last updated on 2002/4/9

東海村臨界事故私的顛末記

リンク集

−原子力開発は誰のため? 何のため?−

要約:東海村の風下50km圏に住んでいた店主は、事故から半日後の深夜、政府声明を含めた情報をもとに独自の判断で避難を決行しました。結果的には、緊迫感に溢れた避難訓練に終わりました。ほんの一歩間違えれば、「逃げて良かった」になっていた模様です。(リンク集はこのページの後半部にあります

1.茨城県に赴任して:店主は、東海村から50km南西の湿地帯に住んでいます。1989年の赴任当初から「東海村の猛毒プルトニウムがもし漏れて、そのとき北風が吹いていたら一目散に大阪以西か北陸方面に逃げるよりないな」と思っていました。あれだけの被害を出したチェルノブイリ原発事故の時ですら、猛毒プルトニウムは出ていません。そのプルトニウムを東海村ではたくさん扱っている、という知識だけはあったのです。

2.遅かった事故のしらせ〜事態の拡大:事故当日、職場では何も知らされず、夕方4時過ぎから所用でJR常磐線に乗って上京中、車内で高校生が「原発が爆発して放射能が漏れ続けているらしい」と喋っていたのが私にとっての事故の一報でした。でも、それ以外は、車内も駅も町も、なにもなかったような風情です。
 JR松戸駅で降りてまず風向きを見ました。南の風でやや安心。夕刊を買い、一瞥しながら自宅に連絡。TV報道がどうなっているかを聞き、プルトニウムが漏れたのではなくウランの関係の事故だとわかりました。何かあったら私にかまわず避難するよう家族に告げました。帰宅後、ニュースは、「中性子が1時間あたり4ミリシーベルトで、これは1年間に普通に浴びる量の4分の1程度である」などと言っている。「え?年間の4分の1が1時間に出るペースっていったら、単純に考えて通常の1万倍のオーダーじゃないの」。官房長官は「わが国危機管理史上最悪の事態」と言い出すし、さっきまで350m圏内が避難と言っていたのにもう10km圏内に拡大している。

3.考えたこと:こういう時に頼りになるのは希望や楽観や人任せよりも「およそたしからしい事実による常識的判断」です。判断の材料は以下の通り。

  1. 事故の規模と状況についての判断材料
    • プルトニウムではないから最悪ではなさそうだ。
    • しかし、どうもとてつもないことが起きている。「わが国危機管理史上最悪」との官房長官発言は、5000人以上が亡くなった阪神大震災より大きな災害であることを示唆している。日頃「臭いモノに蓋」式の政府のものの言い方としては最大級であるといえる。
    • チェルノブイリの初期報道も「作業員3人が被曝し1人が死亡」程度だったが、最終的にはウクライナだけで13万人が死んでいる(1996年4月、ウクライナ共和国厚生省の公式発表)。
    • 対策は何も進んでおらず、そもそも事故現場に誰も近づけないでいるらしい。

  2. 対策についての判断材料
    • 放射線の威力は距離の自乗に反比例して減る。
    • チェルノブイリの時、事故後1週間の風向きと降雨の地点が放射能汚染の濃度をかなり左右した。
      ※チェルノブイリ原発から放出された放射性物質は、ウクライナから北向きの高層気流に乗って北欧ラップランド地域をまず汚染してから、その後風向きが南に変わったため、ドイツを跳び越して雨の降った北イタリアが集中的に汚染されている。(10年前のNHK調査班の現地調査報道による)
    • みんなが逃げ始めてからでは遅い。交通渋滞が始まる。自分一人でも助かるものなら助かりたいし、自分の命を守れるのは結局のところ自分だけである。
4.決断:まず、中部地方の実家に連絡。明朝一番で避難もありうると伝える。次に、インターネット天気予報で風向きを調べたところ、夜半から北〜北東の風に変わるとありました。げ、北東の風なら湿地帯直撃やんか。
 で、逃げたわけです。みんなが逃げ出してパニックになってからでは遅いし、どうせ心配で寝られないのならその間、少しでも放射線源から離れた方が良い。バタバタと最小限の身支度をし、23時に自家用車で高速道路を一目散に西の方向に逃げました。高速は、何もなかったかのようにひっそりしていて、首都高速渋谷のあたりに故障車渋滞があった以外はすいていました。体調も良くなかったので無理せずゆっくり走行。静岡県内に入ったところで高速をおり、ひとまず様子を見ることにしました。このとき深夜2時半。TVが夜通し報道を続ける中、仮眠し、朝方「一応終息」の報を耳にしましたが、もう一泊して帰宅した次第。やれやれ取り越し苦労か。

5.後日談:ところが、10月10日放映の「NHKスペシャル」を見て、あらためて驚きました。「決死隊」による冷却水の除去によって臨界が終息したのも半ば偶然。コンピュータシミュレーションでは失敗する確率もあった。運が良かっただけのことです。しかも、6時15分に臨界状態が終息するまで、中性子はその勢いを減じることなく、20時間も放出し続けていた(註:この点、番組だけからは定かでないが、臨界状態の終息直前まで中性子の測定値はある一定の値を示していたのが、6時15分にガクンと落ちた、というグラフが放映された)のです。そしてそのうち半分近い時間は北風が吹いていました。

9月30日10時35分 臨界事故発生。中性子の放出始まる
9月30日23時00分 店主西行
10月1日2時30分 「決死隊」による作業開始
10月1日6時15分 中性子の放出やっと止まる

 しゃにむに逃げたのは正解だった。正解だったと今思いながら、それは「良かった」という気持ちでは全然なく、どうにもやりきれない思いにとらわれています。

6.おわりに:東海村、山陽新幹線(コンクリート落下)と、日本は次々に、まったく不幸中の幸いで最悪の大惨事だけは免れたようにみえます。少なくともプルトニウムについては、欧米では、あまりに危険なのでやめよう、ということになっているようです。スウェーデンでは、チェルノブイリ事故の被害者になる6年も前から、エネルギー政策の舵取りに関する住民投票が行われ、長期的な目標について国民的合意がえられました。原発の撤去には至っていないものの、実際、木質系エネルギーの循環利用が急速に増大しています。グローバルな民間ベースでも、エクソンのような巨大石油資本が、再生可能エネルギーの研究開発に精力的に取り組んでいる時代です。その方が長い目でみて経済的だからでしょう。
 日本では、プルトニウムの燃焼効率を上げる原材料としての濃縮ウラン製造工程で今回の事故が起きました。テクノクラートの怪しげな意思決定によってなし崩し的にハイリスク型の技術体系にどっぷり浸かってしまった日本。いつの間に国を挙げての大バクチの道に踏み込んでしまったのでしょうか。誰がこの道に同意したのでしょうか。小さな事故の積み重ねは大きな事故の序曲です。日に日にツキを浪費しているこの国には「(政府が約束を守る)民主主義」「長い目でみた経済性」「システムとしての危険回避技術」「公共的意思決定におけるリスク回避指向」といった、近代国家が国としてもつべき「かたち」はなにもなく、ひたすら破局への道を突っ走っているように思われます。


 

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