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★★★ 『なにわ夢便り』(大阪の歴史や新旧名所・旧跡のご案内ブログ) ★★★
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リンク集         なにわ夢便り【1〜52】
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ルルさんの夢

なにわ夢便り       【40〜52】

夢開始日:2006年03月03日
夢達成予定日:2008年03月13日
ニュース > わが町・地域情報
進捗率
なにわ夢便り(32)世界一のPL花火@ [2006/08/04 ]

正式には『PL(Perfect Liberty)教団・教祖祭・花火芸術』 という名称。
打上げ花火数が約12万発、日本最大、つまりは世界一の花火大会です。

18791_o.jpg

PL教団に由れば、
≪世界平和を祈念して去られた初代教祖に捧げる一大花束であり、世界平和欣求の象徴と言うべきものです。さらに“人生は芸術である”とのPL理念が表現されているところにも意義の深さがあります≫との事で、
昭和28年(1953年)から行われています。

18792_o.jpg

高校野球で有名なPL学園高校はこの中にあります。
打ち上げ場所は、PL教団・ゴルフ場のコース内に設けられていますが、
教団の敷地内および建物には信者しか入れません。

18793_o.jpg

一宗教団体がこれだけの事をする事は驚きです。
又、甲子園出場にはお金が掛かり各自治体が寄付を募るのに、
PL学園は自力で賄っているそうで、宗教団体の力を垣間見るようです。

Posted at 04:06 | この記事のURL
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なにわ夢便り(31)住吉さん夏祭り [2006/08/02 ]

大阪の住吉大社は、
約1800年前に出来た、全国2300余に及ぶ住吉神社の総本宮です。

伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) が黄泉の国から帰って来られた際
海で禊祓いされ、その時海の中より現れた底筒男命(そこつつのをのみこと)、
中筒男命(なかつつのをのみこと)、表筒男命(うわつつのをのみこと)
の三神(第1〜第3本宮)を言います。

その後、神功皇后(じんぐうこうごう・第4本宮)が
新羅遠征により国の安定を築くことができた為、
住吉大神のお告げによってこの地に祭られました(西暦200年)。住吉大社夏祭は別名「おはらい」といわれ、日本国中の大祓を行うお祭りです。
7月31日夏越大祓神事(無形文化財)が行われ、8月1日荒和大祓(あらにごのおおはらい・海の安全祈祷)が行われます。

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奥の宮司さんが祝詞をあげ、前の二人が清め水・榊で一人一人にお祓いを。
茅の輪横にある茅草(ちがや)を1本取り、茅の輪をくぐるときには
「住吉の 夏越の祓する人は 千年 (ちとせ) の齢(よはひ) のぶといふなり」
という和歌を口ずさみます。
この後、私もお祓いをうけ同じようにさせて頂きました(神館にて)。 

18688_o.jpg
≪住吉踊り≫第1本宮前
笠にわらじ姿の少女たちが鈴のついた団扇を手に、飛んだり跳ねたり、大きな傘の下でくるくる回りながら踊ります。
片足を跳ね上げる独特のポーズは「心」という字の形を表し、手にした団扇は稲につく虫を払う為のもの。

♪ェ〜住吉さまのぉ ィャホェ 摂津浪速の〜一ノ宮 その名も高き〜住吉の 
あらおもしろの神踊り 天長く地久し 天下泰平国土安全 五穀豊穰民栄え〜

神功皇后がご凱旋のみぎり、土地の人々が寿いで踊ったのがはじまりで、
中世以来神宮寺の社曹が勧進のためこれを踊って各地を遍歴し、
かっぽれや万作踊りの元になっています。

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出発前に注意を受けて緊張の様子。普通は青少年ですが、すみよっさんにはこんなに小さな願人(がんじ)がいました。

愛染さんで始まり 天神さんで熱うなり すみよっさんで終る 浪速の夏祭り
… 1ヶ月に亘り 大小多くの掛け声が 大阪市内の各町内に響きました …

♪ 打ちましょ〜 チョン・チョン
♪ も一つせ〜  チョン・チョン
♪ 祝うて三度  チョン・チョン・チョン   

今年も …あい(愛)すみ(住)ました… おおきに〜 ありがとさん〜.。o○

Posted at 20:33 | この記事のURL
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なにわ夢便り(30)伝説の「ナンバ一番」復活A [2006/07/30 ]

