結論を言えば、「地球温暖化については何とも言えない」である。
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最初に結論を言うと、「地球温暖化については、何とも言えない」(現状ではよくわかっていない)である。
ここでは、「地球温暖化はない」というふうに否定するつもりはないが、少なくとも、「地球温暖化はある」というふうに肯定することもできない。そして、それにもかかわらず肯定的に断定するのは、非科学的であるし、眉唾である。
※ ここで言う「地球温暖化」とは、「人為的な地球温暖化」のこと。
言葉が長くなるので、略記した。
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まず、局地的に言うと、「日本の温暖化」は明白にある。東京でも他の都市でも、ここ数十年、明らかに気温が上昇している。とはいえ、それは日本においての話だけだ。世界各地でも同じことが起こっているわけではなく、日本に限られる。日本では急激に都市化が進んだから、その影響もありそうだ。
ともあれ、「日本でそうだったから、世界でもそうだ」というような推論はまったく成立しない。
また、「日本の温暖化」にしても、全面的にイエスとは言えない。たとえば、今年の六月はとても涼しかった。台風の襲来も、近年は少なめだ。「何でもかんでも異常気象だ」というわけではない。特に、夏の深夜帯の気温の上昇は、都市化の影響がすごく大きいだろう。(クーラーの使用もそうだ。)
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次に、世界的な気温上昇について言うと、ここ数十年において気温上昇はたしかにあるようだ。ただし、その幅が問題だ。
IPCC の報告では、ものすごい気温上昇が起こった、というグラフを示している。そして、こう結論する。
「 1990年以降の気温の変化は、偶然このような変化が現れる確率は1%で、99%の確率で人為的要因による変化である」
通常は、このデータと結論が「主流派の説」としてまかり通っている。しかしながら、これがきわめてあやふやである。なぜなら、このデータは非常に偏っているからだ。
・ 正確に得られたデータは、先進国(都市化された国)のみ。
・ 他の国々(途上国)は、百葉箱。しかし百葉箱の値は、不正確。
(経年変化で白い塗装が剥がれると、気温上昇となる。)
( → 出典サイト による。)
そもそも百葉箱というのは、日々や季節の気温変動を知るためにある。「冬は0度で、夏は 30度だ」というふうな。このくらいの大きな変動ならば、百葉箱で測定するに足る。
しかしながら、長期的に見て、「20年間に 0.5度の気温上昇があったか否か」を知るには、百葉箱は全然適していないのだ。(そもそも目視によるので、 0.1度単位の精度をもたない。また、百葉箱そのものがそんなに寿命をもたない。経年劣化の影響もある。)
比喩的に言おう。30センチの定規で鉛筆の長さを測るのはいい。しかし、30センチの定規を使って、百メートル競走の百メートルを測定して、「これはたしかにぴったり百メートルあるか、それとも5センチぐらいのズレはあるか」を知るには、まったく適していない。30センチの定規を何度も繰り返しているうちに、測定誤差が出る危険性が高いからだ。ここでは「測定誤差」( or 精度)の問題が非常に大きい。そのことに注意しよう。
ところが、IPCC の調査では、このような「測定誤差」が十分に考慮されていない。「測定誤差」の問題を無視したまま、「地球温暖化が明白にある」というふうに、一挙にひとっとびで結論を出してしまっている。このような態度は、まったく「非科学的」と言えるものだ。統計学の基本原理さえわきまえていない、と言える。
要するに、IPCC というのは、環境保護の点では「国際的に公正な科学調査」というふうに思われているのだが、まったくの嘘八百である。そこにあるのは「最初に結論ありき」という政治的な立場であり、「初めからある結論に合わせて統計を歪めて解釈する」という非科学的な立場だ。
そして、この意味で、マイクル・クライトンが環境保護論者や世論を批判しているのは、まったく正しい。「地球温暖化がある」という主張は、「科学的な見解」というよりは、「科学的な洗脳活動」(世間を一方の思想に染めようとする政治キャンペーン活動)なのである。
少なくとも科学的に見る限りは、「統計誤差が大きすぎるので、まだはっきりとしたことは言えない」というふうに結論するべきだ。
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では、環境保護論者の立場を離れて、もうちょっと正確に物事を見るとしたら、どうなるか?
