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ラノ漫 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-10-23

隙間風が気持ちいいらしい

[]原作のこだわり、作画のプライドの双方につきあうということ


多摩坂です。某オークションサイトで入手した旧東ドイツのウシャンカ(防寒帽)が届いたので、ネコの頭にのっけて遊んだりしております。良い塩梅の写真が撮れたら後日載せます。


さて。昨日今日の2日間、あるシーンの描写をめぐって原作と作画の間でばたばたしていたので、その感想を書き留めておこうと思います。


今回のおおざっぱな経緯は、


(1)演出の都合で必要になったので、プロットにないシーンを起こして原作者に送る

(2)設定の関係で問題があるので、代案を起こして作画者に送る

(3)演出上の意図や見映え的に問題があるので、新しい演出を考える


以上の(1)〜(3)が繰り返されていろいろとピンチ! とかそんな感じです。


あまりに細かいことを言われて「そんなのどうだっていいじゃないですか」と言いたくなることもあるものの、作者が自分の作品世界にこだわりを持つのは大切なことだと思います。もうずいぶん前のことになりますが、TYPE-MOON奈須きのこさんにインタビューをした時に、次のように言われたのをおぼえています。

世界にルールが欲しいんですよ。世界には縛りがないと面白くないと思う。何事もやっぱり規則、限定された出来事があるから、限定された中での出来事とあえて限定を破った時の凄さ、っていうのが生きてくる。自分は設定好きとよく言われるんですが、できることとできないことをきっかり決めておかないと、その世界の物語がつまらないと思うんですよ。

月姫読本 Plus Period

月姫読本 Plus Period

  • 出版社/メーカー: 宙出版
  • 発売日: 2004/10/22
  • メディア: 大型本

原作側がこだわりを通す一方で、作画の側もプロですから、マンガとして面白くならないものを描くわけにはいかないという矜持があります。編集者としても「原作がああ言うんだからしかたがない」と言って、あきらめて描くような作家とは一緒に仕事をしたくありません。


ただ、原作も作画もこだわりをもって仕事をするとどういうことになるかというと、時間が絶対的に足りなくなるのですね。マンガは通常マンガ家一人のこだわりだけをコントロールすればすむ(それでも毎月ギリギリの際での仕事になる)のですが、こだわる人間が2人になると、倍ではきかない時間が相談や調整に費やされることになります。胃の痛いことです。


クレルヴォーのベルナルドゥスという神学者が「善意か欲望のいずれかで地獄は満ちている」と述べていますが、うまいことを言うものだと思います。

2007-10-22

肉球

[]ライトノベル雑誌は何が目的で作られているのか考えてみる



「id:m_tamasakaさんへ質問です。電撃hp、ザ・スニ、ドラマガといった雑誌は何が目的で作られているのでしょうか?」




雲上四季転がっていたライトノベル雑誌というボールを投球

雲上四季小説系雑誌の存在価値とライトノベル雑誌に対する希望


「雲上四季」秋山真琴さんからいただいた質問です。今日はライトノベル雑誌の目的について考えてみたいと思います。


まずその前に軽く一当て。ライトノベルを愛好している若い人たちは知らないと思いますが、小説誌がめちゃくちゃ売れていた時代というのがかつてありました。最盛期である高度経済成長期には、100万部を超える発行部数の小説誌があったくらいです。今はこんなことになってしまっていますが、かつては小説誌が小説を牽引していたということは知っておかないと、議論がおかしなところに行きかねません。


なお、小説誌が売れなくなったのは、戦後の2度にわたる文庫本ブームが原因であるようです。単行本は売れるが雑誌が下げ止まらないという、現在のマンガ業界が抱える問題は、はるか昔に小説の世界でも起こっていたのです。


さて。続いて「雑誌」というフォーマットからライトノベル雑誌の役割について考えてみたいと思います。Wikipedia「雑誌」内の歴史の項目によりますと、雑誌は「百科事典誕生と同様、新しい知識や情報、視点を広く一般に開示、紹介するものとして出発した」そうです。


ライトノベル雑誌の場合、「新しい知識」とは雑誌に掲載される新作。「情報」とは新刊やイベント、メディアミックス情報。「視点」とはレーベルカラーに基づいた誌面の構成のことをそれぞれ指すと思われます。


この切り口から見た場合、ライトノベル雑誌の目的とは (1)作家に新作を書かせる (2)単行本や投げ込みチラシではフォローしきれない情報を発信する (3)そのレーベルが何を考え、今後どのような展開をしていくつもりであるのかを表明する、ということであると思われます。


