──
地球温暖化の話を述べてきたが、これまでの話をまとめて、結論ふうに示す。
(1) 地球温暖化の有無
地球の温暖化そのものは、ある。これを否定することはできない。まさしくここ数十年、地球は温暖化している。
ただし、温暖化が人為的であるかどうかは、不明である。
「温暖化は人為的な理由による」というのが IPCC の結論だ。だが、その結論は、「初めに結論ありき」のものである。つまり、「用意された結論に合わせて、証拠をうまくつまみ食いする」というものだ。あまりにも非科学的すぎる。
( → 地球温暖化の有無 )
(2) 自然要因
地球の温暖化があるとして、その理由は、人為的なものではなく、自然要因のものであるかもしれない。実際、自然要因である可能性は、かなり高い。なぜなら、そういうふうに説明した場合のみ、過去の気温変化を説明できるからだ。
問題は、ここ数十年の温暖化が、過去の気温変化の程度を越えているかどうかだ。IPCC は「過去の程度を越えている」と結論した。だが、その証拠や論理はあまりにもずさんである。というわけで、信用できない。
では、真実は? 大胆に(ほとんど当てずっぽうに)私の推測を下せば、こうだ。
「地球温暖化のほとんどは、自然要因である。ただし、人為的な要因も、いくらかはある。その程度は、大きくない。たぶん半世紀で 0.5度ぐらいだろう。今後も、半世紀で 0.5度ぐらいだろう。合計して、1世紀で 1.0度ぐらいだろう」
この推測に基づいて、次のように判断する。
「地球の気温が 1.0度ぐらい上昇することの影響は、ほとんどない。たしかに、あちこちで氷河が溶けたりすることもあるだろうが、その多くは局地的な変動だ。また、氷河が溶けたことぐらいで、大騒ぎするほどのことはない。過去の歴史で言えば、欧州や米国のかなり広い領域が氷河で覆われていた。その氷河が溶けていったのが、現在の間氷期だ。そして、間氷期にはいると、地球環境は破滅的になったのではなく、逆に、生物にとって過ごしやすくなったのだ。さまざまな生物が繁殖したり、人類が文明を持つほど反映したりしたのは、この温暖化のおかげなのだ。さらに 1.0度ぐらい上昇することの問題は、そう多くない。むしろ、農作物の豊作など、良いことの方が上回るはずだ。」
さらに言えば、逆の心配がある。こうだ。
「現在までは自然要因で地球の温暖化が起こったが、このあと、自然要因で地球寒冷化が起こるだろう。それは氷河期に入るほどの寒冷化ではないが、数十年で 2〜3度ぐらいの気温低下をもたらすかもしれない。そして、そのような気温低下(寒冷化)は、温暖化とは違って、莫大な損失を生物や人間にもたらす。この寒冷化の方こそ、心配するべきだ。その意味では、人為的な温暖化は、あった方がいい、とも言える。」
( → 気温の非周期変動モデル )
( → 地球温暖化とバブル )
(3) 危険への予防措置
ただし、私の述べた判断がはずれている可能性もある。IPCC の述べたように、「人為的な地球温暖化が破滅的な影響をもたらす」という可能性もある。(ほとんど「天が降ってこないか」と心配するようなものだが、一応心配するのも無駄ではない。)
そこで、万一の場合への予防措置として、次のことも用意しておく。
「炭酸ガスの固定」
この方法のみが、「人為的な地球温暖化」を阻止するための、唯一の方法である。それ以外の「省エネ」などは無効だ。いくら省エネをしようが、太陽光発電をしようが、化石燃料の使用そのものを現在以下にすることは(たぶん)できないのだから、温暖化の傾向は続く。実際、IPCC や G8 サミットの述べたところでも、「炭酸ガスの排出の伸びを抑制する」というだけであって、「減らす」ということではないからだ。( 50%の削減、というのは、先進国だけだ。中国やインドでは、化石燃料の使用が爆発的に増えるはずだ。)
というわけで、「増やさない」だけでなく「減らす」ために、「炭酸ガスの固定」という技術の開発をしておく。
( → 炭酸ガスの固定 )
ただし、あくまで、技術の開発をするだけだ。実際にそれを実行するには、「人為的な温暖化」という説が実証されている必要がある。仮に、それが実証されないまま、「炭酸ガスの削減」を実行した場合、「地球寒冷化」が起こって、世界中で莫大な数の餓死者が出現しかねない。……その行為は、地球の外から見れば、「太陽系第三惑星における、知的生物の自殺行為」と見なされる。
人類は、たしかに高度な知性を持っているが、その知性を、集団的な自殺行為のために使うかもしれないのだ。
そして、そうならないように、「人為的な温暖化」という仮説が正しいのかどうか、厳密に証明する必要がある。
( ※ 現在のような盲目的な判断だと、天下り的に「炭酸ガスのせいだ」と結論したあげく、集団自殺しかねない。)
