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【農は国の本なり】

第3部・バラマキの果て〔5〕 島民票束ね厚い地盤

2009年3月26日

県営農地開発事業を記念して作られた石碑。就農人口減と耕作放棄地の拡大に「農魂」の文字がむなしく映る=石川県七尾市能登島別所町で

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 初めて出た集落の役員会で手渡されたのは、自民党の入会届だった。

 「いろいろ世話になっとるから」

 石川県・能登島で、地域ごとに20ある行政区。区長に促された男性(53)は、その場で名前を書き込み、数千円の党費を支払った。「当然という雰囲気だった」と振り返る。

 2本目の農道橋が建設に向けて動きだした約20年前、島内は有権者の9割近くが自民党支持者という厚い地盤を築いていた。

 旧能登島町の元助役井上一男(73)は「選挙の時には国会議員から県議、町長、町議、そして区長へと指示が下りてきて、島民の票を引き締めるために皆が動き回った」。

 島出身の元県議長(故人)は、農道橋建設のための「期成同盟会」を結成し、島の有権者を束ねた。国会議員の選挙資金では、土建業界が「足りない、と声がかかれば仲間内で20万や30万はすぐに工面した」(元建設業者)という。

 安定した票田は、能登地方から元建設相の瓦力(71)や元国土庁長官の稲村佐近四郎(故人)、元官房長官の坂本三十次(同)ら官庁ににらみのきく政治家を次々に輩出。農道橋の予算化当時、農林水産事務次官だった県出身の石川弘(同)も、票田の恩恵で参院議員に当選した。

 1本目の橋が1982年に開通すると、先行して計画されていた農道橋には暗雲が立ち込めた。1本目に必要な融資を拠出する旧建設(現国土交通)省が「農道橋の断念」を求め、県が受け入れたためだった。

 巻き返しの経緯を、当時、町職員として期成同盟会の陳情に同行した桂撤男(70)は、こう語った。「県が農道橋を造らない、と約束したため“継続事業”としては無理。ならば“新規事業”でと計画案を練り直し、それが認められた」。どんでん返しに「政治力以外の何ものでもなかった」と振り返る。

 元県議の長(ちょう)憲二(69)は「過疎地で、いい暮らしをと願えば、政権につながる候補者を応援するのは当然」。しかし、島の将来に「民主党政権になって能登が干され、予算が付きにくくなると、過疎化の進行に歯止めがかからなくなる」と不安も募る。

 「水田」を自民党の「票田」として維持してきた集票システムは、2大政党の今後も続くのか。人口減少で票田としての魅力も乏しくなった島の耕作放棄地は、加速度的に広がっている。

  =文中敬称略

 (第3部おわり、取材班・秦融、寺本政司、福田真悟)

 

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