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Chikirinの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2009-04-16 全体最適 vs. オレ様最適

この前、友達と飲みに行って議論してて、友達のある意見に対してちきりんが「でもさあ、それって全体最適の視点からの意見だよね?」って言ったら、その友達が怪訝な表情をして言った。


「そうよ。というか、全体最適でしかモノ考えたことないんだけど?」


あっ、そりゃそーだな、とその場では納得したんだけど。でも家に帰ってから考えたらなんだか不思議だな、と思って。だって「全体最適の視点で考える」のって決して「自然」ではないよね。一番自然なのは明らかに「オレ様最適」でしょ。上品に言えば「自分最適」というか。

子供は全体最適なんか考えないじゃん。人が4人いてお菓子が4個あっても自分が2個食べたければ2個食べる。それがオレ様最適。一方で、最も栄養が必要な人にまず与えるとか、もしも遭難してるボートの上だったら「漕ぎ手にまず必要な分だけ配分」というのは、決して自然な思考ではなく、後天的に何かを学んだり教え込まれたりしているわけですよね。

そこで今日のテーマは、生まれた時には誰だって「オレ様最適で考える人」だったのに、どこでどうやって「全体最適で考える人」になるのか、ってこと。しかも実は全員がそうなるわけではなく、そうなる人とならない人がいるように思えるので、“なる人”ってのは、どういう人で、どのような経緯を辿って「全体最適が普通でしょ」みたいになるのかってのを考えてみるですよ。


でもその前に全体最適系の思考で典型的なのをふたつほど書いておくと、一つ目が「トリアージ」ですね。大災害の時に医者がまずやるべきは患者の選別である、ということ。大量の負傷者がでた時には全員一斉に治療を始めることができない。

なので「治療しても無駄な人」「治療したら意味がある人」「治療してもしなくても大丈夫な人」みたいに分けていく。で、治療にあたっては「傷が重い人」ではなく「治療の意味のある人」が優先される。

つまり「やっても助からない」と判断されると、後回しにされる、ってことでもある。「救える命の数」は全体として最大化できるけど、個別には最も重篤な人が治療を受けられるわけではない、ということになります。

もうひとつは金融機関への公的資金の注入。普通の企業は容赦なく倒産させられるのに金融機関に関してはかなりの「経営のミス」や「モラルハザード」による暴走であっても、躊躇無く税金が投入される。もしくはどでかい会社(ダイエーとかGM)は、中小零細企業に比べて、政府の支援を受けやすい。

なぜかというと「全体の経済のため」という視点でみると、潰すより助けた方が(助けるのにかかる税金コストを考えても)得っていう計算だと。で、「助けるべきなのか、ほんとにこいつらを?」みたいな会社が優先して助けられる。これも全体最適の判断例ですね。



さて、今日の本論に戻りましょう。なんで(一部の)人は「全体最適で考えるべき」というようになるのか


(1)全体最適で考えるのが合理的であると教育&訓練されている。

家庭で、学校で、会社で?

家庭で「全体最適で考えなさい!」みたいな教育を受けた覚えはない。まあそういう家もあるかもしれないけど。

学校は?学校では真逆に教えられた気がする。たとえば成績のいい子が模試を担当し、運動神経のいい子が運動会を担当し、どっちも能力の無い子は「花壇係」とか「給食係」になればいいではないか、というのは全体最適っぽいが、学校では全く逆ですよね。全員で勉強して、運動会では全員なんらかの競技にでるべきで、給食係は全員で分担すべきだと。

それぞれに得意分野を割り当てるよりは「一人一人が好きなことをやるべき」と、少なくとも言葉としてはそう言っており、オレ様基準で生きろ、とけしかける。

ところが会社では明らかに「全体最適で考えるべき」的な教育や訓練を受けますよね。自分の部署のことだけ考えてると「セクショナリズム」とか言われて「視点が低い」とか言われる。「全体最適を考えられる人こそ、上に行くべき人(昇進すべき人)だ」ということになってると思う。

このように会社が家庭や学校と違う理由は、会社は「組織のアウトプットの最大化」が使命であり存在意義だってことでしょう。個別最適と全体最適が対立することなんてのはよくあって、なので「全体のアウトプットの最大化」が存在意義の組織では、「そういう場合には躊躇無く全体最適で考えるべき」という思考を刷り込むわけですよね。


そして、この点においてとても興味深いのは“国”というのは、全体のアウトプットの最大化が目的の集団なのか?ということだ。

家庭や学校が必ずしもそれを目的としていないために、会社とは異なる判断基準を採用しているとしたら、国ってのはどっちなのさ?と。ねえ。(結構自明か?いや、議論があるのかな?)


