2007-10-12
■[編集]いつもの雑記を書く余力がないので、外から来た球を打ち返してお茶を濁してみる
多摩坂です。海藍さんが日記にお書きになったのでこちらにも書いておきますが、電撃大王で連載中の「トリコロ」は来月からしばらくお休みをいただきます(今月分の原稿は完成しております)。
しばらくは静養して調子を整えつつ、単行本の作業を行います。連載再開と単行本はどちらも卒業式のシーズン前には完了する予定です。申し訳ありませんがしばらくお待ちください。
さて。こちらからボールが飛んできたので(元記事はこちら:ライトノベル雑誌について毒を吐く。)「本家」ってなんのことだろうと思いつつちょっと打ち返してみようかと思います。
その前にまず私の立場を明確にしておきます。私は雑誌の編集長と個別に契約を結んで仕事をする、フリーの編集者です。マンガ雑誌というメディアはぼちぼち寿命だと思っています。ただ、雑誌の衰退を止めることはできないけど、単行本の利益で雑誌を支えることができればいいな、とも思っています。以上のことをふまえてお聞きください。
先ず新創刊予定の電撃文庫Magazine(仮)。
月刊にすべし。
ライバル他誌が月刊なのに、電撃文庫だけが隔月なので、どうも寂しい。
先ず、小説を半分にすれば良い。
「隔月なのは寂しいから月刊に」という理由はさすがにアレですのでスルーするとして。マンガについてはですね、原作は文庫のものですけど、マンガを作った(育てた)のは雑誌とそこの担当編集者なわけですよ。それは通らないです。たとえるなら「ファミ通PLAYSTATION+のマンガを強化したいので、東雲太郎さんのキミキス(ヤングアニマルで連載中)をあちらに移籍してください。キミキスはエンターブレインの作品ですから」と言うのと同じくらい無茶です。
あと、『シャナ』を表紙にしないこと。
『のいぢ』絵は好きだけど、さすがに食傷気味。ここは、『とある魔術の禁書目録』で行く。
アニメ化作品と違って、新鮮味があるからだ。
むしろ、禁書アニメ化決定の一報で表紙を飾るのもありだ。
禁書でなければ、『9S』でも可。
シャナと禁書目録の外伝マンガを両方担当している人間に投げられても困る球なのですが、それはさておき。一枚看板しかないレーベルの雑誌だったらそういうこともあるかもしれないですけど、電撃文庫は一つの作品だけを表紙にするとか今までやってきてないと思うのですが。
ぶっちゃけ、分散しすぎ。
一つ一つに「雑誌をひっぱるパワーが無い」のだから、「ラノベ漫画」というグループ化で相乗効果を狙った方がマシ。
電撃大王は看板作品の休載が多すぎる。
電撃黒マ王は創刊の表紙を見ていると、NovelJapanの二の舞になりそうな気がしてくる。
電撃ガオはパッとしない。というか王とその他の違いが分からない。
マンガ雑誌はそれぞれが一国一城の主。ライトノベルはゲームやアニメと同じで、あくまで同盟相手の一つ。ライトノベルだけに依存して雑誌を作るというのは、ライトノベルに臣従するということ。ライトノベル側も自国の国力だけを頼られるよりは、諸同盟のほうが待ちも露出も広くなっておいしい。国主の視点から見るとこんな感じではないでしょうか。
傭兵としては「自分が担当してる作品を全部集めたら雑誌作れるなあ」とか遊びで考えることはありますけど、実行に移したいとは思いません。失敗したら雑誌と心中するはめになりますから。なにかの増刊誌で一回きりなら面白いかもしれません。
残りはどれも口を開くだけでいろいろな人に怒られちゃいますんで、「ノーコメント」でお願いします。
2007-10-11
■[編集]「次に来るもの」は、作品そのものよりも、宣教師をさがしたほうが見つけやすいのではないかという話
多摩坂です。今月は月刊連載7本に加えて、隔月1本と電撃文庫の挿絵1冊と単行本作業が3冊ありまして、かなりきつい仕事量になっております。更新が滞ったら「ああ、ヤバいんだな」とお考えください。
さて。自分が奉じる思想や宗教を普及させるために活動する、「宣教師」と呼ばれるかたがたがおります。1974年、キリスト教福音派の代表がスイスで開催した世界伝道会議の宣言によると、宣教活動の原動力は名誉や経済的成功でなく、神の御名(栄光)が高められることであるとされております。
