2007-11-18
■[編集]「読者と同じものしか見ないで何が作家か」という話をしようとしたら、引用予定の藤子・F・不二雄先生の名言が捏造だったでござるの巻
「民衆を弾圧するミッキーマウス」を見てこんなのとかこんなのを思い出した多摩坂です。
さて。今日は「主張も見識も無く、読者と同じものしか見聞きしていない、空っぽな作家志望者たち」のことについて書こうと思っていたのですが、タイトルのとおりですので予定を変更してお贈りします。まずは件の名言の引用から。
『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。
元のエントリで引用しようとしていたくらいですから、いいこと言ってるなあと思っていたのですが、何度も読み返しているうちに違和感を感じてきました。なにがおかしいかというとこの文章、一人称が「私」なんですね。藤子・F・不二雄先生は会話でも文章でも一人称は「ぼく」です。「私」は使いません。
ひとつおかしいと他の点もあやしくなってくるもので、この文章はF先生のものにしては妙に多弁で言い切りが多いです。F先生はもっと朴訥な、ですますが頻出するやさしい語り口で話す人でした。これについては「藤子・F・不二雄FAN CLUB」の中にある「ヤカンレコーダー」で採取されている語り口などを見ていただければご理解いただけるかと思います。
きわめつけはこの文章、出典が不明な上、検索をかけても2007年以前の引用が引っかかりません。F先生にはコアなファンがものすごい数いますので、こんな目立つ文章が今年に入るまで埋もれていたということはまずありえません。
以上のことからこの文章は藤子・F・不二雄先生のものではなく、捏造であると見てまず間違いありません。ご注意ください。
※追記
私よりずっと前に同じことを指摘されているかたがいました。
大卒無職がなぜか大学受験の勉強をする:藤子・F・不二雄「名言」コピペの嘘