「省エネは必要だ」という主張は、「炭酸ガスの抑制」という目的のためには必要ないが、「石油需要の抑制」という目的のためには必要だ。
この違いは、市場原理の観点から認識できる。
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前々項 と 前項 の話を、改めて整理して述べよう。次の二点だ。
「『環境保護団体の主張は、間違いであって、プロパガンダにすぎない』という指摘は妥当である」
「しかし、だからといって『省エネは不要だ』『炭酸ガスを減らす必要はない』という結論を下すのは、妥当でない。」
つまり、炭酸ガスを減らすことは、「気象を安定させるため」という目的では必要ないのだが、「限られた石油資源を守るため」という目的では必要である。
この観点からすると、「気象を安定させるため」と唱える環境保護団体は間違いだが、「炭酸ガスを減らす必要はない」と批判するのも間違いだ。
炭酸ガスを減らすことは、そのこと自体が大事なのではなくて、石油資源を浪費しないため(つまり石油価格高騰を招かないため)に必要なのだ。倫理ゆえに大事なのではなく、金銭的損得ゆえに大事なのだ。
( ※ こういうふうに身も蓋もないことを言うと、きれいごとを口にする人からは毛嫌いされそうだが。 (^^); )
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この問題は、「需要と供給」という経済概念を使うと、はっきりする。需要と供給は、人為的な「省エネ活動」などによって量が決まるのではない。価格調整によって量が決まる。
だから、「省エネをすれば石油の使用量が減る」と思うのは、正しくない。
たとえば、日本中でレジ袋を節約したり、テレビの使用時間を減らしたり、自動車のガソリンの燃費を向上させたりする。そのことで、石油はどれだけ節約されるか? 「これだけ節約したから、ちょうどその分だけ使用量が減るだろう」と人々は思い込む。しかし実は、いくら石油を節約しても、使用量の総量は全然減らない。
なぜか? 先進国で使用量が減れば、価格が下がる。価格が下がれば、これまで購入できなかった人々(途上国の人々)が購入するようになる。結果として、先進国で石油の使用量を減らした分、途上国で石油の使用量が増える。差し引きして、使用量の総量は全然減らないのだ。
では、逆に、石油をさんざん浪費すると、石油の使用量が増えるか? 実は、いくら石油を浪費しても、使用量の総量はちっとも増えない。なぜかというと、価格が上昇するので、先進国の使用量が増えた分、途上国の使用量が減るからだ。日本中でガソリンを多大に浪費すると、その分、炭酸ガスが増えるのではなくて、その分、途上国の炭酸ガス発生量が減る。それだけのことだ。
(ただし途上国では、石油を入手できないことで、生活がひどく苦しくなる。死者も多大に出るだろうし、食糧不足も生じるだろう。先進国で浪費をした分、途上国では悪影響が多大に出る。)
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以上が需給の効果だ。需要を減らしたり増やしたりすることは、価格を上げたり下げたりする。そのことで富者と貧者とのあいだで、物品の配分比率が変わる。そういう効果はある。しかしながら、物品の総量は何も変わらないのだ。(市場の効果)
では、物品の総量を変えるものは? それは、「供給量」だ。石油で言えば、石油の総生産量。小麦で言えば、小麦の総収穫量。……これが供給量である。供給量が物品の総量を決める。
( ※ ここで注意。電器製品などの工業生産物ならば、供給は工場でいくらでも自由に変えることができる。だが、石油などの資源や農産物では、供給は自然に制約されるので、人間が勝手に増やすことはできない。たとえば、今、石油価格が上昇しているからといって、石油の生産量を3割アップすることはできない。自動車やパソコンなどの生産とは事情が異なるのだ。……こういう事情で、供給量の上限が現実の使用量を決める。)
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資源については、物品の総量を決めるのは、需要ではなく、供給である。これが本質だ。
そして、そうだとすれば、次の結論が出る。
・ 総量を減らしたいのであれば、供給を減らすべきだ。(価格は高騰)
・ 価格を下げたいのであれば、需要を減らすべきだ。(供給量は同じ)
これが真実だ。まとめると、次の通り。
(1) 「炭酸ガス抑制」(石油使用の総量を減らすこと)を目的とするのであれば、需要を減らすのではなく、供給を減らすべきだ。たとえば OPEC でいっせいに減産するべきだ。そうすると、価格は高騰するので、多くの人々は石油を利用できなくなる。結果的に、まさしく石油使用量は減少する。だが、人々の生活は破壊される。
