2009.04.13
【NEW】「大山倍達の遺言」では書かない、隠された<真実>とは!?(完全版)
「大山倍達の遺言」の制作に向けて300名近い極真関係者に取材・インタビューし、また当時のmedia資料を分析して明確になった事がある。大山倍達が逝った1994年4月から95年4月の大分裂までの1年間を詳細に再現してみると…結果的に<必然>として導かれる事である。
「大山倍達の遺言」は可能な限り<事実>しか書かない。<真実>は<事実>の積み重ねによって自ずと明らかになる。著者である私たちが自ら推論したり考察する必要はないのだ。
否、現実的には推論・考察なくしてReportageは成り立たない。ただ、私たちは敢えて著者としての<私観>を述べず、判断は読者に任せるという手法を取っている。これは機会ある毎に書いてきた。
だから、ここで書く事柄の核心部分は「大山倍達の遺言」には載らない。何故なら、それが明白であり、私たちはそれを確信している事であっても、結局は<推論>であり<私観>でしかないからだ。
以下は我々の<推論>と<私観>である…。
松井章圭が大山倍達の遺志を受ける形で2代目館長に就任したのは、実質的に大山が逝った翌日の全国支部長会議からと言える。同年5月10日の全国支部長会議に於いて、郷田勇三が司会進行する形で各支部長らに<2代目館長・松井章圭>を認めるか否かの評決を取った。
郷田は慎重を期す為、支部長1人ひとりを名指ししつつ順を追いながら賛否を問って行った。三瓶啓二のところに来た段階で、三瓶は露骨に不機嫌な表情を浮かべながら、郷田に向かって「時間の無駄ですよ。挙手でいいじゃないですか!」と、まるでこんな事は茶番だというアピールをした。
だが例えそれが茶番であろうが、この会議に出席した支部長全員が松井の2代目館長に賛意を示した事実は揺るがない。この日の評決を以て松井章圭が公式に大山倍達の後継者に就任した…過去、多くのmediaはこのように書いてきた。同時に、これ以後、三瓶を中心とする支部長たちは「私たちが松井の2代目館長を認めた」と口を揃える事になる。
しかし、これはとんでもない誤解、もしくは<事実>の歪曲だ。
この時の支部長たちの解釈が、95年4月のクーデター時に、「俺たちが認めたのだから、今度は俺たちが解任する権利がある」という方向に<事実>がねじ曲げられていく。三瓶グループは明らかに確信犯だったと私たちは推測する。
5月10日の会議で、郷田が支部長たちに問うたのは、「松井を後継者として選任するか否か」ではなく「そこに厳然と存在する松井後継者を支持するか否か」であった。
極真会館規約に則るならば、全国支部長会議、支部長協議会のいずれも、<館長>は勿論、支部長を解任する権利など有していない。それらの権利は全てトップである館長の占有事項なのだ。ならば支部長には、松井を館長として<選任>する権限などない事になる。そこにあったのは<賛同>するか否かしかなかった。
その意味では、大山亡き後から一貫して<大山の遺言>を否定し、同時に松井2代目館長に反対の立場を明確にしていた高木薫ら遺族派と呼ばれるグループの方が格段に筋が通っていた。
繰り返すが、94年5月の会議に於いて郷田が問うたのは、支部長たちが松井を館長に<選任>するか否かではなかった。これは決して詭弁ではない。現実的なルールなのだ。
仮に、支部長たちの多数決で館長の任命及び罷免を可能にしようとするならば、まず最初に極真会館規約を改正しなければならない。それが正規の手順である。
しかし三瓶を中心とするグループは大山倍達の死後から声高に民主合議制を松井に迫りつつも、公的な手順を踏まず、「松井は合議制を受け入れようとしない」という噂を流し、松井体制否定の大義名分にしていった。
<事実>は違う。
民主合議制を迫る三瓶に対し、松井は常に「このような私的な場ではなく公式に提案して欲しい」と答え続けてきた。勿論、松井の発言を認める複数の証人がいる。
だが、ここで見落としてはならない重要な点は、三瓶らは1度たりとも民主合議制の採用を支部長会議または支部長協議会の場で公的に提案した事実がないという事だ。
会議という公的な場で極真会館規約の改正を提案し、その結果、松井側の強権的な手法によって潰されたのならば、三瓶たちの行動にも<理>があると言える。
