女郎蜘蛛がなぜそう名づけられたかは知らないが、女郎といえば遊女の蔑称と思われている。
 しかしこれも、元を辿れば仏教語の上臈(じょうろう)なのだから、これほどさすらった言葉も珍しい気がする。
 我々僧侶の世界は、俗世での社会的地位などと関係なく、僧侶になってからの年数で基本的には上下が決まる。得度してからの年数を法臈(ほうろう)といい、ちなみに私の場合は小学五年生のときの得度だから法臈四十年ということになる。
 また道場でも、長年そこに居る僧侶は地位も上がり、上臈の僧と呼ばれる。『今昔物語集』に云う「上臈、皆、汝が出家を許(さ)ず」とはその本来の意味である。
 この習慣が宮中に取り入れられ、女官のなかで
上席の者を上臈と呼ぶようになった。「是は花山院殿に上臈女房にて、廊の御方とぞ申(し)ける」(『平家物語』巻第一)とあるのはそれである。ついでに申し上げれば、ここにある女房という言葉も、元は貴族女性への尊称だったのが、いつのまにかゴマンといる存在になった。
 いや、しかし、ここからがダイナミックなさすらいである。貴いあなた様がキサマになり、おん前がオマエになったように、上臈はとうとう女郎になってしまったのである。これはどうしたことだろう。
 思うに、世の中には聖なる存在と賤なる存在を一気に繋げてしまう思考回路があるのではないだろうか。
 平安時代の白拍子も、あるいは北朝鮮の「よろこび組」にしてもそうだが、超エリートであり、芸事にも長けた人々なのに、どこかに「河原乞食」といった蔑みの感情が混じるのも、同じ心理だろうか。
 そのような女性と、肌を接してみたいと思う願望が結晶すると聖女と化し、彼女の優しさがそれを叶えさせてあげると、男どもは一気につけあがって女郎呼ばわりする。そういうことだろうか。西洋ではマグダラのマリアがそんな役どころのようだ。
 なんとも情けないようなさすらいだが、女性にも問題はあるに違いない。契りを結んで安心しすぎ、大口をあけて寝るのは如何なものか。


;