特派員・記者からの多事争論

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[51] 「戦争ごっこ」

投稿者
TBS政治部米田浩一郎
投稿日
2009/4/2 11:13

 政府は、国会内で安全保障会議を開いて、北朝鮮が発射した「飛翔体」が、日本の領土に落下する際、ミサイル防衛システムで迎撃することを決めた。防衛大臣からは、初めて破壊措置命令が発令された。同じ日、国民への周知を徹底するという麻生首相の意向のもと、官邸ではメディアに対する大々的なブリーフィングも行われた。説明官と記者のあいだでは「発射情報はどの段階で?」「着弾可能性は事前に伝えられるのか」などなど、白熱したやりとりが繰り広げられた。

 ここに至るまでも、麻生首相や政府高官は「たとえ衛星であっても許されない」「国民の生命安全はいかなることがあっても守る」というメッセージを繰り返し発信してきた。実際に起きるであろう事態は、98年にテポドンが日本上空を通過した際に経験したこととおそらく変わらない(実のところ、誰も経験を覚知せぬうちに、それは起こり、終わった)。違いは、北朝鮮が「来月4-8日に発射する」と事前通告したことだけだ。どんな国でも、有事には政治の求心力が高まる。政府には、この事態を積極的にアナウンスをすることで国民の危機意識を高めつつ、同時に国難に毅然と対峙する政権の主導力をアピールしようという思惑があるように見える。本来なら、彼の国に対して自制を求める姿勢こそが対応の軸であるはずが、いつの間にか迎撃の構えの方に力点が置かれるようになる。
 しかし、こうした勇ましい構えの隠しがたいハリボテ感は、政府筋とされる人物が迎撃ミサイルについて「ピストルでピストルは撃ち落とせない」などと発言したことにも如実に表れている。そこには、実際に迎撃に至ることはあるまい、との弛緩した姿勢が透けて見える。もっと悪く言えば、どうせ空騒ぎなんだから、いくら騒いでも現実に煮え湯を呑まされることはない、というタカ括りさえありそうだ。もし北朝鮮に真に攻撃企図があれば、より完成度の高い中短距離ミサイルが撃ち込まれる可能性もありそうだが、今回の想定にはそれは含まれていないし、その危険についての国民への周知もない。政府自らが説明するように、あくまで「人工衛星打ち上げの意図せざる失敗に伴う極めて確率の低い事故」を想定したものに過ぎない。実際、政府関係者からは「落ちてくる隕石に備えるようなようなもの」との声さえ聞いた。事態の実相と、拡声されたアナウンスとの間には大きなギャップがあるのだ。
 政府だけではない。この間、テレビはイージス艦やパトリオットミサイルなど、モノモノしい映像を繰り返し流しているし、CGを駆使しての迎撃シミュレーションにも余念がない。そんなこともあってか、世間にはあたかも北朝鮮がミサイル攻撃を仕掛けてくることが決まっているかの如く受け止めている人も少なからずいるようで、記者である私は「どこに避難すれば安全か」などと問われたりもする。当該地域とされる、秋田、岩手あたりではなおのこと不安感も膨らんでいるのだろう。あたかも「有事」がすぐそこに迫っているかのように。実際、政府もマスコミも、この出来事に乗じて、気分は有事とばかりに、国民保護の一大予行演習を行っているようにさえ見える。
 我々、ニュースを伝える側から言えば、事態のほんとうのサイズを超えて、過剰に危機感を煽るような報道を行うべきでないことは言うまでもないし、あたかも高い確率で迎撃が行われる(即ち日本に落下する)かのように、不穏な映像を垂れ流すことも避けるべきだ。すでに米韓なども日本の過剰とも見える対応に冷ややかな姿勢を示している。メディアも、政府自らが「落ちてくることはまずない」とも言う、そちらのニュアンスこそ、まずもって周知すべきだと思われる。

 いま、目の前で起きていることが壮大な“空騒ぎ”に終わることを、もちろん願う。しかしその渦中あって感じるのは、ひとたび有事が叫ばれれば、国民は一丸となって目前の危機と対峙せねばならない、という空気が一瞬にして醸成され、その大きな潮流に個々が疑義を唱えることはとても難しくなるのだろうという予感だ。国民保護の大義名分のもと国家がメディアの自律性を剥奪することなどは如何にも容易で、仮にそうした事態が起こっても、メディアの内側からも受け手である市民の側からも、抵抗と呼べる抵抗など立ち上がらないのではないか。そのような無力感を私自身がいま感じること自体が、根源的な抵抗力が自らの裡にあって既に損なわれつつあることの証左ではないかと、懼れる。

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