マイクル・クライトンの「恐怖の存在」という小説が、地球温暖化を否定する科学的な主張を示している。それをそのまま鵜呑みにしていいか? 論評してみよう。
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この本は、Amazon のサイトにある。(読者の感想も見られる。)
→ マイクル・クライトン「恐怖の存在(上)」
まず、小説として面白いかどうかと言うと、「並みである」と言えよう。著者の昔の作品(ジュラシックパークなど)に比べると、全然劣るが、普通の小説としてくれば、悪くはない。最初の方は全然つまらないが、我慢して読み続けると、後半になるとそこそこ面白くなってくる。
ただ、娯楽小説としてみるとたいしたことはないのだが、科学書または啓蒙書としてみれば、非常に優れている。ノーベル賞をもらったゴアの「不都合な真実」と比べても、同じぐらい優れている。いや、クライトンの方がずっと優れている。独創性がある。(それに比べればゴアの方は独創性は皆無だ。ただの引き写しにすぎない。)……その意味で、「ノーベル賞をもらうぐらいの価値はある」と言える。
( ※ 皮肉まじりですけど。ノーベル文学賞ではないので、念のため。 (^^); )
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では、本題(文学的な面白さ以外のこと)について述べよう。こちらが肝心だ。
この本で述べているのは、「地球温暖化を否定する」ということだ。もうちょっと正確に言えば、「地球温暖化が温暖化ガス(炭酸ガスなど)によって起こった」ということを否定している。地球温暖化そのものも、いくらかは否定している。
こういう話は、前に聞いたことがあって、そのときは「胡散臭いことを言うやつだ」と思ったものだった。 (^^);
しかし、この本を熟読してみると、そういう単純な話で済むものでもない、とわかる。
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初めに私の結論を言うと、こうだ。
「この本(恐怖の存在)は、半分だけ正しい。全面的に鵜呑みにすることはできないが、半分ぐらいは正しい。そして、その半分ぐらいのところに、大きな価値がある」
さらに詳しく説明しよう。
(1) 全面肯定はできない
著者の言っていることを全面肯定することはできない。つまり、
「地球温暖化なんか、あったとしても大したことはないぞ」
という肝心の主張については、肯定できない。
なるほど、著者は多くの文献を用いて、「地球温暖化なんか、大したことはないぞ」ということを示している。しかし、そこで示しているのは、「地球温暖化は大変だ」という主張が怪しい、ということだけだ。
つまり、こうだ。地球温暖化の犯人(炭酸ガス)を、黒と見なすか否かという問題がある。これについて、ゴアなどの環境保護論者が、
「クロだ」
と主張しているときに、クライトンは、
「シロだ」
と主張する。ただし、そこでは、「クロだという論拠はあやふやだ」ということであって、はっきりと「シロだ」と主張するほどの根拠はない。「クロだという論拠はあやふやだ」というのが正しいのであれば、「シロだという論拠もまたあやふやだ、と言える。
この点は、次の二つのサイトでも指摘されている。
→ デービッド・サンダロー、ブルッキングス研究所
→ マイケル・クライトンが指摘した主要な論点に対する回答
ま、クライトン自身も、「クロではない」というふうに示している(巻末付録で)のだが、本文中の口調はどうしても、「クロじゃないからシロだ」という感じの話が延々と続く。つまり、「クロであることの論拠が不十分だ」というよりは、「クロではない」という趣旨になりがちだ。
なお、私なりに「地球温暖化があること」(クロであること)の根拠を示そう。次のことだ。
「地球規模で生態系が変化していること」