(1)についてのみもう少しだけ掘り下げておきます。雑誌(ここで言う「雑誌」は、ライトノベル雑誌に限りません)には (a)締め切り発生装置 (b)原稿料発生装置 という側面があり、また雑誌に新作を書かせることには (c)作家の風化を防ぐ という効用があります。


(a)締め切り発生装置:締め切りがないと書けない作家はたくさんいます。単行本より厳格な定期刊行物の締め切りを課すことで、原稿を書かせることができます。


(b)原稿料発生装置:単行本が出る前に作家経済的に干上がってしまうのを防ぎます。笠井潔さんのこちらのコラムもご覧ください。


(c)作家の風化を防ぐ:現代は娯楽の数と消費スピードが異常に上がっているので、なんらかの形でこまめに露出を行わないと、あっという間に忘れられます。



長くなってきたので、ここでいったん切ります。

[]続・ライトノベル雑誌は何が目的で作られているのか考えてみる

前のエントリで「ライトノベル雑誌の目的」とは (1)作家に新作を書かせる (2)単行本や投げ込みチラシではフォローしきれない情報を発信する (3)そのレーベルが何を考え、今後どのような展開をしていくつもりであるのかを表明する ということであろうという話をしました。


ただ、のっけからなんですが、商業誌であるからには当然のこととして「利益を出す」という本音の部分での目的もあります。雑誌は大きく分けて(a)雑誌そのものの売り上げ (b)広告収入 (c)単行本の売り上げ (d)関連商品の売り上げ の4種類の組み合わせから利益を得ています。


ちなみに、世の中のほとんどの雑誌は(a)だけでは赤字です。マンガ誌や小説誌は(b)とはあまり縁がないので、足りない分は(c)か(d)でサポートする必要があります。


さて。ここからはライトノベル雑誌4誌を2つのグループに分けて、その性質の違いについて考えてみたいと思います。


月刊ドラゴンマガジン:1988年創刊・月刊

富士見ファンタジア文庫:1988年創刊


ザ・スニーカー:1993年創刊・季刊→隔月刊

角川スニーカー文庫:1988年創刊


電撃hp:1998年創刊・季刊→隔月刊

電撃文庫:1993年創刊


Novel JAPAN→キャラの!:2006年創刊・月刊

HJ文庫2006年創刊


ファウスト文芸誌を自称しているのと、いろいろややこしいので除外します。


ドラゴンマガジンとNovel JAPANは、「レーベル立ち上げとほぼ同時に創刊」した「月刊誌」です。これはつまり、これらの雑誌は自レーベルから毎月リリースされる新刊の情報を、積極的にサポートすることを前提に作られている、ということを意味します。なお、利益は主に月刊連載で書き貯めた作品の単行本収入からのものを見込んでいると思われます。


ザ・スニーカーと電撃hpは「レーベル立ち上げの5年後に創刊」された「隔月刊(はじめは季刊)誌」です。この成り立ちから、これらのレーベルは元々雑誌依存していないことがわかります。また隔月刊のスピードでは原稿が溜まるのが遅すぎるので、連載作の単行本の利益依存するのは難しいと思われます。


ザ・スニーカー電撃hpの目的はおそらく、単行本や投げ込みチラシではフォローしきれない情報を、後方支援的にサポートすること。そして単行本ではできないことを、雑誌を使ってやることだと思います。後者のわかりやすい例としては、「電撃コラボレーション」「公式海賊本」をあげることができます。


なお、単行本だけでは足りないであろう利益は、関連商品の誌上通販でまかなっているのではないかと思われます。公式海賊本は趣味と実益を兼ねたとても良い企画だと思います。


まとめます。ドラゴンマガジンとNovel JAPANは、原稿を集めるのと情報を発信するのを、積極的に行うことを主な目的とした雑誌ザ・スニーカー電撃hpは、レーベルを後方からまったり支援しつつ、単行本ではできないことをやるのを目的とした雑誌だと思いました。秋山真琴さん、いかがでしょうか?


