2007-11-24
■[編集]“コミュニケーション”は“ディスコミュニケーション”から始まる
見るからに人の目をひきつけ、「一度見てしまうとそのことを誰かに話したくなってしかたがない作品」というのがあります。その一方で、おもしろいおもしろくない以前の問題として、「見ようという気がまったくおきない作品」というのもあります。
前者にあって後者に足りないのは、往々にして「演出」です。もっと掘り下げて言うと、「人間は感情の動物であり、感情でしか人は動かない」ということに対する理解の差、といった感じでしょうか。今日はそんな話をします。
自分たちがつくるものに対して、最初、お客さんはたいして興味がないどころか、まったく興味がない。そこから、はじまる。
「良いものを作れば売れる」というのは作り手の願望であって、事実とは異なります。どんなにおもしろくても、興味を喚起することができなければ、手に取ってもらうことすらできないのです。
派手なCM。煽情的なコピー。刺激的な画。人気のある作家・俳優。ショッキングな出だし。あるいは萌えと属性と肌色の乱舞。
すべては作り手と視聴者の間に横たわるディスコミュニケーションの溝を埋めるための努力であり、視聴者の興味を喚起し、心を動かすための演出です。認知させ、興味を持たせ、手に取らせる。内容以前の問題として、そこまで持っていくことができないと、勝負にすらならないのです。
さて。次に「一度見てしまうとそのことを誰かに話したくなってしかたがない作品」について考えてみたいと思います。
「Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-」の「ニュースの定義」という記事に、次のような言葉があります。
19世紀アメリカの近代的ニュース編集の開拓者、C.A.デイナのニュースの定義は、「ひとをおしゃべりに駆り立てる何か」である。ニュースとは、我々の感情を揺さぶるものでなければならない。
上で語られているのはニュースのことですが、この言葉はすべての娯楽に通じるものを持っています。そしてここで重要なのは「ひとをおしゃべりに駆り立てる何か」が「我々の感情を揺さぶるもの」として語られているという点です。
ものを作るということは、突き詰めれば、ものを通して人の心を揺さぶるということにほかなりません。その振動はディスコミュニケーションをコミュニケーションに変え、その感動は視聴者の口コミを介してコミュニケーションの輪を広げていきます。
視聴者の心を揺さぶり、ファンになった人々の自発的な活動がコミュニケーションの輪を広げる。そんな作品を作っていきたいものです。