たとえば、低地に住む動物や植物が、どんどん高地(寒冷な場所)に移動しつつある。また、熱帯や温帯に住む動物や植物が、どんどん高緯度(寒冷な場所)に移動しつつある。同じことを別の面から言うと、一つの土地に住む生物がだんだん南方の生物に置き換わりつつある。
わかりやすい例で言うと、桜前線の日付が明らかに温暖化の傾向を示しつつある。
このように、生態系のレベルでは、明らかに地球温暖化は進行しつつある。私はそう考える。
( ※ ただし、それはかなり小規模である。南極の氷が溶けるとか、あちこちの氷山が溶けるとか、ハリケーンが大量に発生するとか、そういう極端な大規模な変動が本当に起こっているかというと、これは、大いに疑問符が付く。その意味では、ゴアの言っていることは嘘八百で、クライトンの言っていることが正しい、と見なせるだろう。同趣旨の話は、ネット上にも散見される。)
しかし、である。小規模な変化は、生態系レベルの変化としては現れても、人間の肌の実感としては、なかなか検知されない。
たとえば、われわれの夏の気温は、はっきりと温暖化しているとは言えない。今年の日本の夏はかなり涼しいが、昔はもっとすごい猛暑がいっぱいあった。
ま、冬の日本に限れば、かなりの温暖化傾向を感じられるが、それはどうもヒートアイランド(都市化)のせいであるらしいから、事情は異なる。
こういうふうに、人間の肌の実感としては、地球温暖化はなかなか検知されないものだ。
ただ、それでも、動植物の生態を見れば、地球温暖化は明らかに進んでいる。生態系レベルでは、小規模ながらもはっきりと地球温暖化は進んでいる。── これが私の判断だ。
( ※ マイクル・クライトンは、このような生態系の変化を見逃している。あくまで気象観測所のデータなどにこだわる。大規模な変動についてはうまく否定しているが、小規模な変動については特に言及していない。そのせいで、否定論ばかりが目立つ。)
(2) 環境保護論者の批判
では、クライトンの主張は、まったくの与太か? ただのトンデモふうの意見か? 実は、そうではない。むしろ、まったく逆だ。
彼の主張は、自説の主張としては、まったく心許ない。しかしながら、他人の主張を批判するときは、非常に舌鋒が鋭くなる。特に、次の点だ。
「環境保護論者の主張のほとんどは、嘘と誇張とデタラメばかりである」
実を言うと、私もまた、「環境保護論者の主張の多くは、嘘と誇張とデタラメばかりである」ということを主張してきた。前項までの多くの項目は、このテーマで述べられてきた、と言える。
たとえば、「レジ袋の有料化で資源節約になる」とか、「太陽光発電や燃料電池はすばらしいから、そのために莫大な補助金を出せ」というような方針については、徹底的に批判してきた。その非科学性や狂信性を指摘してきた。……ただし、その多くは、「省エネ」という視点を中心にしてきた。
一方、マイクルクライトンは、「省エネ」ではなくて、「地球環境保護」という視点から、環境保護論者の嘘をあれこれと指摘する。
彼はこのことをたっぷりと指摘する。さまざまな調査を見る。定量的な科学的研究報告をたくさん引用する。文献も示す。(相当手間暇かけていますね。)……これには私も脱帽した。
クライトンの示した具体的な例は、同書に山のように出てくるから、それを一つ一つ読んでみるといい。彼の話は、他人への批判はとても鋭いから、読むに値する。
たとえば、異常気象が頻繁に起こっているという話も、よく調べるとインチキらしい。(調査や文献も示してある。)
実際、体験的に言って、日本への台風の襲来を見ても、近年の日本でひどくなったということはない。どちらかというと、近年はあまり大型台風が来ないですね。 (^^);
なかでも、私が最も感心したのは、次の点だ。
「 DDT の禁止による環境保護、というのは、まったくの嘘である」
昔、シラミを駆除する DDT というのがはやったが、ある時を境に、まったく使われなくなった。というのも、禁止されてしまったからだ。ではなぜ、禁止されたか? 環境保護論者が大々的にキャンペーンをしたからだ。そのキャンペーンは「沈黙の春」という本で代表される。
