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=======je pense , donc je suis.========
文藝評論家・山崎行太郎の『毒蛇通信』
2003./12/14/
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■おことわりとお願い■
メルマガを2通送ります。2通目は、空メールです。Eマガジン
のシステムの都合上、変則的な送信になりましたが、よろしく
お願いします。2通目は、すぐ削除してください。なぜ、そうい
うことをする必要があるのか。理由は、以下の通りです。
■再開宣言!!■
しばらく、HPの一部をブロック、閉鎖して見にくくしていましたが、これから、少しずつ元に戻して行こうと思います。メルマガは、非公開にし、HPの日記はブロックできないために保存の上、削除しました。これまでの日記は、僕のものだけではなく、恩師・先輩・友人・生徒たちの個人情報までもが、他のサイト等でばらまかれる恐れがありましたので削除した次第です。 なぜ、削除したのか。 その理由に関しては、今は、まだ、くわしいことは言えませんが、「田口ランディ盗作騒動」に関するものです。 僕は、「三田文学」(冬季号ー現在発売中!!)に連載している「季刊・文芸時評」の末尾部分で、田口ランイディの「ドリームタイム」(「文学界」連載)を好意的に取り上げ、「盗作騒動」を批判しました。すると、「ランディ盗作騒動」を仕掛けていてると思われる人物かそのグループの誰かが、これを読み、ネット上に「無断転載」し( これは明らかな著作権法違反!! )、それを掲示板などに張りつけ、騒動を煽った(煽っている!!)…というものです。くわしいことは、いずれ明らかにします。
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「田口ランディ盗作騒動」について
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最近、、「田口ランディ盗作問題」に関連して、このホームページや日記、掲示板などのアドレスが、悪意からであると思われるが、某氏
によって公開されている…( こういう行為を「サラス」と言うらしいが…笑)ようなので、しばらく、この日記は、外部からは見えないようにしようかと思ったが,やめた。別に、アドレスを公開されることを警戒しいるわけでもないし…。
元々、僕は、リンクフリー宣言しているし、内容も「転載・転送・コピー」、いずれも可としている。それに変化はないが、しかし、はじめての経験なので、しばらく様子を見ることにする。
これを機会に、HPもより巨大な容量(100メガ?)のHPに移転することにした。以前から、そのつもりで準備していたので、何も問題はない。
「田口ランデイ盗作騒動」とは、ランディさんが、盗作を繰り返している、という「2ちゃんねる」のカキコミを中心とする告発、さらにそれに煽動されたかのような文壇内外からの告発によって、ランディさんが盗作騒動に巻き込まれ、彼女の本が次々と絶版になったり、書き換えや訂正を余儀なくさせられたり…した事件のことである。マスコミでも大きく報道された。テレビのニュースでさえ、取り上げられたように思う。 さらに、この騒動に輪をかけるように、大月隆寛氏を編集責任者とする「盗作告発本」まで、某出版者から刊行され、ネット社会の「事件」として、賛否両論、いろいろな意味で、話題になった。
普通なら、ランディさんは、社会的に抹殺されるはずなのだが、しかし、不思議なことにその後、「新潮」「文学界」等、いわゆる文芸誌の中でもどちらかと言えば「権威」のある雑誌にも登場している。これが、何を意味するかは明らかだろう。しかも、この告発本自体が、いつのまにか書店の店頭から消え、むしろそっちの方が抹殺された(かの…)ようである。
僕は、この告発本を読むまでは、詳しいことは知らなかった。別に大して興味もなかった。しかし、この告発本を、たまたま友人から借りて読んで、この問題の真相が見えてきた。僕の感想は単純なものだっ
