北欧文化協会講演要旨(2000年)

今年日本で見られる北欧映画〜三木宮彦(映画評論家)(2000年1月)
カレワラと私の留学体験〜石野裕子(津田塾大学大学院)(2000年2月)
カレヴィポエグとエストニア〜エネ・トーム(タルトウ大学大学院・津田塾大学研究生)(2000年3月)
私の北欧今昔ー40年の関わりを振り返って〜武田龍夫(元外交官・前東海大学教授)(2000年4月)
フィンランドはどのように情報社会化したか〜ユッカ・ヴィータネン(フィンランドセンター所長)(2000年5月)
デンマーク社会とキリスト教〜大谷愛人(慶応大学名誉教授)(2000年6月)
“大国の時代”のスウェーデンとバルト海世界〜古谷 大輔(東京大学大学院人文社会系研究科)(2000年9月)
北欧、鉄道旅行の楽しみ〜野田 隆(日本旅行作家協会会員)(2000年10月)
これからの北欧経済を見る視点〜磯野聡(外務事務官,外務省国際経済第一課)(2000年11月)
スウェーデンに於ける日本の工作は失敗だったか〜稲葉千晴(名城大学助教授)(2000年12月)


今年日本で見られる北欧映画〜三木宮彦(映画評論家)
2000年1月
 昨年から今年にかけて次のように北欧映画が何本も日本の銀幕に目白押しになっているが、これは最近珍しいことである。
 Celebration(デンマーク)配給:ユーロスペースTel :3461-0212(公開済み)
 Juha(フィンランド)同上
 ロッタちゃんはじめてのおつかい(スウェーデン)配給:エデン+ミラクルヴォイス
Tel:5474-1722(公開中)
 太陽の誘い(同)配給:アルシネデランTel:5467-3730(近く公開)
 ソフィーの世界(ノルウェー)配給:GAGA Pictures Tel:3589-7410(同上)
 ショー・ミー・ラヴ(スウェーデン)配給:KUZUIエンタープライズ(問い合わせは
 ポップ・プロモーションTel:5414-5626(同上)
 Mifune(デンマーク)同上(同上)
ー詳細は各配給会社へ問い合わせて下さいー
 しかしこれは偶然ではなく、北欧各国の映画がだんだん面白くなってきたからだといえる。今はスウェーデンのイングマル・ベルイマンのような独特な映像作家は現れないが、デンマークのビレ・アウグストやフィンランドのアキ・カウリスマキのような監督の作品は国際的に知られており、制作の場も世界にひろがっている。
 そうした現象の裏には、1960年代に始まった国家による自国映画産業への助成と俳優や監督・技術者などの養成が着々と実を結んでいる事実がある。演劇や映画は民族語文化として(近年はサミ語演劇.映画も奨励されている)尊重されているのである。
 テレビは一時は映画を圧迫したが、近年むしろ映画界へ新人を送り出したり、国際合作で制作費調達を進める役に立っている。
 そうはいってもマーケットは金にあかしたハリウッドの大作にやはり占領されがちだが、北欧の映画人にはデンマークの”Dogma(ドグマ)方式”のように智恵を使って競争してやろうとする意識も盛んである。
 今日ご紹介した作品(詳細は本紙上では省略)はどれも見ごたえがあるので、ぜひ見ていただきたいし、そのようにして北欧映画輸入の機会を増やし、北欧の歴史や社会問題にテーマをとった作品は目下のところ日本にはなじみが薄いが、それらもスクリーン上で見られるようになって欲しいものだ。そういう意味ではこれからがまた楽しみといえる。

