第1回 コロンビア大学で久和ひとみさんと「再会」する。

渡辺 真理インマーマンさんと筆者(WEAIで)

 この4月から、本欄でコラムを書きますよ。「WEB多事争論」の幅を広げて、頭の柔軟体操をするのに少しでも尽力できれば、天国の筑紫さんも喜ぶでしょう。いや、御大はあの世でも結構忙しがってるかな? 「あいやっ!」とか言ってね。それとも、眼下の状況をみて…………。

 僕は、2008年7月からNY生活を始めた。肩書きはアメリカ総局長だけれど、同時にコロンビア大学のProfessional Fellow という身分をいただいた。日本語に訳すと「客員研究員」ということになる。9月からコロンビア大学のWeatherhead East Asian Institute(ウェザーヘッド東アジア研究所)のフェローとしての期間が始まり、ワークスペースも与えられた。ワークスペースは他のフェロー4人との相部屋だ。ちょうど8か月が過ぎた。研究所の入っているInternational Affairs ビルディングには、世界各国から学生たちが集って勉強している。多くは20代前半の若い学生たちだ。そのなかに55歳のおっさんが一人混じっている。僕だ。いくら若ぶってみても、自分の息子や娘みたいな人たちに同化することなんて不可能だ。どこに行っても、教師も含めて僕が最年長だ。プログラムには決まったObligationがあるわけでもなく、自由に研究しなさい、という緩いコースだ。講義を聴講したり、研究者にアポをとって会いに行ったりすることができる一方で、すべて自分で自分を律するというのは自由であるようでいて自由ではない。ルーティーンがあって身を任せているのがどれだけ楽なことか。それがないのである。コロンビア大学はアイビーリーグのひとつなので、レベルの高い学者がレクチュアに訪れることも多い。正直、まさか、この歳で大学生をやるとは思わなかった。

 ここでもトホホ話や、スッゲエ話をおいおい書いていこう。さて、このWEAIのフェローには僕のつとめている会社から過去にひとり2年間在籍していた人がいる。1996年から98年までいた久和ひとみさんだ。彼女は6年間『JNNニュースの森』という番組でキャスターを務めた後に、このコロンビアに単身で留学してきたのだ。その時彼女は35歳だった。ということは僕よりも20歳も若かったわけだから、僕のケースの特殊さは押して知るべしである。フェローにはFaculty Sponsorという「身元引受人」が必要だ。僕の場合、ロバート・インマーマン(Robert Immerman)さんに引き受けていただいた。インマーマンさんは、元国務省の外交官で、日本の大使館にも勤務していた。公使として1990年に国務省を辞す前の年から、コロンビア大学で、このフェロー・プログラムの世話に関わってきたという。インマーマンさんと話していたら、国連での日本の地位向上のための運動などにずいぶん深く関わっていたことを話してくれた。そもそもこのプロフェッショナル・フェローはいつごろからどんな経緯で始まったのかを尋ねてみると、1988年からだという。ジャーナリストや官庁からの研究職の人たちが参加したのが始まりで、過去のフェローたちの思い出話をしているうちに、先の久和ひとみさんに話が及んだのである。今でも強い印象が残っているという。よく頑張っていた、と。インマーマンさんの部屋からの帰り際に、本棚にあった彼女の本が目にとまった。『ニューヨークで見つけた新しい私 35歳からの留学ストーリー』(ダイヤモンド社)だ。このWEAIにフェローとして来てからの日常が飾らない筆致で描かれている。彼女は帰国後、テレビ東京系の夕方ニュースのキャスターをしていたが、わずか2年で癌を発病し、40歳という若さで亡くなった。インマーマンさんから借りた彼女の本の扉に、「謹呈  インマーマン先生  久和ひとみ 1998.9.22」と彼女の自筆のサインがあった。キャスターという肩書を捨て、離婚を経験した後、単身でここへ飛び込み、帰国時には逞しくなって帰って行った。久和さん、あなたより20年歳を食って、僕もここで同じような思いを経験しているのかもしれませんよ。何だか、彼女とここで再会したような奇妙な気持ちになった。


久和さんのサインのあるコロンビア留学体験記

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