た。これは、「盗作騒動」と言う問題に名前を借りたネット社会特有の
新しい形の「いじめ」だな、というものであった。
そもそも、盗作とは何か。何をもって盗作と言うのか。
引用やパスティシュ、本歌取り…。テーマやアイデアの借用からパロディまで…。芸術や文学の歴史が、盗作と創作のぎりぎりの線の上
に成り立っていることは常識だろう。
僕は、「三田文学」秋期号(現在発売中!)で、ランディさんの連載「ドリームタイム」(「文学界」)を簡単に紹介するついでに、盗作騒動にも触れてみた。どういう反応が返って来るのか、少し不安ではあったが・…。
やっと、その反応が、ぼつぼつ見え始めたというところだろうか。僕は、これからネット社会から、続々と物書きや表現者が出てくると思う。だからねっと社会そのものを、一部の新聞やテレビのように否
定も批判もしない。むしろ、僕のような人付き合いの苦手なものにと
ってはとても便利なメディアの出現と言っていい。だから、僕は歓迎
こそすれ決して批判などするつもりはない。テレビや新聞が、ネット
社会について、「出会いKサイト」や「2ちゃんねる」等をネタに、激しい批判と告発のキャンペーンを張るのは、むしろテレビや新聞が、
ネットにその位置を奪い取られようとしているからだ…という説がある
らしいが、なるほどと思う。 さて、おそらく、新聞、雑誌、テレビなどに「プロ」の作家や評論家として頻繁に登場している人たちも、のんびりしていられないだろうと思う。無名の書き手たちの発言が、ダメだということはないからである。宮台真司などは、ネットは、「便所の落書き」みたいなものだといっているらしいが、宮台の雑文こそ、そう呼ぶべきではないのか、
と思う。 要するに、プロとアマの差は、限りなくゼロに近づいている。今は、そういう時代なのだろう。かつて、吉本隆明は、自前のメディ
アとして同人雑誌「試行」を定期的に刊行して、大手マスメディアか
らのお仕着せの情報に、抵抗し対抗した。多くの若者たちが、吉本
隆明の手作りの個人雑誌を先を競って読んだ。 僕は、それと同じようなことが、ネットによって、簡単に出来るのではないか、と思っている。 そういう意味でも、ネット社会から発生した「田口ランディ盗作騒動」は、かなり面白い社会問題なのだろう。
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坪内祐三クン、夜道の一人歩きには気をつけようね…。
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出掛ける時、駅前の小さな本屋で、週刊誌の立ち読みをするのが、小生の趣味の一つだが、昨日は、たまたま時間的余裕があったので、普通の週刊誌に一通り目を通したあとで、「SPA」という、普段はあまり手にしない週刊誌を手に取り、パラパラめくっていたら、福田和也と坪内祐三の漫談が出ている。オヤオヤと思って、覗いて見ると、なんと1ページ目に、我輩の名前がでているではないか。なんだ、コリャ…と思って読んで見ると・…。はははは、大いに笑ったね。この二人、先日、「小林秀雄賞」のパーティがあり、「タダ酒」「タダ飯」を目当てに、ノコノコと出かけてみると、まともな物書きは、お二人さん以外は、ほとんど来ていなくてガックリきたという話なのだが、そのついでに、ヤケクソ気味に、こんなことを言っている。「文芸評論家ってみんな貧乏だから、呼べばだいたい来るよ。ただメシ食いに。」(坪内祐三)だって…。手の内がミエミエなんだよ、オメエーさん。そもそも、「ただメシ」「ただ酒」を目当てに、ノコノコ出掛けていき、大恥をかいたのは、坪内祐三よ、オメエーだろうが…。自分の品性下劣な貧乏人根性を棚に上げて、ヤツあたりすんなよな。余計にみっともないからな。ところが、これに対して福田和也…。「山崎行太郎、絶対来るね」…だって。行くわけないだろう、呼ばれてもいないのに…。わはははは。オレが新潮社のパーティに行ったのは一度だけだよ。