労から食欲が出なかったのだろうか。桜がようやく咲き始めたというのにこの日、特に夜はとても冷えた。おばあちゃんの体にはさぞ堪えた一日だっただろう。

27日は、午前は休んでいられる筈だったが、挨拶や要請に行くことになり朝ごはんを食べると、杖をつきながらホテルを出た。日中友好協会や社民党、共産党をまわり、行く先々でおばあちゃんは判決への不服を伝え「死ぬまで闘う」ということを訴えていた。「自分と同じように苦しんで、何も言えずに死んでいった多くの女性たちがいる。自分は彼女たちの無念を代表してここまで来ている」というようなことを言うおばあちゃん。いったいどれだけの苦しみを、あの小さな肩に背負って歩いているのだろう。


せめておばあちゃんの笑った顔が見たいと、私たちはこの日の夜ささやかな送別会を開いた。プレゼントを渡し、「わたしたちはアポ(おばあちゃん)が大好きだよ」と中国語で書いたケーキの、ろうそくを吹き消してもらった。ごはんもおいしそうに食べていたし、笑って楽しそうにしていた。「被害者」だからっていつもいつも泣いているわけではないし、私たちと同じように笑ったり食べたり生活して一日一日を過ごしている。日本という国まで、「闘い続けるため」に、山奥の村からでこぼこ道をバイクやバスに乗り街へ出て、そこから空港までまた長距離バスに乗り続け、島から中国本土へ飛び、また飛行機を乗り換え日本に飛んで、長時間かけてはるばるやってきたのだ。今この時も苦しみを背負いながらも、遠い海南島で生きて、だれかと喋って、寝て、起きて、生活している。当たり前のことなのに、想像力が必要になってしまう。そして多くの人にその想像力を持ってもらうことがどうしてこんなにも難しいのだろうか…。


28日、おばあちゃん帰国の日見送りに来た私たちが持ってきたお菓子を、「ご飯食べてないんでしょ、あんたたちで分けて食べなさい!」と、どうにか渡そうとするしぐさが本当にお茶目で、みんなおばあちゃんにまた笑わされてしまったそんなふうな空港での別れ際には、今回はお互いあまり大泣きしたりはしなかったけど、細い肩が見えなくなるまで見送った後、日本に居るわたしたちにはそれぞれの課題が残った。。。

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