さて2点目。

(2)正義や価値観問題としての“全体最適エライ論”が存在する。

(1)は“アウトプットの最大化のための、個の犠牲”という“合理性の話”なのだけど、(2)として、そういう生産高の話とは別に「全体のための個の犠牲」という価値観を高く評価する傾向があると思うんだよね。“価値観問題”、自己犠牲エライ!みたいな。

これは何から来てるんだろう?儒教かな?それとも日本独特のもの?確かに「個々人の希望を全体のために抑制すること」を是とする考え方って、欧米より日本のほうが強い気がしますよね。

というわけで、どこから来てるのかわからんのだが、この「自己犠牲エライ!」「自己抑制、美しい!」「自己より団体を優先する、って徳が高い!」みたいな概念、価値観、これが強くすり込まれると、「なんだって全体最適で考えます」っていう感じになるんだろうな、と思う。

「全体最適で考えないなんて身勝手である」という感覚は、ここからきていると思う。


そして三点め。

(3)“全体最適=自分最適”の人と、“全体最適=オレは損する側”の人がいる。

実はちきりん、これが結構でかいのではないかと最近思っているのです。たとえば銀行に勤めている人が「銀行に公的資金を入れるのは日本経済全体のためになる」と主張するみたいなもんです。

それって「全体最適=オレ様最適」じゃん、と。全体最適のためだ!って言ってるけど実はオレ様最適なんじゃないの?っていう。そんなケースが多いんじゃないの?と。


反対も同じです。「全体最適」で考えると、「自分の人生において一度も得をしない人」がいるんじゃないかと。そうすると、そういう人は「全体最適」というのは「詐欺的な理屈である」と思うようになるでしょ。

理屈的にはね、全体最適の追求において、“顔無き個”というのは“得する個”と“損する個”に別れる。けれど、どれか特定の個が常に得したり常に損したりすることにはならない、というのが“想定されている前提条件”だと思う。だけど実際には「かなりの確率で得する個」と「かなりの確率で損ばかりしている個」というのがあるのかもしれない。

すると、「かなり得しやすい個」は「全体最適で考える人」になり、「損ばっかりしてる個」は「そんな概念はまやかしだ!騙されるな!」ってことになるよね。

全体最適を判断基準とされると、自分は常に「犠牲側」もしくは「益が少ない側」におかれるという経験則的な確信がある人にとっては、全体最適なんて受け入れがたい考えだろう。


そしてそれは必ずしも客観的なものではないかもしれない。主観的に、もっといえば「被害妄想的に」そういうことが起こりえる。「全体最適なんかで判断されたら、オレ様が得することは絶対ない!」みたいに“思い込む”というケース。そうなると、この人は全体最適的な理屈を支持しなくなると思う。

そういうこともあるんじゃないかなと。



まあ、そんなことを思ったわけですわ。



何が言いたいのかって?

「全体最適で考えるのなんて、あったりまえじゃない?」という人に、ちょっとだけ考えてほしいわけ。そう考えないということは、本当にそんなに視点の低い、考えの足りない、責められるべきことなのか。

ってね。



天に唾?



ん〜じゃ。

dekainodekaino 2009/04/16 05:55 「全体最適で考える」というスタイルは別に高度な教育を受けて初めて獲得するものではないと思います。
むしろ人間の本能的性向に基づく割と原始的な思考スタイルでしょう。
誰に教えられたわけでもない幼児でも共感能力や仲間意識を持っているものです。
特に共犯意識を共有するグループは自分ひとりの利益よりグループ全体の利益を優先しがちです。

全体最適戦略は、群れをつくる習性のある動物なら普通に持っている原始的本能ではないでしょうか?