それも、なんと、福田和也が「三島由紀夫賞」を受賞した年のパーティ(藁)。しかも、驚くなかれ、文壇に友達が一人もいなかった福田和也の招待で・…。その夜は、原宿のラゴーラや新宿のオカマ・バーにまで付き合わされて大変だったよ…。しかし、まあ、この二人…、いつものことだから、「タダ飯」「タダ酒」は慣れっこのはずなのに、この夜は、よっぽどミジメだったのだろうね。ところで、言っちゃなんだが、オレは、たった一人だったとしても、呼ばれたら行くと思うよ。悪いか、それが。何か、文句、あっか・・・。なぜ、行くか? それは、誰よりも、オレが、小林秀雄という批評家を尊敬しているからだよ。それだけだよ、行くとすれば…。オメエーラみたいに、ろくに小林秀雄を読みもしないで、「ただ飯」「タダ酒」だけを目当てに、行くわけないじゃないか。しかし、まあ、「小林秀雄賞」とは言っても、羊頭狗肉と言うか、名前だけで、なんの面白味もない文学賞だもんな。それに、オレみたいに、かねがね、「貧乏こそ文学の原点である…」「西行や山頭火を見よ…」「全共闘世代以降には、菊田均以外には、まともな批評家はいない…」なんて言っている、天下の「貧乏崇拝評論家」(藁)に招待状が来るわけないから、安心しなよ。今や、文壇は、ゼニ・カネ勘定が批評だと錯覚しているような「俗物天国」だからね。俗物は俗物を呼ぶ、というわけ。福田和也と坪内祐三にピッタシだよ。ははは。それにしても、この二人、「貧乏」「貧乏」・・・と、なんで、こんなに「貧乏」という言葉にこだわるんだろうね? 「貧乏」がトラウマになってるみたいだな。小さい頃、親が倒産したか、欠損家庭で、貧乏生活で苦労したことでもあんのかね。そもそも、貧乏という言葉を恐れて、貧乏生活を覚悟できないようなヤツに、文学や批評を語る資格はないよ。江藤淳が、「地位」や「金銭」にこだわり、「上昇志向」の権化を演じて見せたのは、戦後のジャーナリズムで、「弱者の論理」(貧乏人の論理)を駆使してのしあがった「強者」(戦後民主主義者たち…)への皮肉、アイロニーからだよ。だから、江藤淳は、最後にすべての「世俗的」なものを、地位も名誉も金銭も、あっさり捨てることができたわけさ。ゼニ・カネしか頭にない坪内祐三のような俗物とはちがうよ。わかるかなあ。わかんねえだろうなあ。たまには、江藤淳を読み直せよ。ちゃんと、書いてあるからさ。しかし、無理かな、オメエーラには…。「タダ飯」「タダ酒」だけが目当ての、単なる「俗物」だもんな(爆笑)。二人は、今回の受賞者・吉本隆明の「呆けぶり」を笑っているが、吉本隆明は、たとえ呆けようと何しようと、オメーラみたいに品性下劣ではないよ。地位も名誉も金銭も求めない吉本隆明のような生き方の中にしか、文学や批評はない。それが出来ない俗物は、坪内祐三のような「タイコモチ批評家」になって、毎晩毎晩、パーティのハシゴをするしかないのよ。わかるかな? ところで、坪内祐三は、2、3年前、新宿歌舞伎町かどこかの夜道で、誰かに殴り飛ばされて意識不明の重傷をおい、入院したことがあったそうだが、こんな調子だと、またその内、やられるんじゃないか(藁)。さて、今夜も、どこぞのパーティで、二人揃って、残飯アサリしてたりしてね…このお二人さん・・・(爆笑)。帰りの夜道には、気をつけてね…。ははははは。
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石原慎太郎のテロ擁護発言について…
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あらゆる正義や制度は、暴力やテロの上に成立っている。平和な時代が続くとそれが忘れられ、あたかも、正義や制度が、それ自体で正しいもののように錯覚されるようになる。しかし、例えば、明治維新がそうであるように、近代日本の正義も倫理も法制度も、暴力とテロによって形成されたものだ。テロリズムが作ったのが明治政府である。明治の元勲たちは、皆、元はテロリストであり、人殺しであった。それは、明治維新に限らない。「自由、平等、博愛」という近代的な倫理は、血腥いテロと暴力の結果,生まれてきたものだ。