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<<   作成日時 : 2008/06/19 23:57   >>

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忠魂塔碑 / 水戸市松本町
忠魂塔碑題辞:田中光顕、撰文:徳富蘇峰、石工:金原彦六
建立時期:昭和八年(1933)
所在地:水戸市松本町13-33

水戸殉難志士の墓苑、一号墓所と二号墓所の間に鎮座する回天神社境内に立つ碑です。昭和八年(1937)晩秋、貴族院議員・室田義文(よしあや、1847-1938)の尽力により、『忠魂塔』(題字:徳川圀順公)の築造に併せて建立された もので、碑陽に忠魂塔の由来、碑陰に発起人等の名がそれぞれ刻まれています。
昭和四十四年(1969)、明治百年記念事業の一環として、松下幸之助氏、塙瑞比古氏等の提唱により、回天神社が創建され、忠魂塔の敷地は同神社の神域となり現在に至っています。
室田義文の経歴については、水戸市教育委員会が市制110周年を記念して刊行した『水戸の先達』(2000)に 、水戸所縁の先達110人のひとりとして簡潔にまとめられており、その冒頭で忠魂塔や諸生党慰霊碑等の建立について触れています。
また、貴族院書記として室田翁と面識のあった山本秋広氏は、喜寿を過ぎた室田議員を「なかなかの元気で、見るからに幕末の志士を偲ばすような気骨稜々たる人物」と評し、諸生党慰霊碑の造立に関しては「多年外交官として世界を汎く渡ってきただけに視野が広く、考えがコスモポリタンである」と述べています。(山本秋広『紀山文集第八巻・明治初期の茨城』(1967)より引用)

[篆額]
流芳萬古
 昭和八季冬日
   正二位田中光顕
      落款印二顆 

[碑陽東向行四十二字]
忠魂塔碑
忠魂塔碑・篆額水戸義公武門驕盈の世に生れ夙に皇道の隠晦を慨し始めて修史の業を興し尊王の大儀を明にし烈公其の志を継き大に尊攘論を唱へ天下の志氣を鼓舞作興せしより四方風を聞て起り志士身を殺し仁人國に殉し終に能く七百年因襲の武門政治を打破し皇政復古の大業を奏し曠古未曾有の隆運を啓き以て今日あるを致したる所以のもの是れ豈に偶然ならんや嘉永癸丑米艦の来航は徳川幕府の鎖國政策を一變し我が帝國をして國際競争の渦中に投せしめたり而して幕府失政の結果尊攘論は天下を風靡したり其の間に起りたる安政大獄と云ひ櫻田門事變と云ひ坂下門事變と云ひ東襌寺事變と云ひ元治甲子事變と云ひ筑波山義擧と云ひ悉く是れ尊攘運動の餘波に過きずと雖も一として維新回天の劃期的事件たらざるは無し然かも此等尊攘運動の魁先と為り其の最も貴重なる冣初の犠牲者と為りたるものは概ね水藩の志士たらざるは無し但た不幸にして水藩は黨禍の難に遭遇して早く既に幾多の人材を喪い他日雲蒸龍變の盛運に際會し明治中興の偉業に參畫すること能はざりしと雖も維新回天の首唱者たり皇政復古の指南者たるに至りては天下誰か其の功を爭ふことを得んや顧ふに安政戊午以来明治戊辰奥羽出征の際に至るまで水藩の志士にして或は血を刑場に濺ぎ或は骨を原頭に曝し或は硝烟弾雨の間に出入して其の難に殉したるものを算すれば無慮一千七百八十五名の多きに達す然かも此等殉難の志士はrしく冥冥の裡に維新回天の事業に貢獻したる先驅者にしてその忠憤義慨凛凛耿耿として一代の人心を風動し萬世の士道を維持するに足るものあり豈に偉ならずとせん哉頃者水戸有志諸君等時局に慨あり先輩室田義文翁と胥謀り渡邊長男氏の設計に頼り地を常磐原の墓域に相し水藩尊王殉難志士の為に忠魂塔を建設し其の雄魂毅魄を慰する所あらんとし之が碑文を予に嘱す予深く此擧の世道人心に關係する所少小ならざるものあるを認め乃ち其の来由を叙して之を石に鐫し後の君子をして爰に鑒みる所あらしむ
昭和八年晩秋 蘓峰 徳富猪一郎撰

