日本統治時代の朝鮮 |
目次
@日本統治時代の朝鮮の収支
A一進会
●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(17) 投稿者:解法者
投稿日:10月25日(土)23時09分
>日本統治時代の朝鮮の収支(1)<
期間 | 輸出 | 輸入 | 収支 |
1910年―1914年 | 83,655 | 179,635 | ▲ 95,980 |
1915年―1919年 | 485,644 | 468,881 | 16,763 |
1920年―1924年 | 1,121,6117 | 839,111 | 273,500 |
1925年―1929年 | 1,629,976 | 1,363,499 | 266,477 |
1930年―1934年 | 1,495,414 | 1,534,074 | ▲ 38,660 |
1935年―1939年 | 3,023,809 | 4,092,908 | ▲ 1,069,100 |
1940年―1944年 | |||
合計 | ▲ 647,000 |
単位 千円 |
★ 輸出、輸入とも朝鮮からみたもの
☆ 資料 朝鮮総督府 朝鮮総督府統計年報(各年度)
このとおり、日本は、大幅な輸出超過だったのである。
また、朝鮮総督府の財政は、「朝鮮総督府特別会計」として、日本国の国家予算の一部として独立会計年度でもって編成されていたが、朝鮮だけではとうてい賄うことが不可能だったので、日韓併合当初の1910年度からだけでも年間1200万円程度の交付金が補充されていた。これを合わせれば、947,000円もの赤字となっていたのである。なお、朝鮮の財政赤字とその補填については>日本統治時代の朝鮮の収支(2)<で詳説する。
ところが、朝鮮から日本へ1910年から1934年まで、134,083,000円、1935年から1939年まで1,000,000円(推定)相当の金、銀が輸出されたとして、逆に187、083,000円の黒字(日本が朝鮮から利益を受けた)という者がいる(金 哲 韓国の人口と経済 P
71 岩波書店 1965年7月27日発行 )。これは、数字のトリックである。この推定の数字も怪しいが、それよりも金、銀の採掘費用が全く計上されていない。総ての物には原価がある。
●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(18) 投稿者:解法者
投稿日:10月25日(土)23時15分
>日本統治時代の朝鮮の収支(2)<
その原価、つまり、朝鮮の予算(歳入と歳出)を検討してみたい。
期間 | 歳入 | 歳出 | 収支 |
1910年―1914年 | 121,368,697 | 206,507,853 | ▲ 85,139,156 |
1915年―1919年 | 262,350,764 | 324,694,095 | ▲ 62,343,331 |
1920年―1924年 | 455,394,312 | 705,327,380 | ▲ 249,933,068 |
1925年―1929年 | 836,674,781 | 1,014,51,6.707 | ▲ 177,841,976 |
1930年―1934年 | 758,360,546 | 1,128,575,517 | ▲ 370,214,971 |
1935年―1939年 | 1,831,928,658 | 2,196,051,420 | ▲ 360,122,762 |
1940年―1944年 | 1,288,430,855 | 1,745,326,121 | ▲ 45,689,266 |
合計 | ▲ 1,766,577,530 |
単位 千円 |
☆ 資料 朝鮮総督府 朝鮮総督府統計年報(各年度)
1911年―1939年まででは、▲ 1,309,595,264円となる。この赤字は日本からの交付金、借入金および公債で賄われた。
金 哲(韓国の人口と経済 P 71 岩波書店 1965年7月27日発行 )の金銀の数字を考慮しても、1,122,512,264円(当時の価格)のマイナスとなる。金 哲(敬称省略)はこの財政赤字を全く無視して、自分に都合の良い数字を選択して立論し、朝鮮は日本に搾取されていると決め付けている。
朝鮮総督府施政年報は、1942年以降は発行されておらず、朝鮮総督府統計年報は、1943年以降は発行されていない。しかし、朝鮮の財政赤字と貿易収支の赤字はその後も増加していったことはそれまでの推移から見て間違いない。日本統治時代で、ただの一度も歳入が歳出を上回ったことがなかったのである。なお、これまで、綿密に日本からの財政補填などを検討した論述が見当たらない。これも不思議である。
さらに、1945年の敗戦によって、朝鮮から引揚げた際に残した財産(日産)は日本人の個人財産も莫大なものがある。これも含めて朝鮮および朝鮮人は日本および日本人の犠牲の上に繁栄を極め、それは今も続いているといっても過言ではない(北朝鮮では遥に食い潰し、韓国でも食い潰しつつある)。
(★KABU註:金 哲氏およびその同調者の方々よ、)、つぎのこと、教えてください。
是非、お願いいたします。
1、金1,122,512,264円(1939年当時)、現在でどのくらいの価値でしょうか。