『ナンバ一番』の最初の司会者は浜村純。
彼がマスコミで忙しくなって来た時に継いだのが、横山プリンと上岡龍太郎でした。
土・日に素人コンテスト的な事もやったそうで、優秀者は契約できたとの事。
そこから西郷輝彦、克己茂、田代みどり、奥村チヨ…
(他の名も言ってましたがメモが間に合わず)…等多数。
尚、和田アキ子は中学生の時から店に入り浸っていたそう。

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〜元・ジャガーズの岡本信〜 
「リードギターは糖尿で、ベースは痛風で…ロックバンドが老苦バンドになり、
リハビリで音楽をやっています…」とユーモラスに語る。
『キサナドゥの伝説』『君に逢いたい』他を熱唱。

「♪若さゆえ 苦しみ 若さゆえ 悩み〜」 …あの頃のトガッタ感覚が甦る…

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今回のライブは元・精華小学校(明治6年開校、昭和4年に現在の校舎が竣工し平成7年に閉校。昭和4年の建物のまま市民劇場などの用途に)で、
グランド一杯の人・人…昔を懐かしむ中高年も思わずスタンディング〜♪

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〜勿論出演者の打ち上げにも参加、皆さん年を重ね気さくでいい感じ〜

写真【前列】左から、戎橋筋商店街振興組合長

内田裕也さん(裕也さんの前に座れました〜☆)、

元・シャープホークス・サミー鈴木さん力也さんも来る予定が急遽慶応病院に入院したとの事。『ついておいで』『遠い渚』他を歌唱)、

元・ザ・タイガース・加橋かつみさん(『廃墟のあと』『花の首飾り』他を歌唱)、

【後列】左・赤いアロハシャツ、元・ザ・ジャガーズ・岡本信さん(上記の通り)、

元・オックス・真木ひでとさん(彼もナンバ一番出身。ファニーズの解散を見て、どうしてもここで歌い続けたいと思ったそう『ダンシングセブンティーン』『ガールフレンド』『スワンの涙』他、「僕が指さすと女の子が失神してたのに、もう神通力がない」…と皆を笑わせていました)、

元・リンド&リンダース・セカンドヴォーカル・榊テルオさん(ずっと京都を離れず、今は会社経営)、

最後列の白髪の人と首にタオルの人は、元・リンド&リンダースのギターとドラムスの方です。

Posted at 05:27 | この記事のURL
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なにわ夢便り(29)伝説の「ナンバ一番」復活@ [2006/07/30 ]

まだライブハウスという言葉すらなかった頃、
大阪ミナミの戎橋筋にあった『ナンバ一番』
6階建てビルの2、3、4階は喫茶、5階がステージ、6階は楽屋で、
一流ミュージシャンの登竜門として、東の『ACB(アシベ)』と並ぶ有名なお店
1970年の万博の年に閉鎖しビルを建て替え、
今はTUTAYAの大型店舗になっていて当時を偲ぶ事はできません。

その伝説の場所が7/29の『えびすばし夏祭り』で復活しました〜!

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〜栄光の歴史と思い出を語る〜
(写真左、当時関西の大御所バンド、元・リンド&リンダースの加賀テツヤ、中、元『ナンバ一番』オーナー何武雄(カ・タケオ)、
右、『ナンバ一番』最後のプロバンド元・ファンキープリンスで現・朝日放送DJの水谷ひろし)
骨董収集家として有名な実業家何氏の父のコレクションが惜しげもなく置かれ、昭和30年代当初は美術喫茶だったとの事。
そこでジャズの生演奏をしたのをきっかけに音楽喫茶に改名、
その後シャンソンが加わり、最後はロックやGSに。

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〜今日だけのリンド&リンダース〜
加賀テツヤ以外は現在会社員などの一般人。
リーダーだった加藤ヒロシはロンドン在住、日本のミュージシャンのレコーディング等のコーディネーターで活躍中。
「スミ子(坂本スミ子)と歌おう!」レギュラー時のテーマソング『明日、陽が昇ったら』や、ヒット曲『ギター子守唄』『銀の鎖』他を熱唱…。

