においの暗号              

 私は少年時代、いわゆる探偵小説が好きだった。江戸川乱歩の「怪人二十面相」の変装した二十面相と明智小五郎探偵とのかけひきと手に汗握るどんでん返しの面白さは今でも忘れられない。乱歩は大正12年に「二銭銅貨」を発表して世に出たが、この小説では二つに割れた二銭銅貨の中から出てきた紙に書かれた“南無阿彌陀仏”の6字からなる文字の暗号をその字の順に3字ずつ2行の配列にし、書かれた字に該当する点の位置を点字の文字として読み、解読するのであるが、その暗号解読の面白さが読者の興味をひきつけた。 さて、人間は主として言葉、文字、しぐさを通じてコミニケーションを行っているが、これらはいずれも視覚と聴覚に依存している。ところが、社会性昆虫を中心とする昆虫の世界では、化学物質であるにおいによる嗅覚(一部では味による味覚)が情報交換の主要な働きをしている場合が多いことが知られている。今回はこの“においを中心とする言葉の暗号”について、その解読を進めていきたい。
 生物相互間で信号として働く化学物質を‘信号物質’または‘情報物質’と呼び、そのうち、同じ種の間でその役割を果たすものを‘フェロモン’と言い、異なる種の間で働くものを‘アレロケミカルス’と呼んでいる。アレロケミカルスは食物以外の供給源で生物種間の活性物質となるもので、生産者と受容者のどちらに有利に働くかによって‘アロモン(生産者に有利)’、‘カイロモン(受容者に有利)’、‘シナモン(両者に有利)’、‘アプニュモン(受容者に有利な非生物や死亡生物由来の物質)’に分類されている。
 今回はその中で、各種のフェロモンとその作用が暗号解読の対象である。


1.“危険だ、皆集まり、攻撃しろ”“危険だ、逃げろ”(警報フェロモン

 アリの世界では危険を知らせる警報はどのようにして仲間に伝えられるのだろうか。ある集団の中の1匹のアリが敵の攻撃を受けたり、巣の一部が壊されたりして危険を感じて興奮すると、この興奮の波はすぐに集団の中に広がっていく。彼らは触角を激しく動かし、頭をひんぱんに突き上げながらぐるぐると歩きまわる。これは興奮した個体の口の近くにある‘大あご腺’から発せられるにおいによるものであることが分かった。おもしろいことに、このにおいの濃度によってアリの反応の仕方が違い、薄い場合はにおいの発生源に集まるだけだが、濃くなると発生源に対して攻撃を加えるようになるという。このようなにおいを‘警報フェロモン’と呼んでいる。
 ところが、クマアリという種類のアリではこの警報フェロモンは尻のそばの‘デュフォー腺’から出され、警報発生源に対して集まるのでなく、これから逃げようとする行動を示す。この逃げ出す行動はルリアリという種類のアリでも見られ、そのフェロモンは肛門腺から出される。巣の外にいる働きアリがこれを感ずるとそこに寄ってくるが、巣の中で感ずると、多くの働きアリは巣から出てくるばかりでなく、蛹を運び出すアリも見られ、コロニー全体の逃避行動を誘発するようである。
 このように、警報フェロモンにより集まるか、逃げるかのいずれかの行動が起きるが、それは信号を受け取る個体の環境によって異なる。フタフシアリ科のアリでは、行列をつくって行進している状態では警報フェロモンにより一部の個体が集合し、攻撃性を示すが、巣の中や食物に群がっている状態では興奮して分散する行動を示す。また、収穫アリの一種では反応するのは巣の中の働きアリだけで、収穫行動中のアリはほとんど反応しない。 仲間に危険を知らせる警報フェロモンはもともと敵の攻撃から身を守る防衛物質に由来しているようである。つまり、敵に攻撃されて出す毒素である防衛物質が同時に仲間への危険信号としての警報フェロモンの役割を果す場合が多いようである。アリの警報フェロモンの成分の蟻酸などがその例である。

