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1956(昭和31年) |
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2月6日 |
『週刊新潮』(2月19日号)創刊。
B5判、本文64頁、グラビア16頁、誌価30円。
表紙絵は谷内六郎。編集長は佐藤亮一。
従来、新聞社系でなければ出せないといわれていた週刊誌の創刊に挑戦し、販売ルート・入り広告・取材等々の困難な課題を克服。ユニークな編集方針と、文芸出版社の伝統を生かした連載小説も好評をもって迎えられ、出版社による新しい形の週刊誌として初めての成功をおさめて、週刊誌時代現出の先鞭をつける。
この日、東京・大阪市内に『週刊新潮』創刊予告の宣伝カーを走らせる。 |
3月25日 |
連載中の谷崎潤一郎「鴨東綺譚」は、モデル問題が起こったため連載6回、第1部で中止となる。
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5月1日 |
発売日を日曜日から火曜日に変更する。また毎年第1回に発行する号を第一号とし、年間通し番号をつけることに。
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5月5日 |
5月8日号より柴田錬三郎の読切小説「眠狂四郎無頼控」の連載開始。眠狂四郎シリーズは、以後『週刊新潮』の看板小説として人気を集める。
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11月 |
11月12日号の発行部数が50万部を突破。 |
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1957(昭和32年) |
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2月2日 |
谷内六郎の「週刊新潮表紙原画展」を初めて池袋の西武百貨店で開催。
2月21日号、創刊一周年臨時増大号を発行する。118頁、40円。
この年、発行部数70万部を突破し、『週刊朝日』『サンデー毎日』に次いで第3位となる。
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1958(昭和33年) |
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7月 |
7月21日号では、「兼高かほる旅客機による世界一周早廻り記録に挑戦」の計画を後援し、世界一周の時間を当てる「タイム・コンテスト」で賞金30万円の懸賞募集を行う。
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8月11日 |
日本新聞協会から雑誌協会に対して、皇太子妃候補者の報道につき正式発表まで待つよう協力を依頼される。『週刊新潮』編集部も、東宮傅育係小泉信三自身の鄭重な慫慂により、「候補者たち」の特集を組む予定を見送る。
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1959(昭和34年) |
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『朝日ジャーナル』『週刊現代』『週刊文春』等各種週刊誌の創刊が相次ぎ、週刊誌時代が現出。この年、発行部数は90万部に達する。
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1960(昭和35年) |
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11月5日
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11月7日号掲載、五味康祐「色の道教えます」、大藪春彦「血の来訪者」の内容の一部に猥褻文書の疑いがあるとして警視庁に押収される。
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1963(昭和38年) |
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12月
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12月2日号から山口瞳「男性自身」の連載が始まる。平成7年8月31日号まで、1614回を数えたこの連載は『週刊新潮』の看板コラムとなる。
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1964(昭和39年) |
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3月
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谷内六郎デザインのマスコット人形「こやけ人形」を愛読者10万人にプレゼント実施。
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4月8日
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野平健一が第2代編集長に就任。
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1965(昭和40年) |
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9月10日
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9月25日号、創刊500号記念増大号を発行。この号より、横山泰三の時事漫画『プーサン』始まる(平成元年8月10日号まで)。
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10月
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500号記念の谷内六郎展が、池袋・西武百貨店で開かれ、会期中、会場内にて大作「里の秋」の制作が行われて話題となる。
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1966(昭和41年) |
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2月
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2月12日号、創刊10周年記念号を発行。「谷内六郎の表紙十年」を特集する。
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5月12日
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5月14日号が、連載中の梶山季之「女の警察」文中に猥褻部分があるとの疑いにより押収される。
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