(2006年12月05日)Dogma_and_prejudice:「中国残留孤児兵庫訴訟」と「拉致問題」(Web魚拓)
目次
1.上田氏へ、無断での全文転載はやめて下さい。
2.きこり氏へ、コメントの改竄はやめて下さい。
3.上田氏へ、改竄された内容を基に判断しないで下さい。
4.当blogを引用する際のお願い(12月12日追記)
5.その後の「Dogma_and_prejudice」(12月19日追記)
1.上田氏へ、無断での全文転載はやめて下さい。
先ず、同blogでは後段において“参考”と称して、拙エントリーの追記前の全文について当方への許可なく掲載している。必要箇所のみの引用ではなく、全文転載である。拙エントリーには、新聞社の記事のように掲載期間が短いという事情もなければ、全文転載を依頼したという事情もなく、短文エントリーゆえに全文引用以外に方法がないという事情もない。仮に、引用元(つまり拙エントリー)の消失を危惧するのであれば、Web魚拓というサービスがネット上には存在するので、そちらを利用すれば事足りる。にもかかわらず、「Dogma_and_prejudice」の上田氏は全文を掲載するという手法を採用している。
拙日記では引用に関する注意は、これまで特に行ってこなかった。ネット上の善意と一般的な倫理観に任せていた。法は社会規範の最低限であり、わざわざ著作権法云々を言うよりも個々人の道徳観や倫理観に任せるのが穏当であろうと思っていたからである。私は無断リンク禁止論者ではない。私の文章に関して言えば、引用もリンクも基本的には自由である。だが、他者の文章に言及する際には、最低限の節度は必要であろうとも考える。今回、とりわけ愛国者・憂国者を自認しているであろう人達をして、この程度の道徳観・倫理観であったことには少なからず驚かされた。
また、上田氏は中国残留孤児兵庫訴訟に関して、拙エントリーを全文掲載しながらも、彼のエントリーの内容はblog『話の花束』の管理人ぴろん氏への批判に終始している。いわゆる“ヲチ”エントリーというものである。上田氏が自身のblogで何を書こうが彼の自由ではあるが、引用に関する最低限のマナーさえ無い上に、元中国残留孤児の自立支援策という国家政策に関わる問題に直面しても、意見を異にする一ブロガーの“ヲチ”しか出来ていないのだから、読み手の印象としては空虚さしか残らない。
但し、上田氏の名誉のために一言付け加えるならば、彼のコメント欄における文章からは、小異を捨ててでも同胞を救おうという思いが幾らか読み取れる(尤も、この点は後に全て撤回されるが)。その点で次に挙げるきこり氏とは一線を画する。上田氏には、きこり氏との対話によって言を左右させる前に、判決要旨を一読することをオススメする。
なお、拉致被害者が引き合いに出されるのは、帰国された拉致被害者に対する国家政策が、同胞救出「後」の自立支援策のモデルケースになり得るからである。引き合いに出される拉致被害者が酷だと思うなら、引き合いに出させないためにもその他の在外同胞に対する帰国「後」の自立支援策等も充実せよと、我々の政府に求めるのが筋である。帰国「後」の拉致被害者への対応は、その他の事例においても参照されるほど意義のあるものだということを理解すべきであろう。だからこそ、拉致問題は他に類例を見ないほど重要な問題なのではないか。
2.きこり氏へ、コメントの改竄はやめて下さい。
次に、きこり氏の行ったコメント改竄について書く。詳しい内容は先方で確認して頂きたいが、一先ず、下記の「Dogma_and_prejudice」コメント欄における同氏のコメントから引用する。
そもそも、このsokという人の「戦中の被害は日本人全てが等しく蒙ったもので請求権はないが、孤児は戦後も取り残されるという被害を受け続けたのだから、その分の保障を受ける権利がある」という論理には首を傾げざるを得ません。(なかつか氏のHP掲示板コメントより)日本の不作為だけを責めるのはおかしいし、戦前と戦後の被害を一様に区分け出来るものなのか。
この後のきこり氏の文章は、ぴろん氏批判へと流れるが、その点については措く。同コメントの中には、原因における「中国残留孤児問題」と「拉致問題」の違いにばかり目を向けて、帰国「後」の政策という視点を完全に無視する内容もあり、この点は原告批判の典型例である。この種の原告批判に関しては、先のエントリーに反論を追記したので繰り返しになるから今回は触れない。そちらを参照して頂きたい。