「DDTという農薬が使われたせいで、自然環境からは虫も鳥類もいなくなってしまった。DDTを廃止せよ」
という趣旨だ。しかし、その趣旨は今日から見れば、まったくの間違いであった。
・ 発ガン性が指摘されたが、まったく発ガン性はない。
・ 農薬としての危険性が指摘されたが、DDTはその危険性は少ない。
むしろ、DDT 禁止後に使われた農薬の方が圧倒的に危険だ。
・ DDT はマラリアに有効だったが、DDT が使われなくなったので、
五千万人ほどの人命が奪われることになった。大量虐殺に等しい。
この件は、Wikipedia にも述べられている。クライトンの嘘ではない。
このことについては、次のようにまとめられる。
「たしかに農薬の弊害というものはある。農薬をやたらと使っても構わないと言うことはない。ただし、DDT は、農薬としては最も善玉の方であった。その善玉をヒステリックに禁止してしまったせいで、かえって悪玉の農薬がのさばることになった。見当違いの善意のせいで、かえって悪しき結果を招くことになった」
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クライトンは同書で、次のように語る。(登場人物の言葉で。)
「何事もメリットもデメリットもある。その双方を冷静に比較することが必要だ。いくらかデメリットがあるからといって、やみくもに否定してしまえば、同時に、メリットが失われて、かえって大被害を招きかねない」(下巻)
これはたしかにその通りだ。そして、ここで指摘された「ヒステリックな勝手な思い込み」というのは、たしかに、環境保護論者には、多く見られるのである。そしてまた、「データの歪み」というのも、かなり多く見られる。
たとえば、ゴアの主張する「不都合な真実」というのに出てくる話は、科学的にはメチャクチャな話が多い、とわかる。「海面が何メートルも上昇するかもしれない」というのは、現実的にはとうていありえないことだし、「南極の氷が溶けてきている」というのは、完全な嘘八百である。……つまり、針小棒大に誇張したり、一部を全体に見せたりして、真実とは正反対の虚偽を人々に訴えている。
そして、そういう環境保護論者の科学的なデタラメを、クライトンは見事に指摘する。
( ※ 「あんただってちょっと似たようなものだろ」と私は言いたくなるが、ま、それはそれ。 (^^); )
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で、私は何が言いたいか?
「地球温暖化は起こっていない」
と言いたいのではない。そんなことはありえない。しかし、
「クライトンに批判された環境保護論者は間違っている」
ということは、たしかに成立するのだ。
実際、多くの環境保護論者は、嘘ばかりをついている。彼らは、科学的真実など何もわからないまま、「太陽光発電と風力発電はすばらしい」と主張している。
だが、クライトンならば、こう言いそうだ。
「太陽光発電と風力発電を普及させようとすれば、莫大なコストがかかるので、そのコストの分で、莫大な死者が発生する(または救済されるべき生命が救われなくなる)」
そして、その批判は、まさしく正しいのだ。太陽光発電と風力発電と燃料電池を普及させるために、千億円単位の金をどんどんつぎこめば、医療崩壊を阻止するための金がなくなる。そのせいで、医療崩壊が進んで、何万か何十万かの人命が失われてしまう。……そういう狂気は、まさしく現在、進行中なのである。
結局、クライトンの主張をそのまま聞き入れる必要はないが、クライトンの警告の言葉はちゃんと耳に入れておいた方がいい。彼の警告を無視したまま、「自分は正しい」とばかり思い込むようだと、「善意ゆえに悪をなす」という結果になる。
これは、科学音痴にはありがちのことだ。
( ※ こういう「世間への警告」という意味では、私の立場とクライトンの立場は、きわめてよく似ている。……なお、私の警告については、前項までの話を参照。特に前々項の「サマータイムと人命」では、省エネ・ブームのせいで実際に多大な人命が失われる危険性を指摘している。)
