16歳未満の者(男女問わず)とのセックスを禁じる。ただし12歳以上16歳未満の場合、子供自身、法的な代理人、幼児保護組織のいずれかによる公式の申し立てがないかぎり、起訴はされない。
この場合のセックスとはキスやペッティングまで。性交(男女問わず)についてはまた別の法律で規定されている。さて、この意味するところは? 要するに、子供が同意してさえいれば、12歳の子供とセックスしても、法的には罰せられない可能性があるというわけだ。もちろん落とし穴[キャッチ]はあるが(249条では”親、もしくは子供を保護する立場にある者”が子供とセックスすることを禁じている。たとえば家に一泊させれば……それでもう”保護する立場”になるだろう)。あくまでも理論上ではあっても、この意味は大きい。12、3歳の子供と大人とのあいだで、愛をはぐくむことができるのだから。この瞬間、オランダはロリコン野郎どものドリームランドになったのだ。
そもそものはじめから、この国は性に関して寛大な国だった。承諾年齢16歳だって、すでに充分低い、と感じる人もいるだろう。高校に入ったら、セックスしてもいいという意味なのだから。だが、禁じるよりもオープンにし、情報を広めてゆくのがオランダ流だ。ドラッグしかり。売春しかり。禁じていたらすべては地下に潜り、官憲の目が届きにくくなる。それくらいなら、害のない部分は明るみに出し、管理してしまった方が楽だ。高校生にセックスを禁じ、純潔を守れと騒ぎたてたところで、誰がしたがうわけでもない。それくらいなら、早くから解禁してきちんとした性教育をほどこす方がずっと有益だろう。
西欧諸国、とりわけ米国ではヒステリックなまでにチャイルド・ポルノの追放が叫ばれている。別段エロチックでもなんでもないヌード写真までが、追放の憂き目をみる始末だ。”子供”の”裸”が写っているものは、すべてチャイルド・ポルノなのだ。
このはじまりは1979年までさかのぼる。国際児童年にあわせて開催された「児童虐待および幼児ポルノ・シンポジウム」で、チャイルド・ポルノに対する各国協力しての取り組みが訴えられたのだ。すでにアメリカでは77年に、ドイツでも78年にロリータ・ポルノは禁じられていた。必然的に地下に潜らざるを得なかったロリータ・ポルノ愛好者にとって、最後の楽園はやはりオランダだった。ロリータ・ポルノを禁じる明確な法律がなかったため、オランダ政府は取り締まろうとはしなかったのだ。実際、どこが悪いというのだ? 大人はヌードを見せて金を取る。子供が自分の意志でヌードになったってかまわないじゃないか?
周辺諸国の憤激にもかかわらず、オランダのロリータ・ポルノは繁栄した。最盛期には子供同士のセックスを載せていた雑誌すらあったのだ。しかし、いくらなんでもこんなものが許されようわけはない。承諾年齢すら守られないようでは。数年後、頑固なオランダ人たちもついに折れ、ロリータ・ポルノは市場から消える。
これで終わり、ならフェミニストたちも万々歳なのだが、そうは問屋がおろさない。
ロリータ・ポルノにかわってオランダのポルノ市場を席巻したのがティーン・ポルノである。ロリータがいけないのならハイティーンで攻めればいい。16歳を越えていれば、誰からも文句を言われる筋合いはないのだから。
『セヴンティーン』SEVENTEEN (Postbus 402, 1520 AK Wormerveer)は1975年に創刊されたセックス雑誌である。直後から爆発的に売れまくり、数年後には業界トップの座を占めた。現在はオランダ語に加えて本文を英、独、仏でも印刷した四ヶ国語版を発行し、いくつもの別冊やビデオで西欧ナンバー1のポルノ帝国を築きあげている。理由は簡単だ。16歳の現役女子高生が登場するポルノ雑誌など、他のどこも作れないからである。こればかりはドイツにも北欧諸国にもマネできない。どこもポルノ出演は18歳以上に限られているし、若い子を使う場合でも、成熟しているように見せたがる。
だが、『セヴンティーン』はそうではない。誌面自体、その強みを最大限に生かせるように作ってある。登場する女の子たちはみな童顔だし、ヨーロッパ人種のティーンエイジャーにしては発育の遅い子ばかりだ。うすい胸、髪はひっつめ、化粧は薄く、表紙ではペロペロキャンデーをなめていたり。それがページを開けば、中ではなんでもやっているセックス・マガジンなのだ。これで売れなければどうかしている。結局、ここでも何も変わらなかった。姿を消したロリータ雑誌にかわって、ティーン・ポルノが合法的なロリータ・ポルノの座を占めただけだ。