カレワラと私の留学体験〜石野裕子(津田塾大学大学院)
2000年2月
 大学3年の時、たまたま目にしたICYE(国際キリスト教青年派遣)のプログラムでフィンランドへボランティア留学したことがきっかけで、カレワラを知ることになりました。フィンランドではオウル地区のハーパベシという人口8000人の町でホストファミリーの家庭に住みながら、幼稚園や小学校などでボランティア活動をしました。一年間フィンランドで生活するなかで、ほとんどの家庭にカレワラが本棚にあったこと、カレワラの話をきっかけに町の人たちと親しくなったことなどカレワラが人々の間に深く根づいていることを知りました。ところが第二次世界大戦中の膨張政策のプロパガンダにカレワラが利用された歴史を帰国後知り、驚きを感じました。フィンランド滞在中のカレワラの印象との隔たりが大きかったからです。このギャップをいつか解きあかしたいと感じて大学院で研究を進めています。現在はフィンランド民俗学者カーレ・クローンの研究に注目したいます。

カレヴィポエグとエストニア〜エネ・トーム(タルトウ大学大学院・津田塾大学研究生)
2000年3月
 カレヴィポエグはカレヴィの息子であるカレヴィポエグという力持ちの冒険物語をうたった叙事詩で、1862年にエストニアの医師クロイツヴァルト(Friedrich Reinhold Kreutzwald)によって完成されました。その原型はすでに農民の間に口承文学として存在していました。医師フェークマン(Robert Faehcmann)は原型を採集していたが出版に至らず、その後クロイツヴァルトがカレワラと同じ叙事詩形式でカレヴィポエグをフィンランドのクオピオで出版しました。カレヴィポエグはエストニア国内で大きな反響を呼び、エストニア民族の誇りとなりました。
 カレヴィポエグの解釈に関してエストニア独立以前と以後では異なっています。特に最後の章の「エストニアに幸福がやってきた」という詩の解釈は、ソ連によって幸福がやってきたという解釈とエストニアが独立するまではやってこないという解釈が存在しました。独立した現在ではこの解釈はそれほど重要ではありません。

私の北欧今昔ー40年の関わりを振り返って〜武田龍夫(元外交官・前東海大学教授)
2000年4月
 日本の独立回復後初期の海外渡航の頃にスウェーデンに留学して以来、1900年代後半
 とほぼ重なり合う時代を、外務省の北欧担当官及び在北欧大使館員として、またのちに大学の窓から北欧と関わってきたが、この間の日本・北欧関係にはまさに今昔の感がある。
 当時私はプロペラ機南回りで2日間かけて渡欧したのだが、今はジェット機のロシア上空飛行で僅か9時間である。また当時の北欧各国首都の在留邦人は数人程度だったのが、今ではスウェーデン2000人、フィンランド650人、ノルウェー530人、デンマーク900人である。またスウェーデン・クローナは75円だった(今は16円前後)。もちろん日本料理店などなかったが、今は北欧各国どこでもお目にかかる。他方北欧の対日認識ないし理解は戦前と同じ「フジヤマ・ゲイシャガール」の名残りが一般的だった。また日本側の対北欧理解もフリーセックスとかポルノとかだったが、1960年代に入って一変していった。日本のイメージはソニー・ホンダに変わり、北欧のイメージは高度福祉国家、民主主義のモデル国家へと変わった。この間川端さんのノーベル文学賞受賞があり、また皇太子、同妃殿下(現両陛下)の北欧4国(除くアイスランド)公式ご訪問がその象徴的表現となった。これらの背景には言うまでもなく日本の経済大国化と北欧各国の日本という巨大な市場重視があったのは否定できない。そして現在の日本・北欧関係は観光を含む人的交流はもちろん、皇室、王室を始め首相、閣僚その他経済産業VIPの往来、ミッションの交換、学術文化の交流、相互研究の進展を含め質量ともにかつてない多角的且つ活発な相互関係の時代に入っている。在京北欧大使館の経済、文化行事の案内を見ても、全国レベルで毎週のように目白押しである。10年1昔と言うが、40年の年月に自分を重ねて思うとき、「遥けくも来つるかな」の感慨を禁じえない。

