|
|
HOME|取扱業務|ライセンス|アクセス|ご依頼・お問合せ|南 通訳翻訳事務所|リンク|お問合せ 在留資格一覧|永住者|投資経営在留資格|帰化|1円会社設立 |
|
始祖沙也可について |
私は日本生れの日本育ちですが、我が家の本貫が賜姓金海金氏であるのは知っていました。しかし、その賜姓金海金氏が何に由来するかなんていうのは、あまり考えてなかったんですね。韓国についても大学を出て韓国の延世大に留学したのが、初めての韓国長期滞在でした。その時は「本貫は?」って聞かれても単に「金海金氏です」と答えてました。 韓国では金、朴、李の氏が非常に多いのですが(全体の半分くらい)、それぞれの姓が出身地域で細かく分かれています。金氏も「慶州金氏」とか「光山金氏」「金寧金氏」「安東金氏」などのように約40以上の金氏がいるのですが、「金海金氏」はその中でも非常にポピュラーな金氏として知られており、「韓国姓名辞典」でも一番最初に載っています。 その「金海金氏」もまた多くの「派」に分かれているのですが、当初は「賜姓金海金氏」もその中の一つだろうと思ってました。 |
で、そんなに気にせずにほっといたんですが、ある時大学で先生が「本貫はどこ?」って聞いてきたので「金海だ」って答えたら「金海の何?」とツッ込んでくるので(韓国人は自分の本貫も答えられないヤツをすぐに馬鹿にする)、「賜姓金海金氏だ」って答えたらこの人が結構詳しくて「じゃあ400年前日本から来たのか」なんて言ってたんですよね。私はあんまり詳しくなかったんで、この時はただ聞くだけだったんですが。 それから、時々大邱の実家に行く時に沙也可について聞いてたんですけど「友鹿里って知ってる?」とか聞くと「お前がいつも墓参りに行く村がそうだ」とか、「沙也可って知ってる?」って聞いても「うちの始祖だ」とか、「俺って何代目なの?」って聞いたら「十三代だ」ってなんか淡々と普通に答えてましたね。 私のイメージでは、始祖とか族譜(家系図)とかについて聞かれると韓国人は喜んで延々話まくると思ってたんですが、案外クールでした。 「小さい頃から葬儀や祭事で行ったろう。今更そんなに珍しいのか?」って感じでした。まあ、そう言い放たれるとそうなんですが。 |
で、姓の話に戻りますが、賜姓金海金氏と一般のポピュラーな金海金氏とは全く別物で、友鹿金氏とも言うんですね。 簡単にその賜姓金海金氏の始祖、沙也可の話をすると、 時は文禄、豊臣政権末期、太閤秀吉の天下も終わりかけの頃、老いた戦国随一の奇才秀吉は、何を思ったか大陸の明帝国をめがけ朝鮮に出兵すると言い出し、有名な文禄・慶長の役(韓国では壬申外乱)が鶴の一声で始まった頃の話。 豊臣政権の重臣加藤清正軍(一説では小西行長軍)の先鋒隊長として沙也可なる武将がいたとされ、朝鮮上陸後すぐに「この戦、我が軍に大義なく、言われなき侵略に苦しむ民を看過すること仁に反す」(とか言ったかどうかは知らんが)として自身の手勢約3千を従え朝鮮軍に寝返り、圧倒的不利だった朝鮮軍に当時なかった鉄砲を伝授し、数度に渡る豊臣軍の侵攻を、朝鮮水軍の英雄李俊臣(イ スンシン 英雄なんですが一時姦計により投獄)と伴に退け豊臣軍を撃退。時の宣祖王に臣下として迎えられ、正憲太夫の位と金海金氏を名乗るよう賜り、号を慕夏堂とし、名を金忠善(キム チュンソン)と改名、賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿に領土を与えられ、朝鮮の臣としてその後も湖族鎮圧等で活躍しその生涯を閉じた。 こんな感じが大まかな沙也可物語の粗筋だと思います。 |
まあ、最近の日本では武人としてより「日韓友好の象徴」みたいな感じで「義と仁の人」として有名みたいですが、実際はどうでしょう?当時戦国武将なんてのは旗色悪くなると寝返るのが常だし、名が残ってないだけで当時の降倭(投降)武将なんて相当な数いたはずです。 で、常に話題になるのは「沙也可は一体誰だったんだ」と言うことですね。手がかりとして賜姓金海金氏一族には族譜と伴に慕夏堂文集と言う古文書(注釈書?)が伝わっています(家にもありました。1974年に金致烈〔内務卿〕の名で発行したのものなので、前回の族譜改編のときに一緒に送ってきたようです)。 |
キーワードになるのは、 @ 鉄砲伝授後すぐに実線投入していることから「鉄砲の技術と知識(製鉄を含む)が相当にある」こと。 A 手勢の数から「そこそこの領土を持つ大名あるいは領主」である(当時の戦は司令官に正規軍をあてがわれるのではなく、自分の手勢を引き連れて合戦に参加したようです)。 B 先鋒隊にされていること。また、戦況が進む前にとっとと寝返っていることから「豊臣政権に優遇されなかった。あるいは恨みを持っている者」。 C 沙也可というおよそ日本人でも朝鮮人でもない、不可思議な名を名乗っていることから(韓国には沙姓の人が若干いるが関係ないと思われる)「本国に質となる一族あるいは領土があった」。 D 慕夏堂文集の信憑性 一説では「豊臣秀吉に滅ぼされた、紀州和歌山の雑賀孫市率いる雑賀鉄砲衆ではないか?」というものでこれはかなり有名です。 根拠として、 @、Bはほぼ当てはまります。 A、Cについては、雑賀衆は天正後期に秀吉に攻め滅ぼされているので当てはまるとは言いにくいです。 Dはこの説では信憑性が低いと考えられているようです。 |