(2) 「石油価格の安定」(石油価格上昇の抑止)を目的とするのであれば、需要を減らし、供給を増やすべきだ。たとえば、みんなで省エネをして石油需要を減らし、 OPEC では増産するべきだ。そうすると、価格は低下するので、多くの人々は石油を利用できるようになる。結果的に、人々の生活は守られる。だが、石油使用量は増える。
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この二つの対比は大切だ。
環境保護団体は、「炭酸ガスを減らせ」と主張する。それは、「地球の気象を守れ」という倫理から来る主張だ。そして、その倫理には、何ら科学的な根拠がない。一種の宗教的な信仰か迷信のようなものだ。
そして、この迷信では、何ら実効性のないこと(需要の抑制)を主張する。どうせ主張するのならば、実効性のあること(供給の抑制)を主張するべきだ。なのに、現実に炭酸ガスを抑制するつもりはなく、あくまで倫理にしたがうだけだから、「省エネ」という実効性のないことばかりを唱える。
これは、未開人の迷信と言うべきか。1世紀前のアフリカの土人には非科学的な迷信が蔓延していたが、それと同じことを現代人もやっているわけだ。1世紀後の未来人からは笑われるだろう。「非科学的な野蛮人め」と。
そこで、こういう迷信を批判する科学者たちも現れる。「そんな非科学的な迷信を信じては駄目だぞ」と声を上げる。しかし、その声を上げる科学者自身、経済学というものを何も知らない。自然科学についてはよく知っているのだが、「需要と供給の調整」という市場原理を知らない。そこで、「省エネなんかやっても仕方ない」というふうに唱える。
だが、本質は、「これは経済的な問題だ」ということだ。この問題について、「科学的に真実かどうか」ということを討論しても、ほとんど意味はない。経済の問題を、自然科学で論じても、そんなことはあまりにも非合理的である。絵画の問題を音楽の原理で説明するようなもので、あまりにもトンチンカンだ。
省エネをするかどうかは、地球環境の問題でもないし、炭酸ガスの問題でもない。価格上昇を抑止するか否かという、経済的な問題なのだ。価格が上がれば悪、価格が下がれば善。価格が上がって人々が飢えて死ねば悪、価格が下がって人々の生活や生命が守られれば善。
ここでは、環境がどうのこうのということはほとんど関係がない。人間の生活や生命が守られるかということだけが問題なのだ。空気の温度が一度上がるか上がらないかが問題なのではなくて、莫大な数の人々が死んだり不幸になったりするか否かが問題なのだ。
なのに、そのことを、誰も気がつかない。そのあげく、次のいずれかを主張する。
・ 石油の需要を減らせ (炭酸ガスを減らすことには無意味。)
・ 石油の供給を減らせ (炭酸ガスを減らせるが、人々は不幸。)
前者ならば、論理矛盾。非合理。(馬鹿である。)
後者ならば、合理的だが、人々の生活は破綻する。(利口だが悪。)
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まとめ。
省エネは、環境保護のためには必要ないが、経済発展のために必要だ。(正確には、発展のためというより、急激な悪化を防ぐため。)
ここに真実がある。なのに、この真実を見失っているという意味で、環境保護派も、その批判者も、どちらも間違っている。
[ 付記1 ]
今回のサミットでは「石油価格高騰が大問題」という結論を出すそうだ。[ → 記事 ]
しかるに、「価格高騰の対策として大切なのが省エネだ」とは気づかず、「省エネをするのは炭酸ガス削減のためだ」という誤った認識をする。その誤りのせいで、「石油需要を減らす価格高騰は、炭酸ガス削減のためには、かえってすばらしい」という結論さえ出しかねない。
自己矛盾。そして、それに気づかない阿呆たちの集まりを「サミット」と称する。巨頭会議ではなくて、巨呆会議。)
[ 付記2 ]
サミットでは、温暖化問題でアフリカの支持を得られないという。アフリカ諸国は温暖化よりも、原油・食料価格の高騰に関心があるという。かくて議長国の日本の顔が立たないという。[ → 記事 ]
ここでも認識ミスが問題となっている。炭酸ガス削減は、石油価格の高騰の阻止のためであり、その意味で、先進国のためというよりは途上国のためであるのだが、そのことを理解してもらえないのだ。というのは、日本自身が理解していないからだ。
今回のサミットは、「人類がいかに愚かであるか」を示した会議として、歴史に位置づけられる。
[ 付記3 ]
途上国の誤解も問題だ。
炭酸ガスを抑制する京都議定書には、「地球温暖化阻止は、石油使用を邪魔するので、途上国の発展を阻害する」という途上国側からの批判がある。(たとえば次項で述べる動画。)……しかしこれは勘違いである。
現状を放置すれば、石油価格が異常に高騰する。すると、途上国は石油を利用できなくなり、途上国の経済発展は阻害される。省エネをしないことは、途上国にとって有利なのではなく、かえって損なのだ。
一方、世界中で省エネをすれば、石油価格の高騰を防ぐことができる。そうすれば、途上国も石油を利用できるから、途上国は経済発展が可能になる。