[ 付記 ]
一般的に言えば、「選択肢を用意すること」と「選択肢を実行すること」とは、別である。
たとえば、次の二つは別のことだ。
・ 炭酸ガス固定の技術開発をする
・ 炭酸ガス固定を実施する
また、次の二つは別のことだ。
・ 太陽光発電の技術開発をする
・ 太陽光発電を実施する
技術を開発することと、その技術を使って実施することとは、別のことである。技術を開発することは、「選択肢を用意する」という意味で必要だが、だからといって、その選択肢を実施する必要はない。
炭酸ガス固定で言えば、一応その技術を開発しておくべきだが、必要もないのに下手に技術を乱用すると、温暖化を阻止するどころか、寒冷化をもたらしてしまう。
太陽光発電で言えば、一応その技術を開発しておくべきだが、記述が未熟でコストが高いのにその技術を実施すると、やたらとコストがかかって、普通の生活が破綻してしまう。(たとえば餓死する。)
技術というものは、欲しいからといってすぐに誕生するわけではない。だからたえず技術開発をするべきだ。しかし、技術開発をすることと、実施することとは、別のことなのだ。ありもしない技術を「さっさと実施しよう」とい言っても、無理である。こういう常識を理解しない人があまりにも多いので、注意しよう。
たとえば、「太陽光発電は理想的だから広く配備しよう」と唱える素人が多すぎる。実現してもいない技術を無理に実施すれば、必ず別のところで歪みが生じる。そういうこともわからないまま、「政府が補助金を出せばいい。政府からはお金が湧いてくるだろう」と思っている人が多い。こういう夢想家に従うと、現実の経済生活が破綻してしまう。
夢想家というものは本当に危険なのだ。彼らは善意ゆえに、われわれの生活と生存を破壊しようとする。一種の狂気。
( ※ 以下の話は、前項から移転した。)
【 参考情報 】
地球温暖化の根拠となるデータは、信頼性がおけない。そのことは、前にも記したが、あらためて別の情報を得たので、記述しておこう。
「ここ数十年のあいだの気温上昇は、過去の長い歴史に例を見ないものだ」
というふうに IPCC は主張する。そして、そのデータを示す。しかるに、そのデータは信頼性がおけない。そのことは、次の記事からわかる。
「世界の中にはひどい観測環境がある。たとえば米国では、自動観測器がエアコンの室外機のすぐそばに据え付けられ、大きな誤差を含んだ高温が記録されている例がある。米国の研究者によると、誤差が1度以下の良好な環境にある装置は全体の13%ほどしかない。研究者は、現場を知らずにこんな数値をそのまま使っている」着色部に記されたような大きな誤差があるのに、「10年で 0.5度上昇した」などという結論が科学的に得られた、と主張されたりする。統計誤差というものを認識しない、非科学的な結論。
( → 読売・夕刊・特集面 2008-07-14 )
( ※ この非科学性については、前にも述べた。 → 地球温暖化の有無 )
[ 余談 ]
地球温暖化(人為的な温暖化)というのは、科学的にあやふやである。しかしながら、故意に嘘をつこうとする、確信犯的な人もいる。
「省エネという善をもたらすためには、地球温暖化という嘘をついてもいい。嘘も方便なのさ」
というふうに。こういう人は、マスコミあたりには、けっこう多いらしい。では、「嘘も方便」は、許されるか?
政治的になら、「嘘も方便だ」ということが許されることもある。比喩的に言えば、「この薬は甘いですよ」と嘘をついて、苦い薬を飲ませ、そのことで、患者の病気を治療する、というようなことだ。こういう「嘘も方便」なら、許される。
しかし、科学の分野では、「嘘も方便だ」ということは許されない。科学者が示した真実を受け取った政治家が、その真実に甘いオブラートをかぶせることは許せるが、科学者自身が最初から嘘をつくことは許されない。そのような態度は、科学の否定である。
にもかかわらず、地球温暖化論者は、このタブーを犯している。そういう人々は、もはや「科学者」とは言えない。「政治家」とか「煽動家」とか言うことはできるが、「真実を探究する科学者」ではないのだ。また、「真実を報道する報道者」でもない。タブーを犯す連中は、科学者としても報道者としても、失格なのである。
「嘘も方便だ」などと口にした人は、その時点で、もはや真実を語る資格がない。そう自覚するべきだろう。
( ※ ついでに言えば、「嘘も方便だ」と主張するのであれば、「自分の言っていることは嘘だ」と自覚しておくべきだ。つまり、「人為的な地球温暖化というのは嘘だ」と。……他人をだますつもりで、自分までだまされてしまったのでは、何をかいわんや。 (^^); )
※ 本項は完結していません。次項に続きます。
タイムスタンプは下記 ↓