2.“こちらだ、餌があるぞ”“こちらだ、仕事があるぞ”道しるべフェロモン

 山に行って沢のぼりなどの岩がごろごろした道を進むと、あちこちの岩にペンキで赤や黄色で道しるべの印が付けてある。これがないと道に迷ったり、浮石に乗ったりして危険である。アリでは犬などと同じように、においが道しるべとなる。アリがぞろぞろ行列して同じ道をはみ出さずに歩くのはこの‘道しるべフェロモン’のためである。餌を見つけた働きアリはお尻の近くから分泌物を地面に出しながら帰って来る。他のアリはこれを逆にたどって餌を発見し、これを運んで帰りながら、また道しるべをつける。
 餌場を頻繁に変えるアリではこのフェロモンは揮発性が高く、数分間で消えてしまうが、ハキリアリのように餌場が長時間にわたって一定の場合にはそのにおいはかなり長持ちするという。つまり、それぞれの生態に適した物理化学的性質を持つフェロモンを巧みに利用していることがわかる。
 大部分のアリのこのフェロモンの分泌部位は腹部末端つまり、尻であるが、フタフシアリ科ではうしろ脚にある分泌腺から分泌され、足跡のにおいそのものが道しるべとなっている。また、この道しるべ物質は種によって皆違うわけではなく、同じ物質の場合もあり、ある種のクマアリではある種のルリアリの道しるべのにおいをちゃっかり利用して食物集めをやっているという。
 以上はアリの場合で、歩く道筋に沿って道しるべフェロモンを続けて分泌していくのであるが、熱帯降雨林に住むハリナシバチは餌場を見つけると、巣への帰り道の要所要所の木や石などに道しるべをつけていく。まさに、登山ルートの道しるべと同じである。これは大あご腺から分泌されるにおい物質で、分泌量が多く、その近くに行くと人間にもそのにおいが感じられるという。餌場が近いほど道しるべは頻繁につけられており、巣に近いほどその間隔は広くなる。熱帯降雨林に住むハチにとっては、この道しるべのつけ方は高い木の上にある花へも立体的につけることができて合理的である。
 興味あることに、道しるべフェロモンと前に述べた警報フェロモンの化学物質の構造はほとんど共通していて、同じような物質であることが分かった。その共通の暗号は“仲間を集める”あるいは“仲間の注意をひく”ということである。ハリナシバチの大あご腺から分泌される道しるべフェロモンに含まれるにおい物質はミツバチの働きバチのナサノフ腺からも発見され、仲間を誘引する作用を持つことが分かっている。
 シロアリでは尻の近くの腹板腺から道しるべフェロモンが分泌され、巣の一部が破られたときに警戒信号を兼ねて、仲間を呼び集めるためにこれを分泌して歩き回り、仲間はこれをたどって破壊された巣の一部を修理するために集まってくる。ある種のシロアリではこの分泌腺から出されるものは、幼虫期には道しるべフェロモンとして作用するが、成虫期には性フェロモンとして働き、雌からのものは雄を、雄からのものは雌を誘引することが分かっている。シロアリの道しるべフェロモンはその食べ物となる植物の中に含まれている物質と同じ場合もあると報告されている。それが食物に由来するのか、シロアリ自体が生合成するものかはまだ不明だという。

