評価 |
閲覧 |
推薦 |
日付 |
|||
---|---|---|---|---|---|---|
安住るり |
55 |
1 |
05/16 11:35 |
|||
みゆみゆ |
58 |
2 |
05/16 09:17 |
|||
高橋篤哉: |
104 |
3 |
05/15 22:32 |
|||
湯浅 秀昭 |
117 |
2 |
05/15 19:45 |
|||
Mint |
164 |
1 |
05/15 17:35 |
|||
閃光 |
201 |
5 |
05/15 17:11 |
|||
1981年。大谷青年は、本土復帰9年目を迎えた沖縄にいた。 地元大学合格間違いナシ、と言われながら、本番に弱かった私は、1浪して琉球大学に入った。親元を離れての1人暮らし。サークル活動もせず、なぜか当時流行していたカーリーヘアーにし、沖縄での生活を楽しんでいた。 沖縄の伝説の獣、シーサー(写真はイメージ) やはり彼女が欲しい年ごろ。合コン情報を聞きつけては参加していた。ある日、学食の入り口で「新入生歓迎ソフトボール大会」のビラを配っている女子を発見。ちょっと気になって、話を聞くと、「大学生協の組織部には女の子が多いよ」とのこと。 私がいた教育学部小学校教員養成課程理科専修は、中学校教員養成課程理科専攻と一緒に講義を受けていた。 新入生オリエンテーションの際、先輩から「この理科組には、伝説の先輩がいるから気をつけるように」と言われていた。私は「伝説の先輩ってなんだ? 大学8年生がいるのか?」という程度にしか考えなかった。 後日、その先輩と会う機会があったが、確かに「長老」という名にふさわしい人物であった。政治のことから、沖縄の現状のことなど、詳しい話をするので「さすが長老だけある」と思った。 80年代に入ったとはいえ、沖縄が本土に復帰してまだ10年しかたっていないということで、学内はごたごたしていた。本土ではほとんど下火になっていた学生運動も、この大学では日常茶飯事。革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派学生)やわけの分からない連中が講義中の教室に入り込んで講義が中断することもあった。何も考えず、能天気な私は、「まだばかなことをやっている」ぐらいにしか思っていなかったのだが……。 ある日、1級上の先輩が、突然、講義中の教室に入ってくるなり、「大谷! お前は革マル派ではなかったのか!いつから民青(日本民主青年同盟)に寝返った!」などとわけの分からないことを言って、私を教室外に連れ出した。 興奮する先輩を抑え、事情を聞いたところ、今度は私が興奮してしまった。 この先輩とは、教養の講座で一緒に講義を受けていた。彼によると、大学生協の組織部は民青の事務所となっていて、女の子を動員して各種イベントを開催し、会員を集めているとのこと。一方、理科組の長老は、革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)のこの大学での幹部とのこと。 当時、沖縄の民青と革マル派は対立していた。直前に行われた新入生歓迎ソフトボール大会では、革マル派の学生が、民青の学生1人ひとりの顔写真を撮っていたらしい。撮影していたのがこの先輩の友人で、写真を見せてもらったところ、私の顔が写っていたらしい。 女の子がたくさんいるんだし、別に生協のイベントに参加してもいいではないか! そういう私を制止し、先輩は「お前、理科組で講義を受けることができなくなるぞ!」と言った。 本当に民青や革マル派の活動のことをまったく知らなかった私は、それから調べまくった。両方の組織に足を突っ込んだまま、いろいろと情報を仕入れ、時には彼らと議論したりした。私の無謀な行動に周囲はあきれていたようであった。 無謀な行動を見かねた同級生が、私に剣道部への入部を勧めた。私が小学校3年から剣道をしていたからだ。カーリーヘアーのまま、私は剣道部に入部した。変な新入生の登場で、今度は剣道部がもめた……。 当時、沖縄では石垣島への空港建設計画が問題になっていた。バカ学生だった私は、政治的な観点からというよりも、理科に所属し、自然科学の観点から、教授やほかの仲間たちと「石垣島空港建設反対派」にまわり、学内でビラを配ったり署名活動をしたりしていた。 毎年7月4日のアメリカ独立記念日には、米軍基地が一般開放された。米軍兵による出店やコンサートが開催され、私も毎年出掛けた。気さくな米軍兵もいたが、現地人とのトラブルや事件は絶えなかった。 学生生活の4年間、バカなことばかりやってきたが、沖縄出身の同級生や先輩たちと話をすると、これまで沖縄が背負ってきた歴史の重みというものを感じさせられたものであった。 琉球大学は当時、観光名所、首里城のそばにあり、剣道部の部室もその近くにあった。そのプレハブの2階が八重山芸能研究会の部室だった。練習で疲れた身体を癒やす間もなく、毎晩のように泡盛での反省会をしていた。 泡盛を飲みなれていない私たち下級生が酔いを醒(さ)ますために外に出ると、2階から蛇皮線(三味線)の音色とともに島唄(うた)が聞こえてきた。毎回毎回聞く良い音色に、私も島唄を覚えてしまった。 ふと横を見ると,沖縄出身の先輩も酔いを醒(さ)ましにきていた。 「大谷、お前らヤマトンチュ(本土の人間)からすれば、沖縄はただの観光地にしか見えんだろう。だが、おれたちは小さいころからオジー(おじいちゃん)やオバー(おばあちゃん)から、自分が生まれ育った沖縄のことを聞かされてきた。おれは、日本が嫌いだ。同じようにアメリカも嫌いだ。お前だって、自分が大切にしたい場所を他人に荒らされたらどう思う?」 「オジーたちは、昔の苦しみや悲しみを忘れるために、泡盛を飲み、島唄をうたい、踊るのさ。お前らがやっているイッキ飲みとはわけが違う」 その言葉には、政治的なことも、きれいごとも一切なかった。ウチナンチュ(沖縄人)の心の叫びのように聞こえた。 卒業して22年。あれから1度も沖縄には出掛けていない。 そして、今日5月15日、沖縄は本土復帰35周年を迎えた。果たして、本当に沖縄は日本に復帰して良かったのだろうか?それとも、そのまま琉球王朝として、独自の文化を保有したまま独立していたほうが良かったのだろうか? 元沖縄県知事で、私が在学中、琉球大学の学長であった大田昌秀氏は、当時から「沖縄は独立すべきである」という持論を展開していた。学長の話には説得力があり、ほのかに沖縄独立の期待を寄せたこともあった。 5月14日、国会で国民投票法案が成立した。憲法改正が現実味を帯びてくる中で、米軍基地を抱える沖縄県民は、この日本の現状をどう考えているのだろうか。 機会があれば22年ぶりに沖縄を訪ねてみたい。
85点
あなたも評価に参加してみませんか? 市民記者になると10点評価ができます!
※評価結果は定期的に反映されます。
|
empro は OhmyNews 編集部発の実験メディアプロジェクトです |