さて、石原慎太郎は、実は、失言したのではなく、積極的にテロを擁護しているのである。「刺し殺せ!」と。若い時、「刺し殺せ」というエッセイを、石原慎太郎は、書いている。テロ擁護論は、石原慎太郎という思想家・政治家の本質と言っていい。むろん、私は、批判しているのではない。テロが歴史を作り、テロが新政府を作るのである。歴史に参加するものはテロや暴力と無縁であることはできない。正義や倫理がかつのではない。勝ったものの正義や倫理が、正しいものとして認知されるだけである。しかし、偽善と欺瞞で塗り固められた平和ボケ・日本においては、そのように主張することは、あんまり毒が効き過ぎるので、石原慎太郎としては、ちょっとセーブしただけだろう。三島由紀夫は、「自分は暴力に反対したことは一度もない」「自分が何かやるときは非合法でやる」と言っている。そしてそれを実行した。戦後日本の平和も、所詮は、「アメリカ占領軍」の暴力とテロによって成立っている。普段は、それが見えないだけである。未だに、日本各地にあるアメリカ軍の軍事基地とは何か。それは、日本を護っているのまではなく、日本人の思想と精神を呪縛しているのである。その結果、「テロはケシカラン…」という偽善的なタテマエ論が、国民的な世論になっているにすぎない。言いかえれば、日本人は、歴史の現場としてのテロと暴力の現実から排除されているのである。「テロはケシカラン・・」というのは、戦後日本人の共同幻想である。実は,みんな知っているのだ。そんなものは、ウソッパチだ、と・…。だから、庶民は、石原発言に拍手喝采するのだ。
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、いま、なぜ、山口ニ矢なのか?
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今、「月刊日本」というオピニオン雑誌に、『山口ニ矢・その思想と行動』が連載されている。筆者は、国際政治学者の藤井厳喜だ。 山口ニ矢とは、今更言うまでもなく、60年安保の時、当時の社会党委員長・浅沼稲次郎を、日比谷公会堂の壇上で刺殺し、その後、獄中で自決した青年である。 山口青年が、当時、17歳だったことから、大江健三郎は、この事件をモデルに『セヴンティーン』という小説を書いた。また沢木耕太郎には『テロルの決算』という作品がある。いずれも山口青年の「義挙」に深い影響を受けて書かれた、歴史に残る名作である。 大江の小説は、それぞれの思想的立場により、評価は分かれるだろうが、小生は文学作品として見れば、明らかに大江の代表作だと思っている。しかしこの小説は絶版状態で読むことは出来ない。 つまり、70年が、三島由紀夫の自決に象徴されるとすれば、60年安保は、山口青年の「義挙」に象徴されるのである。 さて、藤井は、山口青年の義挙の歴史的・政治的意味について書いている。 ≪山口烈士の義挙を理解するには、昭和35年に日本の愛国者が持っていた危機感を理解しなければならない。「反アメリカ帝国主義」やら「平和主義」やら「非武装中立」ならの美名にかくれて、親ソ親中の共産主義・社会主義者たちが日本を乗っ取ろうと着々と力を貯えていた。これが昭和35年の現実であった。≫ この危機は、現在もたいして変わっていない。 今は、「平和主義」や「非武装中立」に代わって、「環境」や「人権」や「ジェンダーフリー」、あるいは「構造改革」や「グローバリゼーション」という新しい美名の元に、国家の解体が着々と進行している。 しかも、現代の危機がさらに深刻なのは、山口ニ矢や三島由紀夫がいないことだ。 国家にとって「戦争」が、国際法上の権利として認められているとすれば、政治的に無力な一個人にとって「暗殺権」も許されていいのではないか。 藤井は、こう言っている。 ≪非権力者に残された究極の政治参加の道が、暗殺である。欧米に措ける代議制デモクラシーは、ブレッド(bullet 弾丸)をバロット(ballot 票)に代える事により、成立したと言われている。だとすれば、時に絶望した少数の有権者が、バロット(票)を、元のブレッド(弾丸)に取り替えなおしても、文句は言えないという論理になる。≫