skycommuskycommu 2009/04/16 06:38 進化心理学的に言って、全体最適に考える人は、適応的だったのではないかと思います。

オレ様にしか考えられない人は相互扶助を前提とする集団社会から排除され、子孫を残せないでしょうから。

結果、全体最適の考え方を発現する遺伝子が大多数になったのではないでしょうか。

kacho007kacho007 2009/04/16 08:43 全体最適
CSR
エコ
論理的思考
コンプライアンス
セキュリティ
カイゼン
などなど、

流行りのビジネスワードを、そうでない場合と二元化して捉えて否定しちゃうという、流行語ヲタクは確かに存在します。

見分け方としては、「えっ?家で日経とってないの?」のように、フレッシャーズ向けのテレビCMみたいな発言が代表的です。

そんな彼らには、流行語を多面的に見て、自らの知識・知見と照合しながら咀嚼する【合理的思考】が欠落しているように見受けられます。

対処方は、

熱が冷めるのを待つ

もって1年、早ければ一晩という「人の噂も七十五日」理論があてはまりますので。

そんな彼ら彼女らは詐欺やマルチ商法の格好のターゲットですから、お付き合いに際してはリスクマネジメントとダイバーシティマネジメントなどの視点が肝要です。

list55stlist55st 2009/04/16 10:28 ん゛ん゛・・・ これはアイデンティティの問題もあると思いますよ〜。教育されなくても、人は成長していくにつれ視野が広がっていくのは普通です。
自分がしたいと思うことは『自分以外の自分ら(=他人)』もしたいと思っていると気づくことがあるわけで.. そうなってくると自分がしたいと思うことを叶えるにも自己以外との関係に整合性を取らないと叶えられないケースもあるでしょう。
..ってこれだと(3)の場合の意見みたいになってますけど、あくまでも私が思うことの中心は、それは学んで習得したことではなく、人間が成長(肉体的に)していけば経験から身に付けられるハズのものじゃないかと思います(>_<)/

kurodakuroda 2009/04/16 13:00 はじめてまして。

誤解を恐れずに言うと、全体最適なんかでモノが考えられるのは、神様ぐらいで、普通は部分最適なんじゃないかと思います。
ただ、人間である以上、オレ様一人で生きていられる人は稀有で、普通はある組織単位で見てしまいます。
たとえば家族とか。
子供から成長してある程度世界が見えてくると、オレ様最適より、もうちょっと大きな組織単位で最適を狙ったほうが効果が大きいことに気付きます。
父親からの小遣いをどんなに増やしても、自分が豊かになれる幅には限界があって、それよりは、なんとか父親にたくさん稼いでもらって、家族という組織単位で豊かになったほうが、幅が大きいって。

そういうことがだんだん、組織が大きくなって、会社に入ると会社最適になったり、政治家は我が国最適になったり。
それは自然だし、求められることでもあります。
自分の地位と、そのサイズが合わないと、いろいろややこしいことになりますよね。
そういう人もいっぱいいますけど・・。

乱文ですね。失礼しました。

meganeya3meganeya3 2009/04/16 15:13 ちきりんさんのこれまでの発言から考えるに、俺様最適を「つねに」低く見るのは危険だ、ということではないでしょうか。全体最適はまさに全体のためのシステムであって、有限なみんなの力をちょっとずつ分けてもらってうまく再配分することによって、既知の状況、小さな変化には非常にうまく働きます。ただ局所的なことから次第に大きな変化が起ころうとするとき、全体最適システムでは対応しきれなかったり、致命的に動きが遅くなりがちです。そんなときはけっこう俺様最適がスクラップ&ビルドをしてくれることがありますね。まあつねに俺様最適では単にメチャクチャですが、たまにはその意見をちゃんと聞いてみる道を残しておいたほうがいいと思います。

yamasin1129yamasin1129 2009/04/16 18:42 頭のよさ=抽象度が高い情報操作ができる事(全体最適思考とか)だと思ってたんですけど、それだけだと倫理な部分とか欠陥があるんですね。
厄介なのは全体最適思考を決定するのはいくら民主主義だっつっても全体から見ればかなり少数の人たちが決めるって事ですよね。
そうゆう人たちには多様な低い視点のディテールも知っていながら高い視点で考えれる人であってほしいです。

azarasiazarasi 2009/04/16 19:39 ちきりんさん、こんばんわ。
私は、全体最適というのは、勝っているチームが勝ち続けるためにルールを作り、そうでないチームに多数決で決めたルールだから守ってもらうよっていうような事と通じる部分があるように感じます。勝てないチームはどんどん勝てなくなっていくというか、勝ち負けではないと思うけど、きっと光が当たりにくい立場にずっといつづけなければならないんじゃないかと、今回の日記ではそんなことを思いました。
的外れなコメントでしたらすみません。

webeeswebees 2009/04/16 21:23 これは簡単。

「われわれ」と「われ」を区別して考えないから、そもそも俺様最適という概念がない。ただ、われ最適が、われわれ最適だと思っている人がいる。こういう人はメンドウくさい。

逆に「俺様最適」文化では、折り合いをつけるためにいろいろな技術(話し合いとか)が発達する(さもなければ群れが分裂したり破滅する)(※なので進化心理学では、利他行為がどうして発達したのかをことさらに研究する)

生まれたときは「われわれ最適」しかないと思う。なぜなら母親と私は同じだから。「俺様最適」が生まれる事を西洋心理学では『自我の確立」なんて言ったりする。日本人には「甘えの構造」があって母親と子どもが依存し合う関係が続くと言った心理学者もいる。