人為的な測定手段(観測装置)というのはあやふやだから、もっと明白な直接的な証拠を得たい。そこで、南極の氷を調べたり、樹木の育成速度を調べたりして、気温や炭酸ガスの濃度を調べる、という調査もある。
しかしながら、それによると、気温と炭酸ガスとのあいだには明白な比例関係はない。炭酸ガスの増加に関係なく、気温の上昇があることもある。
→ 出典サイト
さらに面倒なのは、次の可能性だ。
「炭酸ガスが上昇したせいで気温が上昇したのではなく、気温が上昇したせいで炭酸ガスが上昇した」
こういう可能性もあるのだ。少なくとも、大過去における「比例」の部分においては。(それが正しいかどうかは不明だが、そういう学説もある。)
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さらに言おう。
ここ 30年ぐらいにおいて、地球温暖化はたしかに見られる。しかし、その程度の気温変動は、過去において何度も見られてきた。当然ながら、同じように上昇した時期もあったし、逆に下落した時期もあった。波のように変動してきたわけだ。
だから、30年ぐらいの短期的な変動を見て、「(長期的に)地球温暖化がある」と断言するには、まだまだあまりにもデータ不足なのである。「はっきりとしたことはわかっていない」と言うしかない。
しかしながら、このような科学的な立場を離れて、勝手に外挿法の立場を取るのが、IPCC のような環境保護論者だ。
「ここまで、1,2,3 というふうに増えたから、このままずっと増えるだろう。百段階まで進めば、値は 100 になるだろう」
というふうに。つまり、「二度あることは三度ある、三度あることは百度ある」という発想だ。こういう発想のもとで、「百年後にはものすごい温暖化が起こって地球は破滅する」という結論が出る。
しかしながら、「気温は波のように変動してきた」という過去の歴史を見れば、「三度あることは百度ある」というふうには言えない、とわかるはずだ。「上がれば上がる」ではなくて、「上がれば下がる」というのが、周期的変動の原則だ。
このことは、株にも当てはまる。「ここまで上がってきたから、このあとも上がるだろう」と思って投資するのは、素人である。そういう外挿法の発想で投資すると、株価が上昇しきったところで株を買い、そのあとで株が大幅下落して損をするハメになる。素人判断の外挿法は禁物なのだ。
にもかかわらず、現代の環境保護論者は、周期的変動をなす気温の一部を見て、外挿法で「百年後にはものすごい温暖化が起こって地球は破滅する」という結論を出す。まことに非科学的と言うしかない。
具体的な例として、「海面上昇」がある。なるほど、「海面上昇」自体はある。温度が上昇すれば、水の体積が増えるので、海面は少し高まる。その幅は数センチ程度だ。
→ 出典サイト(グラフ)
ただし、その影響が将来的にどのように出るかは、不明確だ。
IPCC は、これを勝手に外挿法で推定して、「百年後にはものすごく海面が上昇する」と推定する。
→ 出典サイト(グラフ)
しかしながら、先に見たように、気温の変動そのものが「ずっと上昇する」とは言えない。気温は今後は下がるかもしれず、その場合には、海面上昇もないことになる。
つまり、「過去に数センチの幅で上昇したから、今後も数十センチも上昇するだろう」とは言えず、「過去に数センチの幅で上昇したから、今後は数センチの幅で低下するだろう」というふうになるかもしれない。何とも言えないのだ。
しかも、この「数センチ」という値も、かなり疑わしい。測定方法にもいろいろとあるので、数センチも上昇したかどうか、疑わしい。(はっきりとしない。)
海面上昇については、理論的計算から、次の見解もある。
海水の熱容量は大気の熱容量の 1000倍以上あることがわかる。大気温度を1℃上昇させるに必要な熱エネルギーでは海水温は0.001℃しか上昇しない。大気温度を 1000℃上昇させる熱エネルギーがあってやっと海水温を1℃上げられる。つまり、海面上昇を引き起こすには、ものすごい大気温度上昇が必要だが、現実にはそんなことはありえない。大気温度がそこそこに留まっている限り、海面上昇などはほとんど起こらないのだ。にもかかわらず、海面上昇が起こっているという観測データがあるとしたら、その観測データは恣意的に歪められて採用された観測データだ、ということになりそうだ。
