ほぼ20年ぶりに、夫の患者さんだったN氏とお会いしました。 夫が、2年間だけ、個人病院に医師として勤務していたときの患者さん。 当時、久留米の古賀病院の勤務医だった夫が担当したのは、結核病棟。 そこへ100日間入院されたのがN氏です。
N氏は、当時60代に入ったばかりで、従業員350名を抱える運送業の社長さん。
退院されてから、家族で柳川の川くだりに招待され、美味しい鰻料理をご馳走になりました。 東大医科学研究所の助教授として東京へ行く際に、大きな本棚を贈りたいと言われ、夫は感謝しつつも狭い部屋だからと断りました。
長崎に教授として赴任し、家を新築するときに、N氏推薦の木下産業の家具をいろいろ揃えましたが、とても良くしていただいた方です。
20年ぶりにお会いしたN氏は、車を運転されて、 十分お若い!! 髪は、ふさふさ! しかも黒い!! しわも余りないのです。
柳川のお雛様見学もそこそこに、 駅前の鰻料理のお店へ。
N氏は、17歳で海軍の予科練へ入学されるのですが、そのいきさつにびっくりです。
学徒動員で長崎の三菱造船所で、働いておられたのですが、このまま徴用か、軍隊かと行く先を考えたとき、 必死の覚悟で知り合いに頼んで、学歴を偽り、受験されたそうです。
適正検査があり、その後学科のテスト。 この飛行気乗りとしての適正検査が八百名中、一番!
それで、何とか合格したものの、周囲は優秀な生徒ばかり。 自分のとの格差に涙する日々。ところが、ひとりの教官が「Nよ、確かにおまえは学科の成績は良くない。けれど飛行機乗りは頭の良さだけでは、どうにもならん。 死なないためには、実践で役立つ腕が必要なんだよ。 お前は、それができるんだ。 しっかりやれよ!」
この教官の言葉を、胸に毎日の補習を受け、自分からトイレの掃除なども自発的にやり続けられた。 そして、卒業時に何とN少年は主席で卒業されたのです!!!
このときの経験が、その後の自分の人生を変えたと思います。 同じ教官でも、この人のためなら命を賭けられると思える教官との出会いは、一生の宝でしたとも。
N氏が、会社を経営されてるときに、この教官が「自分は、お前とともに働きたい、給料はいらないから、ここで働かせてくれ!」とおっしゃたそうです。「定年まで助けていただきました。 ありがたいことでした。 亡くなる直前、奥様から電話をいただきました。 息子よりも誰よりもNに会いたいと言われたそうです。 私は、旅行中に電話を受け、すぐに教官の病院へ行き、お会いしました。非常に喜んで下さいました。」
37歳まで、農業をした後、運送業を起こし、後に350名の従業員を雇うまでに会社を大きくされたのでした。
現在は、息子さんに社長を譲り、ご自分は日課として、会社の庭の花をきれいに育て、畑で野菜を育てておられるそうです。 毎日、5年用記入の日記、雑記、それに園芸日誌を記載されてるとの事。
海軍時代に「5誓」というのがあったそうです。 私が不得意とする努力、それから得意な怠惰を戒める言葉が胸に響いています。
「見て下さい。」 手渡された写真を拝見すると、飛行服に身を包んだりりしい若者の写真でした。 予科練時代のN氏です。続けて「学徒動員で、優秀な若者がたくさん死にました。 戦闘では、訓練も受けず、飛行機に体当たりなんてとてもできるもんじゃないんですよ!! それを思うと残念で無念で、、、。 先生、私は、毎日、この5誓を口にしています。 テレビをみたり、だらーとすることは、絶対やりません。 無理はしませんが、怠けたりはしません。 いつも仲間のことを思うからです。 この写真で、いつもあの頃のことを思い出しています。」
「しかし、先生。 家族円満でなければ健康も保てませんよ。 ですから、自分の価値観は変えませんが、妻には従順にしていますよ。 私も丸くなったもんですよ。」そう仰って、大笑いされたのです。「先生、今日は、お会いできてこんなに嬉しいことはないです。 命がもう何十年分も嬉しくて延びた気がしますよ! 本当に、良く会いに来てくださいましたね!!」
N氏にお会いして、このようなお話をうかがい、戦時中の教育に対して、批判的な部分しかみていなかったような気がしました。
自分を律して、地域のみなさんと共に、若々しい感性を持って生きていらっしゃるお姿に触れた素晴らしいひとときでした。
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このお話に登場するN氏、その上官。いずれも偉いと思いますね。世間的に評判になるような功績をあげたとかいうのではなくて、人間の生き方の立派さが私の胸をうちました。
2009/3/13(金) 午後 8:58 [ キューピッド ]
本当に、このおふたりの用に,信頼できる友人関係を持てるというのは、幸せなことだとつくづく思っています。 今後は,年に1回か2回お会いしたいと,夫共々思いました。
2009/3/14(土) 午後 1:38 [ 風子 ]