現・素人の還暦バンドなのに、前座の若い子のバンドよりいい〜!
懐かしい歌声に〜♪ … 胸が痛い…熱いものが次々と込み上げてくる …

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内田裕也氏は、何処よりも『ナンバ一番』を愛していたと語る。
彼がブルージーンズ時代、この店で歌っていたファニーズに目を付け、タイガースとしてメジャーレビューさせたのは有名な話です。

(タイガースは京都『田園』に出ていた時に、リンド&リンダースに誘われ大阪に、
当初はリンドの前座兼ボーヤをしていたとの事です)

私の『ナンバ一番』初体験は、母にねだって一緒に行った中学3年の時です。 

〜 Aに続く 〜

Posted at 05:25 | この記事のURL
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なにわ夢便り(28)天神祭り [2006/07/26 ]

日本3大祭の1つ、天満の天神さんが来ると浪速っ子の夏本番です〜!

天神祭りは天暦5年(951年)、大川より神鉾を流し、流れ着いた場所に祭場を設け、そこで禊(みそぎ)払いをしたのが始まりで、
千年以上の歴史を継ぐ神事と祭事は、世界最大の水の祭典といわれています。
祭事は7月初めから順に始まりますが、クライマックスは25日の船渡御。

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御神霊を乗せる所(陸渡御のあと岸に集まり、今時はお祓いしたクレーンでゆっくりと吊り上げ移動します、TVや写真等であまり見られません)

御神霊を乗せた『御鳳輦船(ごほうれんせん)』を中心に、
催太鼓船や地車囃子船など神に仕える講社の供奉船、御迎人形を乗せたどんどこ船、落語船、協賛団体や市民船など神をお迎えする奉拝船…
約100隻の船が大川を行き交います。

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この船は天満宮の人しか乗れません。又、御鳳輦奉安船を見下ろすことのないよう、通過する橋には覆いがされています。

どの船も提灯が灯り、祭囃子をかき鳴らし、先頭で天神龍踊りを踊っています。
この時奉納花火が次々打ち上げられ歓声と共にお祭りは最高潮に〜!
≪船内は勿論飲食OK≫
≪お祭の熱気に川風があたり…江戸時代盛んだった川遊びを偲ぶ…
ほんま大阪は水の都やなぁ〜を実感。まだの方は是非乗ってみて下さい〜!≫

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船同士がすれ違う時はお互いに大阪締めでご挨拶
「打ちましょ〜 チョン・チョン、 もう一つせ〜 チョン・チョン、
祝うて三度 チョ・チョン・チョン!」
― ―  ただし御鳳輦奉安船が通過する時は沈黙が慣わしです  ― ―
阪神タイガース船が通ると船内も川岸や橋の上の人も皆で
「♪ 六甲おろしにぃ 颯爽とぉ〜 蒼天翔ける 日輪のぉ〜♪〜」の大合唱!

今朝の新聞では昨夜11時までに85万2千人が詰めかけたとの事。
私は午前0時過ぎに、マンマンちゃんにサヨナラしましたがまだお人がいて…聞くとその後天神橋筋商店街や北浜付近で飲んでそのまま明日出社するらしい…。

わ〜、夜更かしルルが負けてるやん〜、 恐るべし大阪人!!

Posted at 18:37 | この記事のURL
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なにわ夢便り(27)生玉さん夏祭り [2006/07/13 ]
正式には生國魂神社、神武天皇が生島大神、足島大神を祀ったのが創祀と伝えられ、『日本書紀』には、孝徳天皇即位(7世紀頃)に『生國魂神社の樹を切りたまふ…』と記され、宮中で最高の待遇を受けた神社。
(詳細は、なにわ夢便りのKLMをご参照下さい)

川の天神さん(船渡御。天神祭は、京都・祇園祭り、東京・三王祭りと共に日本三大夏祭りの一つ)に対して、
陸の生玉さん(陸渡御)と言われています。大阪三大夏祭りの一つ。
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子供達も囃し方・他に大活躍。
立っている二人はお友達、PTAも代々引継ぎで盛り立てています。