だが、それにしても、いったいなぜオランダではこれほどロリータ・ポルノが好まれるのか。単純に承諾年齢が低いから、では済むまい。それは原因であるより、むしろ結果の方だ。オランダには他の国よりもロリコンが多いのか? その答は、あるいはイエス、かもしれない。ロリコン、いや(どうやら政治的に正しい[ポリティカリー・コレクト]な言葉を使うときが来たようだ)世代間恋愛[インタージェネレーショナル・リレーションシップ]をはぐくむ文化的土壌がこの国にはある。いわば世代間恋愛カルチャーとも言うべきものが。これまで語ってきたポルノ雑誌は、世代間恋愛文化の最下層に位置するものだ。では、今度はその中でもっとも上位にあるものに目を向けよう。幼児性愛[ペドフィリア]を専門に論じ、その価値を訴える雑誌『パイディカ』PAIDIKA (Postbus 15463, 1001 ML Amsterdam)だ。
『パイディカ』創刊号の巻頭言で、編集者は高らかに宣言している。
「『パイディカ』の出発点は、まずわれわれ自身を幼児性愛者[ペドフィル]として意識することにある。われわれはペドフィリアを文化的コンテクストの中で、人類学、歴史、社会科学的側面に重点を置いて検討する論文を出版してゆきたい。それゆえ、われわれは自分のアイデンティティを理解しようとするペドフィルに対してだけでなく、この現象に客観的調査を試みるアカデミックな世界に対しても語りかけねばならない」
「だが、今日のペドフィリア(われわれは世代間の合意にもとづく性関係として理解する)について語るのは、政治的抑圧について語ることである。われわれが閉じこめられた環境、日々の生と闘争を織りあげたタペストリーについて。現在、まったく無害な合意にもとづくペドフィル関係であっても、許されている国はない。とりわけ状況が悪くなりつつある英語圏の国々は、自分たちの抑圧的なモラルを他国にまで押しつけようとしているようだ。たとえば、米国では、合意の上での少年/成人男子間の性交渉に、百年以上の刑罰が科されることも珍しくないし、フロリダ州では、そういう関係を結んだペドフィルは、死刑をも覚悟しなければならない……われわれの生活と文化が危険にさらされているだけではない。米国やカナダでは、承諾年齢の引き下げに関する議論や、ペドフィリアが幼児虐待であると結論づけない研究報告そのものを、犯罪行為としようとする動きすらある」
「われわれの主張は、ペドフィリアに対する攻撃はセクシャリティ全体への抑圧の一部にすぎないということである。さらに、そうした抑圧は政府による支配力の非合理的行使を示している。それゆえに、ペドフィリアに対する抑圧は、単純にペドフィルに対してのみならず、より広い意味でも危険なのだ。われわれはこうした抑圧の現実を探らねばならない。そうした法律に違反する行動を呼びかけることはしないが、ヒステリーには理性と落ちつきをもって対処しなければならない」
「学術的研究の刊行を通じ、われわれは、ペドフィリアはかつて、そして現在も、人間経験の創造的・合法的な一部分であることを示していきたいと思う」
世代間恋愛は単なる性関係のかたちにすぎない。いくつもある性倒錯の、いや倒錯ですらない、正常な性関係のひとつなのだ。そう『パイディカ』は主張する。”ロリコン”という言葉を聞いて誰もが連想する、若い娘をキャンデーでつってたらしこみ、犯す変態ではない。ペドフィリア関係は(すべてのセックスがそうであるように)豊かな、人間性を高める経験なのだ。