このように書くと異世界の住人のように思われるかもしれませんが、宣教師は我々の身近な所にもいます。ただ我々は普段、彼らのことを宣教師だとは認識しておりません。
自分たちのコミュニティの中だけに留まることをよしとせず、外に出て新たなファンを獲得しようとはげむ者。何の得にもならないのに、信奉する作品とその作り手をたたえ、他作品をけなし、論陣をはる者。異教の地にあって空気を読まず、異教の神の名をとなえる者。
我々は彼らのことを宣教師と呼ばず、「信者」、あるいは教義の名からとって「○○厨」と呼んでいます。
大ヒットした作品には必ず信者がいることからわかるように、売れる作品には一部のファンの頭を酩酊させて、おかしくしてしまう力があります。
作品がヒットした後は信者の数も膨大になって、いやでも目立ちます。しかし、たいがいの作品は最初のうちは信者の数が少なく、活動もあまり目につきません。
この、ある作品に接して最初におかしくなってしまった人々、まわりから「おまえは何を言っているんだ」という目で見られている人々が、今日の主役です。
ある作品に接しておかしくなってしまった人が出た場合、その作品には最低でも一人の人間をおかしくしてしまう力があったことになります。このとき、その人と作品を決してスルーしてはいけません。
なぜか。娯楽作品にとって「見た人をおかしくしてしまう力」というのは、もっとも稀少でものすごい力だからです。そんなことを為し得てしまう作品というのは滅多にあるものではありません。目の前にいる信者は、未来の大ヒット作の存在を示す、とんでもない宝の地図なのかもしれないのです。
信者を見かけたら、彼の宣教に耳をかたむけましょう。その熱狂の度合いを見極め、できればその次に彼が所属するコミュニティの掲示板を見に行きましょう。その作品が本物なら、そこにはものすごいエネルギーが渦巻いているはずです。
これが私の鉱脈のさがしかたです。
2007-10-10
■[編集]100万冊のマンガを、凡人が売るということ
今日は通常業務や単行本作業に加えて、来年行われる予定のものがいろいろ動き出してあわただしい一日でした。「あの野郎、やりやがった!」と言ってもらえそうなことをいくつか動かしていますので、今から楽しみです。
さて。マンガというのは当たるとものすごくて、何百万部も売れるものだと世間様からは思われています。そういう世界も一応あるにはあるのですが、ほとんどの出版関係者には縁のない話で、実際のところは短期間に10万部以上を売り上げればそこそこのヒット作品と認識されます。
「現役編集者が怒りの提言「権利ビジネスに頼るな!!」(後編)」にいい塩梅の記述があったので抜き出しますが、はじめて世に出た時ののだめカンタービレは「初版2万部程度の作品」だったようです。刊行後どれほど伸びるかは中身と運によりますが、最初の部数はどれも意外とそんなもんです。
私は凡人ですので、オリジナル作品を何百万部も売るような眼力や手腕は持ち合わせていません。またミリオンセラー作家の卵に幸運にも出会うことができて、かつその人物が自分を選んでくれると思えるほど楽天家ではありません。では、そんな人物には本を売ることはできないかというと、答えは否です。
私の担当作品のひとつが、あと少しで累計100万部に達します。原作を吟味し、作家を選び、プロットに細心の注意を払い、作家ががんばり、足りないところは他の作家の力を借り、アニメの力を利用し、表紙も付録も誌上通販も連動企画も初回限定版もやりつくし、新規のデザイナーを開拓し、カバーを原作のイラストレーターに塗ってもらい、本のオビをカラーにし、販促物を作り、販売のタイミングを測り続け、営業さんと書店員さんに尽力してもらって、積み上げた100万冊です。
才能があれば、大作家が担当にいれば、する必要のない苦労かもしれません。でも、これは裏を返せば、適切な努力をし、最善を尽くして、いろいろな人に協力してもらうことができれば、才能が乏しくても数字を出せるということです。
大手や天才たちの影で、こんなことを考えながら淡々と数字を積んでいく編集者が、一人ぐらいいてもいいじゃないかと私は思うのです。