また、1910年と1939年とは貨幣価値がどのくらい違っておりましたでしょうか。
2、朝鮮から引揚げた際に残した財産(日産)は日本人の個人財産も含めて、どのくらいでしたでしょうか。これについてはどこかで見かけたが失念しました。出典もお願いいたし ます。
●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(21) 投稿者:解法者
投稿日:10月30日(木)16時40分
>一進会(1)<
石原東京都知事が、朝鮮人が日韓併合を望んだということについて、韓国政府、日本のマスコミから、非難の声が上がっているが、歴史を学んだことのない者の全くの言いがかりである。これを明らかにするため、順番を飛ばして説明したい。少し長くなるが、日韓併合への道のりを知るには欠かせないので我慢していただきたい。
朝鮮人が日韓併合を望んだことは朝鮮人の「一進会」の運動を見れば明らかである。
「一進会」は、日清戦争の発端となった「東学党」の流れをくむ。「東学」とは「西学―キリスト教」に対抗する朝鮮の<学>を意味し、<人乃天>、つまり人間平等と主体性(この思想は北朝鮮の「主体主義」に歪んだ形で利用されているーこれを創造したのが「黄 長Yであるー正確にいえば<創造>ではなく<剽窃>を掲げ)、1860年に結成された(教主崔済愚)。この運動は李氏朝鮮王朝の圧制に苦しんでいた農民、下層階級に瞬く間に広がり王朝打倒運動となって各地の王朝の収奪下部機関の郡守などを襲い一大騒乱となった(これには日本からもこの思想に共鳴した武田範之などが日本人を集め参加している)。
朝鮮王朝側もこれを弾圧し、教主を死刑にしたが、2代目(これも死刑)、3代目と教主は承継され留まるところを知らなかった。3代目教主孫 ビョンヒは運動を続けたが王朝側の弾圧により1901年に日本に亡命した。ここで彼は日本の明治維新による国家建設に驚き、日本に傾斜して行く。腹心「李 容九」に朝鮮内での運動を託した(李 容九は「進歩会」を結成)。このころ、同じく日本に亡命していた「宋 ビョンジュン」も朝鮮の体制を変革するには明治維新のような国家建設が必要だとして「維新会」を結成した。
●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(22) 投稿者:解法者
投稿日:10月30日(木)16時46分
>一進会(2)<
この「李 容九」と「宋 ビョンジュン」の運動が合体して生まれたのが1904年結成の「一進会」である。「一進会」は会員100万人の大団体となった。この「一進会」は日本の傀儡で日本から援助を受けていたという妄言が後を断たない(朝鮮を知る事典 平凡社伊藤亜人など 2000年11月17日 新訂増補)。
一進会の1905年の会計報告を見ても、収入41万円(個人の拠出―14万円、会費―16万円、借入金―11万円)であり、日本からの援助金はなかった。それだけではない。一進会は日露戦争への日本軍に対する支援金25万円が拠出している(万円以下の端数省略)。さらに朝鮮各地での暴動の被害者救援金として15万円も支出しており、たちまち財政難に陥った。そこで、日本陸軍に支援を求め10万円の援助を受けた。それでも日本軍への援助は15万円もの赤字となっていた。
さて、「一進会」は韓日合邦を掲げ(連邦制、日本の一つの県になるなどの案があった)、運動を進めていたが、折からの「ハーグ事件(朝鮮国王が日韓協約の不当を訴えハーグの万国平和会議に代表を送った事件)」、朝鮮王朝の軍の解散などによる国民の怒りが向けられ、一進会員と王朝派との間に騒擾まで起こった。地方の一進会員の中には会を背景に住民に威勢を振るうものもいて、朝鮮統監府もこれを持て余し、一進会員を間島地方(現在の中国延辺自治州あたり)に移住させようという計画が起こり1907年には50万円の予算が組まれた(その後26万円に減額)。
●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(23) 投稿者:解法者
投稿日:10月30日(木)16時57分
>一進会(3)<
朝鮮には当時、一進会の他に大韓協会、西北学会(朝鮮の平安道の人が中心で天主教(キリスト教)の人たちも多く参加していた)、国是遊説団、普信社などの団体もあったが、1908年頃になると次第に反日が影を潜め、日本との親密な関係を模索し始めていた1909年10月26日に伊藤博文が暗殺され、曽禰統監は一進会の日韓合併を時期尚早として却下した。1910年9月には一進会も含めた総ての政治結社の解散が命じられ、会員100万名を擁して日韓合併を積極的に推進した「一進会」を切り捨てたのである。そして、一進会員の間島地方移住計画も実行されることはなかった。
この会員100万名にも上り一進会員は天道教の3代目教主孫 ビョンヒの元に返り、それが反日の渦となって「三・一独立宣言」につながっていったのである。これは、曽禰統監を筆頭とする日本政府の失政であった。「一進会」の要望どおりに<韓日合邦>を採り、彼らの運動を理解していれば、「三・一独立運動」はなかったのではないかと考えるそれはともかく1910年の日韓併合当時には、これに反対する政治団体は大韓協の一部に止まった。ほとんどがこれに賛成したのである。