本題に入る。文中の「なかつか氏」というのは、エンピツ日記で時事問題をあつかっている名塚元哉氏のことだと思われる。他者のハンドルネームを、わざわざ平仮名に開いてから間違えてみせる点に、きこり氏の性質を読み取ることも出来そうだが、その件についても今は措く。ここで取り上げられた名塚掲示板における拙コメントは、遊弦氏のコメントへのレスであるが、そのレスはきこり氏が曲解したような内容ではない。私の文章が勝手に改竄され、それを元に何かを議論されるのは甚だ迷惑な話であるので、名塚掲示板に寄せた拙コメントの関連箇所を掲載する。その際、対応する遊弦氏のコメントがなければ文意が伝わらないので、これについても引用する。
No.4550 RE:何ゆえの「損害賠償」か。 投稿者:遊弦 投稿日:2006/12/04(Mon) 05:19
先ず、日本が残留孤児を放置していたのでは無く、中国が帰国を認めなかったという事実を認識して頂きたいと思います。
中国の残留孤児の帰国事業は、田中角栄の中国国交回復により、始まった訳ですが作業は中国指導で行われていたと記憶しています。
私事ですが、我が家は樺太からの引き上げ家族でありますが、当然全員が帰国出来たわけでもありません。
また、戦中の貴金属の放出についても返還をして貰っていません。
移民事業ではありませんが、苦労無しで生活が確立出来たというわけでも、勿論、ありません。
しかし、国に損害賠償請求はしておりません。
考えるに、これらは南京虐殺を言い立てた「中帰連」と同根ではないかと愚考する次第です。
No.4570 RE:何ゆえの「損害賠償」か。 投稿者:sok 投稿日:2006/12/05(Tue) 00:06
>遊弦様
本件の主な論点は、日中国交正常化後の(1)残留孤児の日本入国時における帰国制限措置の妥当性(2)日本での自立支援策が適切であったか否か、です。日中国交正常化「後」というのがポイントで、歴史認識や戦争責任といった問題の入る余地のない戦「後」行政の不手際の問題です。
よって、貴方の御家族にまつわる戦前の事情や戦中の貴金属放出という事柄は、不幸なことかもしれませんが、国民が等しく受忍しなければならない損害で、他方、元中国残留孤児の方々の訴えは戦争損害論の該当しない戦後行政の不手際の問題ということです。勿論、原告やその御家族も国民が等しく受忍しなければならない戦争損害は被っています。その部分に関する補償は、彼らも受けられません。「その上、さらに」という話なのです。
※比較のため強調しておく。
遊弦氏が何を根拠に「中帰連」と同根と「愚考」されたのかは不明である。上記のやり取りからは、“戦「後」に起因する行政上の不備についてまで国家無答責論を当て嵌めようとする主張”を私が批判していることは理解して頂けるであろう。きこり氏には、都合良くコメントを改竄するのは止めて頂きたい。彼の解釈が如何に杜撰であるか確認するため、もう一度だけ彼の文章を引用しておく。
そもそも、このsokという人の「戦中の被害は日本人全てが等しく蒙ったもので請求権はないが、孤児は戦後も取り残されるという被害を受け続けたのだから、その分の保障を受ける権利がある」という論理には首を傾げざるを得ません。(なかつか氏のHP掲示板コメントより)日本の不作為だけを責めるのはおかしいし、戦前と戦後の被害を一様に区分け出来るものなのか。
※比較のため強調しておく。
大体、訴訟という形式を取る以上、原告が被告を相手取るのは当然であり、戦「後」行政の不手際に起因する訴訟について、一々、歴史認識問題を決着させなければ請求内容に立ち入れないとなると(そして、そのような決着は異議を唱えるものが左右の陣営にそれぞれ存在する以上は不可能であるから)、事実上、原告救済の途が閉ざされることになる。
3.上田氏へ、改竄された内容を基に判断しないで下さい。
きこり氏との対話を経て、上田氏の思考はどのように変化したのかについても見ておきたい。
きこりさん。
>日本政府の戦争責任とか不作為を強調したりするから、胡散臭く捉われるんじゃないかと。
なるほど、論の進め方に異論ありというわけですか。確かに、sokさんの論調は、殊更に、日本政府を貶めているようにも取れますね。
本件訴訟に関して「日本政府の戦争責任」などと言っている時点で、彼らは本件の争点すら理解していないと思われるが、さらに、彼ら二人にかかれば、先の拙エントリーの内容すらも「殊更に、日本政府を貶めている」ことになるらしい。あの程度の内容で「殊更に、日本政府を貶めている」ことになるならば、如何なる苦言も、それが日本政府に向かうものであれば「反日」ということにされるだろう。その場合、日本政府の失策に対しては、どう変化を促せというのだろうか。「政府様には平身低頭せよ」ということか。この点は、郵政解散で苦渋を味わった反・小泉系ブロガーこそ身に染みて感じたことではなかったのか。それとも党派的二重基準を使い分ける人物なのか。