『パイディカ』は毎号いくつかのインタビューと記事から構成されている。記事の多くは過去のペドフィリア芸術家の仕事を紹介するものだ。ウィリアム・デ・メロデ、エドワード・ペリー・ウォレンといったオランダの詩人、画家らが紹介される。彼らの栄光を通じて、かつてペドフィルたちがいかな芸術を(ペドフィルであるがゆえに)生みだせたかが語られる。さらに歴史的、文化的にはペドフィリアは決して特殊な変態ではなく、むしろ当たり前のものなのだ、ということが論じられる。16歳という承諾年齢だって、近代人の遅い成熟を反映しているにすぎない。ナポレオン法典以前は12歳の娘と14歳の少年が結婚していたのではなかったか? オーストラリアには大人の女性が少年たちを”男にしてやる”習慣がないだろうか? ペドフィリア嫌悪は、近代西欧キリスト教文化が生みだした社会的反応にすぎず、なんら合理的根拠を持つものではない。男性には男性の、女性には女性のセクシャリティがある。ならば子供に子供のセクシャリティがあって当然ではないか。子供のセクシャリティだけを一方的に禁じる権利が大人の側にあるのだろうか……
こうした『パイディカ』の主張をもっともよく表現しているのは、1992年末に出た第8号だろう。この号は女性特集号、すなわち年長の女性/少年、女性/少女という関係にスポットを当てたものだ。これはペドフィルという言葉から、すぐに連想されるものではない。インタビューには少女を愛したレズビアン、自分の生徒と恋に落ちた女教師が登場する。そうした関係が実る場合もあれば、破局を迎えることもある。さらに女性のペドフィルという存在についての考察が続く。
おそらくこの号なら、何も知らない人間がいきなり読んでも、嫌悪感に身を震わせて投げ捨てるということにはなるまい。実際、成熟した女性が少年に性の手ほどきをするという構図は、ある程度は認められたものでもある。ポルノ映画にはこうした関係が繰りかえし繰りかえし登場するではないか。なぜならそれは男性の夢想だからであり、そして男性の夢想はこの社会では許容されてしまうのだ。法律が認めるかどうかはまったくの別問題として。少なくとも、ここではペドフィルは優しく、慈愛に満ち、年少者を導く経験に富んだ存在だ。
『パイディカ』のペドフィルに対するメッセージははっきりしている。創刊号に登場する法律家モニカ・ピータースの言葉を借りよう。
「あなたのセクシャリティを隠そうとしてはいけません。オープンにするよう努めなさい。相手の親に話すようにしなさい……両親と仲良くなれるように。最初からセックスについて話す必要はない。相手があなたを人間として受け入れてくれれば、ペドフィルとして受け入れてもらうことはずっとたやすくなります。セックスの面にばかり行かないように。今では、それはそう必要なものではありません。20年前にはその部分が大きな問題だったから、ペドフィルはどうしてもセックスにばかり行っていました。まず関係を築くことを考え、相手の人格を尊重するように努めれば大丈夫です」
相手を単なるセックスの対象と考えるのをやめ、慈しみ愛するようにしなさい。なんだ、これはただのセックス・カウンセラーの相談である。ついに”世代間恋愛”は当たり前の恋愛相談に姿を変えてしまうのである。このソフィスティケートされた”関係”はもはや”ロリコン”とは百万光年も離れたものではないのか? いや、騙されてはいけない。『パイディカ』と『セヴンティーン』は、単なるコインの裏表にすぎないのだ。
さまざまなかたちのペドフィルが登場する『パイディカ』だが、ただひとつだけ巧妙に避けられているものがある。つまり、少女愛者の男性だ。理由ははっきりしている。たくましい男性がかよわい少女を組みしき……というイメージは、こうした関係の本質をはっきり見せてしまうからだ。両者の圧倒的な力の差を。いかに「子供の側にも大人に対して及ぼせる力がある」と主張しようと、それでペドフィルと子供が平等になるわけではない。ペドフィリアは弱者からセックスを奪いとる搾取者なのであり、その点では『パイディカ』もティーン・ポルノのあいだに差などありはしない。
だが、にもかかわらず、『パイディカ』は決して滅びないだろう。搾取する者の反対側には、望んで搾取される者がいる。ペドフィルが権利を主張する次は、子供たちがセックスする権利を主張する番である。実際、16歳の子供にセックスを許し、15歳の子に許さない”合理的”な理由などありはしないのだ。15歳の子供が「自分の意志でセックスする権利」を求めたらどうするのか? 女性が売春する権利を認め、人が安楽死する権利を認めるなら(それがオランダ流だ)、子供がセックスする権利もやはり認めねばなるまい。個の権利を最大限に尊重する社会、おそらくは民主主義の最先端に位置するオランダの病は不治の病である。『パイディカ』は民主主義の病なのだ。