いくたま夏祭りは、渡御(おわたり)、獅子舞おねり、金銀神輿おねり、子供太鼓、子供神輿と賑やかですが、圧巻は有名な枕太鼓。

平安時代、夏越の祓いの際にその願いを託す人を願人(がんじ)と言い、
その人達が枕太鼓を叩きました。
赤頭巾をかぶり、瓢箪模様のハッピを着、
さらし1疋をより紐にし背中で蝶の形に結び、予備のバチを腰にはさむ正装。
バチやより紐は、ハシゴなど緊急用具になるよう
工夫された忍びの姿とも伝えられています。

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枕太鼓が始まる前の緊張のひととき。
走り回りひっくり返すので、人払いをして広い場所を作ります。叩き手は若い男の子達、この役をやるとひと夏?は必ずモテマス。
左手の鳥居に茅の輪があります。
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急にドーンと倒された!落ちそうな勢いなのに平気で叩いています。
男衆たちが大勢でひき、皆で倒したり揺らしたりしますが、どんな体勢になっても一人のリズムの乱れなく叩き続けます(NHKでも取り上げられました)。
牽き手も早く逃げないと下敷きになる

シキ、オチ、ツジ、ハヤメテ、オカエリの5通りの打ち方があり、
手打ち式は『なにわじめ』の中でも生玉独特のものでします。

           打ちまひょ〜♪ チョン! チョン!
          もひとつせ〜♪ チョン! チョン!
          祝うて三度〜♪ チョン! チョン! チョン!
          めでたいな〜  チョン! チョン!
          ほんぎまり〜  チョン! チョン!               (後の2行が生玉さんだけのもの)

*枕太鼓の勇壮さは動画でなきゃ!と思い撮ったのですが…掲載には重すぎてエラーになりました(T_T)

Posted at 03:16 | この記事のURL
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なにわ夢便り(26)藤原家隆と夕陽丘 [2006/07/12 ]
地下鉄谷町線・四天王寺駅の西側に夕陽丘(ゆうひがおか)という地名があります。

これは、新古今集の撰者として知られる鎌倉時代の歌人・藤原家隆(1158〜1237)が晩年の嘉禎2年(1236)この地に住み、夕陽庵(せきようあん)という小庵を設け、日想観(にっそうかん・落日を拝する修業)を修め往生した事に由来します。

契りあれば 難波の里にやどり来て 浪の入日を 拝みつる哉  藤原家隆
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跡地は丘になっている。 碑はかなり朽ちて字が見難いので下に解説がある

藤原家隆が晩年をすごした夕陽庵の傍には、
わが国最古(593年建立)の官寺といわれる四天王寺があります。
四天王寺の西門は、極楽浄土の門に当たると信じられ、
浄土宗を開いた法然上人をはじめ、親鸞上人や一遍上人がここに参籠しています。

当時の四天王寺は官寺で叡山の流れを汲み天皇や公家達の畏敬の地でした。
世情は度重なる戦乱で人々には厭世終末観が漂い、
法然の念仏信仰が民心を捕えやがて貴族の中にも広まってくる…
貴族達は京都を離れてこの難波の夕陽丘を西方浄土の霊地と憧れ集まりました。

平安末期から鎌倉時代にかけて「日想観」は一種のブームとなり、
当時この地は日想観を修養する人達の草庵が数千も点在したと伝えられています。

藤原氏の繁栄を描いた歴史書『栄華物語』にも、
藤原道長の娘が四天王寺に詣でたことが次のように記されています

「酉の刻ばかりに、天王寺(四天王寺)の西の大門に御車をとどめて、
波のきはなき西日の入りゆくおりしも拝ませ給ふ」

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     夕陽庵を設け、西に向かって正座合掌のまま大往生を遂げた

