城下町・岡山の礎を築いたのが宇喜多秀家だ。宇喜多家関連の史料は少ないが近年、新史料が見つかった。
秀家の妻・豪姫が関ケ原合戦に臨む夫の無事を寺に祈願した「豪姫願文」。開催中の岡山城春季特別展「岡山開府物語」に展示されている。豪姫は「世の中には『中納言』殿が数いるが、名は『ひでいへ』」と、間違えないよう仏様に注意している。
注目されるのは「申(さる)年生まれの二十九歳」と念を押していることだ。従来説より一歳年長であり、没年は八十四歳だったことがこれで分かった。夫が戦場から無事に帰還することを願う痛切な思いが、定説を覆した。
秀家をこよなく愛した人物がもう一人いる。豊臣秀吉だ。十歳前後で秀吉の養子となった秀家は、二十代の若さで徳川家康らと並び五大老の一人に任ぜられた。秀吉の、秀家に寄せる期待の大きさが伝わってくる。
岡山城特別展を監修した柴田一・就実大名誉教授は「宇喜多家は秀家の父(直家)の遺臣が興し、秀吉の愛情が潰(つぶ)した」と言う。秀吉にあまりに愛された秀家は、選択の余地なく、豊臣家と運命を共にするしかなかったのだろう。
漆黒に黄金の瓦が映える岡山城を築いた秀家は、配流された八丈島で永眠した。二つの愛に引き裂かれた胸の内を語る史料はまだ見つかっていない。