「大山倍達の遺言」は可能な限り<事実>しか書かない。<真実>は<事実>の積み重ねによって自ずと明らかになる。著者である私たちが自ら推論したり考察する必要はないのだ。
否、現実的には推論・考察なくしてReportageは成り立たない。ただ、私たちは敢えて著者としての<私観>を述べず、判断は読者に任せるという手法を取っている。これは機会ある毎に書いてきた。
だから、ここで書く事柄の核心部分は「大山倍達の遺言」には載らない。何故なら、それが明白であり、私たちはそれを確信している事であっても、結局は<推論>であり<私観>でしかないからだ。
以下は我々の<推論>と<私観>である…。
松井章圭が大山倍達の遺志を受ける形で2代目館長に就任したのは、実質的に大山が逝った翌日の全国支部長会議からと言える。同年5月10日の全国支部長会議に於いて、郷田勇三が司会進行する形で各支部長らに<2代目館長・松井章圭>を認めるか否かの評決を取った。
郷田は慎重を期す為、支部長1人ひとりを名指ししつつ順を追いながら賛否を問って行った。三瓶啓二のところに来た段階で、三瓶は露骨に不機嫌な表情を浮かべながら、郷田に向かって「時間の無駄ですよ。挙手でいいじゃないですか!」と、まるでこんな事は茶番だというアピールをした。
だが例えそれが茶番であろうが、この会議に出席した支部長全員が松井の2代目館長に賛意を示した事実は揺るがない。この日の評決を以て松井章圭が公式に大山倍達の後継者に就任した…過去、多くのmediaはこのように書いてきた。同時に、これ以後、三瓶を中心とする支部長たちは「私たちが松井の2代目館長を認めた」と口を揃える事になる。
しかし、これはとんでもない誤解、もしくは<事実>の歪曲だ。
この時の支部長たちの解釈が、95年4月のクーデター時に、「俺たちが認めたのだから、今度は俺たちが解任する権利がある」という方向に<事実>がねじ曲げられていく。三瓶グループは明らかに確信犯だったと私たちは推測する。
5月10日の会議で、郷田が支部長たちに問うたのは、「松井を後継者として選任するか否か」ではなく「そこに厳然と存在する松井後継者を支持するか否か」であった。
極真会館規約に則るならば、全国支部長会議、支部長協議会のいずれも、<館長>は勿論、支部長を解任する権利など有していない。それらの権利は全てトップである館長の占有事項なのだ。ならば支部長には、松井を館長として<選任>する権限などない事になる。そこにあったのは<賛同>するか否かしかなかった。
その意味では、大山亡き後から一貫して<大山の遺言>を否定し、同時に松井2代目館長に反対の立場を明確にしていた高木薫ら遺族派と呼ばれるグループの方が格段に筋が通っていた。
繰り返すが、94年5月の会議に於いて郷田が問うたのは、支部長たちが松井を館長に<選任>するか否かではなかった。これは決して詭弁ではない。現実的なルールなのだ。
仮に、支部長たちの多数決で館長の任命及び罷免を可能にしようとするならば、まず最初に極真会館規約を改正しなければならない。それが正規の手順である。
しかし三瓶を中心とするグループは大山倍達の死後から声高に民主合議制を松井に迫りつつも、公的な手順を踏まず、「松井は合議制を受け入れようとしない」という噂を流し、松井体制否定の大義名分にしていった。
<事実>は違う。
民主合議制を迫る三瓶に対し、松井は常に「このような私的な場ではなく公式に提案して欲しい」と答え続けてきた。勿論、松井の発言を認める複数の証人がいる。
だが、ここで見落としてはならない重要な点は、三瓶らは1度たりとも民主合議制の採用を支部長会議または支部長協議会の場で公的に提案した事実がないという事だ。
会議という公的な場で極真会館規約の改正を提案し、その結果、松井側の強権的な手法によって潰されたのならば、三瓶たちの行動にも<理>があると言える。
しかし、三瓶らは民主合議制というスローガンを叫ぶだけで、何ひとつその実現に向けた公的かつ実体のある活動をしていなかった。彼らにとって<民主合議制>は松井2代目体制の瓦解を目指す道具に過ぎなかったのだ。