フィンランドはどのように情報社会化したか
〜ユッカ・ヴィータネン(フィンランドセンター所長)

2000年5月
 われわれの最終目的としては、ヨーロッパだけでなく世界において先進的な移動情報社会の一員となる目標を掲げました。情報社会とは、誰もが情報サービスへのアクセスやそれを利用する技能があり、ビジネスや公共部門の手続きや構造が、情報テクノロジーの手を借りて開発されている社会です。このようにして我が国は数々の側面からヨーロッパの主要諸国と行動をともにしていく事になります。
 昨年フィンランドと日本は修好80周年を迎え、この間、両国はバブル経済の崩壊というおなじ経験をしました。フィンランドでは過去15年間多額の不良債券を抱え、中小企業は貸付金やその利子の返済が出来なくなり、海外の債権者は損失が拡大するのを恐れ、フィンランドから手を引いていきました。日本のバブル経済も資産価値の不健全な高騰および不良債券の増大の結果、株式市場で株価が大きく下落し国内の需要は止み、失業者が急増しました。 フィンランドでは経済指標、経済成長率ともにプラスに転じ、この堅調な発展に最も貢献しているのが、ハイテク分野における集中的な投資です。1999年の数字によると現在、電子産業のGNPに占める割合は、GNPの30%以上まで増えており、他方、森林産業は35%、金属産業は25%となっています。フィンランドの製造業は全体として著しく多様化しており、並外れた好調を続ける電子産業の成長が、他の製造業分野へも好影響を与えています。我が国の国内総生産(GDP)の成長率は年率平均5%とOECD諸国中、最も早い伸びを示しています。IMD世界競争力(2000年版)によると、フィンランドの競争率は(アメリカ、シンガポールに次ぎ)世界第3位になっています。ちなみに日本は第17位です。 フィンランド経済を見ると、経済を強くしているのは、NOKIAなどの企業だけではありません。産学官による充実した協力も、通信文や全体としての強さに貢献しています。 フィンランドは非常に競争の激しい環境下での変化に日頃より機敏に対応するため、自由競争を必要とする小さな経済単位と言えるかも知れません。そのため我が国は、そこでは誰もが知り合いである「シリコンバレー」に喩える事が出来るかもしれません。エンジニア、市場で売買する人たち、投資家などで構成される一つのネットワークです。

デンマーク社会とキリスト教〜大谷愛人(慶応大学名誉教授)
2000年6月
 近代の合理的思考では、手っ取り早く概念や図式を構成し、それによって社会のありかたを説明する。しかしながら、デンマークの文化・社会においては、しばしばそうした概念や図式から漏れるもののなかに本質的なものがある。合理的な思考によって捨象されたものこそ、実はほんとうに研究されねばならないものではないだろうか。
 そのひとつの例が、デンマークの福祉と教会との関係である。日本から訪れた研究者がしばしば陥る重大な錯誤は、社会福祉を行政の側だけから見て、デンマークの教会制度が果たした役割を看過することである。
 デンマークの社会福祉においては、「行政による福祉の前に、教会による福祉事業あり」という大前提が存在した。この前提にしたがって、行政と教会との基本的関係は、「イニシアティブから成功 medgang へ、成功から逆境 modgang へ、そして再び成功へ」という形で深化してきたと言えよう。
 1849年に自由憲法が施行され、社会福祉面に関する行政の積極的関与が始まったが、それ以前から各教区の厚生保護事業部 menighedsplejer を中心として教会による福祉活動が行われ、今世紀に入ってMPLセンターが誕生するに及んで教会の活動は頂点に達する。その事業は、最弱の弱者、貧困者、子ども、不幸な女性・寡婦、老人に向けられ、特に老人の繁栄創出のための尽力は特筆に値する。
 しかしながら、1924年に社民党政権が誕生し、33年以降行政による社会改革に決定的な前進が始まって、失業問題や児童福祉、様々な法律・保険に関する法政化と施設の整備が行われるようになると、教会による福祉事業は一時的な危機に陥る。だが、行政による徹底した制度の整備は、結果的に行政による福祉の限界、たとえば法絶対の規制主義や官僚的冷たさも露呈することになり、ここに教会による事業の新たな任務領域が顕在化する。すなわち、行政による「待ち」の姿勢、規制による「切り捨て」ではなく、困窮者・弱者を積極的に「探し当て」、「人格的対応」をすることである。
 こうした行政と教会の関係は、今世紀の後半にいたっても、ボランティアなど新しい概念の誕生、新しい民営化の時代の到来、グローバリゼーションと外国人労働者の流入といった事態に対応しながら、維持されている。
 福祉においては、Vaeasted、すなわち「必要とされるところに常に居合わせること」がもっとも根本的で重要な点である。この点で、行政が行う様々な制度的措置とは別に、教会が果たしてきた役割は大きい。行政の目的は常に立法にある。しかし教会は同じ問題に愛をもって関与する。ある牧師の次の言葉はデンマーク社会における教会のスタンスを端的に語っていると言えよう。
 「行政側の人たちだって、われわれと同じように、大部分の人々は幼児洗礼を受け、同じ信仰にたち、どこかの教会員なのだから、思想的表面上の相違ほどには大きな相違はない。内面の根底では、基本的にはともに無自覚のうちにキリスト教信者であり、同じ根拠を共有している」
 (要約:中村章吉)