まったく、その通りだ。
編集前記
■残念ながら期待した総裁選も、平凡な結果に終りそうですが、今回の総裁選での大きな成果は、経済政策論争の中身が、一般大衆に浸透したことではないでしょうか。「構造改革」「財政再建」のワンパターンが、もうこれからは通用しなくなった、といっていいでしょう。亀井静香の「財政出動」「景気回復優先論」というケインズ的経済政策が、庶民レベルにも理解されたと言うことです。これまでは、「財政出動」は、「無駄遣い」「利権の温床」というイメージでしか理解されていなかったのですが、それが経済学的にも正当な理論であるということが、今回は納得できたはずです。その意味では、小泉陣営は、選挙には勝つでしょうが、政策論争には完璧に負けた、と私はおもいます。
■もう一つ重大なことは、小泉政権が、マスコミ政権だと言うことが暴露されたことでしょう。政治評論家の森田実が、怒りまくっていたように、マスコミ、特にテレビは、小泉支持に凝り固まっています。今や、構造改革にたいしては批判的、否定的なエコノミストがほとんどですが、そういうエコノミストや経済学者たちは、総裁選の間、テレビ画面から消されています。逆に小泉応援団と思われるエコノミストやジャーナリストたちが跋扈しています。特に、名前をあげると、田原総一郎…。私は、見ていませんが、サンデー・プロジェクトで、反小泉の三候補を前に、司会者の特権を悪用して、三人をコキオロシたそうです。同じくこの番組に出て小泉擁護にシャカリキになった松原聡、財部誠一。あるいは12chに出ていた中谷巌。持論を展開するのはいいが、選挙妨害も、いいかげんにしろ、と言いたくなります。
■もう一つは、いい加減な電話調査による「選挙予測」の垂れ流しです。最近の選挙予測や支持率調査は、明らかに経費節約の手抜き作業で出来ています。小泉内閣支持率60パーセントの秘密はここにあります。その方法とは、アトランダムに選んだ電話番号に電話して集めたデータをもとに、支持率や選挙結果を予測するものだそうです。しかし、突然、わけのわからないアンケート調査のような電話を受けて素直にこたえるものでしょうか。私に限って言えば、その種の電話に答えたことはありません。ぜんぶ、すぐに切ります。そもそも、その時間に(昼間?、あるいは夜9時まで?)自宅にいて、電話に出るのは「誰れ」でしょうか。当然、専業主婦が圧倒的に多いでしょう。職業婦人(古いか?)や勤労者がその電話をとることは、90パーセントないはずです。しかし、そうして出来た支持率を垂れ流すことによって、大きな流れが決定され、有権者の投票行動に大きな影響を与えます。今回の総裁選が尻すぼみになったのは、ここに原因があります。これからは、選挙活動開始とともに、選挙予測の発表は、法律で禁止すべきでしょう。競馬だって、ゴールが近づくと、場内テレビ放送を中断するじゃないですか(爆笑)。
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=======je pense , donc je suis.========
文藝評論家・山崎行太郎のメールマガジン『毒蛇通信』
2003.9/16/
=======私は、こう考える。あなたは?========
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●発行者プロフイール●
山崎行太郎 (yamazaki koutarou) 哲学者。文芸評論家。
埼玉大学講師。朝日カルチャー・センター講師(小説教室)
慶応義塾大学文学部哲学科卒。同大学院終了。東京工業大学
講師を経て,現在,埼玉大学講師。著書→『小林秀雄とベルグ
ソン』(彩流社)。『小説三島由紀夫事件』(四谷ラウンド)。
現在→『三田文学』に『季刊・文芸時評』を、月刊誌『自由
』に『平成・文壇・血風録』を連載中。
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