2007-10-09
■[編集]才能だけが才能ではない。マンガにおける「性格という名の才能」の重要性
今日は一日家で静養しておりました。季節の変わり目で体調を崩したのか、連休に入ったあたりから調子が思わしくありません。明日から休み明けで忙しくなるので、今晩中になんとか立て直したいところです。
さて。作家には大きく分けて一般受けする作家とマニア受けする作家の2種類がいるのですが、マニア受け作家の中にはより特殊な「編集者受け」する作家というのがいます。編集者受けする作家は
・華はないがいい仕事をする
・マンガ家歴は意外と長いが、ヒット作に恵まれない
・いろいろな雑誌を転々としている
・単行本がなかなか出ない
といった特徴があります。いわゆる「雑誌クラッシャー」と呼ばれるタイプの作家が多く含まれるのも特徴と言っていいかもしれません。
マンガ編集者はこの手の作家によく引っかかります。他人事のように書くのはフェアでないので白状しますが、私も何度かこの手の作家に手を出して、失敗しています。数字がまったく出ないのです。
なぜ引っかかるのか。参考までに私がハマった時の心理をご紹介したいと思います。
ある作家のマンガを何本か読んで、私はまず次のような印象を持ちました「すごく才能があるし面白い。彼が売れないのはおかしい」。続いてこう思いました「彼が売れないのは、彼自身の責任ではなく、雑誌や編集者に恵まれなかったからではないだろうか」。そして最後にこのように考えたのです「彼の良いところも悪いところも理解している私なら、売ることができるのではないか」。
自分の力を過信し、希望的観測だけで組んだ推論であると今なら言えます。過去のどの編集者も、多かれ少なかれ似たようなことを考えて、彼に意見したはずなのです。今の私は、編集者受けする作家の問題は、作家の性格にあると考えています。編集者受けする作家は、才能はあるけれども我が強すぎるのです。
どんなに豊かな才能があっても、その才能をいかせる性格をしていないと、なかなかうまくいきません。偏狭で他人の意見に耳を傾けない人のマンガは、独善的なものになりがちです。向上心や問題意識のない人のマンガは、通り一遍のつまらないものにしかなりません。
努力できる。継続できる。根性がある。探究心がある。サービス精神がある。すべて才能ではなく、性格に属する資質です。そして作家にとって性格は、才能と同じかそれ以上に大切なものであると私は考えています。
ライトノベルという原作のあるマンガを作る編集者である私は、その仕事の性質上いつも外から作家を連れてきます(原作と相性の良い作家が手持ちの中にいるなどという、都合の良い偶然はそうはありません)。
そうすることによって相性の問題はクリアできるのですが、つきあいが薄いため性格は実際に使ってみるまでなかなかわかりません。たとえ相性が良くても、性格に問題があると作品は伸び悩みます。
なんとかしたいとつねづね思ってはいるのですが、なんとかなる人というのは結局、根っこのところでは人の言うことを聞く、がんばれる性格であるわけで、そうでない人にはどんな意見も届きません。
作家を選ぶ際には、性格も見極めないといけないのかもしれません。
2007-10-08
■[編集]ラノベマンガの作家の選びかた:描けない・化けない・売れない・運がない作家には手を出さない
多摩坂です。好きな言葉は「原稿上がりました」。嫌いな言葉は「おかけになった電話は、現在電源が入っていないか、電波の届かない所にいるため、かかりません」です。修羅場中に作家に連絡がつかなくなることほど恐ろしいことはありません。
さて。私は原作物のマンガを立ち上げるときに、原作との相性を重視して作家を選ぶのですが、それ以外にも気にかけていることが4つほどあります。今日はこれを紹介したいと思います。
(1)連載に耐えられる生産力があるか
原作物はメディアミックスとのかねあいから、スケジュールがタイトであることが多いです。作品にかかわる関係者の数も多いので、メディア展開中に原稿を落とすとたいへん迷惑がかかります。無理を押してでも使うべき筆の遅い作家もときにはいますが、なるべく定期連載をこなす生産力のある作家を起用するようにしています。
(2)その作品をまかせることで作家は化けるか
すぐれた原作には、作家に刺激をあたえ、隠れていた才能を開花させる力があります。原作に奉仕するだけでなく、その作品にかかわることで「化ける」作家を起用したいものだとつねづね思っています。
(3)本を売る力があるか
原作と相性はいいものの、売れない作家というのがいます。「味わい深いが、どうにもこうにも地味」な作風の人が多いです。メディアミックスとは露出の戦略であり、原作ファンと好事家以外の層にもアピールすることを求められるので、いぶし銀の作家はよほど大化けする見込みがない限りは起用しません。
(4)運は太いか
西原理恵子さんの言葉に「つかない編集と一緒にいると、こっちまでつかなくなるのよ」というのがあります。運の太い人は自分と一緒に周りを引っ張り上げてくれますが、不運な人は才能とは関係なしに周囲の足を引っ張ります。あまり運のない人には近づかないのが賢明です。
以前書いた「原作ファンが支持するラノベマンガの作り方」と併用するとかなり効果的です。