家隆は七十九歳で出家し、
仏性と称し此の夕陽丘に草庵を結び春の彼岸に西海の落日を観て南無阿弥陀仏を唱え没したと伝えられる。

人生の終焉を迎えようとしていた老人が京の都からこの地に移り住んだのは、
ただただ海に沈む夕陽を拝みたかったからだといわれる。

京ではそれを望むべくもなく、
大阪でも彼岸時に海に沈む太陽が眺められる場所は限られていた。
大阪城あたりからだと六甲の山並みに、
住吉神社付近から見ると淡路島に落ちていくのである。

今ではちょっと想像がつき難いが、夕陽丘の界隈だけがその条件を満たしていた。
上町台地にあった夕陽丘からは、
茜色に染まる空と、金色に輝く海が眺望できたのであろう。
人々は単に夕陽を美しい風景として眺めるのではなく、
極楽往生を願って手を合わせたのである。

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家隆塚(かりゅうづか)として親しまれている。現在、夕陽はビル街の中に沈んでいくが、この高台からの美しさは当時も今も、変わりはない。

家隆が夕陽庵で過ごしたのは僅か一年。
夕陽に向かって念仏を唱えた晩年の日々は、
家隆の生涯でも充実したひとときであったに違いないでしょう。

Posted at 04:09 | この記事のURL
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なにわ夢便り(25) どんどろ大師・善福寺 [2006/07/06 ]
「巡礼に ごほうしゃー」
ご存知!『傾城阿波の鳴門』[順礼歌の段・どんどろ大師の境内]

阿波徳島の玉木家の家来十郎兵衛とお弓夫婦は、主人のために金策に奔走、名を変え盗賊に身をやつし、大阪玉造に住んでいる。
ある日お弓は、どんどろ大師に参詣し、そこで一人の巡礼の子供に逢う。
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大阪夏の陣の戦死者を弔う為に開創。摂津八十八ヶ所第十一番札所

「そなた、国はどこじゃえ」と聞くと、阿波の徳島で、かかさんに会いたいゆえ、西国巡礼していると答えます。

「そなたのととさんの名は何というぞいな?」
「アーイー ととさんの名は阿波の十郎兵衛。」
「してして、かかさんの名は?」
「アーイー、 お弓とー申します。」
聞いてびっくり、お弓は、その子が徳島に残してきた我が子だと気付く。

《〜見れば見るほど 幼な顔 見覚えある額のホクロ ヤレ 我が子とか 懐かしやと言わんとせしが…まて しばし。夫婦は今も 取られる命 親子と言えば この子 どんな憂き目がかかるやら。名乗らでこのまま帰さんと 心しずめ よそよそしく〜》
 
すぐにでも自分が母親だと名乗りたいが、自分達が犯罪者である以上、子に災難が及ぶと思いそれができない。
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地蔵としては珍しく剣を持った勝軍地蔵尊がある。日露戦争の折の戦病死者の慰霊のために建立された。

「どこの宿にも泊めてはくれず 野に寝たり 山に寝たり 人の軒の下に寝ては 叩かれたり・・・恐いことや、悲しいこと ととさんやかかさんと一緒なら こんな目に遭うまいもの。どこにどうしていやさやんす。会いたいことじゃ 会いたいわいなあー。」

と泣く娘を見て、胸が張り裂ける思いだが、涙をのんで別れるお弓。
ここに《〜ちちははの、恵みも深き、粉河寺…〜》のご詠歌が浄瑠璃で入るや、お弓はとうとう堪えきれなくなり、泣きながら娘を追って走り出す。
いたいけで哀れなおつると、我が子を思うお弓の心情に、誰しも思わず涙してしまいます。
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大阪城代を務めていた土井氏が奉祀していた弘法大師を移してきたので、「土井殿の大師(どいしのだいし)」がどんどろ大師に転訛した

6歳の6月6日に始めた日舞の初舞台がおつる役。
踊りのおさらいは出来ているのに、独特のセルフ回しが言えず、
お師匠さんに何度も口移しで教えられたのを覚えています。

Posted at 06:41 | この記事のURL
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なにわ夢便り(24) 『愛染かつら』の愛染堂 [2006/06/29 ]
花も 嵐も 踏み越えて 行くが 男の 生きる道〜♪
川口松太郎氏がこの近くに住んでいて、彼の代表作で映画化もされた『愛染かつら』。その縁結びの霊木があることでも有名な愛染堂勝鬘院(地下鉄・四天王寺)。
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桂の木(男)に絡み付いたかずら(女)。この状態ではお互いの木が枯れ易いのに、どちらも生き々している。樹齢数百年。右の赤い屋根の上に花が落ちていた。松竹映画撮影記念立て札は反対側に。