だから分裂後、支部長協議会派(現・新極真会)は形式のみ合議制を採用しつつも、その内実は現在の極真会館の比ではない派閥争い、権力闘争による歪んだ独裁体制に陥ってしまうのだ(この事実については20名を優に超える現・新極真会支部長、元・支部長らが証言している)。
<反松井>勢力にとって、民主合議制は松井降ろしの方便でしかなかったと断言していいだろう。
そしてもう1つ、極めて重要な事が今まで見落とされてきた。
松井が大山亡き後、性急に極真会館関係の商標登録を行った事、それも松井の個人名で手続きをした点について、三瓶派のみならず遺族も遺族派も<反松井>側関係者の全てが非難の声を挙げた。松井を擁護する側の支部長でさえ、この点については松井の独走であり過失だったと指摘する人間が少なくない。
確かに松井自身が弁明しているように、法的には「権利なき社団」つまり「一個人商店」に過ぎない極真会館にあって、商標登録は個人名でするしか術がなかったのは<事実>である。松井の弁明は正論と言っていい。
しかし…。もし松井が最初に商標登録に動かなかったらどんな事態が予想されただろうか!? その部分の考察が過去、1度もなされてこなかった事が私には不思議でならない。
過去15年におよぶ歴史が証明するように、もし松井が商標を押さえていなかったならば現在の松井体制による極真会館は間違いなく存在しない。三瓶グループ主導の<松井降ろし>も容易に実現していただろう。
まだ大山倍達総裁が健在だった頃から、三瓶グループは極真会館内にあって際立った存在だった。同時に、三瓶が人一倍の野心家であり、大山が逝った後、必ず権力闘争を引き起こすであろう事は多くの支部長たちにとって十分に予想できた事態のはずである。今回の取材でも、まさしく全員が異口同音ながら三瓶が異常な権力志向者である事を認めている。
更に言えば当時、特に三瓶グループが敵視していたのが松井章圭と中村誠氏であった。これも極真会館にあっては公然の事実だった。
自らの「百人組手」を後々の極真会館のパワーゲームの手段に過ぎないと言い放ち、「総裁の前では心を無にして臨まないといけない」と常に自戒し、「何かあったら郷田師範を御輿に担げばいい。落とすのはいつでも出来る」と声を潜めた…全て三瓶の口から私が直接聞いた言葉だ。
「総裁が死んだら日本人がトップに立たないと極真は朝鮮人のものになってしまう」
それまで三瓶を<兄>のように慕ってきた私は、彼のこんな言葉に寒気を感じ、徐々に彼から距離を取るようになった。1990年代初期の事である。
三瓶グループの番頭格だった三好一男氏は、私が松井の自叙伝(「我が燃焼の瞬間」)の制作に関わっている事を知ると、「あんなヤツと付き合っているのか!? あんな朝鮮野郎とツルんでいるなら縁を切るぞ」と私を責めた。矢沢永吉の日本武道館コンサートの前日だったから私は明確に記憶している。
誰よりも聡明な松井である。彼は現実を十分に把握していた。だからこそ、松井は<大山倍達の遺志>と極真会館という組織を守る為に素早く商標権の取得に動かざるを得なかったのである。
現・新極真会支部長であり、分裂騒動時の立役者の1人だった柳渡聖人氏は私に語っている。
「あの時、松井より一歩早く商標を押さえていたら極真が割れる事はなかった」
結局、彼らが松井を非難したのは、松井自身に過失があるからではなかった。松井に先を越された悔しさと自らの作戦ミスを糊塗する為の大義名分でしかなかった。
この点を見過ごしてはならない。
少なくとも分裂時までの1年弱、松井は何1つ追及され得る過失も専横もしていない。三瓶グループが突き付けた<疑惑>に対し、松井は全て公的資料を提示しながら明白に答えている。だが、松井が幾度も弁明しようが一切耳を貸す事なく、三瓶らは「要は信頼関係が崩れたのだ」と理由をすり替えてクーデターに走った。
結局、三瓶ら<反松井>側の支部長は、幾多の理屈を並べながらも最初から<松井降ろし>が目的だったという事だ。
以上の事は「大山倍達の遺言」では触れない。しかし、300名の証言とmedia側の分析を改めて辿りさえすれば結論は明白である。曇りのない眼で読者には<事実>のみを心の中に積み重ねていって欲しい。
(了)