途上国の石油使用を邪魔するのは、京都議定書の契約ではない。市場原理そのものだ。市場原理が価格を高騰させて、途上国の石油を奪い、先進国の浪費に回される。……もちろん、先進国も莫大な被害を受けるが、途上国はさらに莫大な被害を受ける。
こういう経済原理を理解できない途上国もまた、どうしようもなく阿呆なのである。
(クライトンみたいに途上国の見方をすれば善人顔ができると思っている人もいるが、善人顔をすればするほどかえって途上国を苦しめることになるのだ、とは気づいていないのだ。経済学的な無知ゆえに。)
[ 余談1 ]
本項の話をわかりやすく示すために、たとえ話で語ろう。
一日にイモを 10個食べる、飽食の肥満児がいた。
環境保護派は、彼を批判した。「そんなにイモを食うと、オナラが出過ぎて、室内の環境が悪化する。イモを食い過ぎるのはやめるべきだ」と。
すると冷静な科学者が反論した。「この部屋は通気がいい。科学的に言って、オナラはたまらない。匂いが変動するのは、庭にあるさまざまな花々と風向きのせいであり、自然のせいだ。匂いの変動は、人為的なオナラのせいではない。ゆえに、イモを 10個食べても差し支えない。それが科学的な判断だ」と。
しかし私はどちらをも批判する。「部屋の匂いがオナラのせいではない」という科学者の反論は正しい。しかし、だからといって「イモを食いすぎてもいい」ということにはならない。そんなことをすれば、金が無駄になるし、健康にも良くない。さらに言えば、イモの数が限られているときに、彼ばかりがやたらと食いすぎれば、他の人がイモを食えなくなってしまう。
だから、「食べるイモの量を減らすべきだ」という、環境保護派の結論は正しい。ただし、結論は正しいのだが、その論拠はまるきり間違っている。当然ながら、「イモを食いすぎても、オナラを浄化して部屋をクリーンにすれば、問題が解決する」ということはない。問題は空気を汚すオナラではないからだ。
( ※ では、問題は何か? 「イモの数が制約されていて、もうすぐイモ不足になる」ということだ。だからこそ、肥満児は、イモを食う量を減らして、ダイエットするべきなのだ。ここでは、オナラを減らすことが大事なのではなく、ダイエットすることが大事なのだ。)
このたとえ話のようなことを理解することは大切だ。さもないと、人類は逆のことをやりかねないからだ。
たとえば、「ゲップを出す牛は地球温暖化ガスを出して有害だ。だから、ゲップを出さないようにさせよう。草のかわりに穀物を食わせよう」なんて言い出したら、本末転倒である。
なるほど、そのことで、温暖化ガスを減らすことはできる。しかし、穀物が減って、人類は自分の食べるものが減ってしまう。つまり、てんで見当違いのことをやると、善をなすつもりで、自分で自分の首を絞めることになるのだ。
[ 余談2 ]
本項の観点からわかることがある。
「二酸化炭素を固定して、地中か海中に埋めれば、問題は解決する」
というアイデアがあるが、これは成立しないのだ。
なるほど、もし大気中の炭酸ガスを固定すれば、大気中の炭酸ガスの濃度を下げることはできるだろう。しかしそんなことをやっても、何の意味もないのだ。炭酸ガスはもともと地球温暖化には影響していないらしいから、炭酸ガスをいくら固定しても温暖化を阻止することはできない。(もともと無関係のことだから。)
その一方で、石油使用量には何ら影響しないから、「省エネ」のように石油需要を減らすことはできず、また、石油価格高騰を阻止することはできない。
結局、物事の根源を理解しないまま、「数値としての炭酸ガスだけを減らせばいい」という方針を取っても、見当違いの対策を取ることになり、無効なのだ。
なるほど、炭酸ガスの増加は、「石油使用量」の指標となる。だから、この指標を下げるようにして、石油使用量を減らすことは大事だ。
しかしながら、石油使用量をそのままにして、指標だけを下げても、そんなことには何の意味もない。それはいわば、「風邪を引いて高熱になった人」に対して、「体温計の温度だけを下げる」ということをするのと同じだ。つまり、「体温を下げる」という本質的なことをなさずに、「体温計に氷をくっつけて測定値を人為的に操作する」というようなものだ。
そんなことをしても何の意味もない、と気がつかないで、指標だけを操作する。それは、一種の虚偽表示だ。ウナギの産地を虚偽表示するようなものだ。
【 関連項目 】
→ マイクル・クライトンと地球温暖化
→ 地球温暖化の有無
→ 動画「地球温暖化詐欺」
※ 最後の動画を見るとわかるが、「炭酸ガスで温暖化」というのは、相当に怪しく、はっきりと否定した方がよさそうだ。
2008年07月07日
◆ 環境保護と市場原理
posted by 管理人 at 19:22
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| エネルギー・環境1
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