上田氏の党派性は、次の点に表れている。彼は拙エントリーを応用して以下のように書いている。
sokさんのおっしゃるとおりに変えてみると↓、
<元はといえば〜した結果、「拉致問題」が発生したのであるから、責任は「北朝鮮」にあり、「北朝鮮」を追及すべきであり、日本政府を追及すべきではない。>
「悪いのは、金正日であり、日本政府を責めるべきではない」というマンセー系ブロガーの主張とよく似ています。
sokさんの主張から察するに、sokさんのいう「反・反日系ブロガー」というのは、「政府を批判する奴は許さん」という、私がよく批判している、「マンセー系ブロガー」と同一の集団を称する言葉なのだろうと思います。
私の言う「反・反日系ブロガー」とは、主に他律的思考によって誰かを簡単に貶める排外主義的ブロガーを指す。ゆえに、親・小泉系ブロガーだけを指すものではない。親・小泉系ブロガーの中にも、反・小泉系ブロガーの中にも該当する者はいる。都合良く自己の主張に引き寄せてもらっては困る。
結局のところ、上田氏は『「中国残留孤児」に関する前日までの発言を全て撤回する事にし』たようである。彼の思考の変遷を端的に時系列で纏めると次の通り。
1.拙エントリーへの全面同意とぴろん氏批判(2006-12-05)
2.一部同意と一部撤回(2006-12-10 04:03:58)
3.全面撤回(2006-12-11 05:01:24)
中国残留孤児問題に関する前日までの発言を全て撤回したら、彼の先のエントリーに残るのはぴろん氏批判だけである。“ヲチ”エントリーだけで国士を気取れるのならば、これほど楽なものはない。尤も、彼のエントリーを“ヲチ”として見た場合、特段、面白味のある内容ではない。恨み節だけで、機知に富むということもなく、つまらない。その上、愛国者・憂国者と思われる人物のなすべきことでもない。いずれの点からも評価に値しない。
軽々に同調者の改竄を信じて、それを基に他者を「殊更に、日本政府を貶めている」と評した上田氏こそが、私の基準では他律的思考の「反・反日系ブロガー」ということになる。
4.当blogを引用する際のお願い(12月12日追記)
a.全文転載の拒否について
私は自分の文章に責任(文責)を負う。
→文責を負うからには、自分の文章を大切にしたい。
→自分の文章を大切にしたいならば、他人の文章も大切にすべきである。
→私は特段の事情もなく、他人の文章を全文転載しない。
貴方は自分の文章に責任(文責)を負うだろう。
→文責を負うからには、自分の文章を大切にしたいと思うだろう。
→貴方が自分の文章を大切にしたいと思うならば、他人の文章も大切にすべきである。
→貴方は特段の事情もなく、他人の文章を全文転載すべきではない。
b. コメント改竄の拒否について
私は自分の文章に責任(文責)を負う。
→自分が書いてもいない内容については、私は責任を負えない。
→改竄されて当初の文意から懸け離れたものは、私が書いた文章とは言えない。
→そのような改竄された文章には、私は責任を負えない。
→私は自分の文章が改竄されて、ネット上に流通することを拒否する。
c.全文転載も已むを得ないと私が判断する特段の事情について
・新聞社のネット配信記事のように掲載期間が短い場合。
・周知を図るために相手方が全文掲載を依頼してきた場合。
・周知を図るために相手方が全文掲載を許可している場合。
・部分引用をするには文章が短い場合。
・引用元の文章が比較的短く、全文転載でなければ文意が伝わりにくいと判断した場合。
・相手に文責を負う意思が無く、謝罪や訂正を経ることなく文章の削除を繰り返した前歴がある場合。
・但し、上記のような場合においても、全文転載は限定的である方が望ましい。
・引用元エントリーの消失を危惧する場合には、先ずはWeb魚拓の利用を検討すべきである。
・上記で挙げた他に特段の事情があると判断する場合には、その事情を明示すべきである。
5.その後の「Dogma_and_prejudice」(12月19日追記)
一昨日、上田氏が問題のエントリーの本文を削除した。コメント欄は残っている。先ずは、削除に関する彼の言い分を見てみることにする。
(「考慮不足」の面が有りましたので、内容を全面削除します)
