コトの始まりは、私がまだ教員をしていたころにおよぶ。 1998年から3年間、私は、文部省(当時)の研究学校で研究主任をしていた。2000年の研究公開終了後、私はいわゆる「燃え尽き症候群」となり、うつ病を発症した。入退院を繰り返していたが、病状もなかなかよくならず、市内の別の学校に転勤した。 子供たちにあいさつもできずに、学校を去ることになってしまった(写真はイメージ) そのころから宮崎県の議会では、他県が導入を進めている「問題教員の再研修制度」について議論していた。問題教員と言っても、「授業の進め方に問題がある」、「子ども・保護者や教職員との人間関係を築きにくい」、「病気療養が必要である」など、この再研修を受ける教員の幅は広かった。 2002年3月下旬。情報教育主任をしていた私は、毎朝、学校に届くメールのチェックをしていた。そのなかに、かなり長文のメールを見つけた。「宮崎県教育管理職員に対する措置要求書」なるものであった。すぐに教頭に連絡した。念のため、ほかの学校の情報教育主任の教諭に確認すると、同じようなメールが届いているとのことだったが、そのときは単なるスパムメールとしか思っていなかった。 その日の午後、校長から呼び出され、新年度から始まる教員の再研修制度「資質向上特別研修」への参加命令が言い渡された。職務上の命令なので、参加せざるを得ない。校長からは「自宅から通えるし、ゆっくりと療養に専念しないさい」と言われた。 資質向上特別研修には、私を含めて4名の教員が参加した。小学校2名、中学校1名、高等学校1名である。 小学校から参加したうちの1人は私で、もう1人はA子教諭であった。同じ「小学校」という職種でも彼女とは面識はなかったが、その名前には覚えがあった。 彼女の名前は、「宮崎県教育管理職員に対する措置要求書」で見た。そこにはA子教諭の名前と彼女の夫らしい教諭の名前が書かれていた。 あいにく、メールのコピーをとることはできなかったが、そこには学校長の命令にも関わらず、校内における研究授業を拒否したことに対する学校および教育委員会の対応、資質向上特別研修に参加することへの抗議などが書きつづられていた。A子教諭と学校・教育委員会側の問題であり、このような問題にはあまりかかわりたくなかった。 定年退職したベテランの教員が指導員となり、年間カリキュラムに従った研修が始まった。再研修ということだけあって、私が嫌いな教育原理や教育心理の原書研究も含まれていた。しかし、忙しい現場から離れての研修ということで、私のうつ病の症状も少しは良くなっていった。 程なくして、研究授業をめぐって問題が発生。 研究授業には、研修生4名、指導員3名と研修担当の職員数名が参加することになっていた。研修生4名が交代で授業を行い、その後、検証会を行う。その日程を決める段階になって、研修生のA子教諭が研究授業を拒否したのである。 A子教諭の意志は固く、なかなか決まらないため、研修担当者は所属校長や教育委員会に相談し、対応を協議していた。その間、ほかの研修生は別の研修を進めていた。結局、1回目の研究授業会は私たち3名の研究生が行い、A子教諭は有給休暇をとり、参加しなかった。 そのころはまだ「迷惑な研修生だなあ」というくらいの気持ちだったが、そのとばっちりが私にも飛んでくるはめになってしまった。 7月に入っても、相変わらずA子教諭の研究授業を始めとする諸研修の拒否の姿勢は固かった。そして、そのA子教諭のかたくなな態度が気になり始めた。 ある日の朝会で、担当指導員に「9月から所外研修(私は県立図書館での8週間にわたる研修が決まっていた)が始まりますが、その間の研究授業の日程はどうなっていますか?」とたずねた。 すると、担当指導員は急に怒り出し、「お前らのような問題教員に今後のスケジュールをたずねられる筋合いはない。それは私たちが決めることだ!」と大声で怒鳴られてしまった。 これには私もキレた。現場復帰をしたいと考えて研修しているにも関わらず、いつまでも私たちを「問題教員」扱いしている研修スタッフの態度に怒りを覚えたのだ。 私はすぐに指導員室兼事務室に乗り込み、暴言を吐いた指導員に謝罪を求めた。しかし、彼はいなかった。 「A子教諭の問題でみんな対応に苦慮している。そのことを分かってほしい」と、別の指導員に諫(いさ)められたが、私の怒りが収まることはなかった。自分の精神状態の悪さを察知し、その日は有給休暇をとって帰宅した。 当時の学校現場は、教員のメンタルヘルスに関しては未整備状態だった。2001年、大阪の大阪教育大学教育学部附属(ふぞく)池田小学校で起きた無差別殺傷事件(通称、附属池田小事件)の際には、私が勤務していた学校に匿名の電話が相次いだ。「おたくの学校に精神科に通う先生がいるようだが」と。田舎の学校ほど、精神疾患に対する認識が低い。 主治医から、うつ状態だけではなく躁(そう)状態になることもあるようなので気をつけるようにと言われた。学校に自分の居場所がない私は、主治医に診断書を書いてもらった。学校に診断書を出し、そのまま45日間の傷病休暇をとった。 傷病休暇が終わる11月の始め、私は学校ではなく、市教委に呼び出された。教育長室には、校長、市の指導主事、教育事務所の指導主事、教育長がいた。私を復帰させる話ではなく、辞めてもらうための話し合いというか、一方的なものであった。 「私たちにはあなたを罷免する権限はない。あくまでもあなた本人の問題です。私たちは何も圧力をかけているわけではない……」 しかし、それは圧力以外のなにものでもなかった。しかも、このような状況はどこかで見たことがあった。 そう、3月下旬に学校に届いたあのメールである。A子教諭もこのような半ば脅されるような形で、資質向上特別研修に参加していたのであろうか。 2002年11月下旬。夜8時過ぎ、学校長から電話が鳴った。 学校長 大谷君、もうすぐボーナスの査定に入るんだが、あんた、この前教育委員会で話し合ったこと覚えてる? どうすんの? 大谷 分かりました。来週の月曜日に辞表をお届けします。 学校長 いや、月曜日じゃ遅いんだよ。それじゃあ、ボーナスの査定に間に合わない。今すぐに辞表を持ってきてくれないか。 大谷 え、今から……ですか? 学校長 うん,そう。宮崎からだと1時間ぐらいはかかると思うから、午後11時に日南駅前に来てくれないか 大谷 ……。分かりました。辞表を持って行きます。 午後11時過ぎ、寒空の日南駅前で学校長に辞表を手渡した。 大谷 子どもたちとのお別れは……? 学校長 あ、もう学校に来なくていいから。 私の17年におよぶ教職生活はあっけなく終わってしまった。 しかし、それはまた始まりでもあった……。
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