“大国の時代”のスウェーデンとバルト海世界〜古谷 大輔(東京大学大学院人文社会系研究科)
2000年9月
 「大国の時代」と呼ばれる17世紀から18世紀初頭のスウェーデンは、欧米の歴史学界では「軍事国家」の典型として論じられている。確かに「大国の時代」のスウェーデンは、三十年戦争などの戦争を通じて「バルト海帝国」としての地位を築いたとされる。それでは同時代の他のヨーロッパ諸国と比較して人的・物的資源に劣ったスウェーデンが築いた「バルト海帝国」とはいかなるものだったのか。
 そもそも17世紀のスウェーデン社会は小規模な農業生産と現物経済を基盤とした社会だった。そのためスウェーデン財政は貨幣収入の不足に慢性的に悩まされていた。しかし三十年戦争への参戦以降、軍隊の規模は拡大の一途をたどり、貨幣収入が必要とされた。グスタブ2世アドルフ期以降の国家指導層は、こうした事態に対処するために『戦争が戦争自らを養う』という財政手法を模索した。それは戦争を口実としてスウェーデン軍が展開した地域に財政負担を肩代わりさせるものだった。スウェーデンが築いた「バルト海帝国」とは、過大な戦争の負担に対してバルト海世界の資源に「寄生」することにより自国の貧弱な経済状態を補うためのものだったといえる。しかし、こうした手法を採る限り、スウェーデンは戦争を拡大再生産する形でしか「大国」としての地位を維持することができない悪循環に陥った。
 1660年代以降スウェーデンには平和な時代が訪れ、『戦争が戦争自らを養う』財政手法の矛盾が、平時における財政問題と諸身分間の対立という形で顕在化した。この問題は1680年代のカール11世期における王領地回収政策と軍役割当制度の実施により解決された。これらの改革の結果、現物経済に適合した平時にのみ有効な軍事システムが構築され、その仕組みは20世紀初頭まで維持された。これらの改革により、スウェーデンは戦争の継続と他地域への「寄生」によって維持された「バルト海帝国」から脱却し、スウェーデン社会の実状に適合した社会構造を作り上げたと言える。しかし、それは同時に「大国の時代」の終焉をも意味するものであり、やがて大北方戦争での敗北で明らかとなった。

