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諜報謀略講座 〜経営に活かすインテリジェンス〜

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第3講:厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンス

厩戸皇子が隋に送った諜略レター

 厩戸皇子が遣隋使の小野妹子に持たせた、隋の煬帝あての手紙はインテリジェンスの観点から示唆に富む。有名な「日出処天子至書日没処天子無恙…」(日出処の天子、書を日が没する処の天子に致す。つつがなきや…)で始まる手紙である。これを読んだ隋の煬帝は激怒した。この無礼者め、と。

 激怒の原因は二つだろう。まず、日本を「日の出る国」、隋を「日が落ちる国」と表現したことである。東方の野蛮な弱小国に、隋帝国は「落ちめ」の国と書かれ、煬帝のプライドが傷つけられたことは想像に難くない。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という用語を、「日出処の天子」として日本が使ったことである。中華思想の体現者、煬帝から見れば言語道断の言葉づかいであった。

 これが事実であるならば、厩戸皇子は、中華思想を深く知りながら、煬帝の逆鱗に触れる書状をわざと出したことになる。「日本は新羅や百済と非常に親密な関係があったけれども、これからは隋とも対等の関係でいかせてもらいますからよろしく」というジャブを出し、挑発したわけだ。そうそう簡単には中華的序列にはおさまりませんよ、という外交的な意思表示であった。

 これは、高句麗の利益を考える恵慈の外交的なサシガネでもあった。すなわち、日本が隋に対して対等外交を要求することで、「日の出る国は隋に対して従順ではない」との認識を隋に与え、高句麗と隋との関係を有利に持っていこうとするものであった。高句麗から見れば、隋からの外圧をかわして、緩い共闘連合を日本と組むことによって国益を保全することにもなったのである。

 小野妹子も策士だ。激怒した煬帝はそれなりの返事を書いた。しかし、煬帝の返書はどこかへ行ってしまい所在不明となっている。この返書については、日本に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも、後世いろいろ言われている。怒りを込めた返事なのか、たんに呆れかえって日本を子ども扱いにした返事なのか、返書が無くなってしまったので真相は分からない。

 隋から日本に帰る途中で返書は消えたとされるが、これはおかしなことである。隋から帰ってくる船には、中国から数十人もの隋の役人、使者、諜者が乗船しており、小野妹子ら一行を監視していたはずだ。そんな中で重要極まりない手紙を紛失したり、奪い取られるものではなかろう。

 要するに、蘇我氏、厩戸皇子、小野妹子らは、怒った煬帝の手紙を読まなかったことにしたわけだ。ジャブを打っておいて、カウンターパンチはさっとよけ、「手紙は無くなったので読んでいません」とシラを切ったということになる。小野妹子は手紙の紛失に関して責任らしい責任を取っていない。それどころか、翌年になると第3回遣隋使として、のうのうと隋に行っている。要するに返書は後世に残すためには、都合が良くない内容だったのであろう。だから無くなったことにしたのである。
 
 ということで、「日出処天子至書日没処天子無恙…」にはつじつまが合わない部分が多くあり、この手紙の存在じたいが虚偽であるとの説も根強い。

 さて厩戸皇子は恵慈からコンサルティングを受け、古代の公務員規定ともいうべき「十七条の憲法」と豪族を中心とした身分制度「冠位十二階」を作り、内政面もさることながらそれらを外交カードとして活用したと伝えられる。国内の統治を確立すると同時に、秩序、制度、法により国家の運営を執り行っている文明国であるということを隋帝国に知らしめる必要があった、というような解釈がよくなされる。その一方で、「十七条憲法」は偽書であるという主張がある。「十七条憲法」は厩戸皇子の作ではないと主張した津田左右吉の『日本上代史研究』は有名だ。しかしこの本は発禁処分となっている。

 このような活躍をしたとされる厩戸皇子ではあったが、その末期の死因については自殺説や他殺説がある。実のところは権力闘争、インテリジェンス活動の果てに窮して世を去らざるをえなかった側面が強いのではないだろうか。

 厩戸皇子の没後、厩戸皇子の一族はかつて皇子が加担した蘇我氏の手で滅ぼされている。しかし、その蘇我氏が滅ぼされた後の権力者の政治的意図によって、亡き厩戸皇子は復権させられ、歴史編纂というインテリジェンス活動のなかで「聖徳太子」として美化、脚色され、物語化されていった。

 厩戸皇子はインテリジェンスを駆使したが、「聖徳太子」はインテリジェンス活動としての歴史編纂の過程で形作られたのである。その意味で非常にミステリアスな人物である。

松下 博宣 (まつした ひろのぶ)
東京農工大学大学院技術経営研究科教授(技術リスクマネジメント専攻)。イノベーションに必要な、アントレプレナーシップ、技術経営、人的資源開発を専門とし、研究、コンサルティング、執筆活動を行う。さらに日米欧中にわたる情報・知識ルートを駆使してインテリジェンスに関するコンサルティングを提供。早稲田大学商学部卒業、コーネル大学大学院修了。ヘイグループの経営コンサルタントを経て、ケアブレインズ(現・オープンソースCRM)を起業し代表取締役に就任。その後同社を上場企業に売却、現職に。内閣府経済社会総合研究所社会イノベーション研究ワーキンググループ委員(2008〜2009)。ブログ『マネジメント徒然草』を更新中。

 [2009/04/14]
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