明治時代。文明開化で欧米の文物が一気に日本へ流れ込んだとき、その受け入れの窓口となったのは大学だった。スポーツも例外ではない。まず学生が、欧米から伝播したスポーツと取り組んだ。そして全国の高等学校、中学校へと広がった。
そこで、ボタンの掛け違いが起こった。スポーツと体育が混同されてしまったのだ。
教育機関で行われる身体運動は、すべて体育のはずである。知育徳育と並び、若者や子供たちの身体を鍛える体育は、教育に欠かせない。その身体を鍛えるひとつの手段としてスポーツ競技が用いられることもある。
しかし、そこで行われるスポーツ競技はあくまでも体育(教育)で、どれほど高度な技量を身につけた選手が現れようと、当然アマチュアの領域にとどまる。
体育は教育の一環として指導者から命じられ、心身を成長させるために強制的に行わされる。一方スポーツは、誰からも強制されず、自ら好んで自主的に取り組む。そして高度な技量を身につけたスポーツマンは、入場料を取って観客に「見せる」こともできるようになり、必然的にプロになる。
それは年齢を問われない。ピアニストやヴァイオリニスト、バレリーナ、子役の俳優や歌手やタレントなどで、プロとして活躍する小中学生や高校生が存在するのと同じである。
以上のシンプルな原理を頭に入れておきさえすれば、高校野球甲子園大会の矛盾や問題点がすべて理解できる。要するに高校野球は、体育を行うべき高等学校という教育機関で、スポーツを行っているのだ。
明治時代にスポーツを行う場(地域のスポーツクラブやプロのスポーツクラブの下部組織)が存在せず、また、その必要性も認識されず、スポーツが体育と混同されたまま大学や高校、中学で野球が行われるようになり、なかでも見る人(観客)の人気を得るようになった高校野球は、必然的に興行化(プロ化)し、莫大な利益を生み出すようになった。
週刊誌等の報道によると、日本高等学校野球連盟(高野連)は、常に年間約8千万円の黒字を出し、甲子園に出場した高校は、少子化社会のなかで入学希望者が押し寄せるという。
この利益の源泉は、高校野球が(高野連が建前として主張しているとおり)高校教育の一環として(すなわち体育として)存在していることに由来する。つまり、高校球児はアマチュアだから、どれだけ彼らが観客を集めようとノーギャラで済むのだ。
開会式や閉会式での吹奏楽その他のイベント要員も同じ。審判は高校生の「教育(体育)」を指導するヴォランティア。その結果、甲子園大会と同規模のイベントをプロの興行として行うには莫大な経費がかかるが、高校生の課外活動の行事だからギャランティが派生せず、きわめて安価な経費で運営することができる。そして、高野連や学校が利益を得ることになる。
利益が生じるなら、経費をかける動きも生まれ、甲子園出場を目指す学校は有能な監督や選手をスカウトする。才能ある選手を紹介斡旋するスカウトも暗躍するようになる。もちろんそれには経費(カネ)がかかる。
スポーツクラブでスポーツを行いプロとして認められれば、カネが動くのは当然で、誰にも咎められることなく「表金」となる。たとえばヨーロッパや中南米のサッカークラブでは、子供のころから将来有望と目された選手は、クラブがプロ契約して「パス」(契約権)を所有する。選手は代理人(マネジャー)を立てて高い契約金を得ようとする。代理人はマネジメント料を獲得するため選手を高く売ろうとする。もちろん、すべてはプロの契約として「表金」で行われる。
が、高校野球の建前は体育(アマチュア)だから、まったく同様のカネがすべて「裏金」として動く(大学も社会人野球も似たようなものである)。あるいは奨学金という美名の裏に隠される。
さらに、プロ野球のスカウトたちも動く。将来有望と思われる選手、甲子園大会で活躍した選手、人気選手などを自球団に獲得するため、「栄養費」の名目で在学中から「裏金」を渡す。野球部の部長や監督にもカネが渡る。本来プロ野球が育てるべき「ユース」の選手たちを、高等学校という教育機関が代わって行ってくれているのだから。かくて高校野球には偽善がはびこる。あとは、悪循環である。
甲子園大会の人気が高まれば高まるほど、高等学校という教育機関は「利益」を求めて「裏金」を使うようになる。スポーツ推薦入学の奨学金制度が認められないなら、学校経営を支援する財団法人や宗教法人から「奨学金」を出せば、問題ない(誰も非難できない)。
甲子園大会が高い人気を保持する限り(出場校に利益を生む限り)、プロもどきのスカウト合戦はなくならず、隠された存在だけにプロの「表金」よりも悪辣ともいえる「裏金」の動きもなくならない。
そもそも高校生の課外活動に過ぎない高校野球を、全国ネットでテレビ中継するなど、メディアが大々的に報じること自体が間違っているのだ。が、メディアは、体育(教育)から逸脱してスポーツ化(プロ化)した高校野球(及び他の学校スポーツ)を批判するどころか、自ら主催者となってスポーツ化したイベントを盛りあげ、新聞の販売やテレビ視聴率の獲得に狂奔している。
メディアはジャーナリズムの役割を放棄し、「裏金」には見て見ぬふりをし、汗と涙の甲子園を美化し、さらに人気を煽り(プロ化を推進し)、悪循環は加速される。
今すぐ甲子園大会をなくすのは不可能だろう。が、こんな偽善が今後何十年続けられるのか? 真夏の炎天下の甲子園で、若い高校球児を燃え尽きさせ、多くの日本人を熱狂に巻き込み、「大人」が隠れた利益を得る。
そのような反スポーツ的な構造(公正なルールに則らない行為を生む構造)を解体するには、まず誰もが、体育とスポーツの違いをはっきりと認識しなければならない。そして高校生によるアマチュアの課外活動(体育)としての質素な(インターハイと同レベルの)野球大会と、スポーツクラブによるプロを目指すプレイヤーによるユースの野球大会…という「棲み分け」が必要であることに、気づかなければならない。
もっとも、そのような正論を主張すべきジャーナリズム(メディア)は、既得権益を守るために、高校野球(や他の高校スポーツ)があたかも「正しいスポーツ大会」として存在しているかのごときキャンペーンを続けている。そうである限り、いったいいつになったら日本の野球界が正しい構造を持ち、真っ当な発展を開始するのか、想像すらできない。
明治初期にボタンの掛け違えをして以来約120年。そのネジレを戻すには同じ年月がかかるのだろうか?
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