北欧、鉄道旅行の楽しみ〜野田 隆(日本旅行作家協会会員)
2000年10月
 鉄道旅行には、クルマ、バスや飛行機にはない独特の旅の雰囲気がある。地の果てまで、どこまでものびる線路。時とともに流れ行く車窓風景。車内で偶然隣り合わせた人との出会い、そして別れ。その魅力にとりつかれた旅人には、多少の不便さ、まどろっこしさは苦にならない。それどころか、それが鉄道旅行の魅力にさえなるのだ。
 北欧各国の鉄道旅行も、このような一般論が、そのまま当てはまる。今回は、北欧三国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)の鉄道についてご紹介しよう。デンマークの鉄道(DSB)は、ドイツなどから入る場合、北欧の入り口の役目を果たしている。平坦な国土であるが、そのハイライトは海を越える旅にある。列車ごとフェリーで渡る旅、鉄橋とトンネルで越える海峡、ともに他では味わえない面白さである。代表列車は、実にユニークな風貌の特急列車インターシティ3。シンプルなデザイン、暖かみのある車内のインテリア、ハイテク技術を駆使した設備は、快適な旅を約束してくれる。 スウェーデンの鉄道(SJ)は、森と湖の風景の中を高速で走る超特急X2000の旅に代表される。座席まで直接運ばれる食事とイヤホン・サービスは、飛行機を意識したものだが、これが現代の鉄道旅行のトレンドになりつつある。一方、昔ながらの「汽車旅」は、最果ての地ナルビクを目指す「ノルドピーレン号」に乗れば味わえることだろう。
 ノルウェーの鉄道(NSB)の特色は、やはりフィヨルドや山を越えるダイナミックな車窓風景にあろう。スピードは遅いが、心ゆくまで車窓を楽しめる「ベルゲン急行」や最果ての地ボードーからオスロまでの旅は、北欧鉄道旅行のハイライトであろう。
 今年7月にコペンハーゲンとマルメを結ぶオアスン海峡線が開業した。これで、3年前に開業したストア・ベルト海峡線とあわせると、ヨーロッパ大陸から北の果てナルビクまで一本のレールでつながったことになる。列車の運行ルートの変更など、21世紀に向けて、今、北欧の鉄道は、さらなる発展を遂げようとしているのだ。

これからの北欧経済を見る視点〜磯野聡(外務事務官,外務省国際経済第一課)
2000年11月
 北欧諸国は、地理的に遠いことやそれらの国々の市場が小さいことなどが理由となって、これまで日本の経済パートナーとしては、比較的なじみの薄い存在だっただろう。ところが、あまり知られていないようだけれど、ノールウェーの海産物や石油、スウェーデンやフィンランドの木材・紙類、デンマークの豚肉などは以前から日本市場のかなりの部分を占めるほどに輸入されてきているし、最近ではスウェーデンやフィンランドの通信機器メーカー(エリクソン社やノキア社)の存在が大分目につくようになってきている。
 北欧諸国の経済は総じて好調といえる。国によっては、ノールウェーなど石油産業が推進力となっている国や、スウェーデンやフィンランドのように通信機器・設備の分野で世界的に活躍する企業のある国もあり、その姿は様々であるが、概ね、それらの経済を支えているのは、一方でITや化学産業等のいわゆるハイテク産業、また一方で木材や水産物、農業などの伝統産業となっている。米国や欧州の経済が好調なために、北欧諸国は輸出を延ばし、ひいては国内経済を活性化させ、まさに現在は好景気を謳歌しているところである。とはいいながら、後述の通り、北欧諸国が直面する課題がないわけではない。そしてそれらの課題、特に国内問題の数々は、そっくり日本が直面する課題でもある。北欧諸国がとる対応策からは、私たちへのヒントが発見されるように思う。
 北欧諸国が直面する経済的な問題。それは、対外的には、変化し続けていく国際情勢がある。例えば、EUの市場統合や拡大の動き、ITをはじめとする新産業の世界規模での発展の流れ、ロシアの経済情勢などであり、また最近では原油価格の高騰という問題もあるだろう。そして国内に対しては、何よりも高齢化問題がある。加えて、産業構造の変化と好景気による一部産業での労働力不足の問題、それと関連して若年失業者と福祉制度及び就業訓練の関係をどうするかという問題、国際競争力を維持するための新産業の育成、特にITやバイオ・テクノロジーといった産業の振興・さらなる発展、そして環境問題への取り組み等が挙げられる。日本が参考とすべきは、高い福祉水準を誇る北欧諸国がこれら諸問題に取り組む方法である。例えば、高齢化と福祉の関係、または世界有数のIT技術と福祉や教育をいかに結びつけるのかという課題について、北欧諸国の行動に注目することは有益であろう。
 激しく変化する国際、国内情勢の中で、北欧諸国はどのような道を模索するのだろうか。北欧諸国はいずれも高い教育水準を誇り、成熟した社会制度を築いてきた。諸課題に対する施策を実施するには、人口のサイズも適当のようだ。幸いに、官民が様々な施策を行うにあたっては、現在の好景気は追い風になろう。これらの関心をもって北欧諸国の経済・社会に注目すること、その変化の様を見据えようとすることは、今後も興味が尽きないテーマである。