( ※ 私の意見とマイクル・クライトンの意見がかなりよく似ているのを見て、「南堂は真似したな!」と思う人がいるかもしれない。……だが、残念でした、ハズレです。私がマイクル・クライトンの同書を読んだのは、前項を書き終えたあとです。……二人の意見が似ているのは、どちらもヘソ曲がりだから。ま、クライトンと私は、頭の構造がかなり似ている。主張していることは全然違うのだが、似ている感じはしますね。「そりゃおまえの自惚れだろ」と笑われるかもしれないが。 (^^); )
[ 付記1 ]
クライトンと私の立場の違いを示してみる。
(1) クライトン
「地球温暖化が炭酸ガス排出のせいだとは、とうてい言えない」
「京都議定書なんかナンセンスだ。炭酸ガス排出削減の努力なんか不要だ。」
「地球資源が枯渇しているなんて言えない」
「石油の浪費を抑制する必要があるとは言えない」
「省エネなんて、環境保護団体のプロパガンダにすぎない」
(2) 私
「地球温暖化が炭酸ガス排出のせいだという可能性は、なきにしもあらず。はっきりイエスと断定はできないが、その可能性は十分にある。」
「京都議定書は、必要だ。すぐ前のことがイエスと言えないからといって放置しておくと、知ったときには手遅れになりかねない。はっきり知る前に、あらかじめ予防措置を施しておくに越したことはない。(合理的な範囲で。)炭酸ガス排出削減の努力は必要だ。」
「地球資源が枯渇しているなんて言えないが、供給不足になることはある。その例が石油価格の高騰だ。絶対量は不足していないし、資源不足になることはないのだが、価格高騰は起こりうる」
「価格高騰を防ぐために、石油の浪費を抑制する必要がある」
「省エネは、ある程度は必要だ。ただし、環境保護団体の唱えるような、過剰な省エネは不要である。太陽光発電や燃料電池のために莫大な金をかけるというようなことは、ナンセンスだ。環境保護団体の間違いは、彼らの盲信と妄想から来る」
[ 付記2 ]
すぐ上のことを論理的に示そう。
「炭酸ガスの増加」という現実(A)がある。
「地球が温暖化しつつある」という現実(B)が、一応はある。
そこで、環境保護論者は、
「AゆえにB」
という論理を唱えて、
「ゆえにBを阻止するためにAをなくせ。省エネをせよ。それは絶対的だ」
と主張した。
するとクライトンは、その論理の難点を指摘した。
「AゆえにB」
という論理が間違いであると示した。(炭酸ガスゆえに温暖化が起こる、ということはない、というふうに示した。)そして、
「ありもしない妄想を実現するために、省エネを絶対的と見なすのは間違いだ」
と主張した。ここまでは正しい。(相手の否定という意味で。)
しかしクライトンは、さらに次のような見解も示した。
「AゆえにB、というのが間違いだから、Bではない」
しかし、これは論理的に成立しない。「Bであるとは断定できない」とわかるだけであって、「Bではない」と主張するのは、言い過ぎである。
つまり、「CゆえにB」ということがあるので、「B」は成立してしまうのだ。
実際、そうだ。なるほど、石油の使用による炭酸ガスの増加は、地球温暖化の原因ではないとも言える。はっきりと明言できるほどではない。……その点で、クライトンは正しい。
しかし、だからといって、「石油の使用を減らさなくいてもいい。京都議定書はナンセンスだ」なんているのは、言い過ぎである。なぜなら、地球温暖化阻止のためではなくて、石油価格高騰を阻止するために、石油の使用を減らす必要があるからだ。
その本質は、「石油の使用を減らすこと」それ自体ではなくて、「石油以外の新燃料を開発する必要がある」ということだ。
現状では、中国やインドの経済成長にともなって、石油の需要が急増している。このままでは価格が高騰する。クライトンはこれに対して、「先進国は、自分がぜいたくをしたくせに、途上国にぜいたくを禁じるのは、エゴイスティックすぎる」と批判する。