さて、非を認めたから削除したのか、「考慮不足」ゆえに削除したのか。私は彼の「考慮不足」という言い分を信じて、後者だと考える。
コメント欄の文責はきこり氏と共に負うので、コメント欄も含めて削除していないのは賢明だと思うが、本文中には削除の経緯が「考慮不足」としか記されておらず、無断の全文転載に対する言及はない。これでは無断転載の非を認めたとはいえない。きこり氏の指摘に従って彼の「考慮不足」の主張を削除したに過ぎず、結果的に無断転載の文章も一緒に削除されただけだと思われる。
また、結果的に無断全文転載の問題は解消されたにしても、その解消の仕方によって改竄された内容を基に判断する彼の別の問題点が明白になったともいえる。上田氏は判決要旨を読まずに裁判の当否について言及できる人物で(この点は本エントリーのコメント欄を参照のこと)、その上、改竄されたコメントを真に受けて積極的に行動する人でもあるということが明らかになった。
上田氏が自身の非を認められるだけの人物なら、削除後の本文かコメント欄にて何らかの言及があっただろう。或いは、多忙のために一先ずは本文を削除し、今後、何らかの言及をするのかもしれない。このまま一言の言及もなく、コメント欄でのきこり氏とのやり取りだけが残ったのでは、単に私やぴろんさんとの関係だけでなく、彼のblogの閲覧者に対しても失礼だと思う。
上田真司という人物は、特段の事情もなく他者の全文を無断で転載し、また、何らの言及もなくその全文を削除して、何事も無かったかのように振舞うブロガーなのだろうか。このままでやり過ごすつもりであれば、私の中ではそういう評価に落ち着きそうである。私の文章も、当blogに頂いたコメンターの文章も、文責放棄ブロガーの「考慮不足」のエントリーを水増しするためのものではない。
上田氏には、適切に対応されることを望む。
※題名変更(2006年12月13日)
変更前『全文転載とコメント改竄の許否について』
変更後『改竄したコメントを基に批判する人達』
※各章題も変更することにした。はっきり不快感を示さないと理解できない人もいるだろうから。
一言sokさんに断りを入れるなり、ちょっと気を使えばすむ話なのに…。
ネットは便利だと思いますが、どうも他者への礼儀をないがしろにする風潮がある気がします。
顔が見えないコミュニケーションだからこそ、最低限の礼儀は欠かせないと私は思います。
ええ、一言あれば構わないです。部分引用であれば断りも必要ありません。(1)引用元blog名(2)記事名(3)日付など、引用元を明示的に特定できるものがURLとともに書かれていれば、私に関しては、それで充分だと思います。けれど、彼らのやっていることは、私に関することだけではありません。本文では、先ず、私に関する筋を通してもらおうと思い、あのような書き方に留めましたが、彼らの非はそれだけに留まりません。
先方では先の拙エントリーにコメント頂いたぴろんさんの文章も全文転載していますが、拙コメント欄におけるぴろんさんの文章はぴろんさんに帰属するものです。れいれいさんの文章は、れいれいさんのものです。当blogの管理権限・管理責任は私にありますが、コメント欄での書き込みは第一にはそれぞれの人に帰属するものです。各コメンターは、自分の書いたコメントに文責を負うだけでなく、書き手として尊重されるべきです。
議論の上で全文転載する必要があったという事情もなく、本人に無断で全文を転載している点に悪意を感じます。彼らは私のエントリーをネタに、ぴろんさんへの陰口と粘着をやっています。中国残留孤児訴訟に関しても、実際は判決要旨を読むだけの関心もなく、読んでいないから争点すら理解できておらず、ただ鸚鵡のように「戦前と戦後を…」とか「ソ連の責任が…」とか的外れな言説を繰り返し、この訴訟をネタにぴろんさんに粘着しています。
それが愛国者・憂国者のすることなのかと思うのです。
どうも、私がこちらのBlogに書き込んだコメントの事でご迷惑をおかけしているようですみません。
予想通りとはいえ、やはり「批判のための批判」を頂戴する事態となったようです。
こういうのが嫌だから、最近の私はネット上で自説を主張する事が億劫になりつつあるのですが・・・
問題の彼らからは、これまでも何度も絡まれネタにされても参りました。
それでもこれまでは同じ拉致問題の解決を願う者同士、何とか理解をし合えないものか?と思って、私なりに精一杯拙い言葉を駆使して議論に臨みもしました。
でも、結局はこの通りなのです。
彼らはどういうわけか、私と言う存在が目障りで仕方が無いらしい。
その理由はいったい何なのか?
