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「私の人生は何だったのか。そう考えると情けなくなる」 40年以上、祖国の土を踏むことができず、流転の人生を余儀なくされた73歳の女性はこう言った。 40年間、どのような思いで異国の空を見上げてきたのだろうか(写真はイメージ) 都内の大学から、中央線でゆられること30分。国立市の中国帰国者の会・生活支援センターを訪ねた。「よく来てくださいました」と、西田瑠美子さんは目を細めて迎えてくれた。 「昔はよく学生のボランティアが来て、このテーブルがいっぱいになるくらいだったけど、最近は……」と寂しそうに手元の湯のみに視線を落とした。 NPO法人、中国帰国者の会は、現在各地で広がっている、中国残留孤児訴訟の先陣を切って、初めて国を相手に裁判を起こした団体だ。西田さんは原告の中国残留婦人のひとり。 国が、早期帰国を図る義務があったにも関わらず、それを怠ったこと。帰国後の自立支援措置が十分でなかったことを訴えた。東京地裁は、西田さんらの訴えを退けたものの、判決内容は国を糾弾するものであった。 西田さんは11歳のとき、佐賀県開拓団の一員として、家族とともに満州に渡った。終戦5カ月前のことだった。8月9日、ソ連が対日参戦したとき、西田さんは開拓団全員とともに、日本に逃げるため、港町を目指した。しかし町はもぬけの殻。頼りにしていた軍も、警察もどこにもいない。3日待っても、船は来なかった。 満州の冬は零下30度まで達する。西田さん一行は、長野県開拓団の人々と一緒に越冬することになった。夏に、着の身着のまま逃げたので、体を温めるものは何もない。周りには衰弱死する人や、病死者が続出した。食料も薪(まき)も底をついた。 「このままでは全員死んでしまう……」 生き残るためには、1人ひとりが自活する道を探さねばならなかった。開拓団は解散し、姉たちとともに西田さんも街へ出た。 「もっと勉強したかった」と西田さんは語る。街では学ぶ機会などない。中国人の家で雑用などをしながら生き永らえるのが精一杯だった。彼女が祖国の土を踏んだのは、終戦から実に43年を経た1988年。西田さんは54歳になっていた。 「なぜもっと早く迎えに来てくれなかったの」 大きな瞳には、怒りと悲しみが混在している。西田さんは「政府は私たちを日本人だと思っていない」と言った。私には、この一言が問題の根幹に思えてならない。 冷淡だったのは果たして国だけだったのだろうか。メディアや、私たち国民は、大きな声を出してきたのだろうか。北朝鮮への拉致被害者と比較するのは間違っているかもしれない。しかし、その10分の1だけでも、中国残留邦人の人々に同情や関心を寄せただろうか。 母国語を話すことのできない同胞は奇異に見えたのかもしれない。だが、国が早期帰国を実現していれば、彼ら、彼女らは、日本人として、母国で、平穏に暮らすことができただろう。勉強すること、夢を追いかけること。その若い可能性の芽をつんだのは、いったい誰だったのだろうか。 西田さんは、帰り際に、「若い人たちが、こうして歴史を知ろうとしてくれるだけで私はうれしい」とこぼれんばかりの笑顔を見せてくれた。本当の歴史は、埋もれ、無視され、捏造(ねつぞう)される。日本が中国で何をしたのか。なぜ、満州であれだけの人が、自ら命を絶たねばならなかったのか。 そして、同じ日本人である関東軍の裏切り。国に捨てられたという現実。帰国を阻む政府の底なしの冷たさ。自分の国が、いったい何をしてきたのか、若い人に知ってほしいと、西田さんは願っている。 西田瑠美子さんら3人の中国残留婦人の控訴審の判決は、今月21日言い渡される。
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