加えて「雑賀」と「沙也可」の読みが非常に近いと言うこと(これが最も大きな根拠になっているようですが)。韓国語で読めば「ヂャプハ」と「サイェカ」となり全然違います。しかし、初めから韓国語の知識があったとも思えないし、自分が「サイカ」と名乗っていたのを朝鮮の人が当て字で「沙也可」としたと言えなくもないが微妙ですね。ただ、我が家の賜姓金海金氏世譜の始祖沙也可の行には「金忠善、字善之 日本人 姓沙氏 諱也可 兒時屹有用夏之志當」とあります。この「字善之」が元来の名である可能性はありますね。雑賀衆に雑賀善之(鈴木善之)と言う人物が実在したという記録はあるようです。
また岡本越後守や阿蘇宮越後守(同一人物説もあり)説。何とか佐衛門をもじって沙也可になった説。日本人ではなく朝鮮人の成りすまし説等。諸説ありますが、その中で面白かったのが西南大学丸山教授の九州糸島の原田五郎右衛門信種説ですね。丸山先生としては諸説について「そもそも語呂合わせ見たいな非科学的な謎解きなんてナンセンスですな」って感じでした。 |
で、実際に西南大に行って教授の説を聞かせていただいたのですが、流石に学者先生。当時の陣立て表から洗い出し、 @ 「出立時期と到着時期」 A 「名護屋港でそこそこに人員を集められた者」。 B 鉄砲伝授後すぐに実線投入していることから「鉄砲の技術と知識(製鉄を含む)が相当にある」こと。 C 先鋒隊にされていること。また、戦況が進む前にとっとと寝返っていることから「豊臣政権に優遇されなかった。あるいは恨みを持っている者」。 D 消去法で「帰ってきていない者」「上陸後すぐに消息不明になっている者」。 E 沙也可というおよそ日本人でも朝鮮人でもない名を名乗っていることから「一族皆殺しを恐れ、本国に絶対に生存を知られてはならない者」。 F 「大陸に強く郷愁の思いを持つ者」。 G 慕夏堂文集の信憑性 等が主な焦点になったようなんですが、他説と大きく違うのは慕夏堂文集の信憑性についてです。そもそも慕夏堂文集は沙也可本人が書いたものではなく、その孫の代から編集し始めたものらしいので、日付等が曖昧で信憑性は疑問視されているようです(大戦中の日本政府に「敵国に寝返るような不忠の輩は大日本帝国にはおらん!従がって沙也可も慕夏堂文集も存在せん!」と全否定されたようですし)。しかし、有効な史実と認められるものもあるので、完全否定ではなく推定できる範囲で有効な資料と考えると言う方法でした。 |
簡単にまとめると、先ず @「清正軍先鋒部隊長説」と「小西行長先鋒部隊長説」は加藤清正説を取っています。慕夏堂文集によると沙也可の上陸日は清正軍の上陸日です。 A加えて糸島は名護屋から近く地元なのでAもクリア。 Bについては原田氏も優秀な鉄砲衆を持っていたらしく、また糸島は昔鉱山地域だったので寿鉄の知識も豊富だった。 Cも原田氏は豊臣政権による御国取潰しの危機に瀕しており、功を上げ一発逆転を狙わなければならなかった(心中は秀吉政権を憎んでいた)。加えて信種は養子であるとの事でした。原田氏の存亡を担って当主に迎えられたとか。 Dもちろん帰国していない。 Eこの理由があるからこそ本国で絶対足がつかない偽名を使うはず。 Fなんですが原田氏というのは大陸からの帰化人なのだということでした(何でも後漢の霊帝の流れだとか)。 なるほど、これは信憑性が高いかもしれません。 〜中略〜 「ズバリ、沙也可は原田信種である」教授は言い切りました。 この他にも延々具体的かつ合理的な推理を披露して頂き、その学者としての隙のない理論と情報量に感服しながら、最後に肝心な「信種が沙也可と名乗った理由は?」と言う私の質問に丸山教授は「うむ、糸島には伽耶山と言う山がある。原田氏の居城からも見え、原田信種も伽耶山を見て育った。信種は二度と帰れぬ故郷に望郷の念を込め、カヤサンを逆さまに呼んでサンヤカ=サヤカとなったのだ!!」と力説してくれました。 ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 沙也可は一体誰だったんでしょう????? |
|
HOME|取扱業務|ライセンス|アクセス|ご依頼・お問合せ|南 通訳翻訳事務所|リンク|お問合せ 在留資格一覧|永住者|投資経営在留資格|帰化|1円会社設立 |
|
Copyright (c) 2000-2005 金日鵬国際行政事務所. All Rights Reserved. |