[碑陰上・中段]
常磐共有墓地忠魂塔建設発起人
次第不同
安部嘉七
  外三十三名省略

[碑陰下段]
後援者
室田 義文
渡邊 長男

建設事務
専任委員
金子  」
池原  熙
根本 良顕
益子  貞
林   龍
三木謙之允
間間田正敬
堀江午之介
  
  金原彦六鐫



神社東側に、「忠魂塔保存寄附芳名碑」2基と並んで、「回天神社碑」が建てられています。
[題額]
至 誠

[碑陽西向行二十一字]
   回天神社碑
回天神社碑 明治維新の大業は七百年にわたる武家政治を排して 天皇親政の古に復した未曾有の大変革であった この偉大な回天維新をもたらした原動力にはその根底に水戸学があり これを推進実践したものに水戸藩がある 水戸の志士達はこの大変革の渦中に次々と斃れていった その数実に壱千七百八拾五人に及んでいる 明治の盛運はこうした殉難志士達の犠牲の上に築かれたものである 世の中は限りなく変転し流転を続けている しかし国を思う愛国の至情は変るべくもなく 永遠に人をして感動せしめるであろう こうして先に殉難志士達の忠魂塔が建てられ その由来はその碑文に明らかである 今またここに松下幸之助 丹羽正治 前田維 三木啓次郎等回天神社を創建し 志士達の英霊に万謝の礼を捧げると共に 国運の隆栄を照覧し給うことを偏に希うものである
 昭和四十四年仲秋
 題字伊勢神宮大宮司   徳川宗敬
 撰文茨城県神社庁長   塙瑞比古
 回天神社創建委員会会長 三木啓次郎

[碑陰]
水戸藩勤王殉難志士之墓保存會
会長勳五等 三木啓次郎
副会長   渡辺 功
副会長   小林 あさ
      三木 之雄
  (他、百二名の氏名および一団体の名称省略)



回天神社の由緒・沿革について、境内回天館で戴いたパンフレットから以下に転載させていただきました。

回天神社

御祭神
一、元治甲子事変殉難者 宍戸支藩松平大炊頭ョ徳命
                  外七十三柱
二、元治甲子事変殉難者 岡田信濃守徳至命
                  外九百九十二柱
三、元治甲子事変殉難者 松川支藩林庸政義命
                  外六柱
四、安政事変殉難者   安嶋帶刀信立命
                  外六柱 
五、桜田事変殉難者   金子孫二郎教孝命
                  外二十柱
六、東禅寺事変殉難者  有賀半彌重信命
                  外十柱
七、坂下事変殉難者   小田彦三郎朝儀命
                  外四柱
八、越前敦賀殉難者   武田伊賀守正生命
                  外三百四十四柱
九、奥羽征討殉難者   鮎沢伊太夫国維命
                  外百十八柱
十、前項以外殉難者   水庭彦之允庸時命
                  外二百二柱
十一、平成二年合祀者  有村治左ヱ門兼清命
                  外二十柱
春季例祭 五月第三日曜日
秋季大祭 十月十四日

御由緒と沿革
回天神社◎明治三年、幕末元治甲子の変において、幕府軍に因えられ、関東各藩に分散投獄され、その地において無念の死を 遂げた殉難志士、および那珂湊近辺において幕府軍と闘い戦死した殉難志士の遺骸を、現在の回天神社境内に改葬、 墓苑がつくられた。
◎明治二十二年、水戸に市制が施行されたのを記念し、初代水戸市長服部正義先生の提唱により、それまで各遺家族 ごとの供養行事を統合し「水戸勤王殉難志士之墓保存会」を結成し、春秋彼岸中の日を祭礼日とする合同祭祀を始め た。
◎大正三年四月二十六日、茨城県神道団体本部の上催により水戸弘道館において「水藩勤王殉難志士五十年祭」が斎行され、これを記念して殉難志士の眠る一号墓所及び二号墓所に、その名を刻した石柱による入口標が建立された。
◎昭和八年十月、田中光顕伯爵の後援によって、一・二号墓所の中間地に、安政の大獄から戊辰戦争に至る幕末から 明治初年の事変に際し、国事に殉じた本戸藩関係の勤王の志士壱千七百八十五名の霊をなぐさめて顕彰するため、鋼板にその名を刻した忠魂塔が築造された。忠魂塔の題字は水戸徳川家十三代圀順公の書によった。またその由来を刻 した忠塊塔碑ガ建立され、「流芳萬古」の題字は田中光顕伯爵、撰文は徳富蘇峰翁によった。これによって水戸勤王殉難志士忠魂塔保存会が結成され、その維持管理に当った。
◎昭和二十九年七月十日、会沢正志斎先生の基、武田耕雲斎命の墓、常磐共有墓地と共に一・二号墓所が「水戸殉難志士の墓」として水戸市の史蹟に指定された。
◎昭和四十四年十月十四日、世は挙げて明治百年記念事業が行なわれるなか、その事業の一環として、松下電器産業(株)会長松下幸之助氏、神社本庁事務総長塙瑞比古(笠問稲荷神社宮司)氏等の提唱によって、忠魂塔正面に本殿、拝 殿を造営、手水合、鳥居、参集殿等の建造物が竣工し、忠魂塔に刻された千七百八十五名を御祭神とする回天神社が創建され、盛大に御鎮座大祭が斎行された。これによって祭礼日に御祭神たちの悲願の一つであった大政奉還の日である十月十四日を秋の大祭日、五月十四日を春の例祭日と定め、社紋は十四単弁菊花と決定した。さらに回天神社碑が建立された。題字「至誠」の文字は伊勢神宮大宮司徳川宗敬氏、撰文は塙瑞比古氏によった。
水戸勤王殉難志士忠魂塔保存会は、神社創建によりその組織をまかせて発展的に解散した。
◎昭和四十五年二月、回天神社は茨城県知事より宗教法人の認証をうけ、初代代表役員に水戸徳川家二代藩主光圀公生誕にゆかりの深い家老三木家の末孫、三本啓次郎氏が就任した。
◎昭和二十三年十月、回天神社崇敬会によって末広町の国道に面する二十三夜尊桂岸寺参道入口に「回天神社入口」 の石碑が建立された。
◎昭和六十三年六月、忠魂塔鋼板に刻まれた御祭神名を写真に収録した「回天神社御祭神御名簿」三百部を作製、うち八十部について関係当局に贈呈。残部を遺族・崇敬者に授与。
回天館◎平成元年十一月六日、水戸常磐神社境内にあって、老朽化した天狗党ゆかりの建物「回天館」が市民有志の募金と、水戸市当局の助成によって、回天神社境内に移築完成し、「回天館保存会」が結成され運営管理されている。
◎平成二年八月、回天神社創建二十周年記念事業委員会が組織され、二十周年記念誌の発刊が決定された。同年十月十四日の大祭当日、千七百八十五柱の御祭神と共に闘い殉難、活躍した水戸藩内外の烈士の霊を慰霊顕彰するため、忠塊塔のかたえに「鎮魂碑」を建立し、事蹟の判明する薩摩藩有村治左ヱ門命をはじめとする二十一柱の命について 、新たに御祭神として合祀した。鎮塊碑の題名は石島弘記念事業委員会々長が書し、その由来は記念事業委員会顧間である水戸史学会々長名越時正氏の撰文によった。
◎平成二年十一月、石島会長等によって長野県下諏訪町当局、群島県下仁田町郷土資料館を表敬訪間、両町に存在す る天狗党戦死者の墓と回天神社との関係について説明、認識を得た。
◎現在まで毎年春秋の例、大祭の他、御祭神にかかわる事変について年祭を斎行し、その慰霊と顕彰に努めている。



