2008-06-05
■[編集]編集者は作家のタマゴを伸びしろで見る
今日の一枚
パッと見祈りを捧げているかのように見えるが、尻尾の毛づくろいをしているところ。
禁書目録ポーカー同梱版の超電磁砲2巻がamazonで在庫復活しました。amazonを倉庫にしていた人のストック放出分と思われますので、予約入れ忘れた方はお早目にどうぞ。なお、帯バレしてしまったアレの件については10日になったら書きます。
さて。今日はネットで見かけたこんな話題を取り上げてみます。
教えて!goo:漫画投稿者です。担当編集者に担当を止めると言われました…
担当をやめるというのはよくあることなのでしょうか。
それとも私によっぽど才能がないと判断したのでしょうか。
もともと、持ち込みで担当になると言ってもらって
一緒に投稿作のプロット・ネームの相談をさせてもらって
完成したのは1本です。
(その投稿作はデビューの賞はとれませんでした。
しかも持ち込みの作品より成績下がった…)
その後プロットを何本か(6本)提出しましたが担当さんの求める技術を
つけられなかったらしく、見切りをつけられました。
元の文章がちょっとわかりにくいのですが、持ち込みに行った先の編集者から「ウチのマンガ賞に応募してみない? 応募原稿のネームはぼくが見てあげるから」と言われて描いてはみたものの、賞は取れずデビューもできなかった。で、その後も何本かネームを提出するも、お眼鏡にはかなわず。結局その編集者が担当を降りてしまった……という流れかと思われます。
デビュー前の作家のタマゴが孵化することなく担当編集に切られる、というのはわりと普通にあることだと思います。プロになっても人気がなくなればあっさり切られたり干されたりする業界なのですから、見込みがないと判断したタマゴに手心を加える理由がありません。
見切りをつけられた理由ですが、(1)期待していたほど伸びなかった、(2)編集長や周囲の評価が想像以上に厳しく、デビューどころの話ではなかった、のどちらかだと思われます。(1)の場合は仕方がないですが、(2)は担当編集の甲斐性の無さが原因だったりすることがあるので、その場合は浮かばれません。
担当についてもらって半年くらいしか経ちません。
短期間でそう判断されたのはつらいところです。
(短期間ではないのかな?一応プロット合計で12本見てもらったし)
プロット・コンテ・ネームなどの用語は使う人によって指す内容がまちまちなので、ここでは「プロット」は「絵や台詞を大雑把に描き込んだラフなマンガ」として考えることとします。12本のプロットを何回に分けて提出していたのかわからないので断言はできませんが、小分けに提出してそのたびごとにアドバイスをもらっていたのならば、伸びしろを測るには十分な数ではなかろうかと私は思います。
私としては漫画家の夢をあきらめる気はないので投稿は続けます。
ただ一気に自信がなくなりました。
一応過去にも別の会社でも担当が付く賞はとれてたのである程度の自信はあったんです。
即戦力級の逸材はそうそう現れるものではありませんので、編集者は投稿者の現時点での実力にあまり期待はしていません。そして伸びしろがあるかもしれないと思ったら、つばをつけておくのは編集者の習い性のようなものです。「担当付き」になって舞い上がる人がたまにいますが、その担当さんは「とりあえずキープ」くらいの気持ちでいるのかもしれないので注意が必要です。
以上、あちらに書き込むつもりがID登録が必要だったので断念した回答でした。
2008-06-04
■[編集]笹倉綾人「たいらんと・ぱにっしゅ」amazonで受付開始
今日の一枚
なにをそんなに警戒しているのか。
今日はまず知り合いのにぐちさんがグッスマのブログに出演していたので、なにはさておきさらしあげておきます。にぐちさんは私と似てるような似てないような経歴でマンガ編集者になった人で、最近だと某プリズマイリヤの後書きで笑顔がステキだった人です。
※右上の悪い笑顔の人がにぐちさん
ラノ漫は角川随一のマンガ生産量を誇るにぐちさんを日陰から応援しています。
さて。今日は笹倉綾人さんの2冊目になる成年コミック単行本がamazonで取り扱いが始まったので、こちらを紹介したいと思います。
「たいらんと・ぱにっしゅ」は笹倉さんの初単行本「少女流幸福攫取論」から数えて実に4年ぶりの新刊になります。あんまり間が空くので「電撃では連載している間は成年向けの本を出してはいけない縛りがある」みたいなウワサが流れたことがありますが、ご覧のとおり根も葉もない都市伝説ですのでご安心ください。
しかし、今年は月吉ヒロキさんの新刊は出るは鳴子ハナハルさんも本を出すはで大変なことになっていますね。たかみちさんのLO画集や田中久仁彦さんの画集も年内には出るようですし、今年はいろいろと当たり年すぎて逆にちょっと怖いです。
2008-06-03
■[その他]不運を嘆く時間があるなら、運をつかむ準備をしよう
今日の一枚
きりり。
家に届いた「とらだよ」の88号に、ゴージャス宝田先生のインタビューが!