歴史は古く…西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子が、敬田院、施薬院、寮病院、悲田院からなる四天王寺を建立。
その中の施薬院はあらゆる薬草を植え、病に応じて全ての人に与えられるようにと現在の愛染堂の場所に建立されました。我が国の社会福祉事業発祥の地。
金堂の御本尊が愛染明王であるため、愛染堂と言われるようになりました。
祭りの日には御本尊が御開帳され、大法要がとり行われます。
多宝塔は、市内最古の建造物で、重要文化財に指定されています。
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多宝塔に参拝中のお人が。この辺は市内一の高台で太古から夕陽の名所。

愛染祭りの当日はちょうど色街の大紋日にあたり、北新地・今里新地の芸妓さん達が盛装して駕籠に乗り参詣。これが「宝恵駕籠(ほえかご)」の起源となり、芸妓さんや役者さん達が競って提灯を奉納し、祭りのシンボルとなっています。
郷土の習わしとして、浪速のいとはん(お嬢さん)達は、夏のさきがけの愛染祭りの日に浴衣をおろします。(別名浴衣祭り。又梅雨の時期にあたり、『愛染パラパラ』といってこの日の雨に濡れた男女は結ばれます)
593年に聖徳太子が開いた日本最古の夏祭りとして知られています。

愛染さんじゃ、ほぉ・えっ・かぁ〜・ごっ♪
べっぴんさんじゃ、ほぉ・えっ・かぁ〜・ごっ♪
商売繁盛、ほぉ・えっ・かぁ〜・ごっ♪

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大阪の夏は、あいぜんさん(6/30〜7/2)に始まり、てんじんさん(天満宮・7/24〜25)でクライマックスを迎え、すみよっさん(住吉神社・7/30〜8/1)で終る、これ、なにわっ子の常識!
その間アチコチで毎日のように大小のお祭りがあります〜。
そしてこの時期、大阪の食卓に欠かせないのが鱧。
鱧と祭り囃子(ついで?に高校野球)で大阪の夏は益々暑くなります!
夏祭りが終ると、PLや淀川の大花火大会、四天王寺の千日詣と盂蘭盆会、それに各所で地蔵盆・盆踊りが行われます〜。

真夏生まれのひまわり娘(?)〜、私の季節の火蓋が切られます〜♪

Posted at 02:58 | この記事のURL
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(23)真田山陸軍墓地(U) [2006/06/15 ]
身分によってのお墓の違いが分るよう、写真掲載しておきます。
14807_o.JPG

少し上の位の墓標 
前回のブログの墓標と比べて下さい 台座があります

14808_o.JPG

より上の位の墓標 普通のお墓の形式です
左手に見えるのは、遺骨4万3000余柱を納めた霊堂(納骨堂)

14809_o.JPG

位の高い人の墓地
1つ1つのお墓に距離が取ってあり、あちこちに点在しています
この奥に墓地最大の墓・陸軍少将今井兼利の墓碑ありますが、お参りの人がいてNGでした。(天保四年(1835)生まれ、鹿児島県士族にして、戊辰戦争・西南戦争に従軍、勲四等に叙せられ、大佐、陸軍少将を経て戸山学校長・第7旅団長を歴任し、明治23年(1890)病没した) 

他に日露戦争戦病没者合葬墓碑、満州事変戦病没将兵合葬墓碑、破損墓碑塚、南河内郡野田村遺族会建立墓碑等が建っています。 

みおつくし 帰らぬ戦友の 多きかな いくさの庭に 出で行きしまま
     大阪の地より出征された英霊に捧げる 篠塚捷夫(碑文より)

(『みおつくし』は昔、難波江の浅瀬に建てられていた水路の標識で、
大阪の掛詞・枕詞であり、市章にもなっています)

Posted at 15:28 | この記事のURL
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