大気中の温室効果ガス(二酸化炭素(CO2、水蒸気)の影響で大気温度が数℃上昇することは考えられても、海水温度が数℃上昇することや、氷がとけることは考えにくい。
地球温暖化による海面上昇で人類が溺れる以前に、大気温度上昇(高熱化)により人類は滅亡するため、海面上昇はあまり気にすることはないと思われる。
( → 該当サイト )
なお、クライトンの書籍によれば、実際に観測された海面上昇は、せいぜいごくわずかな値らしい。測定方法もいろいろあって、厳密な値を断定できるほどではなく、また、あったとしても、数センチ程度に留まるらしい。……これについても「海面上昇の有無については何とも言えない」というのが、妥当なところであろう。少なくとも、「陸地が水没する」というほどのことはない。ま、数センチぐらいの変動はあるかもしれないが、それは一日の潮汐の変動(場所により1メートル以上)よりも、ずっと小さい。
( ※ なお、ツバルなどの珊瑚礁諸島が水没するというのは、別の理由も考えられる。珊瑚礁の島が、島の重みで地盤沈下していく、ということはあり得そうだ。また、局地的な地盤沈下が起こっているということもあり得そうだ。……この点では、局地的な事象を一般化することはできない。「一事が万事」という外挿法的な発想は成立しない。)
( ※ 余談だが、外挿法的な発想に、人々はあまりにもとらわれがちだ。「これまではそうだったから、未来でもそうだろう」と。その例は、プロ野球にも見られる。「昨年は巨人と中日が強かったから、今年もそのどちらかが優勝するだろう。阪神はずっと弱いだろう。昨年と同様に」と。これがシーズン前の専門家の予想だった。私だけは「阪神優勝」と思ったけれど、そう思った専門家は、阪神出身の専門家を除いてほとんどいなかった。……そして、今や現実には、「阪神のぶっちぎり」である。外挿法の発想なんて、全然アテにならないのだ。 → ほぼ同趣旨の話 )
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まとめ。
地球温暖化がある程度起こっている、というのは正しい。ただし、その規模は、過去における気象の周期的な変動の幅を抜け出しるかどうかは、議論の余地がある。温暖化傾向が、本当に人間の炭酸ガスのせいなのか、あるいは違うのかは、何とも言えない。統計的誤差の範囲内を大きく逸脱してはいない。
つまり、「地球温暖化なんか起こっていない」というふうに否定するつもりはないし、「地球温暖化はまさしく起こっている」と一応言えるのだが、それが人間の人為的活動のせいだと断言するのは非科学的だし、また、百年後にものすごくひどいことになっていると(予言的に)断言するのも非科学的だ。
現状では、「よくわかっていない」「だから先のこともわからない」というのが、妥当なところだ。にもかかわらず、「地球温暖化はものすごい問題だ」と大騒ぎするのは、科学的に妥当ではない。
( ※ その意味では、環境保護論者への批判論者[クライトンなど]の意見は、まったく妥当である。)
[ 付記1 ]
ただし、だからといって、「地球温暖化を阻止する京都議定書などを守る必要はまったくない。炭酸ガスを出し放題にしていい」と主張するつもりもない。
なるほど、「地球温暖化は人為的な炭酸ガスのせいである」とは言えないが、「地球温暖化は人為的な炭酸ガスのせいではない」とも言えないからだ。肯定できないからといって、否定できるわけではないからだ。
この点では、私は、クライトンの立場(否定論)とはかなり異なる。これについては、前項で述べたとおり。
[ 付記2 ]
単純に言えば、地球温暖化を声高に唱えることは、「オオカミが来た」という嘘を声高に唱えることだ。
それは明らかに(根拠のない)嘘であるのだが、その嘘を叫ぶ少年は、「だって本当にオオカミが来たのを見たんだよ」と信じきっている。本当は、彼が見たのは、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」であって、ただの犬の遠い姿であったのだが、勝手に勘違いして、「オオカミが来た」と叫ぶ。
彼が叫ぶのは善意ゆえだし、人々を救おうとしてのことだ。だが、彼がそう叫ぶせいで、人々の仕事はメチャクチャになり、人々は大損する。