次回はこれだけ気を配っても上手くいかないことがあるその原因の一つ、「性格という名の才能」についてお話ししたいと思います。
2007-10-05
■[編集]「ハルヒ社長」が訓示を垂れる未来
多摩坂です。今日印象に残ったセリフは、冬川基さんの「冨樫先生も描き出したんで、ぼくも描くことにします」です。動機がどうあれ原稿をやるのはいいことです。
さて。21世紀の盛り上がりもぼちぼち落ち着いてきたころ、伊集院光氏のラジオ番組に「ガンダム社長」というコーナーが一瞬だけありました。これはガンダム世代が社長になったら、訓示がガンダムネタになるだろうから、理解できるよう今から例題をあげて学んでいこうというコーナーでした。
当時は完全なネタコーナーで、企画的にも無理があったためすぐテコ入れが入りましたが、今になって振り返ってみると、かなり先見の明のある企画だったのではないかと思います。
若者がなにか新しいものに夢中になると、よさを理解しない(できない)大人はそれを攻撃する傾向にあります。少し前にゲーム脳が大変な迷惑をまき散らしましたし、昔はマンガが悪書として攻撃されました。野球をすると脳に悪影響が出ると叩かれた時代もあります。
しかし、大人に攻撃されたからといってブームが下火になるかというとそんなことはなく、世代交代が進むとさらに状況が一変します。若いころにはまったものは同世代間では共通言語として機能しますし、年下に対しては説教に織り込まれる形で引用されます。歳をとるにつれてかつての若者は社会的な地位を手に入れ、偉くなった彼らに引きずられる形で、かつての流行もまた権威化されていきます。
夏目漱石は今でこそ文豪などと呼ばれていますが、彼が活躍した明治時代は小説の地位が非常に低く、まっとうな人間が読むものではないと社会的には考えられていました。大学教授を辞して低俗な新聞社に入社し、俗悪の極み(=当時の大衆娯楽の最先端)である新聞連載小説を書くという行為は、周囲の人間を大変驚かせたといいます。
明治時代の人間にとって漱石は大衆娯楽のベストセラー作家でした。彼を文豪にしたのは小説に夢中になり、歳をとることで我が身と小説を権威化していった、当時の若者たちです。映画やマンガも同様ですし、ガンダムはこれらの流れの中でも最新のものの一つになるのではないかと考えます。
30年、40年後の未来、なにが権威化しているかはわかりませんが、ハルヒ社長やキノ社長、戯言社長に京極堂社長といった人たちが出てきて、社員に訓示を垂れていたら面白いなと思います。
2007-10-04
■[編集]ライトノベルの定義論争と、電撃文庫がライトノベルという言葉を使わないこと
ページビューが10万アクセスを超えました。blogをたちあげてまだ2週間くらいしかたっていないので、当の本人が一番驚いています。嬉しいです。ありがとうございます。
さて。ライトノベル界隈ではたびたび「ライトノベルとは何か」という定義論争が起きます。最近もいくつか目にしました。
当事者である作り手の人たちと仕事で直にやりとりをしつつ、少し距離を置いて彼らのことを観察している身として、なにか物が言ってみたくなったので、まとまっていませんが思いつくままに書いてみたいと思います。
ライトノベルの定義論争を読むと、なんとも微妙なモヤモヤした気分になります。近いものをあげると、東浩紀氏の評論を読んだ時に感じる気分。「どんな風に考えるのも個人の自由ですけど、俺らや作家はそんなこと考えて物作ってませんぜ」みたいな。自分たちが意識していないことにラベルが貼られていくことに対する、違和感みたいなもの。
なんでそんな気分になるかというとですね、私は電撃文庫の編集者が、自分たちが作っているものを指して「ライトノベル」という言葉を使うのを、見たことがないんですよ。
これは電撃文庫というレーベル全体でも同様で、本のオビとか広告とかでこの語を使った例は、2005年の販促キャンペーンのコピー「ライトノベルを突破しろ!」のみ(たぶん)。このコピーにしてからが、ライトノベルというラベル付けに対する反骨精神の表れというか、「俺たちゃライトノベルを作りてえんじゃねえ。面白え本を作りてえんだ」という気持ちの表明だと思うんですよね。
そんなことを考えながら本を作っている人たちの作品を、たとえば「電撃文庫だから」という理由で、十把一絡げにライトノベルと呼んでいいかというと、それはなんか違うだろうと思うのです。
実際
こんな議論が出てきたりしているわけですしね。
それに、彼らは「面白い。やろう」と思ったらどんな領域にも手をのばしていく集団なわけで、そんな人たちの動向に振り回されたら、そのうちありとあらゆる小説が広義のライトノベルということになってしまいかねません。
あ、でもこれは実現したら面白いことなのかもしれない。「小説」と「ライトノベル」がイコールで結ばれる未来。ライトノベルだって言ってみれば大衆娯楽小説の一つなわけで、もっと一般化すれば直木賞を受賞する作品が出てこないとも限らない。ライトノベルを定義するより、こういう方向に流れていってくれたほうが私は嬉しいです。
追記
ちなみに、私がこのblogのタイトルに「ライトノベル」という言葉を使っているのは、単にとりまわしがいいからという身も蓋もない理由からです。「小説」とか「ノベル」だと語呂が悪いので。