キャノン先生誕生秘話やゴージャス宝田先生のヒストリーなどが語られているのでファン必見です。そして「キャノン先生トばしすぎ」をまだ読んでいないOVER18のそこのあなた、いろいろな意味でもったいないので今すぐ購入して読みなさい。吼えろペンを読んで「ああ、そうだろう!?」とか言ってる場合じゃない!!!!!!
さて。今日はダンコーガイのエントリのある一節を読んで思ったことを少し書きます。
たしかに、どんな運がやってくるかは選べない。「実力も運のうち」というのは確かにそうで、その気になれば自分が人間に生まれたことや男女に生まれたことも運なのだから、すべて運に還元しようと思えば出来る。それでも、我々は雨が降れば傘を風に対して向ける。この「風に対して向ける」という行為そのものも運と呼んでしまっていいのか?
運は風のようなもので自分ではどうしようもないけど、それに対して衝突断面積(cross section)を調節することは出来る。幸運にはより当たりやすく、不運にはより当たりにくく
成果に対する私の考え方は、基本的には「はじめの一歩」の鴨川会長と同じ
努力したものが全て報われるとは限らん。
しかし!
なのですが、上の発言を読んで「"努力"という言葉を"準備"と置き換えたら、また違った世界が見えてくるのではないか?」とふと思いました。
「MOONLIGHT MILE」というマンガがあります。このマンガの主人公の猿渡吾郎は、クライマーとして五大陸の最高峰を制した後にさらなる高みを求めて月に渡る男なのですが、そのアプローチの仕方は大変ユニークでした。月に降り立とうと思えば、普通は懸命に勉強して宇宙飛行士の狭き門を目指したりするものですが、彼はそんなリスキーな努力はしません。代わりにしたのは大量の重機操縦資格の取得です。月に次世代エネルギーが大量に埋蔵されていることが判明したこの世界で、彼は月の開発ラッシュが必ず訪れると予想し、宇宙開発技術者に求められるであろう技術と資格を押さえて"その時"に備えたのです。
猿渡吾郎は運良く月に行くことができましたが、彼の行動にはやみくもな努力とは一線を画する視点があります。技術と資格を押さえても月に行けるとは限りませんが、それでも「宇宙飛行士に選ばれる」などという馬鹿みたいな確率に賭けるよりは、ずっと分のいい投資です。「宇宙開発のための技術者を募集する」という幸運が降ってきたときのために彼はしっかりと準備をし、その結果幸運をつかむことができたのです。
自分の運のなさを嘆く人は世の中にたくさんいます。しかしそういった人たちの大部分は「幸運に当たりやすくする」努力をしていません。またたとえ幸運が直撃したとしても、それを受け止め活用できるだけの準備ができていないように私には思えます。「宇宙開発の技術者募集!」という政府公報は、普通の人の目にはチャンスとは映りません。営々と準備を重ねてきた人だけが「やっとチャンスが巡ってきやがったぜ」とうそぶくことができるのです。
一世一代のチャンスが巡ってくるかもしれないその日のために、しっかりと準備をしておきたいものです。
2008-06-01
■[編集]「1枚の絵は1万字にまさる」:週刊少年マガジン第3代編集長・内田勝氏死去
今日の一枚
「いっちゃうの?」
「たけくまメモ」を見て知ったのですが、内田勝氏が30日にお亡くなりになりました。直接お会いしたことはありませんが、長野規氏、西村繁男氏と並んで私が最も影響を受けたマンガ編集者の一人であり、つい先日氏も登場する「マンガ編集者狂笑録」を読んだばかりでしたので大変驚いております。
ご存知ない方のために説明しますと、内田勝氏は弱冠30歳で週刊少年マガジンの編集長に抜擢されて「巨人の星」「あしたのジョー」「天才バカボン」などの大ヒットを連発。また大伴昌司氏という、荒俣宏氏をして「戦後文化人の中で“奇っ怪紳士”と呼べる存在はこの人しかいない」と言わしめた異才を起用した「巻頭カラー大図解」シリーズで怪獣ブームや妖怪ブームを引き起こしたり、100万部達成記念に編集部による富士登山を敢行したり、「あしたのジョー」の力石徹の告別式を挙行したりといった、型破りなエピソードの数々をもって知られる伝説的な編集者です。
※週刊少年マガジンの巻頭カラー大図解シリーズ「劇画入門」で掲げられた
“1枚の絵は1万字にまさる”宣言
私個人としてはビジュアル中心の社会の到来を予見した“1枚の絵は1万字にまさる”の宣言や、週刊少年サンデーと繰り広げた赤塚不二夫氏の争奪戦、そしてメディアミックスの先駆的な企画の数々が強く印象に残っております。最後に氏の編集者観を引用して結びに代えたいと思います。
マンガ誌といい、カラー・グラビア誌といい、衛星デジタル・テレビといい、それら自体は“器”であるに過ぎず、問われるべきは、むしろ雑誌の読者なり、多チャンネル・テレビの視聴者なりが、それぞれの時代の中で求める“心の糧”をどう作っていくかであろう。編集者(あるいはプロデューサー)は、その意味から何にも増して“良き料理人”であらねばならない。
氏のご遺徳を偲び、謹んで哀悼の意を表します。