「室田義文翁米寿祝賀会」における、中崎水戸市長の祝詞と室田翁の謝辞。
室田義文翁米壽祝賀會(水戸)
四百名出席の盛宴

貴族院議員室田義文翁米壽祝賀會は昭和九年六月二日午後二時半から水戸偕樂公園下清香亭に行はれた。出席者は阿部知事をはじめ四百餘名、豫想外の盛會であつた。開宴に先立ち主催者を代表した中崎水戸市長は左の祝詞を朗讀、
翁は實に我が郷土の生みたる偉材であります。少時水戸弘道館に文武を修め、壯にして外務省に入り我が外交界に活躍され、明治三十三年官を辭して實業界の人となり財界に重きをなし、現に貴族院勅選議員、錦鶏間祗侯の榮職にあり、先年田中光顕翁を援けて財團法人常陽明治記念會を設立しその副會長に任じ、更に一面内國貯金銀行頭取、日本徴兵保檢會社々長、大日本肥料會社及鐘淵紡績會社監査役、常磐銀行相談役等の要職にあり、その他育英事業に深く心を致し茨城育才會の顧間であり又水戸育英會の會長であります。然も慈父の心をもつて後進を誘掖指導しその推挽 斡旋による成功せるの士尠くないのであります。又敬神家として嘗て常磐神社境内改造委員會々長として神域の拡張整理に盡瘁し、尋て同神社講社設立の主唱者となり、又常磐原墓畔の先賢志士の忠魂塔は實に翁の力に俟つ所頗る多かつたのであります。今や翁は壽算八十八に達し而も矍鑠壯者を凌ぎ實に得難き昭代の人瑞でありまして恭賀に堪へません。凡そ人の世にあるや保ち難きは生命であり、失ひ易きは徳義であります。徳義の篤きは人間の美事であって生命の長きは人生のnモナあります。賀すべく喜ぶべき事多しと雖も素より之に比すべきものはないのであります。然るに翁は米字の壽を迎へ子孫彌榮え家運繁榮し所謂功成り名遂げたものと謂ふべきであります。冀くば国家の爲餐を加へて自愛自重せられんことを切望する次第であります。                        
これに對し室田翁は
私が米壽に達したため諸君が斯くの如き盛んなる宴を催し下さつた事を恐縮に存じます。顧みますれば長い事ではありますが、明治初年官吏になりましたときは、官吏で世の中に盡す考へでをりましたがその萬分の一にも達せず、後に實業界に入つてからは社會のため斯様な事をなしたいと思ひ乍ら碌な事も出来ず只馬齢のみ加へましたる私に、斯くの如き盛大な祝賀會を催し下さる諸君の御厚意を重ねて深く感謝するものであります。諸君は私の年齢に達するまで健康であられる事を希望すると同時に、私のやうに馬齢でなく玉齢をとられる事を希望致します、そして健康で世の中のため盡されん事を希望いたします。
室田翁の感謝の言葉をもつて開宴、水戸藝妓總動員で酒間を斡旋するところあり、三時二十分阿部知事の主唱による乾杯が行はれた。なほ特別宴會は午後四時から大工町山口樓に行はれたが出席百餘名に達した。

            《『室田義文翁譚』より転載》






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