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日本政府の呼びかけで、パキスタンへの支援を国際的な枠組みで強めようという会議が東京で開かれた。
約50の国や国際機関が参加し、むこう2年間に50億ドル以上の援助をすることが決まった。貧困の改善や、教育・医療分野の人材育成に主に使われる。日本も約10億ドルを提供する。
隣国アフガニスタンは、9・11同時テロから7年半になるのに状況が悪化する一方だ。治安回復や経済建設には、宗教、民族、歴史などの面でつながりの深いパキスタンの安定が欠かせない。それが会議の大きな目的だ。
米国のオバマ政権が、新たなアフガン戦略の中でパキスタンを一体として扱うとしたのもそのためだ。アフガンのイスラム原理主義勢力タリバーンや国際テロ組織アルカイダは両国の国境地帯を往来し、拠点にしている。パキスタン側の協力なしには、軍事的に制圧するのも難しい。
さらに、パキスタンでも政情不安が続く。昨秋に誕生したザルダリ大統領の文民政権は、政治基盤が弱く、反対派のデモや過激派のテロに揺さぶられている。世界不況の波をかぶり、経済困難も深刻化している。ザルダリ氏の対米協調路線は、国民の反米意識を刺激しかねない危険も併せ持つ。
このままではパキスタンが混迷し、アフガン戦略も頓挫しかねない。そればかりか、核兵器を持つパキスタンがさらに不安定化することは世界にとって悪夢だ。
日本にとっては、イラクに代わってアフガニスタンにテロとの戦いの重心を移そうとしているオバマ政権を、側面から支える狙いもある。
軍事面での関与を自制する日本は、得意技とする開発援助の分野で地域の安定に貢献する。そのために国際会議を主催し、各国の利害を調整して援助をとりまとめる。こうした積極的な取り組みは、国際責任を果たしていくうえで大きな意味がある。
ただ、本当の仕事はこれからだ。
まず、巨額の支援が本当にパキスタンの安定に結びついているかどうかを厳しく検証し、国際社会の意思に沿った努力をパキスタンに促し続けることだ。支援が草の根の人々に届かず、政権の腐敗を助長するようなことになるなら、過激派や反対勢力を利することになり、かえって事態を悪くしかねない。
インドとの積年の対立を和らげる方向にも貢献したい。日本はインドやイランなど周辺の有力国とよい関係にある。安定への道のりは長いが、そのための国際環境づくりに協力すべきだ。
また、核兵器を捨て、不拡散の国際的な枠組みに加わるよう働きかけを続けなければならない。核やミサイル技術をめぐる北朝鮮との疑惑もある。そのままにすることは許されない。
3年前、奈良県で16歳の少年が自宅に放火し、母親ら3人が焼死した。この事件を題材にした単行本をめぐり、少年の精神鑑定をした医師が秘密漏示罪に問われた裁判で、奈良地裁は有罪判決を言い渡した。
刑法の秘密漏示罪は、医師や弁護士らが業務で知った秘密を正当な理由がなく漏らした責任を問う。それが適用された事件での初判断だ。
医師は鑑定の資料として持っていた少年や父親の供述調書の写しなどを、単行本の筆者らに見せた。それが罪にあたるとされた。
裁判で医師は、筆者に頼まれて調書を見せたことは認めたが、正当な目的があったと無罪を主張した。少年審判は非公開で、少年らの調書が一般に公表されることはない。「少年は広汎性発達障害で、殺意がなかったことを世間に知らせたかった」というのだ。
判決が、取材に協力する行為に「正当な理由」があるかどうかの判断基準にしたのは、取材の手段や方法に加え取材協力者の立場や目的などと、秘密の内容や漏らされる当事者の不利益との兼ね合いだ。
医師は、高度なプライバシー情報の含まれる調書を自宅で筆者らに見せた際、自身で立ち会いもせず、まるごと取材者が見るままに任せた。
そうした点をとらえ、判決は「中立的な立場で鑑定を行うべきなのに独りよがりの思惑で調書を見せた。少年の利益を図るとはいえず、プライバシーに対する配慮を欠いた軽率な行為」と指摘した。
確かに、医師の行動は鑑定人として軽率といわれても仕方ない。
だが、医師の行動が逮捕を経てただちに刑事罰を科すほどの悪質性があったのかどうかには疑問がある。少年の更生やプライバシーの保護と表現の自由という二つの価値がぶつかりあう問題だ。捜査当局の介入は慎重のうえにも慎重であるべきだった。
見逃せないのは筆者と発行元の講談社の責任だ。筆者らは調書の取り扱いについて、医師との間で「コピーせず、直接引用もしない。原稿は点検させる」との約束を交わしていた。ところが、見せてもらった調書を撮影したうえ、問題の単行本はほとんどその調書の引用だった。
少年や家族のプライバシーに踏み込みすぎたばかりか、捜査当局にたやすく情報源を割り出されてしまった。判決が「取材のモラルなどに数々の問題があった」と指摘したのは当然だ。ただ「それで直ちに取材行為が違法とするのは困難」とも述べた。報道の自由を尊重した妥当な判断である。
取材者としてのモラルを忘れた代償は大きい。筆者と講談社に、取材源を守れず、権力の介入を招いたことへの深い反省を改めて求めたい。