私にはさっぱり分からないのですけれどね。
先のsokさんのエントリーを読ませて貰った折、中国残留孤児問題と拉致問題の違いはあれど、ネット上を闊歩するいわゆる「反・反日系ブロガー」なる存在に疑問を感じていた私は、思わず賛同のコメントを書いたわけなのですが、余りにも予想通りの展開に呆れるやら驚くやら。
私には今更いちいち反論する気力も起きませんが、sokさんが丁寧な反証を試みていらっしゃることには敬意を表したいと思います。
貴方のコメントは適切であり、迷惑とは思いません。お気になさらずに。穏当なコメントを、わざわざ論う彼らこそ迷惑です。彼らが貴方の存在を目障りに思うのは彼らの自由ですが、しかし、彼らには威勢のいい主張は出来ても、貴方のように地道な作業で拉致被害者と御家族、特定失踪者と御家族を支援することは出来ません。威勢のいいことなら誰でも言えるのです。空想的な主張であれば、尚更です。
中国残留孤児問題と拉致問題に関して。この二つの問題は、当たり前のことですが別問題です。原因も時期も異なります。そんなことは原告も、裁判所も、この問題について論じる者であれば、誰だって理解していることと思います。それは、この議論における当然の前提です。その上で、何が類似していて何が異なるのか、この点を分けて議論しています。原因や時期が異なるからといって、(1)日本に帰国して以降の自立支援策に“著しい”差別取り扱いがあって良いのか(2)日中国交正常化“後”の帰国事業において“不当な”帰国制限措置が課せられて良いのか、といった事柄が問われています。詳しくは、先の拙エントリーの追記部分および判決要旨を参照して頂くとして、一例を判決要旨から引用します。
(2006年12月01日)中国残留日本人孤児訴訟 判決要旨
http://www.news-pj.net/siryou/2006/20061201-youshi.html
<引用開始>
3 具体的には,次の@ないしBは,合理的な根拠なしに残留孤児の帰国を制限する違法な行政行為というべきである。
B昭和61年10月以降,身元判明孤児について,留守家族の身元保証に代わる招へい理由書の提出,特別身元引受人による身元保証といった,入管法が求めているわけでもない手続の履践を求める措置
<引用終了>
ここで『入管法が求めているわけでもない手続の履践』を、殊更、元中国残留孤児に対して強いる措置が妥当か否かということにつき、「戦前」の事情は関係ありません。まして、「ソ連」の介入する余地などありません。それゆえ、私は彼らが争点すら理解しておらず、判決要旨を読まずに非難していると書きました。判決要旨には、元中国残留孤児達の自立支援問題を考えるにあたって、拉致問題が参考になる理由も書かれています。判決要旨の全内容に同意しなくても、そこで争点となっていることを理解した上で議論するのであれば、それは意義のあることだと思います。上田氏やきこり氏は、争点の無理解という根本的な誤りを犯しただけでなく、ぴろんさんへの粘着しか出来なかったという点で、その器の小ささが露呈する結果になりました。