違う。問題はそういうことではない。途上国にぜいたくを禁じるのではなくて、全世界の全員がぜいたくを禁じられるのだ。なぜなら、石油需要は急増するのに、石油生産量はほぼ一定だからだ。ここで「禁じられる」というのは、先進国の意思によって禁じられるのではなく、「市場原理」という価格調整によって禁じられる。そして、禁じられるのは、途上国でも先進国でもなく、全世界の全員なのだ。「途上国だけが損する」のではなく、「全員がすべて損をする」のだ。
そして、それを避ける唯一の策が、「新たなエネルギー源の開発」である。それは、たぶん、原発であろう。原発による水素生産もありそうだ。ともあれ、こういう形で、新しいエネルギー源を開発する必要がある。そして、それこそが、京都議定書の意味だ。
炭酸ガスの削減とは、炭酸ガスの排出量そのものを削減することではなくて、炭酸ガスの排出量の比率を削減することである。絶対量を減らすことではなく、相対量を減らすことである。そして、その意味は、「石油燃料をなくすこと」ではなくて、「新たなエネルギー源を開発すること」である。それのみが、「ともに貧しくなる」ということを避ける、唯一の道だ。
クライトンの主張していることは、論理的には正しいのだが、結論は完全に間違っている。
逆に、ゴアなどの環境保護論者の主張していることは、論理的には間違っているのだが、結論だけは正しい。ただし、論理的に間違っていることを理解しないまま、やみくもに省エネに猪突猛進すると、かえってひどいことになる。……その点は、クライトンの指摘するとおりだ。
[ 付記3 ]
環境保護団体のメチャクチャな主張は、どこから来るか?
クライトンは「恐怖の存在」が理由だと考えるようだ。冷戦時にはソ連という「恐怖」があったが、その後は「恐怖」がなくなったので、新たにソ連に代わる「恐怖」を作り出した。それが「環境破壊」だ。そして人々は「環境破壊」という新たな敵に向かって、大騒ぎする。……そう考えているようだ。(登場人物の口から。また、最後の付録説明から。)
しかし、「ソ連に代わる新たな敵」というのであれば、イラクのフセインやアフガンのビンラディンなどでしょう。
で、たいていのスパイ小説家は、そっちの方に走りたがるのだが、クライトンは科学系のサスペンス小説家だから、政治のかわりに科学ネタをもってきたのだろう。
しかし、私はそうは考えない。別に、恐怖なんか必要ない。単に「盲信と妄想」があるだけだ。そして、その根源は、「無知と善意」である。
たいていのインチキ科学的な政治ブームは、「無知と善意」から生じる。そこには「盲信と妄想」が必然的に生じる。「レンジ袋有料化」もそうだが、「無知と善意」から生じて、「盲信と妄想」として拡大する。
思えば、クライトンが文中で指摘した「DDTの盲信」であれ、「優生学の盲信」であれ、いずれにせよ、「無知と善意」から生じたインチキ科学的な政治ブームであった。
だから、私はこう結論しておこう。
「人は、自分が正しいことをしていると信じるとき、盲目になる」
と。DDT もそうだ。現代の太陽光発電や燃料電池への狂信的な崇拝もそうだ。いずれにしても人々は、自分が正しいことをしていると信じて、盲目になる。
似たことは、他にもある。「原発は駄目だ(廃止すべし)」というのもそうだし、「死刑は駄目だ(廃止すべし)」というのもそうだ。こういうことを主張する人は、たいてい、自分が正しいことをしていると信じて、盲目になる。
その本質は? 倫理的な「正しさ」を、科学的な「正しさ」と混同してしまうことだ。「自分は倫理的に正しいことをしているのだから、自分は正しい」と信じて、そのせいで、「自分は科学的には正しくないことを主張している」ということに気がつかない。
そこにあるのは「錯覚」である。……大いなる錯覚。
そして、ここまで見れば、この「錯覚」が、イラク人質事件やライブドア事件と、きわめてよく似ていることに気づくだろう。
つまり、頭に血をのぼらせて、大批判をすればするほど、よりひどい悪を見逃してしまう。つまり、真実に対して盲目になる。そして、それというのも、「あいつは馬鹿だ、悪党だ」と批判するとき、「自分は正しい」と自惚れることができるからだ。
