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知っていますか 明成皇后

 朝日新聞の8月27日の記事に「知っていますか 明成皇后」というのが掲載されていました。


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「閔妃といわれる写真1」     「ヘラルドトリュービンによる閔妃の写真」

閔妃殺害事件(乙未事件)

朝鮮王朝の実権を握り、俳日、日露政策を取っていた閔妃に対し、日本公使の三浦梧楼は、閔妃の政権である大院君を擁して親日政権を作ろうと画策。1985年10月8日早朝、日本軍守備隊、警察官らによる一団が王宮の景福宮を襲撃し、閔妃を斬殺した。親日政権が作られたものの、事件の一部終始を宮廷内にいた米国人、ロシア人らに目撃されており、国際的に非難を浴びた。日本政府は三浦ら関係者を帰国させ、裁判にかけたが、証拠不十分で免訴、釈放となった。親日政権は民衆の反日義兵闘争でつぶれ、翌96年には親露派内閣が誕生した。

あまりに韓国側の一方的に美化された閔妃像には呆れるばかりです。 (朝日新聞の記事は下の「続きを読む」でご覧下さい。

 記事の最後で韓国では誰でも知っていると書かれていますが、韓国人はこの綺麗ごとの明成皇后しか知らない若い人が多くなっています。

 しかし、当時の朝鮮では大院君、高宗、閔妃の三人を三大売国奴とか、亡国の徒と呼び、蔑視していたのが現実です。
 閔妃とは名前のとおり、閔氏の娘のことであり、高宗と結婚したことにより、閔姫と呼ばれるようになりました。

 そして、高宗が王位につくと、その実父である大院君と、閔氏一族をバックとした閔妃の権力闘争が始まります。お互いに中国やロシア、日本を利用することで、権力を維持しようとしますが、同時に敵対勢力を暗殺するようになります。
 高宗は殆ど実権がなくこの権力闘争の間で右往左往するばかりの無力。更に高宗は男の子を生んだ愛人を閔妃に性器に焼けた鉄の棒を差し込まれ殺害される始末。

 閔妃はロシア軍の力を借り、大院君を追放すると、閔氏一族を高位につけ、巫堂ノリと呼ばれる呪術に没頭。多額の資金を浪費する。また金剛山に国庫の6倍以上にあたる金額を布施するというめちゃくちゃな浪費家。

 ロシアの影響を心配する開化派勢力や大院君や日本により、宮廷を襲撃され暗殺されるわけですが、宮廷警備軍は殆ど抵抗しないばかりか、朝鮮人暴徒までも乱入し、閔妃は殺害されます。この殺害や死体の焼却はこの暴徒によるものと言われています。
 閔妃は死後、大院君や高宗により賤民の身分に落とされてしまいます。
 明成皇后の諡号は死んだ者をムゲにするものではないと言う日本側の助言により諡られたと言われていますが、定かではありません。

 なぜ、このような残虐で亡国の徒である閔妃が明成皇后となって、最近、持てはやされる様になったかは、韓国の「反日プロパガンダ」政策の為でしょう。
 朝日新聞がこの一方的に美化された明成皇后の記事を載せると言う事は「反日プロパガンダ」を推進しているとしか考えられません。

朝日新聞の記事

 殺害された王妃とは明成皇后。日本人にとっては閔妃(びんひ)という方が通りがいいだろう。彼女を巡る事件は日露戦争への序曲にもなった。
日清戦争後、ロシアは日本の中国進出を恐れ、朝鮮に接近。この時、朝鮮側で権力を得たのが、反日派の関妃だった。1895年10月、三浦梧楼公使を首謀者とする一団が王急に乱入し、目障りな存在であった閨妃の殺害に及ぶ。明成皇后とは、死後贈られた称号である。

 閔妃の義父である大院君、夫である国王高宗を差し置いて権力を握る姿は、儒教思想の強い韓国では否定的なイメージでとらえられてきたという。

 事件から100年の節目である1995年には、そうしたイメージを覆す国産ミュージカル「明成皇后」が韓国で登場した。
舞台は話題を呼び、今年3月には韓国ミュージカル史上初めて観客100万人を突破した。
ミュージカルに刺激され、韓国放送公社(KBS)は01年から02年にドラマ「明成皇后」を放映した。
明成皇后をめぐるミュージカル、ドラマは海外にも進出。
特にドラマはアジアを席巻した「韓流」人気に乗り、台湾、中国でも大ヒットした。

歴史の当事者である日本ではどうか。
~~日本では明成皇后のイメージは限りなくゼロに近づいた。そこに存在し、知っているのに見ないという視界のあり方が、日韓の歴史の中には横たわっている。明成皇后はその象徴的な存在だと思う。

韓国エンタータイメントは今や日本でも当たり前のように受け入れられている。
しかし、明成皇后のドラマ、ミュージカルをめぐっては今のところ、放映、上演の動きはない。

 韓国では誰でも知っている事件を加害者側の日本ではそんな事件があったことさえ一般的には知られていない。そんな動きから作家の角田房子さんはノンフィクション「閔妃暗殺」を執筆した。「覚悟の上でしたが、予想以上に多くの攻撃を受けました」と20年近く前の出版当時を振返る。しかし、「閔妃暗殺」が大きな反響を巻き起こしたことで、日本の歴史教科書の記述にも影響を与えた。

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