そしてまた、彼が叫んでいることは、常にまったくの嘘だというわけではない。十回目ぐらいには、それが真実となり、まさしくオオカミが寄せてくる。(確率的に、10分の1の真実。)
では、こういうふうに大げさな嘘をつくことは、善なのか、悪なのか? ……これが地球温暖化の問題だ。マスコミの多くは、「善意ゆえなのだから、少しぐらいの嘘と誇張は許される」と考える。クライトンや私は、「あまりにも誇張された言葉は、嘘であって真実ではないぞ」と指摘する。すると環境保護論者は、曲解して、揚げ足取りをして、「だったら省エネなんか何もしないでいいというのか? 途方もない無駄をやり続けてもいいというのか?」と非難してくる。
こうして彼らは、自分の嘘を正当化する。 (政治活動とはそういうものだ。真実か否かではなくて、嘘の正当化をするものが勝者となる。 (^^); )
[ 付記3 ]
炭酸ガスの抑制は、「地球温暖化阻止のため」ではなくて、「限られた資源を有効に使うため」という意味で、絶対に必要である。(前項で述べたとおり。)
そして、このことは、意外な方面で明白になる。たとえば、次のことだ。
「米国の三大自動車メーカー(ビッグスリー)は、大型の高燃費車の売れ行きが悪くなったせいで、シェアをどんどん落として、規模が縮小し、そのせいで大幅赤字になっている。いずれも倒産寸前の状態だ」
( → 2008-07-05 ごろの新聞報道。)
石油資源が限られているならば、石油価格は高騰する。それに応じて消費者はガソリンがぶ飲みの大型車を嫌う。なのに、そういう時代の趨勢を見抜けずに、「省燃費なんかどうだっていいのさ」なんてうそぶいていると、自分で自分の首を絞めることになるのだ。
情けは人のためならず。省エネは人のためならず。他人でなく自分のために省エネは必要である。……それが人類の取るべき立場だ。
人類は、地球環境を救うためではなく、自分の生活を救うためにこそ、省エネをする必要がある。これが基本原理だ。
とはいえ、マスコミの多くは、その真実を知らせず、「地球環境を救おう」というようなデタラメばかりを、非科学的に報道する。悪意のない嘘ではあるが、嘘が出回るせいで、嘘を信じなかった人々がかえって苦しむハメになる。嘘はまことに罪深い。
[ 付記4 ]
ついでに現実の結果のことを述べておこう。
「地球温暖化を阻止するために、炭酸ガス排出量を削減する努力をしよう」
というのが京都議定書やG8サミットの方針だ。しかし、こんな方針は、ほとんど意味がない、と言える。
(1) こんな方針をしようがするまいが、どっちみち、炭酸ガス排出量は増える。中国やインドや途上国の石油需要は増えるし、各国の石油供給も増えるから、毎年少しずつ、炭酸ガス排出量は増える。……そして、「炭酸ガス排出が破滅をもたらす」というシナリオが真実であるとすれば、世界はまさしく破滅してしまうのだ。(私はそんなことがあるとは信じないが、恐怖に駆られた人々はパニック状態になって、右往左往するだろう。)
(2) 「世界が破滅する」というパニックに駆られて、「どうしても炭酸ガス排出量を減らさねば」と思うのであれば、世界の石油生産を大幅に減少させる必要がある。つまり、石油価格高騰が起こっている現時点において、石油を増産するのではなく、石油を大幅に減産する必要がある。……だが、そんなことをすれば、「石油価格の大幅上昇」が起こって、世界経済は壊滅的になるだろう。ガソリンなどの価格は3倍ぐらいに上昇して、さまざまな生産活動が大幅に停滞してしまうかもしれない。下手をするとスタグフレーションとなり、バブル破裂を上回るすごい不況が押し寄せるかもしれない。(しかも今度はデフレではないから、「物価上昇」というおまけが付く。ダブルパンチだ。)
環境保護論者は、「炭酸ガスを減らそう」と唱えるとき、「石油燃料の需要を減らそう」と唱える。しかし、「石油燃料の需要を減らすこと」で得られる結果は、「石油燃料の価格を下げること」であって、「炭酸ガスを減らすこと」ではない。
そして、「炭酸ガスを減らすこと」を目的とするのであれば、「石油燃料の需要を減らそう」と唱えるのではなく、「石油燃料の供給を減らそう」と唱えるべきなのだ。……そして、その結果は、石油価格の異常な高騰である。