3.“一緒に揃って大きくなろう”“集まって一緒に餌を襲おう”集合フェロモン

  ハチやアリなどの社会性昆虫は同種の個体が集まり巣を中心に集団社会を作る。これは集合の典型的なものだが、社会性昆虫でなくても同種個体がある特定の場所に集まることはよく見られる。この集合に関係するものを‘集合フェロモン’という。
 動物に寄生するダニの一種では、雌は雄を誘引するフェロモンを分泌するが、雄も雌雄ともに誘引するフェロモンを出している。かれらはこれを小顋肢(小あごひげ)で感ずる。このフェロモンはダニに適した食べものの位置に多数の個体を集める役割を果たすという。 チャバネゴキブリでは直腸内壁から分泌されたフェロモンが糞とともに排出され、その働きで集合が起こるが、集合した個体は単独に比べて発育速度が速まり、斉一になり、雄と雌の生殖活動を同調させるという大きな働きをする。別の種類のゴキブリでは集合フェロモンは大あご腺から分泌される。
 樹木の幹や枝に食入するキクイムシは森林の大害虫であるが、越冬場所を飛び立った成虫は寄生植物を求めて分散する。生活に適した寄生植物を見つけて食入した個体は集合フェロモンを放出して仲間を呼び寄せ、その樹木に対して集中的な攻撃を加える。
 松柏類を攻撃するキクイムシには2種類あって、一方の種類は雄が風や雪などで折れた枝や病害虫で弱った木を選んで食入する。食入した雄は結婚に備え小部屋を作り、多量の木くずと糞を孔道の入口から外へ排出する。このにおいにひかれて同種の雌雄が集まる。一夫多妻性で、雄は数匹の雌と交尾し、それぞれ雌は定着して産卵する。この種のフェロモンは限られた寄生植物を有効に利用するとともに、交尾のための雌雄の出会いをもたらすという二つの機能を持つ。他の種類は正常の状態の樹木を寄主とするものだが、当初は樹木からの樹脂の流出で思うようにいかない。そこで、最初に来た開拓者は集合フェロモンを放出する。これにより、できるだけ多くの仲間を呼び集めて集中攻撃をかけ、樹木の樹脂の抵抗性に打ち勝つのである。これらのフェロモンは消化管で生産されると推定されているが、その生産に微生物が関与している可能性も否定できないという。 

4.“こちらにおいで、恋を語ろう”性フェロモン

 昆虫の雌と雄が出会い、交尾するまでの行動の中で、どちらかが分泌・放出するにおい物質である‘性フェロモン’の働きは極めて大きい。通常は雌が雄を誘引するためにフェロモンを放出する場合が多いが、雄が雌に近づいた段階で、雄が性フェロモンを分泌する例もあり、この場合、雌をその気にさせる機能を持つ物質で、‘催淫物質’という変な名前が付けられている。しかし、この配偶行動はにおいだけが唯一の「言葉」ではなく、その色や鳴き声も補助的な役割を果たす場合が多いという。
 性フェロモンはそれぞれの種に特異的である点が特徴で、蛾の仲間では雌がこれを放出する時は尻にある分泌腺を突出する「魅惑の姿勢」がとられる。これを止めると誘引性も消えてしまう。性フェロモンは単一の化合物の場合もあるが、複数成分が混合されて初めてフェロモンとしての働きを持つ場合が一般的である。

5.“ここに一緒に産卵しよう”“ここには産むな”産卵誘引・産卵抑制フェロモン) 

植物を食べる昆虫は、その寄主となる植物に産卵する場合が多いが、それは寄主となる植物に含まれる化学物質を手掛かりに行われる。しかし、ある種の昆虫では、産卵に当たり同種の仲間からの化学的情報を利用する場合がある。よく知れているのは蚊の場合で、イエカやヤブカでは一度産卵した水溜まりに集中的に卵を産むことが知られている。これは脂溶性の‘産卵誘引フェロモン’が産卵と同時に放出され、それが水の表面にうすい膜状に広がっているためだという。
 他の幼虫に寄生するコマユバチやヒメバチでは産卵後、デュフォー腺から炭化水素の分泌物を出して“産卵ずみ”のマークを付ける。これが‘産卵抑制フェロモン’である。数匹の雌による産卵が行われると、これによって以後、同種雌の産卵は抑制され、過寄生状態が避けられる。なお、この産卵抑制フェロモンは水溶性の味覚物質の場合もあるという。 貯蔵穀物の害虫スジコナマダラメイガの発育速度は一定の生息密度のときにもっとも速く、密度が高すぎても低すぎても遅延する。幼虫同士が出会うと、大あご腺からフェロモンを分泌し、それがその場所に付着する。他の幼虫はそれを感知し、その量が少ないと集まり、多いと避けて、これが好適密度の維持に大きな役割を果たしているという。

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