だから分裂後、支部長協議会派(現・新極真会)は形式のみ合議制を採用しつつも、その内実は現在の極真会館の比ではない派閥争い、権力闘争による歪んだ独裁体制に陥ってしまうのだ(この事実については20名を優に超える現・新極真会支部長、元・支部長らが証言している)。
<反松井>勢力にとって、民主合議制は松井降ろしの方便でしかなかったと断言していいだろう。
そしてもう1つ、極めて重要な事が今まで見落とされてきた。
松井が大山亡き後、性急に極真会館関係の商標登録を行った事、それも松井の個人名で手続きをした点について、三瓶派のみならず遺族も遺族派も<反松井>側関係者の全てが非難の声を挙げた。松井を擁護する側の支部長でさえ、この点については松井の独走であり過失だったと指摘する人間が少なくない。
確かに松井自身が弁明しているように、法的には「権利なき社団」つまり「一個人商店」に過ぎない極真会館にあって、商標登録は個人名でするしか術がなかったのは<事実>である。松井の弁明は正論と言っていい。
しかし…。もし松井が最初に商標登録に動かなかったらどんな事態が予想されただろうか!? その部分の考察が過去、1度もなされてこなかった事が私には不思議でならない。
過去15年におよぶ歴史が証明するように、もし松井が商標を押さえていなかったならば現在の松井体制による極真会館は間違いなく存在しない。三瓶グループ主導の<松井降ろし>も容易に実現していただろう。
まだ大山倍達総裁が健在だった頃から、三瓶グループは極真会館内にあって際立った存在だった。同時に、三瓶が人一倍の野心家であり、大山が逝った後、必ず権力闘争を引き起こすであろう事は多くの支部長たちにとって十分に予想できた事態のはずである。今回の取材でも、まさしく全員が異口同音ながら三瓶が異常な権力志向者である事を認めている。
更に言えば当時、特に三瓶グループが敵視していたのが松井章圭と中村誠氏であった。これも極真会館にあっては公然の事実だった。
自らの「百人組手」を後々の極真会館のパワーゲームの手段に過ぎないと言い放ち、「総裁の前では心を無にして臨まないといけない」と常に自戒し、「何かあったら郷田師範を御輿に担げばいい。落とすのはいつでも出来る」と声を潜めた…全て三瓶の口から私が直接聞いた言葉だ。
「総裁が死んだら日本人がトップに立たないと極真は朝鮮人のものになってしまう」
それまで三瓶を<兄>のように慕ってきた私は、彼のこんな言葉に寒気を感じ、徐々に彼から距離を取るようになった。1990年代初期の事である。
三瓶グループの番頭格だった三好一男氏は、私が松井の自叙伝(「我が燃焼の瞬間」)の制作に関わっている事を知ると、「あんなヤツと付き合っているのか!? あんな朝鮮野郎とツルんでいるなら縁を切るぞ」と私を責めた。矢沢永吉の日本武道館コンサートの前日だったから私は明確に記憶している。
誰よりも聡明な松井である。彼は現実を十分に把握していた。だからこそ、松井は<大山倍達の遺志>と極真会館という組織を守る為に素早く商標権の取得に動かざるを得なかったのである。
現・新極真会支部長であり、分裂騒動時の立役者の1人だった柳渡聖人氏は私に語っている。
「あの時、松井より一歩早く商標を押さえていたら極真が割れる事はなかった」
結局、彼らが松井を非難したのは、松井自身に過失があるからではなかった。松井に先を越された悔しさと自らの作戦ミスを糊塗する為の大義名分でしかなかった。
この点を見過ごしてはならない。
少なくとも分裂時までの1年弱、松井は何1つ追及され得る過失も専横もしていない。三瓶グループが突き付けた<疑惑>に対し、松井は全て公的資料を提示しながら明白に答えている。だが、松井が幾度も弁明しようが一切耳を貸す事なく、三瓶らは「要は信頼関係が崩れたのだ」と理由をすり替えてクーデターに走った。
結局、三瓶ら<反松井>側の支部長は、幾多の理屈を並べながらも最初から<松井降ろし>が目的だったという事だ。
以上の事は「大山倍達の遺言」では触れない。しかし、300名の証言とmedia側の分析を改めて辿りさえすれば結論は明白である。曇りのない眼で読者には<事実>のみを心の中に積み重ねていって欲しい。
(了)
samurai_mugen at 23:41
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