※追記

途中から電撃hpの話だけになり、ザ・スニーカーを放置した文章になっていたので、ザ・スニーカーのほうは棒線で消しました。改めて読み返してみると、えらく無個性でなに考えてるかわからない雑誌ですね。ザ・スニーカー

2007-10-21

なかよくプロレス

[]ライトノベルに望まれているのは「上手い絵師」ではなく「すごい絵師」である

まずはじめに。佐藤亜紀氏の小説「バルタザールの遍歴」の文章を引用します。少し長いですがご了承ください。

 

確かにお前はどんな役でもこなせるよ、経験さえ積めば、どんな役でも見事にこなせるさ。だがね、アンドレアス、舞台を攫うというのはそういう事じゃない。上手くこなすというだけじゃ駄目なんだ。

同じ客が何回でもやって来る。そいつらはウェルテルを見に来るんじゃない、ウェルテルをやってる役者を見に来るのさ。だからこそ大向こうから声が掛かる。お前にそんなことが起こるとは思えんね。

お前がウェルテルをやったら、それはウェルテルだ。ハムレットをやったら、そのままハムレットで、それ以外の何者でもない。上手いのは知ってる。だが、それだけじゃどうにもならんよ。

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

バルタザールの遍歴 (文春文庫)


さて。「ウパ日記」id:iris6462さんから、ちょっと前に「「いとうのいぢ」氏の絵が「灼眼のシャナ」に似ていない。」のではないかという大胆な仮説をいただきました。今日のエントリはこれに対する返答です。


三浦健太郎」氏@「ベルセルク」や、

高田裕三」@「3×3EYES」や、

小畑健」@「デスノート」の方が、「灼眼のシャナ」に似ている。

というか、可愛い女の子をかけて、モンスターデザインが秀逸な作家なら、「灼眼のシャナ」の雰囲気を上手く出せそうだ。


錚々たる顔触れです。しかし「もし彼らがイラストを担当したら、今のシャナの部数を超えることができたか」と問われたら「それはない」と私は答えます。


id:iris6462さんは“紅世の徒”のデザインや戦闘シーンのイラストの迫力不足を理由に「雰囲気はあまり出せていないと思う」と言っています。この意見に対する私の答えは「ライトノベル作品の雰囲気は、作者の文章と絵師のイラストの組み合わせで作られることを忘れてはいけない」です。


高橋弥七郎先生は燃える話を熱い文章で書く人ですが、この特性をイラストが伸ばしても人気にはつながらなかったと思います。「灼眼のシャナ」が成功した理由は「作品の熱い部分は作者の文章力にまかせ、ヒロインの魅力をそれに対抗できるところまで押し上げるためにイラストを使った」点にあります。


上の御三方が描いたシャナは「上手いシャナ」かもしれませんが、その行き着く先は熱さと迫力で押し切る「燃えるアクションノベル」です。いとうのいぢさんが描くシャナは、上手さでは彼らにおとるかもしれませんが、燃えと萌えが絶妙なバランスで両立する「すごいシャナ」です。彼女の絵があってはじめてこの作品は「灼眼のシャナ」になったのです。


ここらで「原作の空気をマンガで再現することが大事なんじゃなかったのか」というツッコミが入りそうな気がするので予防線を張っておきますが、あの文章の題名は「原作ファンが支持するラノベマンガの作り方」です。「ライトノベルの上手な作り方」ではありません。ご注意ください。


でもまあせっかくなので、私の仕事にも上の話は適用できる、という話もしておこうと思います。


もう連載が始まっている、ある作品のマンガ化の話をいただいた時、私は最初にある作家さんを連想しました。

ヒャッコ 1巻 Flex Comix

ヒャッコ 1巻 Flex Comix

夕日ロマンス(Flex Comix)

夕日ロマンス(Flex Comix)

絵柄、表情、作品の空気、どれを見ても相性の良い、すばらしい作家さんだと思いました。しかし、結構、いや実のところかなり悩んだのですが、結局打診はしませんでした。その人ではあまりにハマリ役すぎて、かえって広がらない。外からは客が呼べない気がしたのです。


その後私は原作ファンの意表を突く、別の作家を連れてきました。自信はあったし話題にもなりましたが、ファンの前評判はあまりよくありませんでした。連載を開始するまではドキドキでしたが、スタート後は評価が改まったので安堵したのをおぼえています。


このように最近は「原作ファンが支持するラノベマンガの作り方」をさらに一歩進めて、原作に並ぶ、あわよくば原作を超える作品を作ろうと試みています。そのためにはやはり「上手い俳優」ではだめです。