スウェーデンに於ける日本の工作は失敗だったか〜稲葉千晴(名城大学助教授)
2000年12月
スウェーデンに於ける日本の工作は失敗だったか:戦時の陸軍武官、明石元二郎と小野寺信
 私は、小説やテレビで言われてきた歴史の通説を疑い、各国の文書を見比べながら、史実を再検討してきた。こうして冷静に検証すると、日露戦争中スウェーデンで活躍した明石元二郎、第二次大戦中の小野寺信についても、意外と話がつまらなくなってしまう。明石のロシア革命派に対する扇動工作、小野寺のスウェーデン王室を仲介とした和平工作とも、結果として失敗した。これまでの両者への高い評価は、失敗はしたけれども、必死に努力したという、「実績」ではなく「努力」に対する評価だったことがわかる。
 しかし、通説を批判して終わりでは、研究にはならない。明石と小野寺の活動の中で、これまで正当に評価されてこなかった情報収集に焦点を当ててみると、新たな事実が浮かび上がってくる。ヨーロッパにおける日本の情報収集活動には、多くの軍人や外交官が関与していた。ところが明石は、他の情報収集担当者と比較すると、情報入手経路の拡大に積極的であり、収集した情報の質・量とも格段に優れていた。世界各国で収集された情報を東京で整理・分析していた参謀本部も、明石の諜報活動を高く評価し、明石の推薦した情報提供者たちを、日露戦争後叙勲している。
 小野寺に関しては、少し事情が異なる。ベルリンの日本陸軍武官室には、ドイツ軍最高司令部からの一方的な情報しか入って来なかった。ドイツに都合のよい情報ばかりが、日本に送られていたことになる。それに対して、第二次大戦中の数少ない中立国スウェーデンには、連合国や枢軸国の情報が比較的自由に入ってきた。小野寺は、双方の情報を比較検討できる立場にあった。さらに、ドイツとソ連の双方を敵とみなすポーランド軍情報将校からも精度の高い情報を入手していた。すなわち、ベルリンよりも格段に信頼性のある情報を、東京に送付できたのである。だが、不幸なことに東京は、小野寺が連合国の謀略に躍らされるとみなし、スウェーデンからの情報を無視してしまった。ただし、小野寺の情報は意外なところで役立っている。彼は、1944年6月のソ連の反攻作戦に関する情報を、いち早くフィンランドに提供し、それが戦後フィンランドから高く評価された。
 明石と小野寺のスウェーデンにおける情報収集活動は、決して失敗ではなかった。小野寺に関していえば、責められるべきは、同盟国ドイツを信じ、スウェーデンで収集された情報を生かすことのできなかった東京の参謀本部であろう。

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