そんなことでいいのか? 来るか来ないかもはっきりとしない破滅を恐れて、現在の生活を根本的に破壊するようなことがあっていいのか? 莫大な損失ゆえに(主として途上国で)数千万人か数億人が死ぬかもしれないというのに。
( ※ 現実には、サミットの先進国は、石油の増産という方針を打ち出している。つまり、馬鹿ではないが、自分の言っていることが矛盾していることに気がつかない。一方では「石油節約・炭酸ガス減少」と言い、他方では「石油増産・炭酸ガス増加」と言う。論理的破綻をしても気がつかないわけ。)
[ 付記5 ]
そもそも、私の考えでは、「省エネをしよう」というのは、「石油不足に対処して生活を守るため」(価格高騰を防ぐため)であった。ところが、「炭酸ガス抑制のため」というのを目的にするのであれば、「石油減産をせよ」という結論となり、価格高騰を防ぐどころか、かえって招いてしまう。不幸を避けるどころか、かえって招いてしまう。これでは本末転倒であろう。
だからこそ、やたらと「炭酸ガスを減らせ」とヒステリックに騒ぐべきではないのだ。まして、「太陽光発電や燃料電池に数千億円を投じよ(大金をドブに捨てよ)」などと唱えるべきでもない。
恐怖にとらわれて、パニック状態になることは、人類を破滅させる。人類を破滅させるものは、炭酸ガスではなくて、「炭酸ガスが怖い」という妄想なのだ。
( ※ クライトンは「恐怖の存在が必要だ」と述べているが、とんでもない。恐怖などはあってはならないのだ。恐怖は、必要なのではなくて、人間の愚かさに付随するものだ。ほしいからあるのではなく、ほしくもないのにあるのだ。人間の愚かさゆえに。……だから一番大事なのは、「人間は愚かな存在だ」ということを理解することだ。恐怖であれ何であれ、人間は自分の必要とするものを制御できるほど賢明ではない。ほしくもないものをあえて招いてしまう、という愚かな存在なのである。そして、それに気づくことが大切だ、と唱えるのが本サイトだ。「パニックにならずに冷静に科学的に考えよ」と。)
[ 付記6 ]
私見を言えば、「気候変動」なんて、大した問題ではない。過去の地球の歴史では、すごい氷河期が何度もあったし、もっと暑い時期もあった。長い地球の歴史のスケールでは、現在の気候変動の幅は、ほとんど無視できるほどだ。「地球が破壊される」と想像するのは、ほとんど杞憂だと思える。
仮にグリーンランドの氷が全部溶けたって(そんなことは現実的にはありえないと判明しているが)、それでも地球の気象の大幅な変動のひとこまにすぎない。「気温が急低下する」ことは生物環境に大きな影響をもたらすが、「気温が少し上昇する」ことはあまり大きな影響をもたらさない。
どうせ心配するなら、(バイオエタノールの増産による)森林の減少や、(穀物の増産による)河川の水量減少や干潟の減少の方を、心配するべきだろう。こちらの方がよほど生物に悪影響がある。
平均気温が1度上がることを心配するよりは、莫大な土地環境を破壊していることの方こそ、心配するべきだ。
( ※ といっても、人間はエゴイストですけどね。自分の心配ばかり。そういうエゴイスト連中が「地球温暖化」を心配して、「環境破壊」の方をなおざりにする。歪んでいますね。)
【 関連項目 】
→ 前項(マイクル・クライトンと地球温暖化)
→ 次項(環境保護と市場原理)
この説はちょっと感覚的に納得できないものがあるので、ちょっと考えてみました。
マクロなモデルで太陽と大気と地球を考えると、熱的な平衡状態で地表付近の大気温度が1℃あがったとすれば、地表面の温度も1℃あがっていると考えるのが妥当であり、地表面が1℃温度上昇するような状況が発生するとすれば(地球表面全体を1℃あげるほどの熱量があれば)、大陸上の氷もそれなりに溶けるのではないでしょうか。
納得しにくいかもしれませんが、短期と長期で分けて考えるとわかります。
一定の熱量があるとして、その熱量の温度上昇効果があるとします。
短期的には、その熱量は大気だけを暖めて、海水にはほとんど影響しません。大気ばかりが急上昇します。(1000倍で)
長期的には、大気と海水を同じ温度にしますが、その過程で、大気の熱量は海水に吸収されるので、海水が温まった分、大気の温度は下がります。(1000分の1になります。)
引用した文章は、ちょっと不正確なところがありますね。その意味で、疑問は妥当ですが、上のように理解するといいでしょう。