原作の殻を破り、客を呼ぶ力のある「すごい俳優」。そんな人を常に連れて来れる編集者になりたいものです。

2007-10-20

ぐっすり

[]深山靖宙サイン会電撃大王12月号

多摩坂です。怒涛のお仕事ラッシュが終わったので帰ってきました。


さて。今日はご連絡が2つあります。まず1つ目。10月28日にとらのあな秋葉原1号店で深山靖宙さんのサイン会が開かれます。電撃コミックス乃木坂春香の秘密」1巻の発売記念&秋葉原エンタまつり2007協賛企画です。


明日21日から受け付け開始ですのでよろしくお願いします。担当ですので当日は私も会場におりますが、ノコギリや鉈を使ったNice boat.なあいさつはご遠慮ください。死ぬと困るので。


2つ目。電撃大王の12月号が発売されました。

電撃大王 2007年 12月号 [雑誌]

電撃大王 2007年 12月号 [雑誌]

アニメの二期がはじまったということで、「灼眼のシャナ」が表紙。付録アニメ版権のイラストが大量に載ったシャナ小冊子で、誌上通販もシャナタオルになっております。


今月は「灼眼のシャナ」「とある科学の超電磁砲」「トリコロ」すべて載ってますが、トリコロは来月から単行本作業で少々お休みをいただきます。ファンが随喜の涙を流す、すごい本を作りますので、申し訳ありませんが完成までしばらくお待ちください。

[]上手になるとか学ぶとかいうことにはリスクがある

ヨーロッパに一人の貴族がいました。「音楽情熱をもって愛している」と自称するこの貴族は、ある作曲家対位法のレッスンをしてほしいと申しこみました。ところがこの貴族、じつは対位法のことなどはどうでもよく、レッスンそっちのけでこの作曲家の作品にけちをつけはじめます。毎回スコア片手に一音符ごとにああだこうだ言い、作曲家の作品に価値が無いことを理論的に証明して、意気揚々と引き揚げていくのでした――。


理論と実作曲の区別もつかない貴族にからまれた、気の毒な作曲家の名前はハイドンといいます。モーツァルトベートーヴェンに影響を与え、後に「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれるようになる、古典派を代表する大作曲家です。


さて。「ハーバード・ビジネス・レビュー」の2007年4月号に「知識の呪い」という話が載っているそうです。こちらの記事を見て知ったのですが、「知識はあればよいというものではない。知識を身につけてしまうと、それが「当たり前」になってしまい、同じ知識を共有していない人々の気持ちがわからなくなる」といった話が書いてあるようです。


実際、知識には危険な副作用があります。専門家と呼ばれる人々は、普通の人とは物事の前提が違いすぎるために感性がずれていることが多いですし、大学教授に浮世離れした人間が多いのはよく知られたことです。ちなみに、ラーメン評論家と呼ばれる人たちがいますが、冷静に考えると彼らはラーメンばっかり食べている、非常に狭い嗜好の蓄積を持つ人々であり、彼らの好みと普通の人の味覚が一致するとは私には思えません。


ラーメンの話はさておいて、私の仕事の話をします。私は主に中高生をターゲットにした商品を作っているのですが、作るにあたっては彼らの2倍以上ある人生経験と知識の蓄積が、実は一番邪魔になります。「私が知っていること」と読者は何の関係もないのに、知識やそれに付随したプライドがよけいなことを言ってくるのです。


「そんな薄い話でいいのか」「○○○でもうやられてるじゃないか」「いい歳して何くだらないことやってるんだ」「若いのに媚びやがって」etc...。心の声はいろいろなことを言ってきます。しかしそれは30がらみのヘビーユーザーの知識と蓄積を前提にした意見です。中高生を中心とするライトユーザーの意見ではありません。ここのところを取り違えると、無駄に複雑で盛り上がりに欠けるマニア向けの作品ができてしまいます。


前島賢氏はかつて「スレイヤーズが好きだった10代の僕を、どうやって肯定すればいいんですか!」と言いました。かつて楽しかったものが楽しめなくなるというのは「知識の呪い」に他なりません。


作り手は知識を蓄えつつ、この呪いと戦わなければなりません。読み手も、まあ煩悶するのもひとつの楽しみかとは思うのですが、同じ読むなら面白く読んだほうが人生有意義ですから、自分が積んだ知識に振り回されずに個々の作品と向き合ったほうがよいのではないかと思う次第です。


※追記

このエントリのタイトルは糸井重里さんの発言からの引用。冒頭のエピソードはハイドンモーツァルト研究家としても知られる、スタンダール「ハイドン」からの引用です。