だから、環境保護問題における誤認や倒錯の根源は、世間における「恐怖の存在」なんかではなくて、世間における「自己反省の欠如」なのである。人々は、「自分は正しい」と思えば思うほど、真実を見失う。そして、真実に気づく方法はただ一つ、「自分は間違っているのではないか?」と常に疑いつつ、他人の批判に耳を傾けることだ。
( ※ 一方、その逆は、世間を洗脳することだ。朝日の得意技。)
[ 余談 ]
環境保護論者の狂信性に似たものに、スポーツの「ドーピング違反」というやつがある。普通のドーピング違反を摘発するのはいい。しかし、病人向けの薬まで一律に禁止するのは、おかしいだろう。
→ 石川遼の風邪薬服用
つまり、「ドーピングはいけない」という原理をやたらとふりかざしたせいで、病人のために必要な治療薬さえも禁止されてしまう、というわけ。原理にこだわるあまり、人間の生命や健康を危険にさらすことも厭わない、というわけ。
これと似たことは、我那覇の問題にもある。(ビタミンを注射してもらっただけでドーピング違反となった。この問題は、「当時は規制されていなかった」という理由で免罪になったが、同じことをまたやれば、今度は明らかにドーピング違反となる。すでに規制されているからだ。)
だが、常識的には、医師が一般人に処方する程度の薬物は、医師の承認のもとで、許可されるべきだろう。これはドーピングとは違う。
なのに、こんなものを「ドーピング違反だ」として禁じるなら、われわれ普通の市民の薬物治療さえも禁止されかねない。そのせいで病人が大量に死んでしまうかもしれない。(少なくとも、一般のアマチュアスポーツ選手が、ドーピングの恐れゆえに病気の治療を受けられない、という可能性は十分にある。そこいらの中学生が死んでしまうかもしれないのだ。狂信的なドーピング規制ゆえに。)
DDT の場合によく似ている。「こいつは駄目だ」という狂信的な信念ゆえに、かえって大量の人命を奪う結果となる。原理にこだわる狂信性というものは、まさしく非常に危険なのだ。
これはまた、イスラム原理主義にも似ている。
結局、環境保護やドーピング禁止の狂信者というのは、テロリストの一種だと思った方がいいのかも。彼らはおのれの原理を何よりも重視する。そうして人々の生命を奪う。
【 関連項目 】
→ 省エネという自己満足 (前項)
→ 地球温暖化の有無 (次項)
2008年07月05日
◆ マイクル・クライトンと地球温暖化
posted by 管理人 at 17:46
| Comment(3)
| エネルギー・環境1
そして、地球温暖化詐欺のトリックは、1990年以降の平均気温データの算出方法にあると推測しています。
@ヒートアイランド現象によって近年急上昇している都市部の気温データを、少しだけマイナス補正するが、必ず少しだけ上昇した結果にする。
A集計する観測地点の内、気温が低下している地点を少なくすること。
つまり気温が上昇した10か所の観測地点と、気温が低下した5か所の観測地点をプラスして割り出した平均気温だということです。
たとえば、ありもしないコンピュータウィルスが発生し流布しているという噂をSNSやブログにばらまく。そういうことをしている人たちが多く存在します。彼らは嘘と知っていて、人々の恐怖をあおり教育をしているつもりなわけです。恐怖をあおれば本物のウィルスがはやったときに自己防衛をとる術を知っているからということですね。マイケルの主張はアメリカ文化に相当根ざしたものだと思うわけです。恐怖は必要ないとするあなたの考えは非常に冷静かつ純粋なご意見ですが、一般の世界はそのように動いていません。特にアメリカでは、恐怖をあおって人心をまずは惑わす、そして自己防衛本能をつけろと強要する輩がたくさんいます。ゴアの18番のセリフ。環境問題は心で感じてください。あれは、心が恐怖に動かされやすいということを知っていながらの発言で、彼の主張が正しいことを証明するには、恐怖をあおることこそが早道だと思っているからこそやってるわけですね。